[594] いよいよ今日を入れてあと3日です 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/18(Fri) 04:58コメント予定されている方、
書きこもうかどうか悩んでいる方、
最後までコメントしつづけたいという方、
どちらさまもよろしくお願いいたします。
時間もせまってまいりましたので、
話の流れにこだわらずに、
フリーで発言なさって下さいね。
進行の二人もできるだけ静観していることにします。
21日に日付がかわったところで、
きっちり終了したいと思いますので、
ご協力をよろしくお願いいたします。
★
それから、すでに話題にしたことですが、
作者・正岡豊もこの批評会に参加しています。
ダイレクトには発言されずに、傍聴しています。
批評会終了後にコメントをもらう予定です。
それと、作者が直接答えるかどうかは別として、
今後の正岡さんに期待したいこと、
あるいは注文したいこと
というニュアンスでも構いません。
何かメッセージがありましたら、
そちらもどうぞよろしくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[593] コメントありがとうございます 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/18(Fri) 04:42>きくちのりこさん
書きこみどうもありがとうございました。
草のかげで眠りたいのに〜、
岡田幸生さんが乗ろうとしたバス、
たぶんこのバスだったのですね。
「ひかりの方舟」、4月6日ですね。
URLもあらためて。
http://www2.diary.ne.jp/user/69577/
>飯田有子さん
五首選、どうもありがとうございました。
かぶってゆくのは、選ぶ方は悔しいかも知れないけど、
読んでいる方はなるほどやはりとかそういう感じもします。
作者は作者でかぶったということが印象に残るかも。
かぶりはどうぞ気になさらずに。
>伊勢谷小枝子さん
書きこみどうもありがとうございました。
ログは、大丈夫です、ながく保存しておきます。
折にふれてご覧いただければ幸いです。
涙滴型、は、ルビがないようなので、
るいてきがた、の方がいいかも知れませんね。
なみだがた、の方が調べはすっきりしますが。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[592] 業務連絡、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/18(Fri) 04:23というか、錦見映理子さん、
無理しなくて大丈夫ですよ。
みなさん元気に発言されてますし、
マイペースでのコメント、水、笑顔(?)、
等々、どうぞよろしくお願いします。(^^)
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[591] 伊勢谷小枝子が、お選びの 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/18(Fri) 02:42そのときはもうそのときは木星の輪の一瞬のかがやきでいい
この歌すごく好きなんですけど、「そのときはもうそのときは」の
泡立った感じとか、後も先もない黒い宇宙で一点のふたりきり感とか。
ああ、でも、木星とその輪ののように、やはり距離は埋まらないのかなと
ふと思えたり。それでも、木星をひとまわりする輪の「一瞬のかがやきで
いい」といいきっていて、やはり、やわらかな寛容とか抱擁とか許していると
いった感じを持ちます。
飯田有子さん、やっぱり私は、想像すとーかーです。
きくちのりこさん、こちらこそ、ありがとうございます。http://page.freett.com/sugi8ma/
[590] ヒエラルキーからの逃走 投稿者:きくちのりこ 投稿日:2001/05/18(Fri) 00:58「中空からの視線」といったことばを眺めながら、ふと思い出したことがありました。手塚治虫が亡くなった後、手塚ファンだった大林監督にお話を伺う機会があったのでした。そのときに大林監督は手塚治虫の視線を解く例として、宮沢賢治をあげたのでした。
手塚治虫には妹がいて、幼い頃から手塚治虫が苛立ったり、強圧的になりそうなときに、やさしくたしなめるようなことをいった。それがビノコだったろうか、そのようなキャラクターのことばに生かされている。宮沢賢治の妹への愛情もよく知られている。彼の場合は妹は対等にことばをかわせる数少ない理解者として、妹を尊敬し、愛情を持って接していた。彼らに共通するのは、ヒエラルキーに組み込まれていくタイプのものではない。ひととの関係性は横につながっていくものとして、あるのだ、と。そのようなお話だったと思います。
宮沢賢治というと思い出されるのは、妹、キリスト教、それから華厳経だったでしょうか、仏教への傾倒。世界共通語という夢を追ってつくりだされたエスペラント。
なぜこんなことを書くかというと、正岡さんの中空からの視線は父と子というよりも、むしろ横並びの匂いがある気がしたからでした。そして、それはやはり宮沢賢治や仏教めいた匂いを感じるからです。彼の女性への視線は、ときとして宮沢賢治めいてくる。女性性と男性性を融合させようとしてきたかに見える心性を知るには、おそらくは天象俳句館の扉にまるで彼が補助線を引いているかのように書いているいくつかの用語を杖にすることも可能かと思うのです。無学にして『中止観』の示すものが何か、創価学会についてもどのような系統なのかよく知らないわけですが。つまり宮沢賢治の華厳経に相当する何かがあるかもしれないし。それは哲学のようなものである気がします。哲学書や思想書などにも手つかずなので、その辺にも詳しいかたがいたらなあ。
非常に曖昧なことを走り書きで書いていて、ごめんなさい。
>杉山理紀さん
好きになってくれて、うれしい。わたしが花屋さんで見た「きりん草」は、あとで調べたら「あきのきりん草」かもしれないとわかりました。色どりどりの秋草のなかで印象としては黄色いかすみ草。どちらかなと迷っているのだけれど。セイタカアワダチ草のほうが立つという感じがするかな。
それでは、明朝九時前の新幹線に乗るので、そろそろ失礼することにします。こちらの終了までには間に合わないだろうな。レスポンスが何かあっても間に合わなかったら、ごめんなさい。http://www2.diary.ne.jp/user/69577/
[589] 今ごろになってやっと 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/18(Fri) 00:44注文していた『四月の魚』が入荷したという連絡がありました。
明日、仕事帰りに書店に寄ってこようと思います。
そんなにすぐには読めない…というか、
読めても、消化しきれないと思うので、
結局、未読の状態のままで、こちらでの意見交換を終えることになりそうです。
ちょっと残念な気もしますが、
この企画のおかげで注文に漕ぎ着けたわけですし、
『四月の魚』との出会いの機会を与えていただきましたこと、感謝いたします。
読む前に、こちらでさまざまなご意見にふれたわけですが、
ひとまずは、まっさらな気持ちで読みたいなと思っています。
その上で、またこちらの過去ログを覗いたりして、
読みを深めていきたいです。http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[588] Re[586]: 宇田川寛之は 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/18(Fri) 00:05> ネットやってるなら書き込めばいいのにね。
>
> ひとりごとで、すみません。
>
> 皆さんの引用歌を見てると、
> 本をひとりで読んだときには気づけなかった魅力に気づいて、
> いいなあと思います。
ひとりごとからすべてははじまるのではないかしら。
ひとりごとになるかならないかは、受信者がいるかどうかということだけなのでは。
歌だってひとりごとのようなものではないかしら。
どこか深いところまで降りていけば、オープンハートのひとりごととでもいうか。
それなら浅いところのスローガンよりずっと、遠くへ確実に届くんじゃないかしら。と思いますけれど。
>
[587] 今日の感想 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/17(Thu) 23:37好き好きとしか結局誰も言っていない愛されすぎる四月の魚」
(この場合の読みはさかなになるね)
正岡さん 現在は何を見ているの何を思って何感じてる?
触れられない星の峡谷 まだ見えないまだ目覚めない透明の魚
[586] 宇田川寛之は 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/05/17(Thu) 23:23ネットやってるなら書き込めばいいのにね。
ひとりごとで、すみません。
皆さんの引用歌を見てると、
本をひとりで読んだときには気づけなかった魅力に気づいて、
いいなあと思います。
http://talk.to/mass-no
[585] はじめまして、こんにちは。 投稿者:伊勢谷小枝子 投稿日:2001/05/17(Thu) 22:54感受性が浅くて、何がなぜどのように好きなのか表わせないのですが、
書きにきました。ここはずっと読んでいますが、読みこなせません。
まぼろしと知りていたれど涙滴型潜水艦が背中よぎれり
「涙滴型」は「なみだがた」と発音してよろしいのでしょうか、
先日、赤い涙型のペンダント(米粒に名前などを書いてもらって中に入れる)を
買ったところだったので、この歌と目があったのかもしれません。
きみに告ぐ泳ぐかに枝離れたる一葉のごとき笑顔をつくれ
バトル・ロワイアル(映画)の一場面が浮かびました。そしてページをめくると
肉片が飛び散る映画封切りの夜の天上のさみだれ銀河
とあって、どきっとします。
そのときはもうそのときは木星の輪の一瞬のかがやきでいい
全肯定されたいときはここに来ようと思います。木星の輪って氷でしたか。
他にも好きな歌はあるし、読むたびに変わると思いますけど、このへんで。
[584] 少しだけ。 投稿者:村上きわみ 投稿日:2001/05/17(Thu) 22:31あー、今正岡さんのトップページを読んできました。
で、少しだけ。
わたしが『四月の魚』に感じるのは徹底して「素手」だということです。
それは単純に素朴とか誠実とかいう意味ではなく、「徹底的」に「素手」である
ことを選んでいるという気がしますね。スタイルで素手の人はたくさんいそうで
すが、根底のところでそれを選べる人は少ないと思う。http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9606/
[583] Re[582]: 第二歌集が読みたいな正岡さんの。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/17(Thu) 22:05何だか私たちみんな、ガリバーの身体に梯子をかけてよじのぼったり、滑り落ちたりしながら、ガリバー探索隊を結成しているみたい。
不時着した飛行物体の研究をしているようでもあるし。
解読の鍵が見つかりそうで見つからない。
多分子供か、おじいさんやおばあさんの目でみたらよいのかもしれない。 汝ら幼子のとくあれって賢者も言っているし。。。
[581] 無題 投稿者:飯田有子 投稿日:2001/05/17(Thu) 20:30 こんにちは。駆け込みです。初めましての方どうも初めまして。
歌集を頂いて(98年末だぎゃ)以来、きちんと感想お伝えしてないのが心残りなのでやってきました。なるべく既出をさけて5首選びました。でもかぶった。
■風に問わば風がこたえる約束をまもれはるかなライト兄弟
■夢のなかでのぼくがろばにものらぬままさがしてるきみというはだかむぎ
この歌をひらがなハンコと金色のインクで葉書に押し、北川草子さんに送ったことを思い出します。
■この塩がガラスをのぼってゆくという嘘をあなたは信じてくれた
■まぼろしと知りていたれど涙滴型潜水艦が背中よぎれり
■「ぼくはぼくのからだの統治にしくじりしうつろな植民地司令官」
中空に浮かんだ気象衛星からの発信みたいな印象は、事物へ等距離をおいてる感じがあるからだと思いました。
ぼーだいな過去ログを早読みして心に残ったのは、「自由かつ不安なまま読むほかはない」(荻原さん[308])、 [350] 嘘について 田中庸介さん、 [517] 杉山理紀さんの「 みんなで正岡さんのストーカーをしているみたいだー」(^o^)などなど。
[580] きくちさんが、取り上げられたこの歌、 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/17(Thu) 20:19 さようなら群れて立ちたるきりん草群れざる色がたそがれとなる
見逃していたけど、とてもいい歌だなあと思いました、今。
車窓から見る流れるような風景というか、何か、正岡さんの歌には
通り過ぎていく感じを持つんですけど、なぜでしょう。
http://page.freett.com/sugi8ma/
[579] 何首かとりあげてみました 投稿者:きくちのりこ 投稿日:2001/05/17(Thu) 14:43好きな歌はたくさんあって、けれど、その好きであることの理由を書くことは難しいですね。まして批評とか論を立てる力は、わたしにはなくて。こちらに伺うのはためらったのですが、好きな歌をあげるだけ。なにせ、こなかったら人間ではないらしい。すでにしてきちくですが(笑)。
実は四月六日に書いた日記からそのまま数首ひろってきただけです。このセレクトだっておそらくは幾度もメンバーが替わりそう。五首にすることすら難しくて六首になっちゃったりするのだから。
正岡豊さんの短歌はかそけさやなつかしさや喪失感、そこからくるノスタルジーを強く喚起します。それはわたしのなかの感情の何かに実にやわらかくふれてくる。あまりにもそっとふれるので、ふれられたことに気づかないようなしかたで。そのものやわらかさと激情といってもいいほどの豊饒な感情はなんなのだろうと思っていました。
実にフェミニンな匂いがしたかと思うと、どこか太古の男性のような無垢な感情がある。たとえていえば万葉の感情と新古今の洗練。いやいや、そうではない。なんだろうなんだろう。存在がすでにして詩であるといわれればそうかと強くうべないたくなる。それなのにうなずいたあとには正岡さんはいない。何をそうだと思ったのかさだかではなくなるのです。
みなさんの論議はミラーボールのようで正岡さんのいろんな表情を捉えてはつぎの面に映る顔があらわれる。夢中で追っていました。ありがとうありがとう。
ヘッドホンしたままぼくの話から海鳥がとびたつのをみてる
海辺の喫茶店。ふたりはもうつきあって長い。ヘッドホンをしたまま向かいの席に座る恋人。男は漫画など手にしていたかもしれない。「ああ。そういえばこの間」。恋人はうん?と目をあげる。男はこんなことがと話し始める。恋人の背の向こうには大きな窓がある。海鳥が飛び立とうとしている。「ああ、いま海鳥が」。そう男は恋人にいったかもしれない。そんな作者の表情を恋人は見ている。見られていることのかなしみと幸福感。それぞれの世界にいて、それでもふたりでいることの。それさえ失われていくことの。
ねえ、きみを雪がつつんだその夜に国境を鯱はこえただろうか
雪につつまれた「きみ」。しんしんとかなしくやさしい夜。たとえそれが笑いのなかにあっても。そんな夜にも一頭の鯱は冷たい海を遊泳していくのか。その悠々たる孤影。鯱は無数のさざめきの向こうでひとりである。けれど、孤独感などということばも受けつけないほどに強靱でつややかなからだを思わせる。国境などという人間の都合でつくりだした観念のない鯱はどこまでもかがやく。それは作者のゆめのからだのようである。
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
「なしとげられぬ」とは「なしとげぬ」ではない。不可能を夢見てしまう心性もある。どうしようもなく希求しつつ絶望するひともいる。呪いのようでなんと厳しくやさしいうただろう。闇の岸辺でもえさかる舟は何も乗せることはない。舟は漕ぎ出されるためにつくられた。その舟は夢とともに燃えさかり、うつくしい焚き火となる。まるで生贄の山羊のように。
中国も天国もここからはまだ遠いから船に乗らなくてはね
中国とはなんと不思議な名前だろう。こんなふうに宙吊りにされて並べられると中国は中空に浮かぶ島のようだ。死者を悼む友人と自分につぶやいたような呪文。船に乗ったら天国に行けるような気がしてくる。もし船に乗るなら琉球がふさわしい。海から先祖たちが帰ってくる温かい島。中国ほどに黄泉の国が近しくなる。静かな狂気のやさしさ。
草のかげで眠りたいのにどこもみな螢いてああもう、バスが出る
六月の終わりか。梅雨先の晴れた宵闇を歩く。無数の螢はゆるやかかにふれあっては離れていく。あちらにもこちらにも誘われるうち、ここがもうどこかわからなくなる。この温度の感じられない光の群れたちに脳髄を侵されていく微細な快感。初夏の風。もうここで眠ってしまおう。けれど、見とれて眠れるはずもない。身動きできずにいる思いを、螢いてああもう、と続けるところに臨場感が感じられる。バスが出る。俗世に帰るバスを何台も見逃して、作者のたましいは無数の螢に紛れていきそうだ。
さようなら群れて立ちたるきりん草群れざる色がたそがれとなる
さようなら。あまりにもなつかしいのに、もうそれは誰の声なのかさだかではない。そのような女の声が風のように流れる。それがもう誰であるかわからないのは、この別れによってどこかが壊れてしまったからだ。きりん草とはセイタカアワダチ草の別名。一〇月ごろに咲くのだったか。群れざる色がということばに群れて生きることのできないこのひとの心象が映る。http://www2.diary.ne.jp/user/69577/
[578] あーマスターに水を運ばせてしまった。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/17(Thu) 10:52間に合わなかったー。すいませーん。
このバイトくびになるかも・・・・。
午前中かけて水を配ろう、と来たけど、とりあえず床をお掃除しようかな・・・・。ガラスで手を切らないようにしなきゃ。
明日も午前中来ますからここにおいて下さいね。ね。(上目遣い)
みなさまの終わる前に!という必死な感じがひしひし伝わってきますね。
たださんの盛り上がりすぎの書き込みがすごくて大変です。
伊津野さんの[558] 、
>翼が「まばたきをする」とは、「羽ばたく」「羽ぶく」などと異なり、
>主体の意志性が薄くなること、瞬間性や繊細な動きなどを強調する効果が
>感じられました。
というのに個人的になるほどーと思いました。
みなさんそれぞれ反応をしてくださっていて嬉しいです。あと4日どうぞよろしくお願いします。
いっぱい水を運ばせてください。
気軽に書いてね。http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[577] その3 正岡さんの歌の聞こえてくる場所 投稿者:ただ(夛田 真一) 投稿日:2001/05/17(Thu) 07:42 無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがある
正岡さんの歌の聞こえてくれる場所は、僕にとっては地上から5mから数10mくらいのところのように思う。枡野浩一さんの歌は、地上から数十センチのことろにあって、
ほめているあなたのほうがほめられている私よりえらいのかしら
なんてとても実用的で、つい最近も、同僚との会話に使用したし、自分でもよくつぶやいてしまう日々だった。どちらもポエジーだ。
なかはられいこさんが[394]で書かれていた、「中空からの視線」、というのは、大庭さんが[292]で書かれていた「『虚構』でありながら、不思議と歌の情景が『現実』に対してちっとも不自然ではない。」ということと、とてもリンクするように感じました。だから、「神の視点」に、なるほど似ているのだけれども、その後大庭さんが言っている、読み手である自分が「ぼく(=正岡さんの視点)」に同化して、そこに提示された世界を、目前にしているような感覚に、ふと、襲われる、といったような、読み手を、日常と非日常の狭間に意識させる、接線(風間さんが歌でお書き)を、ぴっと引いている印象が、歌集全体を通してあるような気がします。「神」といっても、全部を掌握する存在としての「神」ではなく、日常のそれぞれに実は潜んでいる「神」(神を構成する要素?)それは、世界を覆っていて、つながって(いる筈)なのに、引き裂かれていたり、そうした、誰でも感じれる筈なのに、意識することができなくなっている、世界の秘密へ、無言で(「アルプスの少女ハイジ」のおんじのように)いざなっているような気がします。それは、ぽっぽさんの[366]の「薄情なやさしさ」、風間さんの[367]の「無関心にもっとも近いやさしさ」がないと、不可能な気がするのです。イメージは、おんじ、です。でも、いざなう主体はやはり、少年の気がするので、それに、体力がないと中空にも飛べないだろう、だから、少年時代のおんじに、訂正です。そして少年時代のおんじは、きっと、あらゆる世界に接線をひけてしまう、あまりの感受性のゆえに、慈悲深い無表情をたたえ(星の王子様の絵本のイラストのような)、そして、きっと、メーヴェにのって、風を颯爽と捉えてきたような気がします。
また、正岡さんのうたの「ぼく」「きみ」の関係性には、一面、確かに、「恋愛の気配」を、示唆するものもある、気もします、でも、僕は、高々、紫門ふみの示すストーリー程度に、共感し同情し、自分の恋愛を整理したいのに、高々恋愛のことなのに(と思っているのに)、正岡さんの歌の恋愛の気配を通して、「風の谷のナウシカ」なみに、世界の深遠を垣間見せられたら、たまらないのです。平行で、永遠に交わらない、だから、あきらめろ、平行の関係よりひどいのは、ねじれの位置だ、などは、卑近で「けっ!」とか、思いやすい、恋愛のメタファーの気がします。でも、中空にいざなわれた僕は、平行線も「無限遠点で交わる」ことを、希望でも絶望でもないかたちで、知らされるわけです。「そこに」「きみのまばたきがある」しかも、「ひっそりと」。そこに行かないと君にあえないのか?そんなことまでは言ってない、けど、だけど…。五十嵐きよみさんの[264]の、「畏れ」、僕の心の琴線に触れます。
でも、そうした正岡さんの一首一首は、異様に美しいのですよね、卑俗な恋愛を、時にどろどろしている、でも、「そのままでいいよ([358]ゆみこさん)」としながら、中空から接線を引くように世界と照らし合わせ、昇華しているイメージがあります。「風の谷のナウシカ」に、恋愛の気配は皆無ですが、そこに感じられるような世界の深遠や、清澄さと、「ぼく」「きみ」の関係がしめす「恋愛の気配」が、不思議に響きあい、短歌形式でしかあらわせない(言い切っていいのか!?)、一首の奇跡を思います。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9109/
[576] 慣れないので、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/17(Thu) 05:25さきほど水を入れたタンブラーを
まとめてひっくりかえしました。
あちこち水びたしです。
★
>伊津野重美さん
五首選どうもありがとうございました。
伊津野さんの書きこみを読んでいるうちに、
正岡さんと伊津野さんと一緒にいた
パソ通の電子会議室を思い出しました。
まだ4年前なのに10年以上前みたい。
>武野悠さん
書きこみどうもありがとうございました。
「見た目の痛々しさをひっくり返す」
というところ、正岡さんの作品全般に
ぼくも感じることがあります。
弱いのか強いのか、弱くて強いのか。
ん〜、どれなんだろう。
>小林悦子さん
選歌どうもありがとうございました。
注文が届くのはまにあわないかも知れないですけど、
この批評会のログはながく保存しておく予定です。
歌集が届いてじっくり読まれてからも、
またあらためてログを参照してみて下さいませ。
>岡田幸生さん
五首選どうもありがとうございました。
「込み入った一回性」というあたり、
何か面白い鉱脈のありそうな感じがします。
正岡さんはいわゆる「一回性」とは感触が違うけど、
反復されているうちの「新しい一回」
みたいなことが志向されている感触がある。
しかし、午前二時台にバスですか……。(^^;;;
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[575] はじめまして 投稿者:岡田幸生 投稿日:2001/05/17(Thu) 02:21大盛況ですね。なんとか辿り着きました。すごい勉強になります。
一年くらい前、紀伊國屋ブックウェブで『四月の魚』初版本を入手したのでした。とっつきにくかった。むずかしく考えてみようと思えばむずかしすぎて考えられず、感覚でとらえようにもとらえようがない――そんな感じでした。これはなんなのだろうと。三十一文字がゆるぎないというよりゆるぎまくっている気がしたのでした。
半年くらい前でしたか、「角川短歌」で荻原さんが「ヘッドホンしたままぼくの話から海鳥がとびたつのをみてる」を読み解いておられて、ああ、こういう風に読むのか、これはすごいぞ、まったくあたらしい文体だぞ、と激しく膝を打ったことでした。
最近になって「坂に名をあたへるやうな声色できみをのぼつた日に戻れない」というすばらしい荻原作品に接して、ふと正岡作品を思い出したのでした。いつかどこかで樋口由紀子さんが、正岡作品について、立体的だ、というような意味のことをいっておられましたが、それにも目から鱗を落としました。
つまり正岡作品はキュビズムのようなものなのだろうと。それでいままでの平面的な格調を求めると、なんかとりとめがなく見えてしまうと。まったく新しい文体なんだからそういう見方をしなければならないと。ピカソは印象派のようには鑑賞できないと。そう思ってあらためてみれば、三十一文字が練れたかたちで完璧に配置されていることにおどろかされるのでした。
このサロンでも意義深い考察が展開されていて、荻原さん、田中さん、高原さん、村井さん、小鳥さん、松木さん、伊津野さん、ほかみなさんの発言におどろきおののいている状態です。短時間の大量摂取でちょっと脳内はカオスではあるにしても。ともあれもうなくなるということなので。
波を打つきみのからだのなかぞらで高飛びこみをするぼくなのだ
つきなみな恋に旗ふるぼくがいる真昼の塔がきみであります
この塩がガラスをのぼってゆくという嘘をあなたは信じてくれた
草のかげで眠りたいのにどこもみな螢いてああもう、バスが出る
クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし
以上が僕の五首選です。有名な作品ばかりになってしまいました。もっとしぶいのを選んでもよかったのですが、やっぱり好きなんですもの。
たとえば三首目、「嘘」というのは本当なのか。つまり本当に嘘なのか。あるいはそれは嘘でつまり本当なのか。あるいはどんな事象でも見方を変えれば違う属性が見えてくるもので、そうはいえるがそうとばかりもいえなくてそうではないともいえる、ということになったりとか。嘘であっても信じることで真実になるとか。共同幻想とか。ふたりいれば政治が生じ、その過半数が白を黒といったら黒になるんだとか。
それを「あなた」は「信じてくれた」と言い切ってみる、と。ひじょうに入り組んだしかたで込み入った一回性がいわれている気がしますね。心裡留保、という法律用語が浮かびました。シャイな正岡さんはこんなふうに韜晦しないではいられないのだと。そうして格調を倒壊させると。これはみなさんが深めてこられた議論とも少しはリンクするかしら。荻原さんの「中和」ともリンクするかしら。ああとりあえずです。ああもう、バスが出る。すごい走り書きですが。
http://www2.diary.ne.jp/user/81482/
[574] その2 正岡さんの言葉を通して感じる、やさしさ、 投稿者:ただ(夛田 真一) 投稿日:2001/05/17(Thu) 00:24音楽でも文学でも、表現されたものを鑑賞するとき、鑑賞する行為そのものを近いところから遠い所までとりまいているイメージの連鎖がある、と思う。そのイメージの連鎖は、ときに分類や、相似の探求、解釈、などの行為としてあらわれ、それのみが独立するようなときもあるのだろうか。こうしたことは「オタク」(或いは「ペダンティック」)など、自嘲や卑下の意味合いを若干から含む名称を伴って、芸術本来のあり方をとは、別次元として扱われてしまう向きもあるだろう。文学史音楽史の知識のみで、実際の作品に触れることなく、語ってしまう場合などは、自分も時折陥りがちな構造のように思う。でも、こうしたことは、本来的に、「何かについて語る」ことが抱える危険性なのだろうか。
【遠いわねえ/遠いだろうか】
正岡さんの言葉を通して感じてしまう、優しさ、は、あまりにも普遍の方向を向きすぎていて、もはや優しさの形状を留めていないものもある気もする。なんというか、この宇宙のすべて、どこに行っても通用するやさしさ、なんという程度ではなく、二次元の世界の住人にも、いや、n次元の世界の住人にも、いや、純粋抽象の数学をもってしても、仮定できない場所にむかって、の、優しさである、といっても、いい足りない。その、正岡さんの言葉の、優しさの、根源の根源から来る何かを感じ、時に涙するとき、正岡さんの言葉の受け手の状態は、その「感じる」という一点について、スイッチが入る状態になるような気がする。スイッチが入るから感じるのか、感じることによってスイッチが入るのか、そのどちらでもあり、どちらでもない。そのスイッチの瞬間はどこからともなくやって来る。
きみが首にかけてる赤いホイッスル 誰にもみえない戦争もある
枡野浩一さんは、満員電車のなかで、見かけた、という状況を想定したことがあったではないでしょうか。また、毎日新聞のコラムでは、汗ばみもしていない首筋、というイメージを書かれていました。満員電車の中で見かけた、汗ばみもしていない首筋に掛けられた、赤いホイッスルは、何かしらの瞬間を呼び込む「スイッチ」を、この一首に関しては特に、それ以外にはいいようのないほどずばりと、象徴、提示している気がします。そして、下の句改作例<誰にもみえない戦争「が」ある>、元歌下の句、<誰にもみえない戦争「も」ある>、助詞の一つとっても、そのひらがな一つの使われかたにすら、恐ろしいまでに圧倒的な、正岡豊を感じる。田中庸介さんが[428]で書いていたような、ほとんどその存在感を消すような微妙なやり方で。見える戦争と見えない戦争を、「も」で、並列させ、世界の多重構造を、さりげなく示唆する。でも、「みえない」のである。「見えない」のではなく「みえない」。しかも、「誰にも」。ぼくにも、きみにも、とうさんにも、かあさんにも、みいちゃんにも、ポチにも、かみさまにも、ほんとうに、ほんとうに、「誰にも」!「見えない」!なんということだ。ここにいたって、この一首で、谷川俊太郎の詩、コカコーラ・レッスン、にも比肩しうるほど、切り立った、世界との関与、を示しているような気がする、あるいは、もっと極端かもしれない。使われている言葉は、平易でやわらかいのに、1文字も余計なものがなく、一首に全存在を、さりげなく、切なく、nを仮定してnを証明し、n+1の証明によって、でもでも無限の連鎖に拡散するような、数学的帰納法のようでいて、問いかけでしかしない、かえって逆に証明不可能性のように、示しているような気がする。でもこれは、それでもこれは、やさしさ、ではないのだろうか。ここに至ってはもうほとんど、微妙すぎてわからないけど。
僕のこの一首の初めての、強烈な鳴り響き、は、以下のようなシテュエーションでだ。
>今日の道徳の時間、使った資料は、ゴミ問題だった。
>ゴミに意外に多く含まれる、まだ食べられる状態の食
>品、一日一万人ずつ餓死する地域もあること、餓死は、
>一番苦しみが長く続いたあげくに死んでしまうという、
>最も凄惨な死に方だ、と誰がどこかで書いていなかった
>か。餓死するは子どもじゃないのか、自分の好きな物、
>おいしい物で、おなかをいっぱいにした事のないまま、
>最悪の凄惨をむかえる生。乳児の腹を母親が思いっきり
>ふんずけ、殺してしまう。その赤ん坊も、愛情いっぱいに
>抱きしめられることがないまま、。そんな、何をいったい
>どう、クラスの皆に伝えるのか、伝わるのか、全然よく
>分からないまま、気がつくと授業の終わりを告げるチャイム
>が鳴っていた。映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の少年の
>モノローグにおける少年の悲しみと対象との距離とかに
>ついて考えていた。
>
>教室から職員室に向かう階段の途中、正岡豊さんのうた、
>
> きみが首にかけてる赤いホイッスル 誰にもみえない戦争もある
>
>が心の中で深く大きく鳴り響いてきて、しばらく止まらなかった
>(ハイパーあかおに掲示板より、転載)
【全ての鳥に
鳥の名を。
(天象俳句館より)】
この間の土曜、ぼくが所属する「気仙沼自然塾」という、社会教育、生涯教育の民間サークルで、定例の観察会に、久しぶりに参加した。普段気にとめない、漠然と美しいとしか感じない、自然を、草花を、「タンポポのことなら、○○さんに聞いて御覧なさいよ」といったような(!)、素敵な初老の壮年のサークル員とともに、アズマギク、エゾタンポポ、セヨウタンポポ、ムラサキゴケ、ルイヨウボタン、キジムシロ、サギゴケ、カキドオシ、ヒトツバテンナンショイウETCETC、の観察をしてきた。名前など知らなくとも、草花は楽しめるかもしれない、でも、草花の名を、一つ一つ確信しながら、そこにある、世界にかかわっていく、これは、単なるオタクでも、ペダンティックでもない、一つの誠実な、世界とのかかわり、だと、実感した。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9109/
[573] ありがとう 投稿者:武野 悠 投稿日:2001/05/16(Wed) 23:50田中庸介さん、杉山理紀さん、ありがとうございます。
田村葡萄さん、こんにちは〜
今回は、読みの根拠を説明できないまま書いてしまったけど、
この歌のことは、これからも考えていくと思います。
杉山理紀さんのような、正岡さんの歌全体を踏まえた上での見方にも、
少しずつ近づいていけたらと思いました。
(実は歌集未入手。注文はしたけど間に合わず……え〜ん)
でも来てよかった(^ ^)
ありがとうありがとうありがとうー
[572] またしても。 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/16(Wed) 21:28こんにちは。葡萄どんなにしんどくてもこの批評会だけは読まずには
おれません。としみちゃん&風間さんありがとん。風邪ねじふせました。
[557]たけのはるかさん(こんにちは)
[558]伊津野重美さん(きゃーこんにちは)
お二人のご意見を拝見していると、どうしても書きたくなってしまったの
ですが、葡萄の身近な方にもいるのですが、都会に出て、帰って来た人の、
片翼もがれてしまったような雰囲気は、まさに伊津野重美さんお書きの
>身を裂く悲しさでなく、諦めの充足に満ちた静謐な世界
そのものだと思います。そういったことを思いながら読んでいましたので、
私の場合、この批評会で皆さんの意見を伺うまで「夢のすべてが南へかえり
おえたころ・・」に鳥のイメージはまるでなかったのです。(風間さんに
質問したのもこのような経緯からでした)
[568]で伊津野重美さんがお書きなのですが、
>正岡作品にとって、<海岸線><水辺>とは、大切なものが去っていった
>世界と自分のいる世界(それは、過去と現在、あるいは彼岸と此岸と呼ん
>でもよいかもしれません)との境界であるようです。
田中庸介さんが『四月の魚』の平城山性をおっしゃっていましたよね。
奈良には海がなかったことを思い出して、いっそう伊津野重美さんの
ご指摘に驚嘆も感動も致しました。あと、
余談ですが、東大寺二月堂から見た夕日はとても遠くて小さくて、
ああここは奈良だった、としみじみ思ったことがありました。
海の遠さを思うと無性にさみしく感じたのはどうしてなのか、今も
よくわからないのです。
[571] いえいえ、あの、その、 投稿者:あまがみ 投稿日:2001/05/16(Wed) 19:54
>田中槐さま、伊津野重美さま、
いじけたようなことを書いてしまって、こちらこそすみませんでした。
にしきみさんにもご心配をおかけしてしまい、すみません。
荻原さんの、[564] 声というメディア の書き込みを読んで、
私にも、少し分かったような気がしました。
(ちなみに、ぼんやりと分かりつつあるというのは、私の理解力のせいです)
(荻原さんの書き込みは、すっきりなさっています)
伝達能力・理解能力不足で、正岡さんにも、ご心配おかけしました。
すみませんでした。
伊津野さん、はやく熱、下がるといいですね。
お大事になさってください。
[570] いつのさんいつのさん 投稿者:ぽっぽ 投稿日:2001/05/16(Wed) 19:53お熱だいじょうぶですか?お大事になさって下さいね。
http://homepage2.nifty.com/mizusu/
[569] 生きてなすことの水辺に 投稿者:伊津野重美 投稿日:2001/05/16(Wed) 17:17 生きてなすことの水辺におしよせてざわめきやまぬ海螢の群れ
「生きてなすこと」とは、生きるためにしなければならない生活の営為のことでしょうか。それとも、人が生きている間にわずかしか為し得ないことを憂いているのでしょうか。
<ぼく>の立つ心象の水辺に押し寄せる「海螢の群れ」は、彼の岸からの使者のようです。無数の人の魂のような蒼い光のざわめきは、何もなさずに死んでもいいのだと許してくれる慰安の灯となって、限りないやさしさで<ぼく>を、そして読み手をいざない続けます。打ち返す波のように…
命が肉体から離れる際の身体の苦悶とは裏腹に、魂にとっての生と死のあわいは、案外稀薄なものなのかもしれません。
[568] きっときみがぼくのまぶたで 投稿者:伊津野重美 投稿日:2001/05/16(Wed) 17:16あまがみさん、あまがみさん、どうか悲しまないでくださいね。あまがみさんが、このことで悲しくいると、えんじゅさんや、まさおかさんも悲しいと思うのです。あの朗読会の純粋聴者の意見はとっても貴重なのですよ。またお話してくださいね。
杉山理紀さん、ありがとうございます。ここに書き込むには大変勇気が要りましたので、うれしいです。熱も7度5分まで下がってきたので、もう少し書いてみます。
きっときみがぼくのまぶたであったのだ 海岸線に降り出す小雨
「きみがぼくのまぶたであったのだ」と、<きみ>の喪失によって気付く取り残された<ぼく>は、<きみ>なしには、傷ましくも不完全な存在なのでしょう。脆い自分をあたたかく潤し守ってくれた存在は今はなく、外界に曝されて酷いほどの陽射しに灼かれるしかないのです。
正岡作品にとって、<海岸線><水辺>とは、大切なものが去っていった世界と自分のいる世界(それは、過去と現在、あるいは彼岸と此岸と呼んでもよいかもしれません)との境界であるようです。その海岸線に降り出す細やかな雨は、突かれたように出てきた<ぼく>の涙でもあり、ふたつの世界の境界を模糊として煙らせ、剥き出しの<ぼく>を、そして世界全体をやさしく包み広がってゆくようです。ここにも悲しくも甘やかな慰藉を感じることができます。
[567] 思いきって 投稿者:小林悦子 投稿日:2001/05/16(Wed) 11:46みなさま、はじめまして。小林悦子と申します。
思いきって書き込みにまいりました。
正岡さんの自選20首を読んでからやっぱり歌集が欲しくなり注文しましたが
まだ届いておりません。
なので、20首のなかからものすごく好きなものを。
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
ねえ、きみを雪がつつんだその夜に国境を鯱はこえただろうか
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
奪われました。
歌集届くのが楽しみです。
[566] あまがみさん、おぎはらさん 投稿者:田中槐 投稿日:2001/05/16(Wed) 11:29あまがみさん>
あー、ごめんなさい、わたしが不用意な書き方をしたばっかりに。
パフォーマンスと書いたときに、何か但し書きをしないと、と一瞬思ったのですが、ついそのまま送信してしまいました。
正岡さんの踊りは充分パフォーマンスでありながら、ただの(特に奇を衒うような)パフォーマンスではない、超パフォーマンスのようなものだというようなことを書きたかったのですけどね。
マラリーの掲示板でももめたことなのに、わたしの配慮が足りませんでした。すみません。
荻原さん
わたしの舌足らずな論をまとめてくださってありがとうございました。
この図式で見ると、正岡さんの踊りがもっと理解できるような気がしてきます。http://run.to/enju/
[565] ん〜、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/16(Wed) 08:12収束しなくなるので、とか言いながら、
収束しそうにないこと書いてしまった。
いかん、いかん。(^^;;;
さらっと読み流して下さいませ。>[564]
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[564] 声というメディア 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/16(Wed) 08:101987年、中京大学で開催された学生の短歌シンポジウムで、
正岡豊さんと山崎郁子さんが一緒に朗読をされていました。
(枡野浩一さん田中槐さんの聴かれたもの/と同時期、です。)
たしか正岡さんの「脚本」によるものだったと思います。
正岡さんの参加されていた同人誌でその「脚本」に酷似した
詞書と短歌作品による一連を読んだことがあります。
『四月の魚』の1とよく似ていました。少し違った。
具体的にどこまで「声」をイメージしていたかわかりませんが、
朗読する「山崎郁子の声」に語らせるものとして
作品が書かれていたように感じたりもしました。
私見を言えば、この「山崎郁子の声」はメディアだと思ってきました。
と同時に「正岡豊の声」もメディアなのではないかと思っています。
[552]で田中槐さんが書かれている「ミミクリー(擬態)」
というのはこのこととかなり深いつながりがあると思います。
詩型そのものが「ミミクリー(擬態)」に過ぎない、というのは、
正岡豊にとって、文字/テキストは、読み手との媒体=メディア
として十全には機能していない、納得できていない、
という示唆を必然的にはらんでいると思われます。
田中槐さんのことばを借りれば「中心にある正岡豊/詩」は、
文字/テキストによって読み手と「断絶」されてゆくのではないか。
(いくつか述べた「中和」は「断絶」の可能性をもちます)
声=つなぐもの=媒体=メディア、というのは、
その「断絶」を超えるひとつの方法論かと感じます。
ぼくは見ても聴いてもいませんが、噂の「踊り」も
「踊る/正岡豊/の声」ではないかと勝手に推察していました。
「声」が、文字(意味)を超えて人につながるように、
「踊り」は、文字(形象)を超えて人につながるのではないか。
むろん、そこにも正岡的「中和」は働くと思うので、たぶん、
文字の意味/形象を否定してしまうほどの断定的な強さはない、
でも、文字の意味/形象の絶対性はゆるがせてしまう
正岡豊的なコミュニケーションがあったと想像しています。
名古屋からの勝手な想像でした。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[563] いよいよあと5日となりました。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/16(Wed) 06:41たくさんのコメントどうもありがとうございます。
まだコメントされていない方も、
まだまだ言いたりないという方も、
予定されているコメントを完了されてない方も
どうぞ自由にコメントなさって下さいませ。
今から議論を煮つめると収束しなくなりますので、
そのあたりは様子を見ながら自在にお願いします。
★
正岡豊さんがご自身で選歌された
『四月の魚』20首は以下で読めます。
http://www.sweetswan.com/ypbbs/masaoka.html
また、BBSのいちばん下にある「次の20件」
というラジオボタンを押すと頁を繰って
過去の発言を100件さかのぼって読めます。
それ以前のコメントについては、
タイトル下、コメント欄上の「過去ログ」
http://www.sweetswan.com/cgi-bin/yp/ypbbs2.cgi
をクリックすればすべて読むことができます。
どうぞよろしくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[562] 以前、 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/16(Wed) 06:27田中庸介さんも、こういった意味合いのことを書かれていたように思いますが
正岡さんの歌に包み込まれる感じは、「抱擁」に似てますね。
ばらばら書いてすみません。http://page.freett.com/sugi8ma/
[561] それと、 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/16(Wed) 06:19伊津野重美さんのお考え、とても素敵に思いました。
伊津野さんの
この歌が切ないのは、失った<夢>が、あたたかな守られた場所に還っていることに安堵している、しかも自分の不在のその場所が、<夢>のもともとの居場所であるように認識している作中の<ぼく>のやさしさです。そして、その<ぼく>は、夢の在所とはまったく異なる冷たい真っ白な冬の翼のささめきに、やはり守られているように見えます。二つの世界は、もともと相容れないものだったのでしょう。けれども、ここには、身を裂く悲しさでなく、諦めの充足に満ちた静謐な世界です。
といった読みに、ふれられてあたたかな朝です。
http://page.freett.com/sugi8ma/
[560] ふと、 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/16(Wed) 06:07たけのはるかさんの御発言を読ませていただいて、思ったのですが
「みずいろのつばさ」をむしりとられている自分を高いところから
見ている自分の視線みたいなものを感じました。自分を遠くから
見つめているような。
傷口として「みえない傷」であることが私には「みえない戦争」のように
せつなく思えるのですが。「痛い」と言ったり、見た目上、泣く事が
できないタイプであるのに、ひとの「みせない傷」まで見えてしまう
やわらかなこころを持っているというか。というのは女言葉の歌の
「みえてしまっている」感じから思うのかも知れません。
確かに同情にも傷ついてしまうようなやわらかな襞も感じて
だから平気にみせているのか、みえてしまうのか、それもせつない。
たけのはるかさん、もう一度、考えるきっかけになりました。
ありがとうございました。
高原英理さん、私のつかみどころのない発言をつかんでいただいた上、
すっきりといいかえていただけて、うれしく思いました。
ありがとうございました。(すっきり。)http://page.freett.com/sugi8ma/
[559] そうかあ、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/16(Wed) 01:02「みずいろのつばさ」なんかむしりとられてもいいのかあ、
と思いました。たけのはるかさん、ありがとう。http://kiss.to/kisaki
[558] 冬の翼 投稿者:伊津野重美 投稿日:2001/05/16(Wed) 01:00みなさんにからんでいない発言で申し訳ありませんが、自分が感じていたことを書かせていただこうかと思います。
夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
「夢のすべてが南へかえりおえた」とは、夏鳥が南に帰ってゆくイメージに託して、願えば叶うと思っていた数々の夢、あるいは、愛しい人とそれに付随するものが、手の届かない遠くにいってしまったことをさしているのでしょう。煌めく季節を共に過ごした後、望んだものは去り、何かの事情(例えば、無防備な無邪気さによって羽根ををむしり取られてしまったなど)で、ここに留まざるを得ない<ぼく>は、たったひとりで厳しい季節を迎えたことに気付きます。
翼が「まばたきをする」とは、「羽ばたく」「羽ぶく」などと異なり、主体の意志性が薄くなること、瞬間性や繊細な動きなどを強調する効果が感じられました。
この歌が切ないのは、失った<夢>が、あたたかな守られた場所に還っていることに安堵している、しかも自分の不在のその場所が、<夢>のもともとの居場所であるように認識している作中の<ぼく>のやさしさです。そして、その<ぼく>は、夢の在所とはまったく異なる冷たい真っ白な冬の翼のささめきに、やはり守られているように見えます。二つの世界は、もともと相容れないものだったのでしょう。けれども、ここには、身を裂く悲しさでなく、諦めの充足に満ちた静謐な世界です。
[557] こんにちは。たけのはるか と申します。 投稿者:武野 悠 投稿日:2001/05/16(Wed) 00:43ごーふるでの正岡さん錦見さんのご案内に勇気を得て、参りました。
ほんとは、最初の頃に覗いてみたんです。
でも、ど素人の上に気後れ名人なので……(^ ^ゞ
人間になりたい一心で、お邪魔します。
* * * * * * * *
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
痛ましい事態なのに、むしろ哀れむ者を恥じ入らせるような、ひとつ上の心を感じました。悪意なんか通用しない大きな豊かな心、無垢なものの持つほんとうの強さのような……。
「みせていた」とあるので「では今は?」と想像した時、傷ついてうずくまっている姿は浮かばないと思ったからです。傷を負っても驚いても、心はむしられていない。むしられるような硬い心ではない。今も無心さ無防備さは失われず、被害者に堕ちず、恨みや後悔とも無縁で、もとのまま隠れず隠さずただ自然の自分でいるだけ……という気がしました。そこが好きです。見た目の痛々しさをひっくり返す、心の大きさを奥底に感じさせるところに魅力があるように思いました。
この歌、ちらっと拝見した皆様のコメントとは違う見方をしていたようなので、気になって書いてみたものの……やっぱり、かなりだいぶひとりよがりかなあ……。ごめんなさい。削除しちゃうかも……
[556] 五首選 投稿者:伊津野重美 投稿日:2001/05/16(Wed) 00:39荻原さん、錦見さん、お世話になります。ゴールデンウィークにたくさん人と会ったことで、知恵熱を出しています。駆け込みで五首選、もってきました。
五首選
夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
きっときみがぼくのまぶたであったのだ 海岸線に降り出す小雨
生きてなすことの水辺におしよせてざわめきやまぬ海螢の群れ
クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし
[555] あまがみさん、 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/16(Wed) 00:29パフォーマンス、のことはね。槐さんが書いたのはあまがみさんのコメントを読んで、のことじゃないと思うのでだいじょうぶですよー。
マラリー掲示板でそんなお話が、出たのでした。
だからだいじょうぶだいじょうぶ。
また気軽に、書いてくださいね。待ってます。http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[554] ありがとうございます。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/15(Tue) 23:47書き込みありがとうございます。
>なみきまなぶ&まなみさん
ふたりなのかな?仲良く来てくださりありがとうございます。
定型があまりない、というのは、違うと思うのですが、なみきさんは字あまりのことを言っているのかな。ちょっとわかりませんが、短歌の入門書などをいくつかお読みになってそのへんのことを整理して考えたり作ってみたりなさるといいのでは、と思います。
定型講座はここではできないけど、正岡さんの歌に破調が少ない、という話題は[417]でぽっぽさんがセレクトしてくださり、それに荻原さんが[422]でレスつけて下さっているのがあるのでご参考までに遡って読んでみてくださいね。
丁寧に読んでたくさん書いて下さり、嬉しかったです。勇気出して書いたんでしょう?どきどきが伝わりました。ありがとー。
>田中啓子さん
すばらしい使用法ありがとうございました。コメント自体がエッセイとして完成していて何度も読んで楽しんでしまいました。
>あまがみさん
怯えながら書いてくださって、ありがとうございました。
抱きしめてあげたくなったー(気弱な人が好き)。
勝手でも暴言でもなく、とても丁寧な読みでした。すばらしいです。
>としみさん
>荒井直子さん
>増田静さん
選歌とすてきなコメントありがとうございました。
まとめちゃって心苦しく。ウエイトレスとしてはご来店を喜び、抱きしめて両頬にキス、お盆を持ったまま横に座り込んで話しつづけたいほど喜んでコメントを読んだことをお伝えします。増田静ちゃんの書き込み、うつくしいですねえ。
>田中槐さん
わーついにご来店ありがとうございます。待っておりました。
うれしいうれしい。
ミミクリー。は。きっと同世代の荻原さんが何か言ってくださると思い、私はへたなことを言ってはいけないような気がした。
踊る正岡さんのことは他の人はどう思ったんだろう。
初来店の方はこれで全部かしら。
>高原英理さん
ああ。すばらしいです。[548] にこれまでの話し合いのすべてが集約されているような気が私はしました。
あと、[550] 。私泣いてしまいました。
その燃えさかる舟の歌は、私が軽く人に言えないほど大事なお守りにしてる歌なんです。
高原さんのコメントの最後の一行に泣きました。ううー、また読んで止まらないよー。
こうへいさんにも、感謝。
今日は特に、何の力もないのにここにいてしゃべれることに感謝しました。みなさまありがとうございます。http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[553] >田中槐 さま 投稿者:あまがみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 23:39わたしの書き方がいたらなかったのかも知れません。
>[552] 先日のマラソン・リーディングで、正岡さんは踊ったわけなんですが、その意味>するところをわかる人は少なかった(いなかった)かもしれませんね。とくに、正岡豊>がどんな歌人かを知らない人にとって、あの踊りはただのパフォーマンスにしか見えな>かったかもしれない。
パフォーマンスだけにしか、見えなかったわけではないのです。
わたしなりに感じるものもあったのですが、
ただ、私には正岡さんの歌人としての背景などの知識(短歌の知識も)はありませんので、
みなさまの見解とはズレがあるのだと思います。
お邪魔してしまって、スミマセンでした。
[552] なつかしさ 投稿者:田中槐 投稿日:2001/05/15(Tue) 22:20こんばんは。やっと書き込む勇気が出ました。槐です。
昨日、正岡さんからかねてからの約束だった昔の正岡さんの朗読テープが届きました。1987年とあります。歌集『四月の魚』の出る少し前ですね。
聴いてみました。一緒に朗読している山崎郁子さんの、もう犯罪的と思えるほどのかわいらしい声優のような声とともに、14年前の青年の正岡豊がそこにはいました。声が今より高めで、中性的な印象です。
先日のマラソン・リーディングで、正岡さんは踊ったわけなんですが、その意味するところをわかる人は少なかった(いなかった)かもしれませんね。とくに、正岡豊がどんな歌人かを知らない人にとって、あの踊りはただのパフォーマンスにしか見えなかったかもしれない。わたしは当日ももちろん感動したんですが、この14年前のテープを聴いて、なぜこのあいだ正岡さんが踊ったのか、少しわかったような気がしました。それは、彼の短歌や俳句や詩を読んで感じられるような、詩そのものに対する「無垢」な姿勢がそうさせているのではないかと---。こうやって言葉にしてしまうと平凡ですが。
『四月の魚』をわたしが手にしたのは、荻原さんの結婚式のあとだから、もう4年くらい前でしょうか? (3年前かも?) たしか、感想をメールで送ったと思うのですが、残念ながら手元には残っていませんでした。でも、歌集に付箋がついたままだったので、あえて、当時選んだ歌のなかから引き写します。
かがやきながらそしてかすかにうつむいて 海にざんぶとたおれこむまで
夢のなかでのぼくがろばにものらぬままさがしているきみというはだかむぎ
万緑にそびえるごときさみしさの窓に洗濯物はほされて
菊の咲きこぼるる日なり敗けて来し少年野球団とすれちがう
きみのうしろに伸びたる影の右胸にささるかにひとつきんぽうげ見ゆ
この歌集を読んでわたしが感じるのは「なつかしさ」です。
わたしは正岡さんとは年齢も近いし、たぶん似たような文化のなかで育ってきた。興味をひかれたものも近かったのではないか。そんなことを感じさせる「なつかしさ」なんです。それが、誰かも書いていたように「俵万智以前の口語短歌」によって書かれているということ。そのことも含めての「なつかしさ」なんです。
たぶん、当時も似たことを書き送ったのではないかと思います。
で、今回はあらためて『四月の魚』を読み直して、ここで繰り広げられているいろんな人の書き込みを読んでみて、少しその「なつかしさ」を深く考えてみました。
女性口調のことがここでは話題になっていたようですが、正岡さんは歌のなかで女になったり少女になったり少年になったりしている。でもそれはすべてミミクリー(擬態)であるとわたしは思います。もっと言ってしまえば、短歌や俳句や詩という詩型そのものが、正岡さんにとっては擬態にすぎない。中心にあるのは正岡豊というひとりの純粋な「詩」でしかないのではないかと。
わたしが同世代として感じたなつかしさや同好の志として感じたなつかしさといったものも、実はもっと普遍的ななつかしさなのかもしれません。これだけ多くの人を魅了してやまない理由のひとつでしょう。
そして、それは、どこかですでに失われているものへの「なつかしさ」でもある。
ちょっとかっこつけた書き方をすれば、ただひとり正岡豊だけが「詩」であるなつかしい光景に、わたしたちは胸を打たれるのではないかと。
なんだか走り書きのような書き込みになってしまいました。でもきょう書かないとこのまま乗りそびれてしまうような気がしたのです。方向違いのことを書いてないといいのですが。
[551] フラスコの真空 投稿者:増田静(ますだしずか) 投稿日:2001/05/15(Tue) 21:53昨日ごーふるで、にしきみえりこ姉さんが「おいでおいで」をしていて、
そしたら今日、クロネコのブックサービスで『四月の魚』がちょうど届いて、
まだ一度しか読んでいないのですが、うれしかったので、
思いきって書き込むことにしました。
どのうたも、手のとどかない感じでまぶしく遠かったです。
「遠さ」はなつかしさや恋しさではなく、見えているのに音がきこえない、
宇宙で星のはりつめたひかりを見るようでした。
まるで真空のなかを歩いているような気がしました。
一首、一首のリズムとも関係があるような気がしましたが、よくわかりません。
好きなうたをひとつにしぼれませんでした。
夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
このドアをはずしこわされゆく店を遠くからみよ春のあなたは
さようなら群れて立ちたるきりん草群れざる色がたそがれとなる
「距離感」にひかれ、また胸にささりました。
(>あまがみさんの「遠さ」とおなじかと思います)
わたし自身が南を求め、そこでも「遠く」をもとめ、南にも四季があることを知り、
会いたい人たちが、みな遠くにいることと関係があると思います。
遠いわねえ。遠いだろうか。http://www2.diary.ne.jp/user/68803/
[550] あの、もうひとつ 投稿者:高原英理 投稿日:2001/05/15(Tue) 21:48なかはらさん、私も大島弓子の作には先に告げました少女型受容性を感じます。
また、これは今月号の「ユリイカ」宝塚特集に書いたことなのですが、その場合、遠近法が独特で、というより近代的・整合的な遠近法を持たないと思われます。
従来のロマン主義的態度は、常に遠くに理想があり、近くに卑小な無価値物があって理想の実現を阻む、という構造になることが多いのですが、尾崎翠、そして大島弓子の場合は、遠くへの憧れがありながら、それが自分の周囲にあるささやかなものを否定しない。
近く日常的だからといって捨て去るべきものという価値づけがない。たとえば『第七官界彷徨』は、洗濯や炊事といった日常の作業と最遠の宇宙的理想とが同じ重さで存在することを感じ取るというものです。そこには、遠い=優れている/近い=劣っている、という図式が見られない。遠さと近さが不思議なループをなしているような世界です。
大島弓子の作にも同じものを感じます。
そして正岡氏の歌にも、二元論として対立する遠近はないのではないか、と思います。決して無秩序ではないのです。ただ、その遠近・脈絡関係が二元論的にはとらえられない。わからないけれども確かに生きた関係があると感じさせる。
こうへいさんの取り上げておられた
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
とりわけこの歌に私はその関係を感じます。
この世にあの世が対立していないような世界。それはこの世界で何一つ成し遂げられなかった者にも、あの世があるのだからこの世界なんてどうでもよい、と二元論的に諭すのではなく、そのままでよい、成し遂げられなかったことそのことに価値がある、それが世界に何かをもたらしている、と告げるのです。
[549] 遅ればせながら 投稿者:荒井直子 投稿日:2001/05/15(Tue) 21:41遅ればせながら、やっと『四月の魚』を手に入れました。
まろうど社から届いた封筒を開けての第一声は「かわいい!」。すごくキュートな装丁
で、仰々しくないソフトなカバーもこの歌集にふさわしくて素敵だと思いました。
今頃になってとは思うのですが、私の5首選を:
きみが首にかけてる赤いホイッスル 誰にもみえない戦争もある
よそをむきとぶ鳥はかならず落ちてほほえんで麦になるのであろう
「鋼鉄都市」を淡きひかりの図書館でひらくかなしくなんかないやい
雨に傘ひらく何かの標的となるかもしれぬことも知らずに
きみのまひるのスタートラインにきりもみで空よりさしこまれる茜色
[548] 花束のように御礼 投稿者:高原英理 投稿日:2001/05/15(Tue) 21:29錦見さん、正岡氏自選20首のURLお教えいだき、再びどうもありがとうございます。
荻原さん、田中さん、いささか性急な書き方で生硬な表現が多くなってしまったにもかかわらず、生産的にお読みいただき、御礼申しあげます。
杉山さんの[517]のご意見、村井さんの[520]のご意見、大変納得できるものと思います。以下私なりに言い換えさせてください。
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
の後半、「ミミズクはあれはさよならを言いにゆくのだ」でも意味は大きく違わないが、そのとき、伝え来るものが大きく変わる。
何かに答える形での言い方はときに知を誇示し、人間の限界以上の自由存在として高みから断定している様子に感じさせやすい。
一方、日本語の「女性の言い方」というのは、それが常に特定の相手に向けての言葉であることを明示する。「……のよ」「……だわ」などという言い方(を現在多く使うかどうかはひとまず別の話として)は常に自分に相対する相手がおり、答えを要求していない場合でも、特定の相手を意識した言い方となっている。
実は「男性の言い方」も会話においてその機能は同じなのに、その気になれば、あたかも特定の相手などない、直に世界へ向けての大発言であるかのように見せることができる。相手あっての会話であることを忘れ、偉大な孤高の「完全主体」としての宣言や提言を装うことができる(むろんそんなものは虚構です)。
しかも、とりわけ書かれる言葉の場合、実はその場合も読み手あっての言語表現なのに、やろうとすれば他者の存在を忘れ、どこまでも尊大に振る舞うことができる。
正岡氏は、そうした無自覚で尊大な装いが嫌なのでしょう。答える、という行為から、それが陥りやすい高ぶりを消し去りたいのでしょう。だから、何かに答えるような形式のときは敢えて、特定の相手に聞いてほしいわかってもらいたいのだ、というサインを添えて、相手あっての言葉であることを明示し、その言葉が孤高の驕り高ぶりを演じるのを防ぐ。
ですからこの場合、結果として「女性の言葉」と言えるものではありますが、何より本質的に必要なのは、高みから世界へ向けて教え諭しているのではないことを示す、飽くまでも「相手に話しかけている」という身振りなのだと思われます。それさえ明示できれば、言葉づかいとして女性であるか否かは問題でないのかも知れません。
ただ、そういう対話姿勢を忘れないことを従来、女性的と呼んできたわけですね。
[547] 田村葡萄さんへ 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/15(Tue) 21:17風邪のときは無理をしないことがいちばんですね。お大事になさってください。
[546] はじめまして 投稿者:としみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 20:25こんにちは。「かばん」講読会員のとしみです。
関西かばん歌会で正岡さんにはお世話になってるのでおじゃましました。
正岡さんの使う言葉からは、その言葉自体がもっている意味以上のものを感じます。
僭越ながら、私が好きな歌は↓です。
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
ひらがな表記で柔らかい印象ですが、その中に不穏な雰囲気があるように思います。
待ちかまえている悲しみを暗示するような。
他の歌からも繊細な印象を受けました。
あの、ぶだうさん、風邪なおりましたか? お身体たいせつに。
[545] うまく言えないもどかしさ。 投稿者:こうへい 投稿日:2001/05/15(Tue) 18:40錦見さま
ごめんなさい。正直言って、まだ、短歌に関する自分の「好き」の説明が
うまくできないので、どこがどう好きかというコメントはご勘弁いただきたいと・・・
でもね、あえて言いますと、
・のどごしが柔らかく、
・心のヒダが程良くふるえ、
・腹にストンと落ち、
・体の中にしっかり存在し続ける。
という感じでしょうか。漠としていて、すいません。
皆さんのコメントを読んで、読むチカラをつけたいと、思っています。
[544] お邪魔します 投稿者:あまがみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 17:23みなさま、はじめまして。
ごーふる・たうんからやってまいりました、あまがみ、と申します。
短歌や詩について、まったくの素人で、
議論のさなかに飛び込むのも筋違いのようで恐縮ですが、
このたび、『四月の魚』を購入しましたので、少しだけお邪魔させてください。
まず、詩歌に縁のうすい私が歌集を買おうと思った動機は、
「歌葉」の今日の歌で、正岡さんの歌が続いたことからでした。
「ヘッドホン」や「赤いホイッスル」や「救急センター」や
(はしょって、すみません)
たしか、「やさしくもえさかる舟」や「きみの唇が雨の匂い」たちも。
私には、正岡さんの歌もしくは歌う立ち位置が、
短歌くささ(あー、暴言をお許しください)からは少し遠いように思えて、
そのはずれぐあいが心地よいように思えたのです。
それは、マラソン・リーディングの朗読の時にも感じました。
朗読に「踊り」が組み合わされ、しかも、音楽にはボーカルも入っている。
これは、言葉を差し出す力量が問われると思うんです。
でも、正岡さんが、構成や歌によっては2度くりかえしたり(記憶曖昧)、
「もしもこのコンピューターが薔薇ならば」という言葉を突きつけることによって、
歌自体、および歌を含めた伝える表現も見せていただいたと思いました。
暴言の数々、本当にすみません。(怯え)
さいごに、好きな歌を三首。
ジャックポットのひぐれをこえてきみのいるアパートへ天の階段のぼる
きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
フェンスへととびつく外野手空に出すその手をぼくにかしておくれよ
遠いものを歌ったり、遠いものにたとえたりする歌が好きみたい。
勝手なふうに理解していたら、本当にすみません。
[543] 短歌のほうがポータブル。 投稿者:田中啓子 投稿日:2001/05/15(Tue) 12:33はじめまして。
以下、『四月の魚』のわたしの使用例です。
調べものがたまって気が重くなってきたので、
これを書いたら、きょうは図書館に行くつもりです。
わからないことがわかるのはそれなりにたのしいけど、
だるくなって、もうやめたくなったときは、
ぼんやりと
「鋼鉄都市」を淡きひかりの図書館でひらくかなしくなんかないやい
と思ってみます。
とたんに気を取り直せるというものではないけど、
そういうときは、やることがあって忙しいのに退屈しているので、
なにがしかの効果があります。
そういうとき、
松浦寿輝という人の図書館の詩(「休暇」『鳥の計画』所収)を
使っていたこともあるのですが、
わたしは暗記がほとんどできないので、
全体の感じと、
終わりの3行の、
正午になったら本を返し
湖岸へ下りてゆく細い道をぬけて
君の家に昼食をよばれにゆこう
を不完全に思いうかべることしかできず、
なんだっけな、なんだっけな、なんだっけな、になって、
これも一定の効果はあるけど、もどかしいところがよくなかったです。
「鋼鉄都市」を淡きひかりの図書館でひらくかなしくなんかないやい
いいと思う。
[542] 短歌初心者の呟き 投稿者:なみきまなぶ&まなみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 04:04さいしょにちょっと。
きょう、夕方、東京神田の東京堂書店に行きました。正岡さんの『四月の魚』が1冊ありました。
『四月の魚』を読んだ(歌集全体的な)感想は、なんか、定型があまりないですよね。
4月に「かばん」東京歌会にお邪魔させていただいたときに、かばん会員の原浩輝さんお歌に対して、定型が効果的ではない、と発言したところ、同会の高柳蕗子さんに「いや、型をよく知っていて、その上で、言葉をあやつっている」とのご意見をいただきました。(かばん5月号を読んだら、3月東京歌会でも同様のことをわたしは言われているようです)
なにか、わたしは、定型に固執するようなところがあるようでして、それが何故なのかはいまだに自分でもわかっていないで、よろしくご指導願います。
好きな歌を5首(便宜上の番号を振ります。好きな歌順というわけではないです)
1 夏になれば天窓を月が通るから紫陽花の髪それまで切るな
2 このドアをはずしこわされゆく店を遠くからみよ春のあなたは
3 つきなみに恋に旗ふるぼくがいる真昼の塔がきみであります
4 うつしみに水満ちているかなしさに花を欲ること告ぐるべからず
5 朝露を指先に受け掌へ沈むまで亡き君をおもいて
あ〜なんか5首纏めて連作のようにもとれるかな? 偶然なんですけど。
1首目は「天窓を月が通るから」ってところが好きなんです。ある枠(まあ、天窓の窓枠?)が、期間なんですよね。月が通るから、っても、枠から見える(通っている)月は一時的なものでしかないわけですが、月が去って行ってしまった後、また月が通る次の年まで紫陽花の髪ををばしていてくださいね、ということも思いました。
冷たく静かなでありつつも、いつも高くから見ていてくれる感じがする月が好きなわたしは
靴音もネオンも絶えた朔月に高く短く子供がわらう 佐藤弓生(かばん)
はりはりと虚空【そら】の砕ける音をきく月読花のふりしきる夜は (同)
と同じくとてもわたしの感情にあいます・・・(上2首は、佐藤弓生『新集 月的現象』(沖積舎)の扉というのでしょうか?、各2章の扉に書かれている短歌です。『月的現象』は詩集です)
2首目は「こわされゆく店」が気にかかりまして、こわされる、といっても、なにかしら対外的な原因によって自滅する感が受け取れます。対外的原因とは「(春の)あなた」によるものかな、ともかんじました。
3首目は「きみであります」ってところが気にかかりまして、このいいかたは、「きみ」に直接言葉を発していっているのではなく、こころの中で「きみ」に言っている--というか、訴えているのかな、と考えました。
4首目は、「かなしさ」をこのように表現するのはすごいなと感じました。でも、3句と4句の境目がどうもはっきりしないように感じます。
「かなしさ」に(たいして)告ぐるべからず。 なのか、告ぐるべからず、と言っている対象が「かなしい」のか。。。。。。。う〜〜。最初読んだときは後者の解釈だったのですが、よめばよむほど前者かな、とも。
5首目。「朝露」ってこれ、泪のことですよね。何気ない歌なんですけど、「泣けるっていいな。」って。(わたしは非情な人間なので)
もういちど歌集全体で思ったことを。
「ひかり」とか「月」、しずかな感じの光りの歌がわたしのは好印象でした。
しかし、「あかねさす」や「久方の」が使われなかったのかな?
かなしみは光ファイバーー・・・
のうたとか。、光ファイバーに枕詞を添えたらどんなかんじになるんでしょうね?
ながくなりました。ども、お邪魔致しました。
[541] ざっつだん 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/15(Tue) 02:24風間さん、お返事ありがとうございます。
風邪ひいて苦しいので思ってることぜんぶ書けないです。
のどが痛くてしゃべるのもつらいと書くのもぐるじぐなるみたいです。
五十嵐さーん。わたしも最近東京に行ってみて、女の人どうしの
会話が聞こえたりすると、想像していたのと違うから驚きました。
あ、一時間も起きてしまっていました。寝なきゃ。
[540] ああ、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/15(Tue) 01:28高原英理さんをお呼びできてよかった、と思いました。
にしきみさん、ありがとう。
皆様の言葉に、今夜は正岡さんの歌が行燈のようにほの白く輝いていますね。
高原さんは「少女的意識」(たぶん、穂村弘さんの言われる「わがまま」っていうことでしょうか)と「少女的感受性」とに少女の特質を分けられて、正岡さんの歌にあるのは前者ではなく、「うらぎりつづけている」ものとしての真実を持つ後者のほうだとシャープに結論づけられました。後者のような感受性をもつものの自我意識は、山本陽子という詩人のように境界が未成熟で脆弱なことが多いと思うのですが、正岡さんの作品は「お告げ」や「答え」であると杉山さん村井さんが読まれているように、その境界の脆弱さや不安定性がまったく感じられないのにもかかわらず、中心から逸らしていく運動性がつねに存在しつづけているというところがふしぎだったのですが、高原さんの言葉に、成熟した自我意識とやわらかい感受性を独立なものとして両立させておられることこそがその天才たる所以なのではないかと納得しています。どうもありがとうございました。ほかの方々の読みもあたたかく、すばらしいので、何だか幸福な気分になりつつありますね。ひきつづき皆様の議論を楽しみにしています。
一人称の問題ですが、早坂類さんが詩で多用する「僕」というのもまた読者を複雑な気持ちにさせてくれるものですね。そんなこともふと思っています。http://kiss.to/kisaki
[539] 水運びと雑談 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:58>なとさん
あーごめんなさい、冗談がすぎちゃってー。にんげんだもの。ちょっと反省しています。
まだ来てない方にもいっぱい書いていただきたかったの。
>無彩色の風景が無彩色のまま、息をのむほど鮮やかになる瞬間。
>なくしてしまったことにも後からしか気づけないほど、当たり前にやさしくそこにあるもの。
泣きそうなほど美しい書き込みをありがとうございました。
歌集早く届くといいですね。20首の中から、他にも好きなのがあったらどうぞまた書いてください。
ここから雑談に参加。
平中悠一「シーズ・レイン」といえばレイコ。で、れいこさんの書き込みがあって、吉野朔実とか大島弓子とか岡崎京子とか、好きな名前の羅列にくらくらしました。
「あたし」っていえば新井素子なんです、私には。
「〜かしら」っていうのも書き込みのとき使うけど実際は言わないなあ、でも石井辰彦さんは言うわね、とか。
正岡さんはチャット中「わたし」とか「ぼく」とか「おれ」とかめまぐるしく一人称を変えてしゃべるのはなんだろうとか、携帯メールでときどき女言葉で返事が来るのは私が女だからだろうか男にはやらないのかなとか、あー関係ないことで頭がいっぱいになり、つい雑談を!
真似しないで真面目な書き込みも、書いてくださいね。雑談も、書いてくださいね。
五十嵐きよみさんとこに歌集がないのは惜しいなあって思う深夜一時前。
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[538] きみとぼく 投稿者:松木 秀 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:48という少女まんが雑誌(なのか?)も、つい最近まで
ありましたよね・・・。
すみません。完全に雑談です。
「〜だわ」「〜よね」という語尾や、
「きみ」「ぼく」という言葉をみると、
どうしてもかつての少女まんがや、
女性アイドルの歌を思い出してしまいます。
自分でかつて書き込んだような気もしますが。
(たしか菊池桃子のデビュー曲について)
駄文失礼します。
http://www2.diary.ne.jp/user/86872
[537] 訂正 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:36昔(1070年代後半)→1970年代後半http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[536] つい雑談に走ってしまう… 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:35女性言葉の話題、ゆうべからだいぶ盛り上がったのですね。
ごく初期の段階にもお断わりしたのですが、
私、実はまだ『四月の魚』を入手しておりませんで、
(注文したのに、まだ届かない〜。終わっちゃうじゃないですかあ)
正岡豊作品に使われている女性言葉について、
まだきちんと考察できずにおります。
ですので、昨日、第一印象的に書いたことから話を進められないので、
枡野さんの書き込みに反応して、ちょっとまた雑談を…。
(以下、引用は枡野さんの[533]の書き込みから)
>そういう語尾をあえて表現に取り入れる女性もいて、
>漫画家の吉野朔実の初期作品(今から17年くらい前の作品)では、
>主人公が「〜だわ」と自然に言っていますね。
私が熱心に読んでいた時期(1960〜70年代)の少女マンガも、
女の子の喋り言葉は「〜だわ」が多かったですね。
けっこうすり込まれまして、東京では女の子はみんな、
「〜だわ」と話すものなんだろうと信じ込んでいました。
>「あたし」という一人称を書く女性は苦手だという女性も多いですね。
私も自分のことを「あたし」と称した時期がありました。
高校時代の3年間限定です。
あと、少女小説の世界では、女の子が主人公の場合、
ほぼ100%、「あたし」という言葉を使いますね。
ですので、個人的に、「あたし」=中高生、という固定観念アリ。
自分を「僕」という女の子は、今でもまだいるのかしら。
いるのでしょうね。
昔(1070年代後半)、そのものズバリ、「ぼく」というタイトルの歌がありました。
歌っていたのは、まだ清純派で売っていた頃の松本ちえこ(表記不明)で、
この「ぼく」は高校生の女の子という設定でした。
(だからどうした。>スミマセン、雑談なんです…)
http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[535] 大島弓子 投稿者:なかはられいこ 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:30「少女型意識」と繋がるのかどうか。
わたしは正岡さんの「女言葉」を使用した歌を読むといつも
大島弓子の漫画に出てくる主人公のせりふを思い出します。
「アポストロフィーS」の
「椿の花を落とさぬように、やさしくしてね」とか
「バナナブレッドのプディング」の
「夢にも思わなかった
わたし薔薇の木は大好きだった でも
薔薇の木から好きだよなんていってもらえるなんて
夢にも思わなかった
夢にも思わなかったわ……」とか。
同じ少女漫画家の岡崎京子の「ジオラマボーイ、パノラマガール」のなかにも
「でもウチのおねいちゃん、スレてるくせに、夜ねるマエに
『バナナブレッドのプディング』必ず読むヒトだからさー」
と引用されていることや、その岡崎京子の短編集「私は貴兄のオモチャなの」の中に
「3つ数えろ」という短編があることや
三つかぞえろ 誰も出来ないくちづけをほろびるまでにしてみせるから
いろいろ繋がってきてくらくらしてしまいます。
すごく強引で自分勝手な連想なのですが。
と書いているうちの枡野さんの書き込みがありました。
わたしも作品に使います。
「〜だわ、〜よね」http://www2u.biglobe.ne.jp/~myu2/
[534] 平中悠一「シーズ・レイン」の主人公ユーイチのような青年、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:28「早熟で、ちょっとコシャク」というのを追加させてください。http://talk.to/mass-no
[533] 〜だわ、〜よね、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/05/15(Tue) 00:01といった語尾に拒絶反応をおこす女性って多いですね。
でも、
そういう語尾をあえて表現に取り入れる女性もいて、
漫画家の吉野朔実の初期作品(今から17年くらい前の作品)では、
主人公が「〜だわ」と自然に言っていますね。
枡野浩一が解説を書いた「月下の一群」集英社文庫、参照。
そして加藤千恵さんの短歌には「〜だわ」が出てきます。
そこが男である私にはたまらないのですが(←おやじ〜)、
でも加藤千恵さんは倒錯的に女装のように「〜だわ」と言ってるのかしらん。
女性が「僕」というのよりは「あたし」というののほうが
まだしっくりきてしまう私です。
「あたし」という一人称を書く女性は苦手だという女性も多いですね。
http://talk.to/mass-no
[532] 十数年前の正岡豊の朗読に接した感想を、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/05/14(Mon) 23:53どう表現していいのかわからないんですが、
声の感じからイメージされる正岡豊像は、
平中悠一「シーズ・レイン」の主人公ユーイチのような青年でした。
お金持ちで、神戸人。涼しやかで、繊細で、知的。
ああ、
なにも言ってない感想でごめんなさい。
「シーズ・レイン」は、村上春樹をふた世代、若くしたような小説です。http://talk.to/mass-no
[531] はじめまして、感想です 投稿者:なと 投稿日:2001/05/14(Mon) 23:51書かないひとは人間じゃない、と錦見さんがおっしゃっていたので、
慌てて人間になりにきました。
「四月の魚」は欲しくて欲しくて、注文しているのですがまだ届きません。
そういう訳で、まだ全部通して読んでおらず申し訳ないのですが、
自選20首を読ませて頂いて最も胸をつかれた歌を。
きっときみがぼくのまぶたであったのだ 海岸線を降り出す小雨
曇り空の海岸にぱらぱらと雨が降り出した時の、
不意にけだるさから覚めたような、それでもまだ夢のなかにあるような、
そんな一瞬が体感として思い出されました。
無彩色の風景が無彩色のまま、息をのむほど鮮やかになる瞬間。
そういう一瞬にしか気づけないことがあって、それがこの歌では
「きっときみがぼくのまぶたであったのだ」という発見なのかと想像しました。
まぶたとは、夢と現との境を隔てる門であり、
彼の眠りがやすらかであるように守る城壁でもあったのかな、と。
なくしてしまったことにも後からしか気づけないほど、
当たり前にやさしくそこにあるもの。
うすいグレーに煙るような、やさしくてぽっかりと寂しい歌に思えました。
[530] とりあえず初来店の方にお水を。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/14(Mon) 23:04>こうへいさん
>うりゅさん
選歌ありがとうございます。
とっても嬉しいです。
こうへいさんよろしかったらどこが好きーとか、また書きに来て下さいね。
うりゅさんの元に早く歌集が届きますように。
つばさのうらが何色か、については[277]にまとめたりしていますが、その前後あたりを見ていただければいろいろ意見が出たりしました。よかったらログ遡って読んでみてくださいね。http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[529] まばたき 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/14(Mon) 22:38大庭さんの「まばたき」について、とても興味深く読まさせていただきました。
すばらしい!http://page.freett.com/sugi8ma/
[528] 感じたことなど。 投稿者:大庭正治 投稿日:2001/05/14(Mon) 22:04(1)「まばたき」について
無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがある
「まばたき」というのは、目の開閉のことですが、
「仏陀(覚者)のまばたき」という表現があるように、
仏教では、悟り(真理)を表現する重要な語です。
「開閉」は「昼夜」という宇宙の法則を表わしています。
また、漢字では「瞬き」と書きますが、瞬間瞬間の生命を表わします。
「仏陀」と同義語に「如来」というのがありますが、
「如如として来たる」=「瞬間の生命」のことを表わしています。
(キリスト教などがどう考えているかは寡聞にして知りません)
(2)原田宗典の『旅の短編集』(角川文庫)との相似性について
私は、かつて正岡さんの掲示板で、以下のレスをいただいたことがあります。
>枡野(浩一)さんはサブカルを出自としてると思うけど
>微妙にそこからはずれて、アモルファスな「若いひとの生活感」のなかの、
>「傷」ではなく「ダメージ」の持つ意味を、うまく自分の文筆や活動に
>つなげてる数少ないライターですね。
>群ようこや原田宗典みたいに文庫の棚がふくらんだころに、
>ほんとに彼の位置がみえてくるんだろうとは思っています。
枡野さんのことを語っていますが、私は正岡さんのことではないかとも
思いましたが、ここに出てくる「原田宗典」という人の本に『旅の短編集』
というのがあります。TOKYO FMの「ジェット・ストリーム」で
1991年〜92年にかけて放送されたものを小説(ショート。1篇につき2頁)
としてまとめたものですが、世界のあらゆる都市へ「空想の旅」へといざなう
彼の筆づかいに、正岡さんの短歌の世界との相似性を感じました。
[527] ここにある歌もいいけれど 投稿者:あきつよう子 投稿日:2001/05/14(Mon) 21:37正岡さんが、ご自分の掲示板にかかれている「4/28朗読テキスト」もすごく好きです。私は。あれから私の中には嵐の余波が続いています。
今週で終わっちゃうので、思い残しのないように少し。
・チャンスはぼくに一度だけくる落ちてくるあの鳥とほほえみをかわそう
私、この歌がとても好きです。
この歌を読むと、ものすごい勢いで、まっすぐに鳥が私に向かって落ちてくる。
私が欲しいものをくわえた鳥のくちばしと、この歌の中でなら私はまっすぐに
刺し違えられそうだ。
このまっすぐなスピード感と鋭さは、きっと私がこれから先も覚えていられるものになると思います。
正岡さんの言葉は、絶対に私のものにはならない。
ずっとずっと遠くで冥王星のように輝いていて欲しい、と思います。
冥王星に向かって私は手を振る。
乱語尾、失礼いたしました。
[526] お話の途中すみません。 投稿者:大庭正治 投稿日:2001/05/14(Mon) 21:28いつも間が悪いなと思いつつも時間がないので失礼します。
私が選んだ4首めはこれです。
クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし
キーワードは「火星」です。恒星ではなく惑星、なかんずく「火星」だ
というのがポイントだと思います。なぜなら、みなさんご存知のとおり
火星には生命(宇宙人)が存在すると長いこと信じられてきました。
(今も? SF小説、映画など多数あり)
少なくとも存在した形跡は認められています。(火山や川の痕跡など)
火星には太陽系最大の火山「オリンパス」があります。
高さ2万4千メートルですから、エベレストの約2.5倍です。
火星の大きさは地球の約0.53倍(赤道直径6794キロ)ですから
この火山が火星にとって、いかに巨大なものであるか想像がつきます。
まさに「火星は燃ゆるなり」です。(恒星ではないので実際には燃えてない)
クリーニング屋の乾燥機のガスバーナー(燃えている)が対照的に小さくて
微笑ましいのですが。また、「彼方に母の眠りがみえし」は、
かつて火星に存在していたに違いない生命、と読みました。
「クリーニング屋」というのは、今この地球上に存在している生命、すなわち
私たち人間の生活・社会形態を象徴的にあらわしていると思います。
太陽系の生命誕生の歴史(何億年単位という)を感じさせる歌です。
※今まで選んだ歌→[272][288][300][302][385][390]
1)誰だいまぼくの寝顔に十二個の星をはりつけてゆきたるは
2)チチェン・イツアに死ぬ白蟻よ秋津島大和にひかる雲ながれたり
3)無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがあるhttp://www2.diary.ne.jp/user/87983/
[525] 好きな1首 投稿者:うりゅ 投稿日:2001/05/14(Mon) 21:23手元にはまだ届いていません「四月の魚」
おそまきながら20首の中で一番すきなのは
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
です。
みずいろのつばさのうらはなにいろなんだろうか
きっとなんのてらいもなくみせちゃったのだろうな
そして、嫉妬を受けてしまった。あまりにも魅力的だったから。
どうもこの短歌をよむとむしりとった相手の感情が私に沸き上がってきました。
翼をもぎとったのではなくてうらだけをむしった。
この翼、おできのようにちょろっと付いていて普段は目につかなかったのかも
うまくまとめられないです。
[524] 村井さん、ありがとうございます。 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/14(Mon) 21:19 はるぞらを端の方から折り返すあのてのひらが憎しみなのね
この歌、すごいなあと思って。隣に誰かいるとしても、目をみて
言ってないと思う。遠くをみている。自分に言い聞かせているような。
加藤治郎さんの歌は、男女の間に流れている空気がとても濃ゆくて
一字空けの空白に、それがゆるく流れ込んでる気がします。短歌で
映像美のようなものを感じます。
ひどくねばるピザのチーズを吸い寄せて見つめるなにをみてるの なにも 加藤治郎
(加藤治郎さん、ネットアイドルなんで応援。)
ずれていって、すみません。
失礼いたしました。http://page.freett.com/sugi8ma/
[523] 今週で終りと聞いて。 投稿者:こうへい 投稿日:2001/05/14(Mon) 21:17好きな歌、すいません、1首だけですが・・・
・きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある
[522] Re[515]: 「少女領域」的に 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 20:04>高原英理さん
書きこみありがとうございました。
あ、むずかしそうだなと思いながら読んだのですが、
コメント読み終えてみるとすっきりわかりました。すごい。
「正岡氏の仕事は、おそらく彼の認識上で、強く惹かれるものへの親和と共感によっていると思われますが、同時にそれは世界の序列構造化という認識を幾重にも裏切り続けるという機能をも持つものであり、最終的に序列体系化できない、できないからこそ価値があるとしか言いようのないものではないか。しかも、なぜ? に答えるのすら、世界の構造化に力を貸すものであるため、そこに理由の説明もない。」
おそらく、という書き出しの推測とは思えないような
明晰な手ざわりをもった分析にうなりました。
そして、正岡さんの、序列体系化できない、という部分は、
高原さんの言う「少女的」というカテゴリーにおいても、
もしかしたら見えてくるんじゃないかとも思いました。
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
クリスマスはなんて遠いの……スリーブレスTシャツで川岸を歩けば
それぞれのフォークが皿に落ちる音 もう逃げられないね、ここからは
「女言葉」の例として引用したこれらの作品も、
高原さんの指摘をうけたあとで読みなおしてみると
短歌史につらなる(=「男性」の視線によって構成される)短歌と
短歌としてある(=少女/の意識、によって構成される)短歌とで
やはり構造化されてしまう世界を、どちらかに加担することなく、
うらぎりつづけている、という感触さえもうかんでくる。
かぎかっこが排除された(あるいは不要な)意味も見えてくる。
[517] で杉山理紀さんが言う「答えをくれている」とか、
[520] で村井康司さんが言う「お告げをささやいている」とか、
そのあたりの感触もまた、一首の中に、
二つの視線が同時に存在して同時に不在であるような……。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[521] >風間祥さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 20:02> 主観的直観的に感じたことを、断定的に書く私の書き方に、
> 疑問を感じられるのも わかりますけれど、
> 私には、この方法でしか書けないと、ご理解いただければと思います。
理解できません。
書けない、と言ってしまうのを
許容できないということです。
ぼくは別に客観的ではありませんし、
純粋に客観を求めてもそれは無理でしょう。
たぶんぼくも風間さんとよくにた感じで、
直観的なことを書いていると思います。
ただ、意見の異なる人との対話がしたいので、
自分の意見が生まれた過程については、
なんとか人に伝えようと努力します。
伝わるかどうかは結果ですけれど、
努力のあるなしは本人次第です。
これは気質・世界観の問題ではなく、
コミュニケーションの基本かと思います。
それから、完全に本筋を外れていますので、
このコメント自体への返信は書かないで下さい。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[520] お告げとしての女性口調。 投稿者:村井康司 投稿日:2001/05/14(Mon) 18:28村井です。
いやしかし、充実した話し合いが続いてますね。
正岡さんの歌の女性的文体のこと、以前から気になっていましたので、たいへん勉強になります。
[517]で杉山理紀さんがお書きの、「答えをくれている」感じ、まったくその通りですね。
なにかとても大事なことを「お告げ」するときに、正岡さんは女性文体を採用しているのかな、という気もするのです。
「のよ」という優しいけど諭すような語尾のせいもあるけど、作者の中の「少年」に対して、作者の中の「年上の女性」がお告げをささやいているような。
すみません、改めてもうすこし詳しく書きますね。今はこんなところで。
[517] 春の国から 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/14(Mon) 17:09 あたしから海や夏の
匂いがしたなんて書くのはもうやめて
遠いでしょう、そこからここは
痛いでしょう、そこからここは
ねえひとりではとべないくらい高くに
わたしがいるのを忘れないでね
あしたには風船ガムの銀色の包み紙よりさらにひとりね
「一体感ではなくわたしは非一体感をあなたに求めてるのよ」
はるぞらを端の方から折り返すあのてのひらが憎しみなのね
正岡さんのホームページから運んできました。
それと、なかはられいこさんの「WE ARE!」の創刊号に掲載された
連作「光のホテル」から
いつまでも変わらないこころはないの、ないのよ、かみなりうおの雌雄よ
この、かみなりうおの歌と
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
は、私には「答えをくれている」ように思えるせいか、女の人って感じが
します。達観しているというのかな。
10代とか20代の前半って、男の子より女の子のほうが精神的にずいぶん大人
だったりしますよね。年若いうちから、正岡さんが少女が持つ大人の女の人な
部分を持ち合わせていて、見通しみたいなものがきいていたような気がします。
それと、達観系の歌を女言葉のはんなり感が説教口調になるのを、やわらか着地させているように思えるんですけど。
ああ、みんなで正岡さんのストーカーをしているみたいだー。
それに対して加藤治郎さんの歌は女の人の目というカメラを通して自分をみつめて
いる気がします。映像的。
聞いてるの夏の雲ってスカートをはかせてみたいくらいね だって/加藤治郎
せっかちでいかした薔薇のドローイングあなたは別の色をおもうわ/同
ひどくねばるピザのチーズを吸い寄せて見つめるなにをみてるの なにも/同
http://page.freett.com/sugi8ma/
[516] こんにちは。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/14(Mon) 12:57たしかに大変なことに(笑)。
高原さんには「庸介さんが呼んでいるの」とお知らせしたけど、石井辰彦さんを呼ぶのは・・・・うーん、うーん、ちょっと私にはできないかもー?
お知らせだけしてみよかな。うーん。
高原さん来てくださってありがとうございます。
尾崎翠、野溝七生子ファンの私は『少女領域』ファンです。うきうきしながらコメントなめるように読みました。
高原さん、一応、正岡さんが自選の20首はここにあります。
http://www.sweetswan.com/ypbbs/masaoka.html
ご参考まで。http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[515] 「少女領域」的に 投稿者:高原英理 投稿日:2001/05/14(Mon) 10:08高原英理です。みなさまはじめまして。
錦見さんにお教えいただいてここに辿り着きました。これまで確かこういう場があるとは聞いておりましたが実際のアドレスを知らず、読んだことがありませんでした。
お教えいただきありがとうございます、錦見さん。
ならびに、お呼びいただいてありがとうございます、田中さん。
さて、ここで正岡さんの歌を引用しつつものを言えるとよいのですが、今まさに傍らで寝入ろうとしている佐藤弓生に尋ねましたところ「『四月の魚』はこの間から沖積舎の社長に貸したままである」とのこと。佐藤は今年、詩集と歌集とを沖積舎から同時に出すのです。装丁の見本として渡したとのことでした(あんな感じがいいんだそうです)。
私事にわたり失礼いたした。というわけで手許にテクストがありません。それで概念的なことしか言えませんが、どうか今しばらくは以下の意見程度でお許しください(本が早く戻ってくること希望)。
現在、世に「少女的」とされるものには「男性」(「」をつけるのは役割・類としてのステロタイプという意味。単に男性であることをさすのではありません)の視線によって構成される魅惑の性としての少女という意味と、少女もしくは少女の意識によって構成される価値体系としての意味があり、私は前者への徹底的な批判者であり後者への及ばずながらの擁護者のつもりです。
私は『少女領域』という評論書において、後者の形を「少女型意識」と命名しましたが、しかしこれは第一義的には「感性」を規定するものではなく、むしろ意志の形態と考えていただいた方がよく、たとえば塚本邦雄の自尊心の表出様式は私から見れば「少女型意識」の発祥である野溝七生子の『山梔(くちなし)』のそれに近似していると思われます。
一方、「感性」の質を優勢な規定要因とする「少女型意識」(これを以下、「少女型受容性」と呼んで区別することにします)の表出様式は尾崎翠の『第七官界彷徨』が先駆であり代表的であろうと思われます。そして、吉本ばなな、江國香織などが「少女的」といわれるとしたらすべてこちらの系譜上に存在する。
しかも、ここで問題になっている「少女性」はこちらの方ですね。
正岡氏の歌のいくつか、それと氏の散文のいくつかの記憶によると、この作者は、意志としての「少女型意識」にはあまり関わらない。
誤解のないよう告げておきますが、「少女型意識」は常に礼賛されるべきものではなく、それはある条件においては極端な専制主義・差別主義をも肯定するものとなります(それが正しいと言うのではありません)。その根拠はこの意識形態が自己の自由とともに望む自己の高慢さへの徹底尊重によります。その意味で、ここの書き込みにもあったように、塚本邦雄に見られる(決して現実に彼がファシストなのではないが)強い意味支配意志・序列認識のようなものは「少女型意識」のある発展形の特徴と考えられます。
ところが尾崎翠系の「少女型受容性」の特徴は、あらゆる形での権力からの遠心性を持つ(むろんだからといって逃れることはできない)ため、常に取るに足りない(と人間には扱われている)小さなもの弱いものかすかなものに強い親和性を持ち、また支配から遠い状態でそれと関わる姿勢を持つ、同時にそのことが本質への接近なのだという確信を保持し続けるところにある。しかもそこでその視線にとまるものがなぜ見出されたのかは作者にしか必然性がわからない。その種の世界認識は一般的な社会序列には全く適しません。ただし、文学にもし存在理由があるとすれば、そこではときに(飽くまでも、ときに、ですが)その弱さ小ささかすかさ・世界の中心にいないことを重要な主題とできることではないでしょうか。
その意味で私は荻原さんのご意見[486]に賛成します。
正岡氏の仕事は、おそらく彼の認識上で、強く惹かれるものへの親和と共感によっていると思われますが、同時にそれは世界の序列構造化という認識を幾重にも裏切り続けるという機能をも持つものであり、最終的に序列体系化できない、できないからこそ価値があるとしか言いようのないものではないか。しかも、なぜ? に答えるのすら、世界の構造化に力を貸すものであるため、そこに理由の説明もない。
この表出様式に憶えはありませんか? そう、これは、若い女性が拙い言葉で、私たちに、かろうじて伝えようとしてくる、慈しみと不条理が共存した、あの言葉を、不思議な様式感によって統一(本当はしていない)しているかのように見せているものであり、その仮そめの統一感にはおそらく短歌という定型が力を貸しているのかも知れません。
「冬の翼」の歌について、私は、何か夢の後の微かな心のおののきをこそ大切にしたいというようなニュアンスで受け取りました。
また「のよ」という語の用い方については時代背景も加味して考えるべきではないかとも思いました。私たちが何気なく用いている言葉はよく考えると十年前とは相当異なっている部分もあるからです。私も今、「のよ」よりは「の」あるいは「なの」くらいが多用されているようには思いますが。これに限らず、たった数年前のものでも、今現在の言語慣習だけで判断するのは場合によっては過つ可能性がある。といって、あまり厳密に認知できるかというと私も自信はありません。
[514] 創世記 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 09:55と言っちゃったらいけないのかな。私の方が、書き方を考えなければいけないのでしょうね。またまたコミュニケーション不全に陥ってしまいますね。他者にも伝わる言葉を探すのが、第一にしなければいけないことでした。
・夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
この歌に関しては
日常的な幸福に満たされ、満ち足りたところから、精神が目覚め、十全の官能をもった魂が目覚め、心の旅が始まる。飛翔する魂の目覚めを書いたのだと思いました。そこから始まる物語。
[513] それから 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 05:37正岡さんは、現在も塚本邦雄さんの歌集の愛読者でいらっしゃるようですし、影響があっただろうとは思います。
ただそれは、もともと惹かれるところがあったから惹かれるので、客観と言い、主観といっても、内になければ、外にも求めないというか、鶏と卵になってしまうのですけれど、そんな感じがします。
荻原さんの、客観的なところを尊敬しますけれど、主観的直観的に感じたことを、断定的に書く私の書き方に、疑問を感じられるのも わかりますけれど、私には、この方法でしか書けないと、ご理解いただければと思います。
[512] 荻原さん。一般的といったのは、それがすべて言う意味ではありません。もうすこしケンキョな意味(ここは誤解のないように)です。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 04:00遅くなりましたが、文語・口語のところでの、個人的な部分は、その前の、五十嵐さんの、自分の場合はこうしているというようなコメントに対してのものです。それで、私の場合は〜と書いただけなんですけど。。。
荻原さんが問い、また、ここで問題にされているのは、正岡豊が、どのように、現在に至る文体を獲得していったか、「四月の魚」が書かれた時点では、時代や他者がどのように関わり、その固有の文体形成に力があったか、その背景を問われているということは、わかっているつもりです。
誰のことをきかれているかはわかっています。
[511] でもたぶん、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:56加藤治郎さんの歌の中にいるのはある程度成熟した女で、
正岡さんの歌の中にいるフラジャイルな「少女」とはちょっと違うと
思いました。「幾百」という古めかしい言い方も、
むかしの少女小説のコードなんではないかと思いますし。http://kiss.to/kisaki
[510] Re[508]: うーん、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:51>田中庸介さん
> 大変なことになってきました。
これにうけてしまいました。
高原英理さん、石井辰彦さんが、
ここを読んでくれていると
たいへんうれしいですね。
ちょっと資料作成の仕事があるので、
今夜はしばらく退席いたします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[509] Re[506]: 無性、あるいは両性具有。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:47>風間祥さん
> すみません、書込みが錯綜しているようですが、続けていいですか?
> 時間差で、また表示差で、重なったり、変なことになったりしてしまうかもしれませんが。
パソコンの事情などでお困りでしたら、
もちろん、書きやすいようにどうぞ。
ただ、できるだけまとめていただいた方が、
読む側には理解しやすいと思いますので、
その点だけご配慮下さい。(^^)
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[508] うーん、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:41これは微妙なところですね。
「スカートをはかせる」「せっかちでいかす」「薔薇」「ひどくねばる」
などの詩句は文脈上どう処理されて肝心なところがかわされていたとしても、
いずれにせよ多分に倒錯的なものを暗示していると思いますが…。
『現代詩としての短歌』で折口信夫の同性愛について
鋭敏な読みを示された石井辰彦さんのご意見もうかがいたいところです。
大変なことになってきました。http://kiss.to/kisaki
[507] 歌の自然。歌の摂理。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:31というか、これは、正岡さんに限らず、歌というものは、そういうものだと思うんです。
だから、正岡さんは、歌の側から見れば、最も、その摂理に自然な書き手と思われます。
[506] 無性、あるいは両性具有。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:27すみません、書込みが錯綜しているようですが、続けていいですか?
時間差で、また表示差で、重なったり、変なことになったりしてしまうかもしれませんが。
えっと、両性具有ということ、あるいは無性ということ、だと思うんです。
正岡さんの中から、どちらでも、出てくると思うんです。
女言葉も、男言葉も、神言葉も、大人も、子供も、自然界の生きものたちの声も、鉱物や、風や波の音も。内在させていると。
それが、時により、ひっぱり出されてくると。
[504] もういちど「女言葉」について 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:14加藤治郎さんの歌集『マイ・ロマンサー』に
以下のような作品があるのですけれど、
さきほど「おかま」という形容が出たと書いたのは、
実は加藤さんの作品をめぐってなのです。
どこか違うんじゃないかなあとも思いながら、
議論する機会もないままにいました。
聞いてるの夏の雲ってスカートをはかせてみたいくらいね だって/加藤治郎
せっかちでいかした薔薇のドローイングあなたは別の色をおもうわ/同
ひどくねばるピザのチーズを吸い寄せて見つめるなにをみてるの なにも/同
さきほどと同じように作品の構造について、
できるだけシンプルに解析してゆきます。
「聞いてるの夏の雲って
スカートをはかせてみたいくらいね」←主格が聴いた女性の科白
「だって」←主格の科白(独白)
「せっかちでいかした薔薇のドローイング」←主格の視点からの情景
「あなたは別の色をおもうわ」←主格が聴いた女性の科白
「ひどくねばるピザのチーズを吸い寄せて見つめる」←主格の視点からの情景
「なにをみてるの」←主格が聴いた女性の科白
「なにも」←主格の科白
加藤さんのも正岡さんのも、引用した作品は、
どちらも定番の解釈がされていないと思いますが、
これだけシンプルに解析できるので、
ぼくはこのように読んできました。
でも、あるいは女性性・少女性が
ここに侵入しているという読みも成り立つのかな。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[503] 女言葉 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:13男性性、女性性をなくすのに、女言葉が役立っていると思っていました。
作者名が、豊、で、男性の作者を思わせるから、(とよさんとはまぁ思わないとして)女性の言葉で、《中和》されるところがあると。ある歌に関しては。
変身変化、自由自在は、歌の基本なので、正岡さんは、そのようにやっていらっしゃると。
あっ、今、下のほうを読むと どなたかも書かれていましたね。
男性性 の中和。 そう、私もそう思いました。
[502] Re[495]: 風間さんにも質問しちゃうのだ。/ 当然の質問です。私も迷っています。主語をどうするかで解釈が違ってくるので。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/14(Mon) 03:04
> 南北が反転している。と言うのがわからないので教えて下さい。
渡り鳥は北へ帰るというイメージがありました。北がそもそもの故郷。 北をめざして鳥はとんでゆくと。
そして詩歌の中では、北をめざして、飛ぶ鳥。何もないところ、厳しい極北に向かって飛翔する鳥は、詩人の生き方の象徴として、歌われる例が多いように思っていました。
一時的に避寒するのではなく、「かえりおえたころ」なので、南が最終目的地だとすると、逆だなと思ったのです。
でも、迷いますね。私も。息も絶え絶えの瀕死の鳥として読むこともできるので。
[501] 「女言葉」について 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 02:55>田中庸介さん、みなさん
吉増剛造さんの詩が、なるほど、
「「少女性」によって「男性原理」を中和」
と見えるんですね。ん〜、面白い視点だなあ。
もうすこしいろいろ聞きたいところがありますが、
ともあれぼくの考えていたことを先に書きますね。
★
正岡豊『四月の魚』の中にでてくる、
いわゆる「女言葉」については、
それ自体が、聴いたと想定される会話の
描写であると考えて読んでいました。
極端な言い方をすると小説や脚本的構成。
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
の末尾が、女言葉なのかどうか、
いまひとつ確信はもてないのですけど、
仮に女言葉だとすると、これは、
いわゆる散文で使用するかぎかっこ
を省略しているんじゃないかと思うのです。
むろん省略してしまえば、女性一人称的な歌
とも読めなくはないのですが、以下のような歌と
あわせて読んでいるとやはり「会話自体の描写」
なのではないかと思われます。
クリスマスはなんて遠いの……スリーブレスTシャツで川岸を歩けば
それぞれのフォークが皿に落ちる音 もう逃げられないね、ここからは
むろんこれらもまた女言葉と断言してしまっていいかどうか、
いまひとつはっきりしないところもあるんですけど、
「クリスマスはなんて遠いの……」←主格が聴いた女性の科白
「スリーブレスTシャツで川岸を歩けば」←主格の視点からの情景
「それぞれのフォークが皿に落ちる音」←主格の視点からの情景
「もう逃げられないね、ここからは」←主格が聴いた女性の科白
というシンプルな構造なのではないかと思うのです。
同じようにシンプルに構造を解析してしまうと、
ミミズクの部分に重複は出るわけなんですけど、
「もうじっとしていられないミミズク」←主格の視点からの情景
「ミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ」←主格が聴いた女性の科白
というように読めるのではないかと思います。
だから主格はとても男性的に感じられて
女性性/少女性というものは意識してませんでした。
同じ作品構造の捉え方で、もしかすると、
田中庸介さんが言う「「少女性」によって「男性原理」を中和」
という方向へも読めるかも知れませんね。あともう1コメントします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[500] あー入れ違いになりました。 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/14(Mon) 02:31すみません差し出がましく(笑)。
現代詩において「少女性」をもっている男性詩人として、
ぼくが第一に名をあげたいのは吉増剛造です。
新詩集『花火の家の入口で』の冒頭の作品は、こんな会話からはじまります。
(外にでて舞ってみる?
(そうね。でももう。
しずかに、岸辺は、河の女神に、ささやくように、訊ねた。(麗しい、……)。
(「唖者の家へ」)
この詩人はシュルレアリスム的な自動記述の手法を取り入れて、自分の深奥を切り開いていったもっとも前衛的な現代詩人の一人ですが、自分の「男性的な感覚」を「中和」するようにして、「河の女神」に象徴された「少女性」を自分の中に発掘していったという展開を六十年代以来辿ってきたと読まれていると思います。「名があるような、文のあるような」とぼくは「オフ、」という詩に書きましたが、文によって名をあげていくという「男性原理」に支配された文壇から微妙にそれた位置に立ちつづけている吉増剛造は、高橋睦郎や田中宏輔という詩人たちの初期の作品のように自分のホモセクシュアリティのカミングアウトのためではなく、そのすぐれた「少女性」によって「男性原理」を中和してきているような気がするのです。http://kiss.to/kisaki
[499] それと今、気がついたんですけど、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/14(Mon) 02:13 風車荷車矢車水車胸に幾百嘘つめこみし
というこの「嘘をつめこむ」胸というのはあきらかに「少女」の胸だという
気がするのです。「矢車草」の花の可憐なイメージ、そして、
胸に両手を重ねるポーズは男の子がやるにしては女性的すぎるし。
正岡豊さんの「少女性」について、『少女領域』の著者の高原英理さんのご意見も
ぜひうかがってみたいところです。http://kiss.to/kisaki
[498] >田中庸介さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/14(Mon) 02:11進行役どうもありがとうございます(笑)。
次回は正式にお願いしようかしら。
★
ところで女性的ニュアンスの話言葉ですが、
これって男性詩人が詩作品のなかに、
かぎかっこその他の特殊扱いなしで入れた場合、
どういう具合に読まれるのかっていう
ルール的なものはありますでしょうか?
もう1コメントあとで入れますが、
短歌の場合、冗談ぽく「おかま」
というような形容が出たことがあります。
代詠とかホモセクシャルとか
そういうことを意図しない作品では
どう読まれてきたものなのでしょうか?
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[497] お答えありがとうございます 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/14(Mon) 01:51荻原さんと風間さんのやりとりは、「口語性」というものを現代短歌が
まさに今獲得しつつあるところのホットな現在性がうかがえて興味深かったです。
でも、ちょっと概念的なところにお二人の対話が行ってしまっているので、
この批評会のテーマである歌集『四月の魚』の中からいちいち例歌を引きながら、
それぞれにご自分が自然と思われる感覚との一致やずれについて
書いていただいたほうが話が噛み合うのではないかと思いました。
たとえば、今もう一つの話題になっている「女言葉」についてはお二人はいかがでしょうか。杉山理紀さん、関西かばん歌会での正岡さんの「女言葉」の歌の引用をありがとうございました。また田村葡萄さんの「披講なさってる時は、すこし女性的かなーと思ったことがあります」という証言も興味深いです。五十嵐きよみさんは「女性の話し言葉で詠まれるのは、女性に成り代わって詠んだ歌である、ということを読み手に伝える上で、そうされる必要があったのだろうと考えています」と書かれていますが、では、その「必要性」とはどんなことなのでしょうか。あるいは「女言葉」で書くのは正岡さんの発語にとってどのくらい「自然」だったんだと思われますか?この「女の人」にみえる発話者は、中性的な少年なのか、あるいは成熟した婦人なのか、そのあたりについてもうかがってみたいと思います。http://kiss.to/kisaki
[496] 手当たり次第に、 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/13(Sun) 22:05翼を昨日探しましたが、手持ちの女性歌人さんの歌集ばかり探していて、
ふと途中で男性の歌集を探す方がいいのかな?と思って吉川宏志さんの
歌集にも目を通しましたが、そこで脱落。
荻原さんの説明を伺ってから、あー正岡さんより前の方の歌集や、後の
歌集とか、もっと狙いを定めて探さなければいけなかったんだなーと
よい勉強になりました。荻原さんもレイハルさんもどうもありがとう
ございましたm(__)m
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[495] 風間さんにも質問しちゃうのだ。 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/13(Sun) 21:57[457]で風間さんが書かれているのですが、
>それに普通の発想と逆ですね。南北が反転している。
南北が反転している。と言うのがわからないので教えて下さい。
作品中では南へ帰るとなっていますから、風間さんは北に帰るの
が普通だとおっしゃっているのだと思うのですが、それはどうして
なのかとても気になりますので、お手数をかけてすみませんが
よろしくお願いしますm(__)m
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[494] コリナイグレープ 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/13(Sun) 21:52また来ましたー。わー書き込みいっぱいですねー。
[488]←あー荻原さんぶだうのまねしてはるー。やあねー(^.^)
名古屋の言葉で書いて下さればいいのにー。
翼つばさ。冬の翼の作品は歌集の入り口ですよね。
この翼をわたしは飛行機の鋼鉄の片翼(もちろん機体かた離れてる)で、
まばたきしてる目は片翼なのでやっぱりひとつだけ、そんな架空の生き物を
アタマの中に想像して読んでいました。(絵が描けたら皆さんに見てもらえるのに)
荻原さんに教えてもらったように、飛翔する力を持つイメージであることには
同感ですが、わたしのイメージした架空の生き物は瀕死の翼で、「冬の」と言う
言葉からも死の近さを感じます。もうできることはまばたきくらいしか無い程
の力無さで、そのまばたきの中に思いのままに飛翔していた回想『四月の魚』が
始まったように受け止めていました。
[464]で風間さんが目覚めたばかりの翼、生まれたばかりの翼と解釈して
おられたので、歌集の入り口で全く正反対の解釈をして読み始めると、もうほと
んど違う本を読んだくらいの差があるんやろうなあ、と驚いておりました(^.^)
[483]の田中さんのご質問ですが、
『四月の魚』には方言で詠われていると思われる作品は記憶がなくて、
わたし自身が短歌を黙読する時は標準語(のつもり)なので、作品に
奈良のアクセントを見出したり、と言うことはありません(^.^)
歌の言葉さばきが柔らかいのは正岡さんご自身が文語にも口語にも
支配されないで、思いのままに言葉を操っておられるからかな?と
思っていました。もちろん、奈良で日常遣われている言葉も超越され
ているからだと。あと、
まだ正岡さんの朗読を拝聴したことがありませんので、歌会の際の
披講を思い出してみたのですが、披講なさってる時は、すこし女性的
かなーと思ったことがあります。
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[493] Re[491]: 関西かばん歌会の時、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 21:51>杉山理紀さん
> ロシア語はいつでも少ししめってておいしい紅茶の匂いがしたわ
>
> という歌を正岡さんが出されたんですけど、最後のあたりで
> 自分で読み上げられたのを聴いて (いいねえ。)と思いました。
> 読み方がまろやかなんですよね。いろっぽくてよかったです。
ん〜、生で聴いてみたいものです。
そうか、いつか条件が揃えば、
音声ファイルを掲示板にアップして、
それをみんなで聴いて、あれこれと
朗読や音声について語りあえるかも知れませんね。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[492] >風間祥さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 21:24[462]での風間さんの意見は、口語/文語の選択について、
正岡さんは、誰彼の影響ではなく、自分語で自然に書いた、
というニュアンスだったかと思いますが、
それは、ぼくが、正岡さんの営為について、
同時代との葛藤を感じているし、
いくつか例をあげてコメントを書いたことへの
異論であると思って読みました。
口語/文語の選択について、
[476]で風間さんが書いた自身の例を
「一般的」と言いきってしまうことに
ここでぼくが違和を示しているのは、
[462]で「正岡豊が正岡豊の言葉で書いたというだけのこと」
と判断されている理由が、風間さんの
それが「一般的」だという判断によるもの
なのではないかと感じたからです。
正岡豊が同時代をどれほど意識していたのか、
これは他人にはわかりませんし、
本人にすらわからないかも知れません。
けれど、せっかく『四月の魚』をみんなで読んでいるので、
それなりの蓋然性の高さを求めて議論しようと思っています。
[487]は、風間さんの方法や姿勢について
個人的に意見を言っているわけではなく、
正岡豊のテキストを論じあう上での
意見の元となっている部分を確かめるコメントです。
話の流れの中で風間さんが理解していると思いこんでいましたが、
書き方がわかりにくかったでしょうか。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[491] 関西かばん歌会の時、 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/13(Sun) 20:08 ロシア語はいつでも少ししめってておいしい紅茶の匂いがしたわ
という歌を正岡さんが出されたんですけど、最後のあたりで
自分で読み上げられたのを聴いて (いいねえ。)と思いました。
読み方がまろやかなんですよね。いろっぽくてよかったです。
こういう、なんとかだわ、っていうのおんなのひとが作ったら
ちょっと、嫌味っぽいんじゃないかなあと思いました。
私も歌を作ってて「ぼく」とか「ぼくら」になるときがあるんですけど
なぜか、そうなってしまうんですよね。少年の歌を作ろう!とか思った事は
一度もないんです。私の中の少年性みたいなものが、あるとすれば
それが、急に頭をもたげてくる感じ。
正岡さんの女言葉は少女って感じはしなくて、「女の人」って感じが
するんですよね。遠くを見ているような。正岡さんの女性的な部分が
流れ出している感じがします。
いつも感覚的なことでしか物が言えなくて、ごめんなさい。
レイハルさんの細やかな分析、すばらしいと思いました。http://www.remus.dti.ne.jp/~astre/movie/wing.html
[490] 荻原さんへ 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 20:00一般的といったのが、事実に著しく相違しているでしょうか?
よくあるケースの一つ、平凡な一例といったほどの意味なのですが、特殊とも思えない、ごくありきたりの。
普通の、並みの、・・・、と、言ってみても仕方ないかしら。
言い換えましょう。荻原さんには。
はい。他人のことなど、知りません。
私は、こういう方法と姿勢で書いています。
これでいいでしょうか?
私の心の中のなりゆきまかせ的な、方法とも言えない気ままを、自然と呼んでいる私というわけですね。
それを一般的と呼ぶなと。
[489] イントネーションで思い出しましたが、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:49名古屋生まれ名古屋育ちで、
大阪・京都・奈良の話し言葉の差異を
まるで認識することができないぼくには、
塚本邦雄が作品を読みあげるその感じと
正岡豊が作品を読みあげるその感じとが
まったく同じもののように感じられてました。
東京系の人が読みあげるときと違って
句跨りのところがなめらかな感じなんですよね。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[488] Re[482]: すっかり忘れていましたが、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:43>田村葡萄さん
> 作者の正岡さんがぜーんぶ読んではるんですねー。
はいはい。たぶんすみずみまで読んではります。
たぶん言いたいことがあってうずうずしてはります。
批評会の期間中はがまんしてねってお願いしてありますので、
会の終了後になにかしらコメントいただけると思います。
お楽しみに〜。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[487] Re[476]: 違ってますね。私が書いたことと、少し。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:38>風間祥さん
> 私は、歌が文語で出て来れば、文語で書くし、
> いわゆる口語で出てくれば、口語で書きます。
> 自分の言葉の文語・口語・その他?差別はしていません。
> 考えたとしても、そのとき適切だと思えば、それを採用します。
> 一般的だと思いますが。。。
風間さ〜ん、一般的? 根拠は?
風間さんが口語と文語について
どのようにかかわっているか
この意見でよくわかりますけれど、
一九九〇年代から現在にいたる経験的実感から言うと、
風間さんのようなスタンスの人もたくさんいれば、
同数あるいはそれ以上、短歌は文語が基本、
という理念にかなりつよくしばられている人もいますよ。
一般的と言いきってしまっては事実が見えてきません。
ぼく個人の経験的実感ですが、サンプル数は
おそらく数百くらいでの実感ですので、
実態にかなり近いのではないかと思われます。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[486] Re[474]: なるほど、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:28>田中庸介さん
> ぼくは、岡井隆や塚本邦雄に比べて、正岡さんの作品には
> 何かすっきりしないものを感じるのですよ。
> 荻原さんは「楕円」の例えで説明されましたが、
> とても表面はやわらかいんだけれども、その内部にはかならず葛藤があって、
> 意味がどこかでねじれていて、とてももどかしい。
他者をことばの力で圧倒するような修辞や理念が
前衛短歌時代の塚本邦雄と岡井隆にはあると思います。
圧倒すると言ってもそれは親和を求めているとも言えるし、
きわめて魅力的なものだと思うのですけど、
正岡豊のあり方はそれとは違っていて、
ひとつに結ばれるのではなく、
隣りに坐るような感じなんですね。
手を握るのでも肩に手をまわすのでもなく(笑)、
じっと隣りに坐っている感じ。たしかにもどかしい。
そのことの意味をどう求めていったらいいかはわからないけど、
ファシズム的なものへの潜在的な恐怖・警戒かも知れないと
ときどき思ったりすることがあります。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[485] 口語と喋り言葉 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:11さっき自分であれこれ書いたことが、なんだかどうも中途半端というか、
書き足りないような、書きたかったこととずれているような、
歯痒い気持ちがして、舞い戻ってきましたところ、
ちょうど、田中庸介さんから興味深い話題のご提供をいただいていました。
> もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
>というように、「女言葉」を使う技法も正岡さんは多用していますね。
>このあたりはいかがでしょうか。
さっき、[480]の書き込みで、
関東にご在住でない方が「なの、だわ、のよ」といった口語の文体を
使っておられると、軽い違和感を覚えた、という意味のことを書きました。
今さらですが、念のためにお断わりしておきますと、
これって、地方を差別する主旨の書き込みではありません。
私も地方出身者ですし。
私が違和感を覚えたのは、短歌に限らず、小説の中に出てくる会話も同じでして、
「なの、だわ、のね」というふうな語尾って、現実にはそれほど使わないのに、
(特に、地方出身者にとっては…というか、私にとってはと限定してもいいですが、
気恥ずかしくて、なかなか使いづらいです。ですから「〜(だ)よ」「〜(だ)ね」
というふうにいいますね。実際には)
書き言葉の中では、あたかもそれが普通の喋り言葉のように
使われていることに対する違和感でした。
確かに、小説では会話が続くと、
女性は女性らしく、男性は男性らしく喋らせないと、
どちらが喋っているんだかわからなくなってしまうため、
性別を強調しなければいけないところはあるのだと思います。
でも、短歌では、ふたり以上の会話が出てくることは少ないですから、
語尾によって話者の区別をつける必要性はあまりないですよね。
なのに、なぜに、あえて「〜のね、〜だわ、〜なの」といった語尾を用いて、
「女性」性を強調せねばならないのか?
そのへんが、いちばんの違和感でした。
誤解を招く発言かもしれませんが、口語というより、「テレビドラマ言葉」のようにも
感じられて、一時は読むだけでもだいぶ抵抗がありました。
そんなわけで、私自身は、この違和感ゆえに「〜のね、〜だわ、〜なの」といった
言葉を短歌の中で使うことはほとんどありませんが、
さっきも書きましたように、今は、ほかの方の作品を読んでも、
その方が選択された「文体」なのだと考えられるようになり、
わりと気持ちとしてはすっきりしています。
それで、ようやく正岡豊さんの作品の話になりますが、
正岡豊さんは男性ですから、女性の話し言葉で詠まれるのは、
女性に成り代わって詠んだ歌である、ということを読み手に伝える上で、
そうされる必要があったのだろうと考えています。
また、翻訳小説での会話は、いわゆる東京言葉っぽい言葉で統一されていますが、
これは「そういうものだ」と(私は)割り切ることができ、
現実にはあまりいわないような言い回しで女性らしさ、男性らしさが
強調されていても、日本文学を読むときほどは違和感を感じないというのと同じ理由で、
正岡さんの女性言葉の歌にも、それほど違和感は覚えません。
…なんか、個人的な感想ばかりに終始して、
ちっとも客観的なことが書けていない感じですが、ご容赦くださいませ。
そんなとこです。
http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[484] Re[473][460][441]: 史的ポジショニング 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 17:07>ぽっぽさん
> でも、知らないということを知るところから始まることもある。
> そう思いたいです。
ぼくもいつもそう思ってますよ。(^^)
世の中知らないことだらけですから。
正岡豊『四月の魚』について語りあうのには、
知らないことに出あいたいという動機もあります。
実際にみなさんのコメントを読みながら、
ああ、おや、をを、なるほど、ええ!?、
などとパソコンの前でぶつぶつつぶやいてます。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[483] 「文學界」六月号の 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/13(Sun) 16:55中沢新一さんと保坂和志さんの対談で、
保坂さんが深沢七郎の小説は「甲州弁で書いている」ということを
指摘しています。「方言で書いた作家は日本では深沢七郎だけかも
しれないと思う」。これはおもしろいと思うんですね。
ぼくも父親が甲州だけど、生まれは東京なので、甲州弁はもはや
自分の言語としては喪失してしまっている。
そのあたり、田村葡萄さんほかの関西の皆様は、
正岡さんの「やわらかな」言葉さばきのなかに、
奈良アクセントを感じられるのでしょうか。
朗読の問題とからめて、このあたりはいかがでしょうか。http://kiss.to/kisaki
[482] すっかり忘れていましたが、 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/13(Sun) 16:09作者の正岡さんがぜーんぶ読んではるんですねー。(大阪府下南部に棲息しています。
ぶだうの発言は恐縮ですが、大阪のイントネーションでお読み下さいませ)
荻原さん、ご説明ありがとうございました。昨日は目が回っていたのですが、
今日はちょっとマシなので、よくわかりました。(←自分のお馬鹿を体調のせいに
する悪あがき。とほほ)あ、目に入れても痛くない(実感です)姪たちが
乱入してきましたので、続きはまた夜書きます。
にしきみさんがあかるくてうれしい!
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[481] 文語と口語の問題、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/13(Sun) 16:03興味深く拝読しております。
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
というように、「女言葉」を使う技法も正岡さんは多用していますね。
このあたりはいかがでしょうか。http://kiss.to/kisaki
[480] ええ、ええ 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/13(Sun) 15:49風間さん
>下の文は、「口語で書くのは自然」という部分だけを引用されて、私的には、それだと
>ニュアンスが違ってくるなぁと思ったので、書きました。
了解です、もちろん。
部分的な引用をしてしまって、
「これって、風間さんが書かれたこととは多分だいぶ違う話なのに、
ちょっとまずいかな。曲解しているふうに読めてしまうかな」と
気になっておりましたので、
ていねいに読んでいただけて感謝です。
また、部分的な引用をしてしまったこと、お詫びします。
ついでにさっきの話を続けると、
個人的なことなんですが、少し前まで、
関東地方にお住まいではない方が、いわゆる東京言葉っぽい口語を使って
(例:〜なの、〜だわ、〜のよ)
歌を詠まれることに対して、軽い違和感というか、
あれこれ考えるところがあったのですが、
口語も書き言葉であり、その方が選ばれた文体であると考えると、
だいぶすっきりしてきているところです。
私自身にとっても、いわゆる東京言葉っぽい口語は、そんな位置づけですし。http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[479] 補足の補足。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 15:30下の文は、「口語で書くのは自然」という部分だけを引用されて、私的には、それだとニュアンスが違ってくるなぁと思ったので、書きました。
「違ってますね。私の書いたことと少し」というのは、意見の相違に関してのものではありませんので、念のため。
[478] 補足になるかどうかわかりませんが、解っていただけますか? 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 15:10当時も、日常的にいわゆる現代語を使っていたのだから、現代かなづかい、現代口語(当時の)で、書くのは、自然であったでしょうと言っているのです。
文語で書く人が、殆どだったとすれば、そのことが、そのことの方が、不自然だった、不自然が、罷り通っていた、と言っているのです。
短歌の状況が、遅れすぎていたのです。
今もまた同じ危惧がありませんか?
口語は当たり前になったけれど、まだまだ次から次へと、不思議は続いているのではないでしょうか。
変容する時代と人間が、必然的に新しい文体を求めています。
[477] こんにちは。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/13(Sun) 14:56東京は澄みきった青空です。
昨日はしずかだったここも、今日はいっぱいで嬉しい♪
しかしニューカマーがいない!
ウエイトレス(昼間はこれになる)の私が水を持っていくチャンスがない!
見ているだけのそこのあなた。選歌してくださいね。ね。
記念によく旅先でスタンプを押すでしょう?
あんな感じで、見てる記念に選歌をどうぞ。
五十嵐さんまた書き込みありがとうございました。
文体のおはなしはいろんな人が反応してくれそうでうれしいわん。
ではではひきつづきどうぞー。
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[476] 違ってますね。私が書いたことと、少し。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 14:54私は、「特定の誰彼の影響を受けなくても、口語で書くのは自然であった」と、書いたのです。当時において、です。《サラダ》以前の話をしているのです。そう、「古典的口語」とおっしゃっている、その当時のことです。
現在時点の話じゃなくて。
現在、口語・文語について話すなら、それはまた別でしょう。
私は、歌が文語で出て来れば、文語で書くし、いわゆる口語で出てくれば、口語で書きます。
自分の言葉の文語・口語・その他?差別はしていません。
考えたとしても、そのとき適切だと思えば、それを採用します。
一般的だと思いますが。。。
[475] 文体のこと 投稿者:五十嵐きよみ 投稿日:2001/05/13(Sun) 13:58すみません、『四月の魚』からは話題がそれてしまうと思いますが、
文体のことが話題に出ていたようなので、ちょっと書きたくなりました。
私は本格的に短歌を始めてちょうど3年ほどで、
初期の頃は、文語体をわりと多く使っていました。
(使い慣れないので、ときどきとんでもない文法ミスもしでかしていましたけど)
なぜ文語を使っていたのか?
文語のほうが短歌っぽいと思ったのかなあ。
特に、文語体だと結句が締まる感じがしました。
今は、口語を使うことがだいぶ多くなりましたね。
詠む内容によって、文語と口語を使い分けているところもあるように思います。
一首の中で、両方が混在してしまうこともときどきあります。
それはそれでいいんじゃないかと考えています。
というのが私自身の現状なのですが、文体…って、いったいなんなのでしょうね。
難しいです。とても。
風間さんから「口語で書くのは自然」というご意見が出ていたようですが、
(その後、補足もされていましたし、私のとらえ方が違っているところもあるかもしれません)
私自身が口語を多用するようになったのは、
必ずしも、それが自然だったからとはいえないように感じています。
書き言葉と喋り言葉は、あえて私がいうまでもなく、違うものですし、
どんなに喋るように書いたとしても、書かれたものはその時点で「書き言葉」ですよね。
ですから、書き言葉にはどうしても「書き言葉」としての作為が入ってくるように思います。
(あ、「作為」って、あまりいい言葉ではないかしら)
では、喋り言葉が自然なものかというと、これも疑問で、
たとえば私が現在日常で使っている言葉は、
成長過程で習得したものとはかなり違っています。
簡単にいえば、今は私、方言を使わないですし。
では、郷里に帰れば自然な言葉で話しているかというと、
これももう、標準語とごっちゃになっていて、
昔喋っていたようには喋れないです。
とどのつまり、自分にとってどんな言葉が自然な言葉なのか、
今の私にはわからない状態になっている、といえると思います。
喋るときは(私、喋り言葉にはあまり重きを置いていないので、それもあって)
適当に、「こんなもんで通じるだろう」という程度の言い回しで喋っていますが、
書くときは、だいぶ考えますね。
先ほどいった「作為」を最大限に取り入れようという意識が働きます。
書き言葉は、喋り言葉に比べると、
それを発するまでに、どう表現しようか、どんな言葉を使おうかと、
考えることのできる時間が多いですから。
あえて作為的でありたい、作為的である以上は効果的でありたい、という気がしています。
ほかの方の口語の作品を読んでいても、
その口語は、「お住まいの地域から考えても、
日常、こんなふうに喋っておられるわけではないだろう」と思われる口語が多いですし、
「口語」というものは、イコール喋り言葉、自然な言葉というより、
作者によって選び取られた「文体」のひとつなのではないかな、という気がしています。
また、口語も文語も、同じ「書き言葉=書くために用いられた言葉」であるという点で、
文語と口語を区別するという意識も必要性も、私にはあまりないかなと思います。
なんだか、言わずもがなのことばかり書いたような気もしますが、
(おまけに、わかりにくかったかも)
皆さまのやりとりを読んでいて、そんなことを考えました。
http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[474] なるほど、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/13(Sun) 12:27塚本邦雄の件、荻原さんの説明でだんだんとわかってきました。
つまり、あまりにも強烈な個性であるところの塚本を
愛し、憎み、受け止めた上でそれを「やわらかく」「遠く」包み込む、
というようなところに正岡さんの「中和性」というようなものが
あらわれているのではないかということなのですね。
《「アンチ」よりも「中和」》というような言い方をされるところにあらわれている
荻原さんご自身のポジショニングの強さもまた、たのもしく感じました。
つまり、アグレッシブではないかたちの批判として、
塚本のつくりあげた確固とした「前衛短歌」の姿に、
さらにそのでっぱりをちょうど覆うようなへこみをかぶせることで、
(エロティックですね)平面的なものに仕上げていくというような作業が
正岡さんにおける「中和」性であった、というようなことなのでしょうか。
それを「やさしさ」と呼ぶのかどうかわかりませんが、
ひとつの文学的な深い傷に対して、大きく円環的に回復していく
文学の運動の一つの姿をここに見ることは可能でしょう。
ぼくは、岡井隆や塚本邦雄に比べて、正岡さんの作品には
何かすっきりしないものを感じるのですよ。
荻原さんは「楕円」の例えで説明されましたが、
とても表面はやわらかいんだけれども、その内部にはかならず葛藤があって、
意味がどこかでねじれていて、とてももどかしい。
きみが首にかけてる赤いホイッスル 誰にもみえない戦争がある
という歌もありますが、はつなつのホイッスルの「赤」に象徴されるあざやかさの
かげに、この「誰にもみえない戦争」があるのだ、というところで、心に
あらかじめそこにあるところの「ねじれ」あるいは「誰にもみえない戦争」を
そのまま提示しようとしているのが、この正岡さん的な世界なのではないかと
思うのです。その複雑さのレベルこそが、十年をたった今でも、
この文学を不朽のものにしているのではないでしょうか。
そして、
人はポジティブのみに生きるのでもなく、
またネガティブのみに生きるのでもなく、
それが双方にいりまじったところをそのまま受け入れていかなくてはならない、
という思想が、荻原さんの言われる「中和」というようなことなのでは、
とも思いました。http://kiss.to/kisaki
[473] Re[460][441]: 史的ポジショニング 投稿者:ぽっぽ 投稿日:2001/05/13(Sun) 09:24荻原さん、こんにちは。コメントありがとうございました(^^)
>> 「形象化の巧さとか、一首の構造は口語調の古典的なタイプの味わいと思います」
>>
>> それに関連して、村木道彦などの歌人の話題も出ました。
>
>この件、コメントが遅くなってすみません。
>口語調の古典的なタイプ、というその方の評語が、
>どうも誤解を生み出しそうでひっかかってしまって……。
>口語短歌って、明治の時代からあるわけでして、
>それと正岡さんはどうにも直結しないような……。
あああ、聞き書きで曖昧な話を出してしまって申し訳ありません(^^;
私自身どの辺の時代の作品を「古典的」というのか、全く分かっていなかったりします。
ただ、その時の話の流れから私が勝手に感じた印象としては、
>ただ、村木道彦さんのお名前が出るところをみると、
>これは、前衛短歌以後で口語的な感覚を活かした作風の
>その範囲での古典的なタイプというような意味でしょうか。
という荻原さんのご意見と同じでした。
もっと簡単にいえば「サラダ記念日以前の口語短歌」といった感じです。
こうやって書いてみると、
いかに自分が現代短歌史を知らないかということが改めてじんじん分かって来て、
もうおうちに帰りたくなって来ます。自宅からアクセスしてるんですけどね(笑)。
でも、知らないということを知るところから始まることもある。そう思いたいです。
http://homepage2.nifty.com/mizusu/
[472] またあるときこうも思う。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 07:59言葉は唯一、他者と自分を貫いて吹き抜ける風かもしれません。
だからこそ言葉にこだわっているのかもしれません。
〈引用〉のこともそうですが、古今東西の芸術は、とりわけ文学は、他者という媒体を、他者という共鳴腔を、何かしら、いつかしら、あてにして、頼りにして、反射板として、自らを開放してきたと思えます。
肉体という、個の境界によって、隔てられているものの、内なる世界は、同じ元素で充たされた空域かもしれません。
他者と共有しながら、また一方で、決して譲れない、かけがえのないものを見いだしたがっているのでしょう。
[471] 「あえて、線的な時間の流れの中で、どんな位置づけが可能か」の議論は 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 06:00
では、ゆっくりとどうぞ。
中間項だったのか、何を引き継いだのか、彼の中でどんな闘いがあったのか、つないでいるのか、戻ってきたのか、超越しているのか、そもそもどういう存在だったのか。これからどこへゆくのか。正岡豊とは、誰だったのか。。。
[470] 辻褄が合うかどうかわかりませんが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 05:40文語・口語混淆だって、自然だと考えています。
外部からまったく影響されていないとは、言っていません。
言語を胎内から聞きながら、ゆっくりと憶えてきたのでしょう。
いつのまにか、日本語を話していますし。影響の塊です。
ただそれを前提として、言葉は自己の言語脳のフィルターを通して、入って濾過され、それぞれ固有の思惟と言語になっていくのだと思います。
食事と身体の関係に似て、民族性も、個性の成立の仕方も、いろいろだと思いますが、歌は湧きあがってくるものと、感じているので、そう書きました。
[469] >風間祥さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 05:35[468]の件、了解しました。
こちらの杞憂のようですね。
妙なコメントしてすみませんでした。
お互い肩に力が入りすぎかも知れませんね(笑)。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[468] はい。わかっているつもりです。ただ、こんな意見もあるというだけのことですから。他の方は他の意見を。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 05:23
荻原さん。
私なりに流れにそって、触発されて書いているのですが、直接的には、対応できているわけでもなく、独断と偏見が多くなると思われるので、しかもすべてについて、弁解したり、注釈をつけているわけにもいかないので、無視してと、書きました。
また、「噛み合っていない」というのは、随時、指摘されることなので、そう書きました。
すべてにゆっくりと、対応、対照しながら書くべきかとは思いますが、、、、、 自分自身に焦れったくなって。
でも気をつけます。
[467] ん〜、ん〜、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 04:55長いコメントばかりになって、
読むのたいへんですね。反省。
★
え〜、
選歌を出すチャンスを逃している方、
ぜひぜひ選歌をよろしくお願いします。
コメントなしでも構いませんです。
あと、
雑談とか先日の朗読についての感想とか、
そういうのも大歓迎です。よろしく。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[466] >田中庸介さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 04:52塚本邦雄のモチーフや主題に「中和」性はないと思います。
塚本は、ポエジー/反ポエジーの極北のような存在で、
正岡さんがまさに「中和」しようとしている円の
ほとんど中心近くにいる存在のように見えます。
それから岡井隆を想起させる語について、
田中さんが、ブービー・トラップかも、
警戒心が働いてしまう、というのは、
ぼくもすこし感じたことがありましたが、
でもやはりそれは仮に同じ「はぐらかし」でも、
アンチテーゼやパロディではなく、
「中和」の方を向いているように思うのです。
前衛短歌時代の塚本・岡井への徹底した愛着と
同じく彼等への徹底した批判と、双方を超えたところに
「中和」という感触がにじみ出ていると
ぼくにはそんな風にも見えるのです。
あるいはぼくも「鏡」を見ているのかも知れません。
★
正岡さんが半ば冗談でつくったのだろうと思うのですが、
たしか一九八〇年代の「短歌人」に掲載された作品に、
クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり 歯が痛ければ歯医者へ行けよ
というのがありました(元テキストがないので表記はかなり曖昧)。
ご覧のとおり彼自身の作品のパロディなのですけれど、
実はこの元歌は、塚本邦雄を選者とした雑誌の投稿欄で
特選の二位に選ばれたという経緯のある作品で、
正岡さんが自身のうちなる塚本/前衛短歌を
徹底して追放しようとする意識の反映かと思いました。
『四月の魚』が刊行されたとき、この歌をたしかめて、
パロディの方ではなく、元歌がきちんと入っていたことから、
正岡さんのなかに「アンチ」よりも「中和」を強く感じることになりました。
これは傍証にすぎませんが、いや傍証でもないかも知れませんが、
あまり語る機会がなさそうなことなので、すこし書いてみました。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[465] >風間祥さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 04:50たくさんのコメントありがとうございます。
[462] の文体についてのご意見はそれなりにわかりますが、
文体は、内側からわきあがってくるとは断定できないのでは?
人間は胎児の段階でまだことばをもたない時期がありますよね。
その後、おそらくものすごい量のことばを身につけて、
話したり書いたりするようになると思うのです。
ということは、ことばはすべて外から得るものですよね。
現在は内側にあると思っていることばも元は外からはいってきたもの。
多かれ少なかれ、誰もが人様の文体を借りているとは言えませんか。
内側からわきあがる、という感覚もまたわかりますが、
正反対の視点もあるということもご理解いただきたいと思います。
それから「口語で書くのは自然」とか
「正岡豊が正岡豊の言葉で書いたというだけ」というのは、
風間さんなぜそう感じられるのか理由がわかりませんが、口語的文体は、
正岡さんが現代短歌との確執のなかで選択した方法だとぼくは思います。
正岡さんの作品は文語でも口語文語混交でも書かれているわけですから、
風間さんの論法だと辻褄のあう説明にはならないように思われます。
あと、ぼくは正岡豊を「亜流・模倣」だと感じたことは一度もありません。
たぶん「亜流・模倣」だとはここでもコメントしていないと思います。
[462] の発言は、ぽっぽさんの聞き書きコメント([441])や
荻原のそれに対するコメント([460] )等に主に反応されたと思うのですが、
正岡さんの作品が線的な時間の流れで、あえてどんな位置づけが可能か、
ということを話しているわけです。よろしくご理解いただければ幸いです。
★
それともう一点だけ。[463] にあるように、
ここでの流れを無視して、と堂々と宣言されても困りますよ(笑)。
ここの流れにない話をしても別にまったく構わないし、
雑談をいっぱいしていただいても何ら問題ないのですが、
書いた話を宣言して無視されてしまうと、
書いている側は空しいでしょう。
風間さんが一生懸命コメントされているように、
他の方も一生懸命コメントされていると思うんです。
自分とは意見が違うので別の角度から話すとか、
そういう感覚ならばいいのですけど、
無視はやめて下さいね。よろしく〜。(^^;;;
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[464] まばたき 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 04:16そのとき、その瞬間まで未生の夢を見ていた鳥が(もちろん象徴の)目醒めたのです。
ゆっくりと、卵から孵って、誕生するのです。
仄かな薄明りの中の誕生です。
それは、世界を救う鳥かもしれない。
でもすぐに羽をむしりとられる無防備なだけの弱い鳥かもしれない。
それはまだわからない。
生まれたばかりの鳥だから。
もしかしたら恐怖をもたらす鳥かもしれない。
ジェノサイドをもしかしたら。恐怖の卵が孵ったのかもしれない。
それはまだわからない。
生まれたばかりの鳥が、まばたきをしただけだから。
http://www.fsinet.or.jp/~la-vita/
[463] 古典的。ここでの流れを無視して、意見が噛み合ってないと思いますが。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 04:00正岡さんの口語が、古典的な感じがするのは、あのシンプルさ、おっとりさかげんは、それが、正統で、まさに文字通り、古典的なものだからだと思う。
奇抜で優雅で、でも、古典的。
それは、古くさく感じることとはちがうように思う。 短期間の文学史的な意味は知らないけれど)永遠なるもの、古典になるものは、最初から完成され、いつまでも新鮮で、時代をこえて、水のように、人々の疲れた心にしみ込んでいき、傷ついた心とともに傷ついて、傍にあるものだという意味で、古典的だと思います。
[462] 私はこう思います。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 03:36強いていえば、平井弘、村木道彦だけれど、口語は文字通り口語なので、特定の誰彼の影響を受けなくても、口語で書くのは自然であったわけです。自分語という意味で。自己の文体を誰かの亜流なり、模倣と思う必要はないわけです。多少の影響はあっても、文体というものは、内側から湧き上がり、立ち上がって来るもので、人様の文体を借りて書けるものではありません。
正岡豊が正岡豊の言葉で書いたというだけのことに思えますが。口語とはそういうものだったと思いますが。
[461] 芥川龍之介の「永遠に守らんとするもの」と「永遠に超えんとすもの」またクリムトの「死と生」 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/13(Sun) 03:23『永遠に守らんとするもの』と『永遠に超えんとするもの』という言葉を思い出しますね。
南へかえりおえる、のは永遠に守らんとするもの、まばたきをする冬の翼、は永遠に超えんとするものです。
安住し、『炉辺の幸福』を愛するものと、「荒野から」呼ぶもの、空間の彼方から、どこか遠い見えないところから呼ぶものに呼び立てられる、芸術の戦士、いつも魂の飢えに乾くもの。
誰もが眠っているとき独り目覚めてしまい、その感受性ゆえに、真っ先に滅びへ向かう、クリムトの『死と生』の誰かのように。
[460] Re[441]: 史的ポジショニング 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 03:20>ぽっぽさん
> 「形象化の巧さとか、一首の構造は口語調の古典的なタイプの味わいと思います」
>
> それに関連して、村木道彦などの歌人の話題も出ました。
この件、コメントが遅くなってすみません。
口語調の古典的なタイプ、というその方の評語が、
どうも誤解を生み出しそうでひっかかってしまって……。
口語短歌って、明治の時代からあるわけでして、
それと正岡さんはどうにも直結しないような……。
ただ、村木道彦さんのお名前が出るところをみると、
これは、前衛短歌以後で口語的な感覚を活かした作風の
その範囲での古典的なタイプというような意味でしょうか。
八〇年代の半ば、ライトヴァースが議論されたとき、
村木道彦さんが、しばしば平井弘さんとならべられて、
俵万智さん加藤治郎さんへの口語的文体の影響、
という観点から論じられたことがありました。
ん〜、おそらくその意味での古典的タイプですね。
ああ、ひとりごとのように書いてしまった。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[459] えーと、 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/13(Sun) 03:10>荻原さん
塚本邦雄的な破調についてのご指摘、なるほどと感じいりました。
文体についてはそういうことだと思うのですが、内容としても
塚本邦雄の中に荻原さんのおっしゃる「中和」性はあったのでしょうか?
そのあたり、ご教示くださると幸いです。
でも正岡さんの「冬の翼」」が岡井隆を想起させるというのは、いかにもそう
想起するであろう歌人たちにたいするブービー・トラップのようなもので、
「八十年代的なわかりやすさ」に対するアンチテーゼではないか、
という警戒心が働くのです。というのは、「かなしき婚」とか
「むらさきの苗」は抽象的な単語を含みつつも、ある確固としたイメージを
頭の中に視覚化することができるけど、正岡豊の「冬の翼」というのは、
むしろそういった「冬」のイメージをはぐらかすようなナンセンス力を
持つものだと思います。エキス、というよりは、パロディ、ではないでしょうか。
>藤原龍一郎さん
選歌された前の二首はたしかに藤原さんの世界と通ずるものがありますね。
「流線型の文体の歌と上記のような歌との混合に魅力を感じた」というところ、
とても感心しました。こういった七十年代性、あるいは、八十年代性の「暗さ」が、
九十年代のブランクを経て(そのあいだにニューウェイブが生じました)、
二千年代の短歌や現代詩のシーンにどのような接続を見せていくのか、
これはやはり八十年代の末に盛んに文学にコミットしていて、九十年代に
ほとんど沈黙してしまったぼく自身の問題としてもとても興味があるところです。http://kiss.to/kisaki
[458] Re[456]: お願い(;_;) 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/13(Sun) 02:51>田村葡萄さん
> 海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ/岡井隆
> 組織、萌黄の忠誠をこそ求め来ぬむらさきの苗われは捧げむ/同
> 夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ/正岡豊
すみません、田村葡萄さん。
なにかとてもわかりにくい書き方でしたか……。
先に引用した岡井隆さんの作品にある
「かなしき婚」とか「むらさきの苗」の、
「婚」とか「苗」とかそれ自体は
具体的に意味・イメージのつかめる単語ですけれど、
実際の「(結)婚」とか「苗」のことを
単純に示しているわけではなく、
結ばれるものとかこれから育つものとか
そうした抽象的なイメージも含んでますよね。
「冬の翼」の「翼」もこれらと同様に、
「翼」そのものを単純に示すのではなく
飛翔するもの、あるいはその力といった
抽象的なイメージを含んでいるのではないか、
というようなことでした。
こころみだれてパン噛むこころぞ真日くれてさわ立ちやまぬ歌の翼よ/岡井隆
などという作品も岡井隆歌集『朝狩』にはありまして、
そしてこういう文体というのが岡井隆以前には見あたらなくて
やはりどこかしら正岡さんの語感とつながるものを感じます。
似ているとか真似をしたとか、そういうニュアンスではなく、
そこから栄養としてなにかを摂取したという印象です。
適切な説明というのがうまくできなくてごめんなさい。
わかりにくかったらどうぞまた質問して下さいませ。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
[457] まばたき 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/12(Sat) 23:03夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
この「まばたき」は効いてますねぇ。まるで生きているみたいで。世界のまばたき、宇宙空間のまばたき、不死鳥のまばたきを感じますねぇ。
何かこう、世界という大きな翼に、そっと抱きしめられたみたいに。
それに普通の発想と逆ですね。南北が反転している。
[456] お願い(;_;) 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/12(Sat) 19:41> 「歌の翼」については玲さんに語ってもらうとして、
>
> 海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ/岡井隆
> 組織、萌黄の忠誠をこそ求め来ぬむらさきの苗われは捧げむ/同
>
> 政治に(も)かかわる硬質な用語にまざって、
> 「かなしき婚」とか「むらさきの苗」とか、
> このあたりと「冬の翼」等は、無縁ではなさそうに思えます。
荻原さん、こんにちは。おっしゃっていることがわかるような気も
しますが、わたしには到底言葉にはできそうにありません。
わたしにもわかるように、どう無縁でないのか教えてもらえるとうれしいです。
冬の翼の歌そのものを飛行機の歌だと思っていたのではありません(;_;)
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[455] よろよろっととととと 投稿者:田村葡萄 投稿日:2001/05/12(Sat) 18:16こんにちは。のんびり寛げたGWは過ぎ、残業の日々に泣いております。
ただでさえアタマがワルイうえにくらくらしながらも皆さんの濃厚な評を
興味深く拝読しております。(ちょっとぐるぐる目が回ってる時もある)
特に、翼の件、とても興味があり、水原紫おんさんの歌集ならあるかもー、
井辻朱美さんのにもあるかもーと探したらやはりありましたが、やっぱり、
「冬の翼」の詠われ方とは違っていました。
夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
わたしは飛行機の窓から自分が乗っている機体の翼が見えると、見た目は
ぎくしゃくした鋼鉄なのに、毎回、生きているように感じてしまいます。自分が
こんななので、ずっとこの作品の翼も飛行機の翼のことなんだ、と思い込んでい
ました。それはもう何の疑問も感じなかったことなので、7冊ほどの歌集を探し
てみて見つけた翼が、ほとんどやわらかい羽の翼の感触だったから改めて驚きま
した。レイハルさんの評の続きをぜひぜひ、よろしくお願い致しますm(__)m
http://www3.cnet-ta.ne.jp/c/cocone/cocone/sakana02.html
[454] こんばんは。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/12(Sat) 03:53ほとんど朝だわ。
>藤原龍一郎様
いらしゃいませ。って呼んでしまったような気もしますが、書き込みありがとうございます。
おお、藤原さんらしい選歌ですね、選歌とコメントをみるとそのひとがわかりますねえ。
でもでも、いまさら、なんかではありません。これからです!みなさまもつづけ!突撃選歌!
というわけでいつも頭の悪そうな書き込みをひとりでしている私ですが、書き込み待ってまーす。
朗読の話とかもここでできるのかな・・・と期待しています。マラリー掲示板は指をくわえてみているだけだったの。ここでもそうだろうけど・・・近くで聞けるのはうれしいです。みなさま、雑談でもいいのでお気軽に、どうぞよろしくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[453] いまさらながら、好きな歌 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/05/11(Fri) 22:10圧倒的な書き込みの量とその思い入れの深さにあれよあれよと見とれていました。
都市はまぼろしあかねさすあの午後の陽へ向け発砲をくりかえすのみ
雨に傘ひらく何かの標的となるかもしれぬことも知らずに
この生と性のはざまに邯鄲の声よ眠りようたかたの記よ
最初の2首は、私が個人的に好きな歌。
3首目は自選20首の中で、愛着があるのだろうな、と思えてなおかつ私の好きな歌。
今までのみなさまの論の展開を無視して書くことになりますが、
このような歌に私は一九七〇年代の短歌の残り香を嗅いでしまうのかもしれません。
「灰とダイアモンド」とか「無防備都市」とかを連想するわけです。
一九九一年になってから、新宿の紀伊國屋書店か高田馬場の芳林堂書店のどちらかで
この歌集を買ったはずなのだけれど、「もうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ」
に代表される流線型の文体の歌と上記のような歌との混合に
魅力を感じたのだろうと思います。
正岡豊は両方の世代に足がかかっている歌人なのでしょうかね。
[452] コンピューターと薔薇 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/11(Fri) 10:53♪もしもこのコンピューターが薔薇ならば♪
これは、非常に大切なフレーズだと思う。
1980年代から1990年代へ、さらに、2001年の現在を分けるものは何だろう。
生身のリアルを消去して消去して消去して、なお残るものは何だろう。
真の内向の完成は、ギリシャのアタラキシアへ、釈迦の涅槃へ、真空的純粋へ向かうのだろうか。
それとも、幸福の王子のように、自らの持てるすべてを、街のピエロのように、奉仕するものだろうか。そしてそこに、何かしら救いがあるのだろうか。何か人と人の関わりへと旅立つことが。
[451] 曼陀羅、正岡豊。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/05/11(Fri) 10:39正岡豊は、ただ一首だけでも正岡豊だった。今もそう。私の中では。
安井浩司も、塚本邦雄も、岡井隆も、誰も彼も、その影響のほどはわからないけれど、一首の歌で知り、新にまたいくつかの歌を知っても、受ける感じは、最初の一首から受けた感じをなお満たすものではあっても、逸脱するものではない。
思えば歌は、一首にすべてを含むものだと改めて思う。
もちろん深く広く、様々な角度から、様々な視線から、読み解き、さらにさらに識るのはとても興味深いのですけれど。
接線を一本引けばあらわれる 水平線の正岡豊
[450] 正岡豊さんの朗読と歌作とのかかわりについて、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/11(Fri) 05:351980年代に彼がおこなっていた朗読でも
最近彼がおこなっている朗読でも、
どちらの角度からでも構いませんので、
何かコメントお願いできたらお願いします(変なことば)。
先日の「連鎖する歌人たち〜マラソン・リーディング2001〜」
の正岡さんの朗読に対する感想ももちろん歓迎です。
『四月の魚』は、彼が1980年代におこなった朗読と
かなり密接にかかわるというか、朗読台本と歌集構成が
無縁とはとても思えないような印象がありましたので、
ご意見いただいて何か見えてくるのではないかと……。
どうぞよろしくお願いします。
http://www.na.rim.or.jp/~ogihara/0824/
[449] そう言えば、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/11(Fri) 05:19今夜、あ、とっくに昨夜ですね、
月例の超結社歌会で
岡井隆さんと話をする機会があって、
正岡豊さんの話もしました。
先日の「マラソンリーディング2001」の評価、
正岡さんについて、とても高かったようです。
10年、20年という時間を経て、
正岡豊がかえってきた、
というような印象をもったと言っていました。
★
>田中庸介さん
安井浩司をめぐる正岡さんの文章は読みましたが、
なにしろその元になっている安井さんの世界を
どうにもうまく把握できていませんので、
なんとも語りようがないのですけど、
「中和」とぼくが語っているとき、
判断停止というニュアンスはほとんど帯びていなくて、
判断不可能時におけるもっともアクティブな姿勢、
というような感じでとらえています。
ニヒリズムをぎりぎりのところでかわすというか……。
判断不可能時になお判断を下すのは、
判断ではなく、ただの決断であって、
判断停止の一種にすぎないと思うんですよ。
AをとるかBをとるか、の決断ではなく、
AとBとの選択状況そのものの「中和」です。
リアル→反リアル→反・反リアル、とか
伝統→モダン→ポスト・モダン、とか
線的な時間の流れからの脱出みたいなものかと。
うまく説明になってるかなあ……。
http://www.na.rim.or.jp/~ogihara/0824/
[448] 前衛短歌との関係について、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/05/11(Fri) 04:47みなさんのコメントを期待したいところですが、
ぽっぽさんが[417]のコメントで示してくれたように、
塚本邦雄の(主に)第六歌集『感幻楽』以降の
初七、初六、句跨り等の破調のスタイルから
ずいぶん影響をうけた文体だということは一つ言えると思います。
雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ/塚本邦雄
森の靡きのまゆずみいろに昏れゆくと誰がため絞むるなれが小づつみ/同
それから、玲はる名さんが[426]の「翼」をめぐるコメントで
いろいろと考えて「象徴」ということにふれていましたが、
これはたぶん、岡井隆の第三歌集『朝狩』あたりに頻出する
どこか自由詩的な語感をもった用語たちにつながりますね。
「歌の翼」については玲さんに語ってもらうとして、
海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ/岡井隆
組織、萌黄の忠誠をこそ求め来ぬむらさきの苗われは捧げむ/同
政治に(も)かかわる硬質な用語にまざって、
「かなしき婚」とか「むらさきの苗」とか、
このあたりと「冬の翼」等は、無縁ではなさそうに思えます。
http://www.na.rim.or.jp/~ogihara/0824/
[447] こんばんは。 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/05/11(Fri) 02:04深夜に来るのが癖に。
今日はバニーガールのつもりで登場(コスプレ大会ではない)。
ああ、田中庸介さんがまとめと進行をして下さっているような。楽だ楽だー(笑)。
そうですね、半分過ぎました。
見てるだけの方も、軽い書き込みでもいいですから書いて下さいね。早くしないと終っちゃいますよー。一生後悔することに!!(おおげさ)
>飛永京さん
音楽にお詳しいのですね。私は知識がないので正しいことがわからないのですが、細かく読んで下さってありがとうございます。
でもあの、観戦、だけじゃなくて選歌とかしてくださると嬉しく。
どうぞご遠慮なく。選歌と軽い感想とかだけでもいいんです。
お気軽に、書いてみてくださいね。待ってまーす。
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
[446] 雑談。 投稿者:田中庸介 投稿日:2001/05/10(Thu) 22:18もう半分が経ってしまったんですねえ。
ふー(息をついている)。
「四月の魚」批評会、とても楽しませて参加させていただいております。
前半ではぼくはトポスととしての「平城山性」をとっかかりにして、
「みずいろのつばさ」と「冬の翼」の二首について、自分の読みを
出させていただきましたが、司会の荻原さん、にしきみさん、
そしてレイハルさん、風間さん、杉山さん、松木さん、その他歌人の方々、
どうも反応していただいてありがとうございます。言葉足らずのところも
いろいろあったかと思いますが、どうぞお許し下さいね。
この前に感想を述べたとき、正岡さんの中の「塚本邦雄性」ということを
質問しましたが、そのあたりはどうでしょうか。前衛短歌の影響があることで、
東京のドライさとは違っても、和歌にまでは行き着いていないということ
なのでしょうか。安井浩司「中止観」については「未定」の特集と、
正岡さんのサイトにある俳論などを読みましたが、
荻原さんがおっしゃる「中和」との関係とかも整理しておきたいです。
そうそう、レイハルさんのパターン分析ももっと聞きたいなあ。
話の腰を折ってしまったみたいでごめんなさい。
「短歌人」の気風を持続しているかとか、水原紫苑との類似性なんかについても
例歌を出しながらもっと話してほしいです。
これは「八十年代的なものの中和」である、と荻原さんは言われましたが、
それでは九十年代的な「ニューウェーブ」に対して「四月の魚」は
どんな立ち位置を占めることになるのでしょうか?
そして、今この歌集をふたたび読むことの意味とは。
そんなことにまで歌人の皆様の議論が深まるといいですね。
それではひきつづき、刺激的なご意見を読ませていただくのを楽しみに。
[445] 風鳥 投稿者:杉山理紀 投稿日:2001/05/10(Thu) 18:24きれいでせつなくていい言葉ですねー。http://www.remus.dti.ne.jp/~astre/movie/wing.html
[444] 乗って→載って 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/05/10(Thu) 11:41と訂正します。http://talk.to/mass-no