[594] えっ? 枡野浩一 2003年11月28日 (金) 16時02分

人は、
どんな名前を名のろうと自由だし、
そして、
その名前に対して「変な名前だ」と言うのもまた自由である
(「失礼」ではあるだろうけど……)
と私は考えます。

斉藤斎藤さんのお名前に関して、
「斉藤斎藤さんの本名の名字が
じつは斉藤ではないということを知って、
やられたと思った」
といった意味の文章をネットで読んだことがあります。
それでもご本人が
「本名です」
とおっしゃるのもまた自由でしょう。
そして、
「斉藤斎藤というペンネーム」
という文章にいったい何の問題があるのでしょう?

枡野浩一はペンネームです。
もともとは本名でもありました。
だから、
「本名でもあり、ペンネームでもある」
という名前だって存在するのだから、
「枡野浩一というペンネーム」
と言われたとき、
いちいちそれを否定してまわるのは、
いささか不思議なことだと言わざるをえません。
ペンネームとして、
ある名前を選びとることもまた「表現」なのですから。
その「表現」は、
あらゆる「批評」にされされて当然ではないでしょうか。

http://8202.teacup.com/h/bbs


[593] 訂正のお願い 觜本なつめ 2003年11月28日 (金) 10時58分

たびたびですが、訂正とおわびです。
591の発言での「斉藤斎藤というペンネームは」
という発言が不適切である旨、斉藤斎藤さんから
指摘をいただきましたので、
「斉藤斎藤というお名前は」に訂正いたします。

斉藤斎藤さんのホームページでの議論に目を通して
「斉藤斎藤は本名である」ということの意味を
今はおおむね理解しています。
申し訳ありませんでした。


[592] 觜本さん、ありがとう。 加藤治郎 2003年11月28日 (金) 01時13分

觜本さん、ようこそ。

あなたの作品ふくめて、今回の候補作、ぼくは「奇跡の夏」と言ったけど、水準が高かったです。

それにしても、はじめて作った短歌だったというのは、凄すぎる。

次回作、大いに期待しています!

★彡

http://www.sweetswan.com/jiro/


[591] お詫びと訂正 觜本なつめ 2003年11月27日 (木) 14時43分

斉藤斎藤さん、お名前を誤って打ち込んでしまいました。

前発言をうまく削除できないので、
こちらでお詫びして訂正いたします。
申し訳ありませんでした。

改めて、おめでとうございます。

つけ足しにはなってしまいますが、
以前、斉藤斎藤というペンネームはどうか、という
議論がありましたね。
私も「斉藤斎藤」を支持します。


[590] おめでとうございます 觜本なつめ 2003年11月27日 (木) 14時25分

斎藤斉藤さん、兵庫ユカさん、おめでとうございます。
どちらもインスパイアされるところの多い作品でした。
そのほか、各候補作品の中にいくつも好きな歌があります。

「渦」は私にとってはじめての短歌作品でした。
連作がはじめてって話ではなく、
短歌を作るのがはじめてだったのです。

五月のある日、私に短歌が降ってきて、
歌葉新人賞に応募しようと思い立ちました。
すべてゼロの地点から始めました。
読むことも、作ることも。
人生が、すごい勢いで動きました。

候補作品として、私の作品について考える時間を
皆さんがとってくださっただけでも、身に余ることです。
これから私はビギナーズラックということばの意味を
知るのかもしれません。

穂村弘さん、荻原裕幸さん、加藤治郎さん、
ありがとうございました。
選考委員の皆さんから頂いたコメントはもちろんのこと、
私の作品が人の目にふれる場所においてある、
それを他人が読んでいる、というのは、ものすごい体験でした。

公開選考会には出席できず残念でしたが、
どんな議論の場になったのでしょうか。
リアルタイムスペースでの公開を楽しみにしております。


[589] ありがとうございます。 島なおみ 2003年11月25日 (火) 21時56分

>加藤治郎さん

ありがとうございます。
そう言ってくださって、不安が消えました。

>鈴木有機さん

たくさんお返事くださってありがとうございます。
わたしは、鈴木有機さんと斉藤斎藤さんを
かつて至近距離でお見かけしたんですけど
やはり、お会いできず、無念です。

「遊んでしまえ」という鈴木さんのお言葉に、開眼した
というのは言い過ぎで
開眼までの育成2日目、ってかんじです。

0000000000000000遊0

ですかね。

遊び尽くしたそのあとに、見える短歌は素敵そうですね。
じゃあ、とことん遊んでしまおうかな、
うん、そうしてみよう。
と思ったとたん
ぱーっと開けていくものは確かに、ありますね。

1)についてのお返事は
その時の状況や、穂村さん、鈴木さんの顔色が分からないので
ちょっと、ちくん、と来ました。
その後の感想については、当日記まで。

http://www.librobianco.com/APitch/diary/diaryframe.html


[588] おめでとうございます 鈴木有機 2003年11月25日 (火) 02時39分

●こんにちは。有機@別名で保存です。
●>斉藤斎藤さん、兵庫ユカさん、改めて、受賞おめでとうございました。
なんだか公式の場で言うのはまたひとしおです。

●>島なおみさん、選考会会場ではお会いできなくて残念でした。
斉藤斎藤さんと二人で無念がっていましたよ。
私個人についていえば、オンライン選考の期間じゅうずっと、
常に念頭にたちふさがっていたのが、
島なおみさんと斉藤斎藤さんの、お二人の作品でしたので。

●日記では拙作にコメント下さり、ありがとうございました。
そうですね。私は、定型は壊れるものだとは思っていなくて、
じゃあ、壊れないなら遊んでしまえという発想でこれまで、
短歌を作ってきたように思います。
世界なんて壊れちゃえというアングラ演劇に、
世界なんて遊んでしまえという思想でかつて小劇場演劇が対応したように。
●その意味では、選考中『たんかっち』に荻原さんが寄せられた
「短歌から完全に離脱した場所ではなく、むしろ短歌にパラサイトするような場所で
この作品は書かれている」という意のコメントには、
ふかく納得させられるところがありました。

1)短歌って、どこまでが短歌なんだろう?

●については、懇親会のあとに穂村弘さんと話した、
短歌を愛していない人だけが、短歌とは何かということについて考えることができる
という逆説を思い出します。

4)45憶年の時間を31文字に入れられる?

●については、45憶年の歳月といっしょに、千六百年だかの短歌の歴史も
連作に取り込むことができていたら、また違った『エデンプロジェクト』に
なっていたかと思います。短歌の進化と変遷を30首で追体験するというのは、
私が『たんかっち』ではやばやと断念したことだったので、
他の方の作品でそれ見てみたかったなという、これはすごく自分勝手入ってますが。

7)実験作って、その後、どう消えてゆくの?


●消えてもその成果は、短歌じしんの遺伝子のなかに、
刷り込まれて残っていくものだと思いたいですね。


この一首は四十五億五千万年のさいしょの三十一文字

●選考委員のみなさま、さいごに本当にお疲れさまでした。
ではまた現場でお会いしましょう。


[587] 島さん、ありがとう。 加藤治郎 2003年11月25日 (火) 01時21分

こんにちは。

加藤です。

島さん、ようこそ。発言ありがとうございました。
私は、作者が自作を語ることに賛成なんです。
どうも、作者が黙っていることが美風だとでもいうような風潮がありますが。

作者は、最良の読者の一人だと思います。

★彡

http://www.sweetswan.com/jiro/


[586] 書き込んでもいいですか? 島なおみ 2003年11月24日 (月) 22時54分

この度は個人的な事情で、公開選考会に参加できず
申し訳ございませんでした。
いろいろな方のHPでの報告から、当日の熱気を感じ取っております。

今回、応募した「エデンプロジェクト」は
多少、乱暴な部分も多かった作品ですが
思いがけずも
3人の審査員の方(加藤治郎さん、荻原裕幸さん、穂村弘さん)に
ネット上で批評をいただくことができ、
たからもののような作品になりました。

おそらく審査してくださった御三人には
分かり切っていることだとは思いますが、
顰蹙をかうことを承知で
いちどだけ、この30首で何をしたかったか、
何が知りたかったのかを、お伝えしたいと思います。

1)短歌って、どこまでが短歌なんだろう?
2)口語で出来なくなった微妙な表現の部分をタイポグラフィで肩代わりできる?
3)リアルは男でも、作品で「まみ」になる「われ」があるなら、
リアルは女でも「植物」になる「われ」がいるのも、あり?
4)45憶年の時間を31文字に入れられる?
5)この作品、審査員のうち、誰がどういう理由で受け止めてくれるんだろう?
6)この作品が、受け入れられない(あるいは無視される)のはどういう理由からだろう?
7)実験作って、その後、どう消えてゆくの?
大きく言ってこの7つでした。

2)、3)、4)、5)については、当掲示板での
みな様のやり取りから自分なりに学ばせていただいたつもりです。

6)については、積極的に否定する意見を聞きたいような気もしました。

7)については受賞に至らなかった作品なので、このあとも分からない…。うーん。

そして 1)なのですが、今のところ、答えらしい答えは出ていません。でも、それで良いのかもしれません。

今回の応募作を、受け止めていただいたという喜びは
今後、大きな力となって、わたしを支えてくれると思います。
当日、東京の会場へ行けなかったかわりに
この場を借りまして、改めて御礼申し上げるとともに、
受賞されたお二人にお祝い申し上げたいと思います。

加藤治郎さん、荻原裕幸さん、穂村弘さん、ありがとうございます。
斉藤斉藤さん、兵庫ユカさん、おめでとうございます。

メールや掲示板で応援くださった方々も、ありがとうございました。

上記のURLにも今回の感想を記しておりますので
興味があればご訪問ください。
では、また、いずれお会いしたいと思います。

http://www.librobianco.com/APitch/diary/diaryframe.html


[585] Re[584]: 速報 第2回歌葉新人賞発表 荻原裕幸 2003年11月24日 (月) 11時33分

斉藤斎藤さん、おめでとうございます。

加藤治郎さんに速報を流していただきましたように、
第2回歌葉新人賞の公開選考会、
滞りなく完了いたしました。
(いままだ仕事で東京にいまして、
手元に細かい記録がないのですが、)
出席人数は45名前後でした。
ご出席いただいた方々に、
あらためてお礼申し上げます。
どうもありがとうございました。



報告は後日何らかのかたちにまとめることになると思いますが、
選考は、簡潔にまとめますと、以下のように進みました。

各選考委員による候補作品選出の基準・現時点での評価の再確認

第1回目の投票(2篇ないし3篇、順位付はなし)
 加藤票=島なおみ、兵庫ユカ、我妻俊樹
 穂村票=斉藤斎藤、鈴木二文字
 荻原票=斉藤斎藤、兵庫ユカ、大塚真祐子

上記候補についての再討議

討議は、2票を得た2作品を最終候補とする流れとなる

2作品いずれが受賞となっても賛同できる旨、三者で確認

票決により1篇を受賞、1篇を次席とすることを三者で確認

第2回目の投票(1篇)
 加藤票=兵庫ユカ
 穂村票=斉藤斎藤
 荻原票=斉藤斎藤

受賞、斉藤斎藤「ちから、ちから」
次席、兵庫ユカ「七月の心臓」
と決定

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[584] 速報 第2回歌葉新人賞発表 加藤治郎 2003年11月24日 (月) 00時56分

各位


11月23日に開催されました公開選考会にて下記のとおり受賞作が決定いたしました。


第2回歌葉新人賞
斉藤斎藤「ちから、ちから」


次席
兵庫ユカ「七月の心臓」



おめでとうございます。


         選考委員 荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘




http://www.sweetswan.com/jiro/


[583] 【公開選考会のご案内】 荻原裕幸 2003年11月11日 (火) 01時30分

こんにちは。
荻原裕幸です。

少し間が空いてしまいましたが、
公開選考会について、
下記のスタイルで開催したいと思います。
どうぞよろしくお願いします。


。,:*:・°☆。,:*:・ ★。,:*:・°☆。,:*:・°★。,:*:・°☆。


第2回ニューウェーブ短歌コミュニケーションのご案内


。,:*:・°☆。,:*:・ ★。,:*:・°☆。,:*:・°★。,:*:・°☆。


このたび、第2回歌葉新人賞公開選考会
及びシンポジウムを開催することになりました。
みなさまのご参加を心からお待ちしております。


◆日時 2003年11月23日(日)
選考会 13:00〜
懇親会 18:00〜
(受付開始 12:30)

◆会場 日本出版クラブ会館
東京都新宿区袋町6
TEL 03-3267-6111

交通アクセス
JR飯田橋駅(西口)徒歩8分
地下鉄都営大江戸線 牛込神楽坂駅(A2出口)徒歩2分
地下鉄有楽町線・南北線 飯田橋駅(B3出口)徒歩7分
地下鉄東西線 神楽坂駅(神楽坂口)徒歩7分


◆プログラム

【第2回歌葉新人賞公開選考会】
荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘

【公開座談会】
ゲスト:小林恭二(作家)
荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘

※第2回歌葉新人賞公開選考会とともに、
 現代短歌の流れを大きく動かすきっかけとなった、
 「へるめす歌会」「短歌パラダイス」等の仕掛け人、
 小林恭二さんをまじえて、
 現代短歌の行方についてのディスカッションを行います。

◆参加費
シンポジウム 2000円
懇親会 5000円

◆参加申込み先
風媒社宛て
メールでお申し込みください。
info@fubaisha.com

◆申込み記載内容
1) 申込みパート
*下記から1つお選びください。会費は当日いただきます。
(1)選考会・座談会及び懇親会
(2)選考会・座談会のみ        
(3)懇親会のみ      

2) お名前 所属グループ名
*メールのタイトルには「ニューウェーブ参加」とお書きください。

◆受付締切
定数となり次第締め切らせていただきます。

◆主催:
風媒社
SS-PROJECT(荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘)
コンテンツワークス株式会社

【歌葉】の歌集を購入ご希望の方は、
BookParkまでお願いいたします。
http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/

それでは、みなさまのご参加を心からお待ちしております。


。,:*:・°☆。,:*:・ ★。,:*:・°☆。,:*:・°★。,:*:・°☆。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[582] エクリプス・ツアー東京のご案内 加藤治郎 2003年10月24日 (金) 12時33分

こんにちは。
加藤治郎です。

イベントのご案内です。
まもなくアナウンスされると思いますが、11月23日に進行中の第2回歌葉新人賞の公開選考会が開催されます。
その前日、22日に拙著『ニュー・エクリプス』を語る会、通称エクリプス・ツアー東京が開かれます。

とくに上京される方は、選考会とあわせてご参加いただけると嬉しいです。

皆様お誘い合わせの上、ぜひお越しください!

よろしくお願いいたします。



   記



◆ 日 時  2003年11月22日(土曜日) 13:30受付開始

  批評会  14:00 〜17:30   
  懇親会  18:00 〜20:00

◆ パネリスト(敬称略)

 Part 1 天道なお、松本典子、黒瀬珂瀾、佐藤りえ
     荻原裕幸(司会)

 Part 2 島内景二、川野里子、坂井修一、穂村弘
     池田はるみ(司会)

  
◆ 会 場  日本出版クラブ会館  
      (東京都新宿区袋町6 TEL 03-3267-6111)

◆ 会 費  批評会: 3,000円  懇親会: 6,000円 

◆ 主 催  未来短歌会有志・ラエティティア

◆ 申込先/お問い合わせ先: 
  浅羽佐和子 sawako@horae.dti.ne.jp

◆ 受付締切 11月15日

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◆ 申込み記載内容

1) 申込みパート

*下記から1つお選びください。

 (1)批評会及び懇親会

 (2)批評会のみ

 (3)懇親会のみ

2) お名前 所属グループ名


*メールのタイトルには「エクリプス・ツアー東京参加」とお書きください。

それでは、みなさまのご参加を心からお待ちしております。


-------------------------------------------------------------------
Eclipse First, the rest nowhere.

『ニュー・エクリプス』(砂子屋書房)
http://www2.ocn.ne.jp/~sunagoya/

http://www.sweetswan.com/jiro/index.html


[581] 突然ですが。 青葉未空 2003年10月17日 (金) 03時11分

歌、詠ませて頂きました。詠むということは、素晴らしいことだと思います。あらゆる人が詠むことを知れば、僅かでも世界は変ってくれる気がします。一人一人の謡うという気持ちを大切に。

深緑の命の種よそのゆゑを何故とて云わぬ天の兆しよ

万雷のこの邂逅に師のこころわれは伸びゆく緑となれり

碧空ぞ見上げれば知る晴天ぞ遥かにつづく天井の園

泣き響む世の争ひの無慙さに泣き濡つとも怨みしことに

なげきつゝ夜の冷たさが身に沁みて朝日が来れど父はかえらぬ

世のひとは平和と謳ひ妬みしや貶め貶しそこはかとなし




[580] 応援コメント 兵庫ユカ作品 都築直子 2003年10月16日 (木) 19時07分

選考委員のみなさま、こんにちは。都築直子と申します。中部短歌会で歌を作りつつ、五十嵐きよみさんの梨の実歌会にも参加している者です。

選考過程を拝読し、委員の方々が、「互いの読みの差異をひたすら淡々と検証する」態度に徹しておられることに、感銘を受けています。

「どれを応援したくなるか」という観点から候補作を再読してみたところ、結論は、兵庫ユカ作品、斉藤斎藤作品でした。ここでは兵庫ユカ作品について、応援のコメントをいたします。

兵庫ユカ作品は、三つの点ですぐれていると思います。

1 言葉を扱う技術の確かさと、口語短歌の新しい表現を作りだそうという姿勢。
2 扱うテーマの今日性。
3 定型意識の高さ。

以上の三拍子が揃っているため、読者に訴えかけてくる力があります。
表現や言い回しにも、何気ないようでいて、「実作となると、なかなかこうは言えない」と感じさせるものが多い。まだ引かれていない歌から、例を挙げます。

オルゴールの銀色の櫛指で押す 力 わたしを黙らせるとき

「オルゴール」はよく歌に使われますが、そこを「オルゴールの銀色の櫛」と、「銀色の櫛」までいう。ものを見ていないと、こういう言葉は出てきません。

花火ってひらくばっかり剥き出しのただたくさんの副詞となって

美しいものとして詠われることが多い「花火」を、ネガティブに詠う。把握のおもしろさ。いわれてみれば、なるほど花火は〈開くばかり〉のものです。結句「副詞となって」も、うまい。こちらもいわれてみれば、副詞なんて言葉の伝達機能上は、あってもなくてもいいものです。花火の、あのぱっぱっと飛び散る火花が、その副詞と同じだという。見立ての鋭さ。

あのバスの前の前では原付で夏が右折の順番を待つ 

五十嵐きよみさんも応援コメントで引いていらっしゃる歌です。下句「右折の順番を待つ」に、うまいなあ、私だったらこんなこといえないなあ、と感心します。上句が「バスの前」ではなく、「バスの前の前」というのもいい。

30首全体に、言葉に対して作者の神経が行き届いている印象を受けます。
選考過程では、屈折感が大きくてわかりにくい部分がある、という指摘が出ていました。たしかに、そういう面があることも否めません。けれど、上に挙げた3点は、それを補ってあまりある長所ではないでしょうか。この3点において、兵庫作品は、候補作の中で頭ひとつぶん抜けていると感じます。


[579] 応援コメントのつもりで 神崎ハルミ 2003年10月13日 (月) 10時22分

8/22付の拙ウェブ日記で
「第2回歌葉新人賞候補作品(1)〜(3)」と題し
感想や作品のピックアップをしています。
よかったらのぞいてみてください。
http://www2.diary.ne.jp/user/144560/

こちらで選考のディスカッションが始まると
「あっ、同じ作品がピックアップされた」とか
「この作品にはこういう解釈が可能なのか」とか
3人の選考委員の方のコメントを興味深く拝見していました。
また、こうして一次選考を経た個性的な作品に目を通してみて、
自分が惹かれる短歌がどういうタイプのものなのかが
より明確に見えてきたような感じもしています。

これからの展開を楽しみにしています。(^.^)

http://www8.plala.or.jp/haru3-kan/


[578] 宇都宮敦さんの短歌の 枡野浩一 2003年10月12日 (日) 01時07分

反響、こんなページにも……。ご参考まで。
 ↓
http://8017.teacup.com/k/bbs

http://8202.teacup.com/h/bbs


[577] 【応援コメントをどうぞ!】 荻原裕幸 2003年10月11日 (土) 10時46分

きょうから一週間ほど、
みなさんからの応援コメントを
フリーにしていただける期間をもうけます。
すでにコメントいただいている方も、
内容が前コメントの繰り返しでなければ、
あらためてコメントいただいても構いませんし、
コメント回数の制限は特にはいたしません。
候補作品の作者からのコメントももちろん可です。
最終選考の参考にさせていただきます。



特に決まりはもうけませんが、
以下の点だけご留意いただければ幸いです。

コメントは12篇の候補作品への応援のみとして下さい。
多少余談的な内容が入るのは構いませんが、
あくまで応援コメントの範囲内でお願いします。

他人のコメントへの反論的な内容のコメントの場合、
「意見の相違」としてできるだけ柔らかくご提示下さい。
他人への「批判」とならないようご配慮いただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[576] Re[574][573][570][569][568][567]: 魚柳志野作品について 荻原裕幸 2003年10月11日 (土) 10時24分

では、魚柳志野さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。

また、これで、12篇の候補作品についての
ディスカッションにひとくぎりを入れます。

加藤さん、穂村さん、
公開選考会の前に、コメントがあれば、
いつでもどのタイミングでもどうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[575] きょうの午後、 荻原裕幸 2003年10月10日 (金) 17時27分

このBBSが、一時間半ほどダウンしていたようです。
プロバイダのWWWサーバの障害とのこと、
現在は問題なく復旧しております。
どうぞよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[574] Re[573][570][569][568][567]: 魚柳志野作品について 荻原裕幸 2003年10月09日 (木) 23時55分

あと、もう一点付け加えですが、
連作をまとめるときの背景について、
ここまで丸ごと「現地」にあずけるというのも興味深かったですね。
ふつう、旅のいきさつみたいなものが骨組みになるとか、
あるいは、「現地」の文化で構成するとか、
こちらの日常と細かに比較してゆくとか、
なんかそんな感じになるんですが。
つかまえどころのないまま彷徨している感じ、
実際そんな経験があるのかも知れませんが、
なんだかおもしろい雰囲気でした。

ぼくからは以上です。
加藤さん、穂村さん、
プラスアルファで何かあればお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[573] Re[570][569][568][567]: 魚柳志野作品について 荻原裕幸 2003年10月09日 (木) 23時46分

加藤さん、どうもありがとうございました。
[ID 131]、 魚柳志野さんの「亜熱帯花冠」について。
ぼくは、何よりも作品の背景がもっている異国性、
その未知の空間に触れている感じに惹かれました。
「旅」をベースに構成されているわけですが、
観光客の視点ではなく、異邦人の視点ですね。
ややあらけずりかという印象ももったのですが、
自分たちの居場所が準備されていない異国に
とびこんで行った感触がよく出ていると思います。
時間流れも空間の広がりも異質で、それを出すために
定型がのびきってしまうほどに説明的な部分がありますが、
微妙に悩みつつ、一つの味になってるかな、と判断しました。
惹かれたのは主に以下のような作品です。

 市場 犬 ブーゲンビリアもこの道もついた場所なら全て目的地
 親指の付け根のかたちを思い出し果てしない音と夜をすごした
 熱風のあたらぬ場所で冷えてゆく乳房に鳥の羽を描きとる
 スコールにたった二匹でにげこんだ蛍の会話がうかんできえて
 しましまのシーツにひとり包まるとはじめて雨が怖く思えた
 きる爪のぶんだけ旅が終わってゆく 水浴びをして町に出ようか

「ついた場所なら全て目的地」というのは、
紋切り型の表現ではあると思うんですけど、
目的にからめとられて束縛をうける日本の日常から、
解放されたときの高揚感みたいなものがうまく出ているかと。
あと、スコールと蛍のとりあわせは、
シンガポールかマレーシアあたりの風景のようですね。
行ったこともなく、詳しくはわからないのですが、
こちら以上に「群棲」が目だつそうで、
イメージを自分たちに重ねあわせるという
加藤さんの指摘通り、凝った歌だと思いました。

 お前達も逃げてきたのね 蛾、羽虫、みにくい蟲でも今はここにいて
 (見たことのない)雪を見ている顔をして全然違うことを思ってるね
 ありがちな死だったけれど親しくない人だったけど泣かなかったけど

ところどころに出てくるこうした感情を直に出した歌、
感情の細かい描写ではなく、素のままの哀感みたいですが、
異国だからこそ生じるような素直さじゃないかと思うんです。
ぼくたちの日常が、蓋をしてしまっている部分を、
うまく取り出す装置のように背景が作用しているんでしょう。
「旅」を一つの方法に昇華した点、高く評価したいと思います。



ただ、後半、いささか息切れしたかな、
と感じるところもありました。
「人生を嘆く」「轍だけ残る砂漠で」
「ジョナサンみたいに飛べるだろうか?」
といったあたりの、日常の側にひきもどしたときの感覚が、
もっとうまく描けていればいいのになと感じます。

 「ただいま、セルロイド製の人たち」チンモク・セイフク・オクレナイデンシャ

末尾のこの作品も微妙なところですが、
セルロイド製なんて感覚がうまく出せてるわりに、
表現がうまく読み手にひびいてこないところもある。
破調はどうもこの歌では活きていないようですね。
異国を強引に掴みに行ったように、
こんどはこちらの日常を異国のように掴む、
といった姿勢の転換ができると、この人の世界は
さらにおもしろくなるんじゃないかと思いました。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[572] Re[571]: かけこみ応援:多田百合香さんの作品読解への参考になれば・・・ 荻原裕幸 2003年10月09日 (木) 04時16分

>ことらさん

応援コメント、ありがとうございました。
また、出典のご教示にも感謝いたします。
選考の参考にさせていただきますね。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[571] かけこみ応援:多田百合香さんの作品読解への参考になれば・・・ ことら 2003年10月09日 (木) 01時56分

こんばんは、ことらと申します。

多田さんの作品については
ずいぶん前に先生方のコメントが交換されておりましたので
今、ここで書き込むのは本当に場違いかと思いますが、
一点、気になりましたので・・・

 ぐららあがあぐららあがあって何だっけ不意に夜中に聞こえてくる声

この歌の「ぐららあがあ」は(ご存知の方も多いかもしれませんが)
宮澤賢治の「オツベルと象」の中で、
象たちが怒ってオツベルを殺しに押し寄せてくる場面での
象の鳴き声として使われているものです。

私には、作者が出典を知っており、意識に入れながらも
「なんだっけ」と詠うことに意味があったのではないかと
感じられましたので・・・。

瑣末なことで申し訳ありません。
不適格な書き込みでありましたらご指摘ください。

読ませていただくたびに大変勉強になります。
これからもリアルタイム・スペースの展開を期待しております。



[570] Re[569][568][567]: 魚柳志野作品について 加藤治郎 2003年10月08日 (水) 22時23分

こんにちは。
加藤です。

ときおりストレートすぎる表現があって、「ついた場所なら全て目的地」「真実の自由を告げて」、こんなあたりちょっとどうかと思いましたが、全体として気持ちのよい一連でした。
「旅」の歌なんだけど、所謂旅行詠じゃないんです。
それが新鮮でした。
具体的な場所は示されていないけど、旅の実質が存分に伝わってくる。
「旅」の中に居る自分自身の感覚が爽やかですね。

 スコールにたった二匹でにげこんだ蛍の会話がうかんできえて

スコールと蛍は、ミスマッチかきわどいところだけど、これは、蛍のイメージに自分たちを重ねながら、会話、言葉少ないぽつぽつした会話へ繋げる序にもなっていて、なかなか凝った歌だと思いました。

 しましまのシーツにひとり包まるとはじめて雨が怖く思えた
 (見たことのない)雪を見ている顔をして全然違うことを思ってるね
 ありがちな死だったけれど親しくない人だったけど泣かなかったけど

このあたりもいいですね。

 「ただいま、セルロイド製の人たち」チンモク・セイフク・オクレナイデンシャ

は、都会人のことだろうが、面白いですね。
都会に戻ってきてね。
「セルロイド製の人たち」がいい。
下句の断片化、狙いは分かるが、最後の一首ということでは、いま一つ、どうかな。ちょっと宙ぶらりんな感じがします。

だいたいこんなところで。

http://www.sweetswan.com/jiro/


[569] Re[568][567]: 魚柳志野作品について 荻原裕幸 2003年10月08日 (水) 15時34分

穂村さん、どうもありがとうございました。
「定型のリズムが若干不安定」というところ、
可否の問題は別としても、かなり目立ちますね。
表現としての個性になっているか、どうか、
ポイントになりそうなところでしょうか。

(コメント順、指定せずにすみません。)
では、加藤さん、よろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[568] Re[567]: 魚柳志野作品について 穂村弘 2003年10月08日 (水) 12時54分

[ID 131]  魚柳志野さん「亜熱帯花冠」について。

自然な息遣いの感じられるいい歌が多かったと思います。旅の背景が浮き上がらずに<私>の呼吸とうまく溶け合っているようです。

熱風のあたらぬ場所で冷えてゆく乳房に鳥の羽を描きとる
お前達も逃げてきたのね 蛾、羽虫、みにくい蟲でも今はここにいて
人生を語りだすには2人とも幸せすぎる夏の午後だった
ありがちな死だったけれど親しくない人だったけど泣かなかったけど

言葉が汗ばんでいるような生々しさがありますね。「みにくい蟲」はいいとしても「毒蟲」だったらどうだろうとか、ちらっと思うけど、感情を細かくいじりすぎない素直な詠い方が定型のふくらみによっていい方にでていると思います。「泣かなかったけど」にぐっときました。定型のリズムが若干不安定かな。一、二音程度の字あまりが多いけど、冒頭からの十首のうち下句が完全に「七七」なのが二首っていうのは、ちょっと緩いように感じました。





[567] 魚柳志野作品について 荻原裕幸 2003年10月07日 (火) 12時05分

では、選考を再開したいと思います。(^^)
どうぞよろしくお願いします。



次は、[ID 131]、 「亜熱帯花冠」、
魚柳志野さんの作品です。
荻原が選んでいます。

加藤さん、穂村さん、
ご意見お願いできますでしょうか。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[566] 【お詫びとお知らせ】 荻原裕幸 2003年10月05日 (日) 01時41分

10月11日に予定しておりました公開選考会ですが、
期日までに諸準備を整えきれないと判断して、
開催のスケジュールをスライドすることとなりました。
出席を予定の皆様に深くお詫びもうしあげます。
また、会場・スケジュール等の調整のため、
告知が遅れましたこと、重ねてお詫びもうしあげます。



今後の予定をあらためてお知らせさせていただきます。
この週末は、選考委員の参加イベント等があるため、
ディスカッションは月曜以降、再開させていただきます。
[ID 131]、 魚柳志野さんの「亜熱帯花冠」について、
これまで同様、選考委員のディスカッションを進めます。

候補作品12篇についてのディスカッション終了後、
みなさんからの候補作品に対する応援コメントを
フリーにしていただく期間をあらためてもうけます。
(今回、先回とディスカッションのテンポが変わったため、
 応援コメントのタイミングが難しいとも聞いておりますので。)
それにひきつづき、「一次予選通過作品」に対して、
選考委員からコメントをする期間、をもうけます。

その後、公開選考会は、
11月23日(日曜・勤労感謝の日)に開催いたします。
会場は予定通り東京で。午後から公開選考会を行い、
選考会後、選考委員をパネラーに含むディスカッション、
さらには懇親会を組みこんだイベント形式を予定しています。
現代短歌について考えることのできる一日にしたいと思います。

現在、企画の協賛の風媒社さんが準備を進めています。
詳細は近々ここでお知らせさせていただきます。
どちら様もどうぞよろしくお願いいたします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[565] Re[564][563][562][561][560][559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年10月04日 (土) 11時12分

穂村さん、どうもありがとうございました。

では、岡田幸生さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[564] Re[563][562][561][560][559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 穂村弘 2003年10月01日 (水) 17時33分

荻原裕幸さん
>「してゐない、してゐないのに鉄板を熱してきみともんじやを食らふ」
>というくらいにほぼ捨て身で「してゐない」にこだわった方が、
>いっぱいいっぱいの感じがきちんと出るし、
>俗をつきぬけたところにも行けるんじゃないか、
>といった感想をぼくは持ったのでした。

たしかにその方が「鉄板を熱して」とも響きますね。たぶんはっきりした本歌取りにしたかったんでしょうね。本歌の「時代」に対するまともさと、焼肉などの鉄板もの(?)を一緒に食べるのはもう出来上がっているカップル、という伝説の隔たりから生まれる「まだなにもしてゐない」の落差が書きたかったのでは。本歌が作者の代表歌だからこそ成立するはずしというか。連作のなかの変化球という感じでしょうか。


[563] Re[562][561][560][559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年10月01日 (水) 00時18分

> <私>に勢いがありすぎると、
> 言葉をなぎ倒して、目的地に突進しちゃうでしょう。
> この作者には目的地までの途中経過を
> マゾ的なまでに楽しむ雰囲気があって、

穂村さん、ありがとうございました。
な、なんとなく感じは掴めました。(^^;;;
そうか、楽しんでいるっていう理解なら、
途中で迂回している風なのもわかりますね。

穂村さん、加藤さん、
加えてコメントあれば、
よろしくお願いします。



あと、本歌取りの指摘が出ていたので一言。

 まだなにもしてゐないのに鉄板を熱してきみともんじやを食らふ

穂村さんは、この歌、低俗をやろうとしている、
というような受け取り方でしたけど、
「ともすれば笑いを誘うほどの切実感」
が底にあるような気がするんです。
他の歌にも広がっているモチーフですよね。
この主格、相手に対する
「してゐない」感に支配されてる状況でしょう?
「してゐない、してゐないのに鉄板を熱してきみともんじやを食らふ」
というくらいにほぼ捨て身で「してゐない」にこだわった方が、
いっぱいいっぱいの感じがきちんと出るし、
俗をつきぬけたところにも行けるんじゃないか、
といった感想をぼくは持ったのでした。
「まだなにも」という本歌取りの証を見せてしまうところに、
才能の温存感みたいなものを感じてしまったのだけど、
楽しんでいるといった理解ならよくわかりますね。

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[562] Re[561][560][559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 穂村弘 2003年09月30日 (火) 17時41分

荻原裕幸さんは言いました。
>「言葉を自在に扱いつつ、同時に言葉の側からの蹂躙を受けている」
>ともありましたが、蹂躙の部分がどこにあるのか、
>これ、考えてみたのですが、ちょっとわかりませんでした。(^^;;;

蹂躙というのは変だったかな。<私>の支配の外にある言葉の力を借りているってことですね。

はつなつのエア・インディアの尾翼ならひかりのなかをゆるゆるとゆく

<私>は出てこないんだけど、出来上がったものは、とてもきめ細かく<私>の息遣いを感じさせるものになっている。内容ではなくて文体を<私>にするのは重要ですよね。

万札を入れておつりの出るまでが恐ろしかつた ちよつととまつて
ひとまはり若いをんなと繋がつてうまがひつじにうつろふところ

それぞれのかたちにおさまるまでにかなり長い距離を回っているように感じます。その間に<私>が言葉に説得されてるんじゃないかなあ。結果的に文体としての<私>が掴めているように思います。

<私>に勢いがありすぎると、言葉をなぎ倒して、目的地に突進しちゃうでしょう。この作者には目的地までの途中経過をマゾ的なまでに楽しむ雰囲気があって、「本音はどこにあるのかなあ」という読後感に繋がるのかもしれませんね。


[561] Re[560][559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年09月30日 (火) 16時53分

反応が遅くなってすみません。(^^;;;
穂村さん、どうもありがとうございました。

加藤さんのコメントに、
「なにか素朴な、魂が擦り剥けるような感じ」
を求める、というのがありましたが、
才能や力量がどこかに温存されている、
という印象が出ているかも知れませんね。
あるいは作者はそれに無意識かとも思いますが、
いっぱいいっぱいで書いている印象に比べ、
まだまだ余裕があるように見えてしまうと、
才能や力量を評価することとは別に、
本音はどこにあるのかなあ、
みたいなきもちも生じてきますよね。

穂村さんが書いた、
「感受はイノセントなんだけど、表現の場においては確信犯的で、
 個性的な表現観がしっかりある」というところ、
上記のいっぱいいっぱいの感じと微妙に齟齬して、
○付けようかな、どうかな、と迷う作品も多かったです。
「言葉を自在に扱いつつ、同時に言葉の側からの蹂躙を受けている」
ともありましたが、蹂躙の部分がどこにあるのか、
これ、考えてみたのですが、ちょっとわかりませんでした。(^^;;;

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[560] Re[559][558][557][556]: 岡田幸生作品について 穂村弘 2003年09月29日 (月) 17時37分

[ID 129] 岡田幸生さんの「03」について。
荻原さん加藤さんがお書きのように優れた言葉の使い手だと思います。作者本人に勢いがありすぎると言葉が単なるツールになってしまうことがあるけど、作歌においては、<私>の「想い」の強さと同時に、言葉自体の自発性が重要だと思うんです。<私>が言葉を完全に支配してしまっては標語かスローガンになってしまいますよね。岡田さんの歌には、言葉を自在に扱いつつ、同時に言葉の側からの蹂躙を受けているような、サドマゾ両立の創造性(?)を感じます。

はつなつのエア・インディアの尾翼ならひかりのなかをゆるゆるとゆく

言葉の丁寧さのなかにいやらしい清純さといった微妙な魅力が生まれています。その魅力の質にオリジナリティを感じます。

書架の本ぬけばむかうに実りたるセーターの胸あかあかと見ゆ

一種の「覗き」をこんなにきれいにかけるところが凄いですね。「実りたる」って美化してるようで実はエッチです。

まだなにもしてゐないのに鉄板を熱してきみともんじやを食らふ

これはいい歌じゃないけど、荻原さんの「まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す」の本歌取りかな、わざと低俗をやろうとしてますね。

こここんや夜の夜景がきれいだね 生牡蠣すするするすするする

これも「夜の夜景」の重複がわざとですね。「もんじや」よりも効いている。

万札を入れておつりの出るまでが恐ろしかつた ちよつととまつて
ひとまはり若いをんなと繋がつてうまがひつじにうつろふところ
ぬばたまの入眠儀式はじむるにひとの名前を(直子)唱へつ
キヨスクでジャムパンを買ふ 漫画誌の胸の谷間にコインを置いて

「「万札」の歌の「間」の感じ方」について荻原さんがおかきですが、感受はイノセントなんだけど、表現の場においては確信犯的で、個性的な表現観がしっかりあるところが強みだと思います。「ジャムパン」「エア・インディア」といった言葉の選択の次元からその力は機能しているように思います。



[559] Re[558][557][556]: 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年09月28日 (日) 20時36分

加藤さん、ありがとうございました。
引用歌、ほとんど重なっていませんね。(^^;;;
では、穂村さん、よろしくお願いします。

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[558] Re[557][556]: 岡田幸生作品について 加藤治郎 2003年09月28日 (日) 17時34分

すみません。
ちょっと遅くなりました。

荻原さんのいう「手慣れた感じ」、よく分かりますね。
並の技巧家ではないのですが、読者は勝手なもので、なにか素朴な、魂が擦り剥けるような感じを求めてしまうのですね。


 かたさうなやはらかさうな膝頭 針魚があればあとでいただく

巧いですね。
時代を超えた、詩の骨格があると思います。
針魚へぱっと転じているようでいて、上句をきちんと受けている。

 うるはしき私雨となりにけり ほしいならほしいといつてみろ

これも、もうしぶんないです。
静から動へ、暴力的な抒情への転換。
破れていることも計算の内という感じで、参ったなあと思います。

 東京の砂漠にひよこるるひよこるるるるひよこるるるるるひよ

これは、オノマトペとして音をそのまま受けとめたんですが、
定型を軋ませる感覚が巧いです。

  東京の・砂漠にひよこ・るるひよこ・るるるるひよこ・るるるるるひよ
  東京の・砂漠にひよこるる・ひよこるるるる・ひよこるるるるる・ひよ

と二通り読めるかなと思いました。「ひよこるる」が引っ張るんです。

ほかにも

 かはたれの電話回線つたひくる世界のフォトをわれはたのしむ
 うるはしき乱丁ならむ三省堂国語辞典の[愛]の周辺
 ぬばたまの入眠儀式はじむるにひとの名前を(直子)唱へつ
 あゆ祭だつたらう うすむらさきの浴衣のひとはひかりにぬれて

あたり、いいと思いました。


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[557] Re[556]: 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年09月27日 (土) 03時34分

[ID 129] 岡田幸生さんの「03」、
モチーフでもテクニックでも、
またその遊び心でも楽しませてくれる一連でした。
きわめて手慣れた、という印象の書き手で、
効かせどころにことばをきちんと効かせていますが、
その手慣れた感じが過剰すぎると、
どこか読者を素通りしてしまうような印象もありました。
「好きなものどれでも好きなだけなんて われ泣きぬれて蟹とムール貝」
というのは、そのマイナスイメージの代表的なものだったのですが、
啄木(蟹とたはむる)のパロディっていう部分で大いに笑って、
でも笑いが笑いのままで消えてしまったり、
ちょっとそういうところが勿体ない感じでした。
うまくいっていると感じた作品、
惹かれた作品は以下のようなものです。

 早春の上野公園さすらつていつかおまへと覗いた檻へ
 書架の本ぬけばむかうに実りたるセーターの胸あかあかと見ゆ
 さん付けのさんのまぶしさ『リア王』が指から指へうつりくるとき
 ぬばたまの入眠儀式はじむるにひとの名前を(直子)唱へつ
 手違ひはともかくとしてくるるまでクール宅急便を待ちつつ
 万札を入れておつりの出るまでが恐ろしかつた ちよつととまつて
 キヨスクでジャムパンを買ふ 漫画誌の胸の谷間にコインを置いて
 桜花いつせいに散るかなしみをフランス語では ごく手短に
 世間から捨てられようとしてゐないわれと思へり 花あかるくて

「万札」の歌の「間」の感じ方とか、
「キヨスク」の歌の情景のカッティングとか、
こういうのはほんとに巧いなあと思います。
穂村弘的、と言うか、どこか『世界音痴』的な観点・視線ですね。
それが影響とか模倣とかそういう単純さではなく、
岡田さんの個性としてたちあがっているようだし、
すでに完成の域に入りつつある作者じゃないかと思います。

ちなみに、タイトルの「03」
っていうのがよくわからなかったのですが、
これは、なんでしょうね?
冒頭に電話の歌が連なっていますが、
東京の市外局番でしょうか。
他にも何かしかけがあるのかな。

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[556] 岡田幸生作品について 荻原裕幸 2003年09月26日 (金) 12時54分

では、次は、[ID 129] 「03」に進みます。
岡田幸生さんの作品です。
穂村さんが選んでいます。

加藤さん、コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめます。
どうぞよろしくお願いします。

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[555] Re[554][553][552][551][550][549][548]: 宇都宮敦作品について 荻原裕幸 2003年09月26日 (金) 12時50分

穂村さん、ありがとうございました。
歌人同士あるいは読者に対しても、
なにがしかの前提の共有ということが、
ぎりぎりのところで保たれていたのが
1980年代なのかも知れないですね。

いまはたしかに、
「いったん同じ地面に立つことを選択」
という必要が生じてしまうようですね。
「入口」を作品の内部か、もしくは、
すぐ隣り(タイトルとか詞書とか)にはもちこまないと
読者がほんとに限られてしまう感じでしょうか。
是非の問題はともかくとして、
「熱」よりも「温」が好まれるのかも。

宇都宮さんの作品にぼくが感じていた
ある種の「理屈っぽさ」というのは、
単に個人の表現方法の問題じゃなくて、
状況への対応姿勢みたいなものなのかな。



では、宇都宮敦さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[554] Re[553][552][551][550][549][548]: 宇都宮敦作品について 穂村弘 2003年09月25日 (木) 17時37分

荻原さんは云いました。
>「言葉の温度を下げる方向に向う時代性」
>という認識、これは、
>1980年代(90年代も含むのかな)の
>ある種の狂騒的なことばの噴出に対して、
>現在は長期的な沈静化に向かっている、
>といったような理解でいいですか?

ああ、そうか。正確には、この瞬間に「向っている」方向はわかりませんが、現在の若い人々の歌と八十年代のそれを比べたとき、言葉の温度は今の方が明らかに低いと思います。

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

この下句は、八十年代的なテンションで書かれた言葉と比較すると、ずいぶんベタ足にみえるわけですが、見方を変えると「急ぐ旅ではない」という一種の慣用句に対して、いったん同じ地面に立つことを選択していると思うのです。いったんそこに立った上で丁寧に<私>を示すというのかな。こういう感覚の背後には、互いの他者性の受容が前提にならないと共倒れになる時代性があるんじゃないかな。昔は相手の話なんかきかなくても、自分の好みのイメージを自由に追及してみんながいい気持になれたでしょう。「マイ・ロマンサー」とか「甘藍派宣言」とか、タイトルにもそういう雰囲気があるよね。オレはこれ、あたしはこっち、って散らばっていって、それぞれの方向性での強度を比較していたような気がします。「甘藍派」っていう名づけのフィーリングの精度の高さを競っていた時代、それに対して「旅でもないし」には、人生を「旅」という名づけから解放することで日々の手触りを取り戻す、みたいなフラットさへの指向があるんじゃないかな。




[553] Re[552][551][550][549][548]: 宇都宮敦作品について 荻原裕幸 2003年09月25日 (木) 04時33分

穂村さん、ありがとうございました。
「言葉の温度を下げる方向に向う時代性」
という認識、これは、
1980年代(90年代も含むのかな)の
ある種の狂騒的なことばの噴出に対して、
現在は長期的な沈静化に向かっている、
といったような理解でいいですか?
それに対しての「せめぎあい」というのは、
受け入れつつも抵抗しているという感じでしょうか?



 水玉のひとつひとつがよく見るとドクロマークだ あなたが好きだ
 骨だけの傘がぶざまに転がってバカは思った まだ骨はある
 だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

これらの歌からは、いずれも、
気づき=世界の反転、によって生じる
世界への親愛感みたいなものを読んでいました。
個人への愛って言うよりは、
この世もまだまだ捨てたもんじゃない、っていう感じで。
その親愛の感触はとてもいい感じに受けとりました。

ただ、いずれも、ことばそのものがモチーフになっているようで、
ちょっと理屈っぽく文体がまわっていますよね。
加藤さんが言う「機知がすーっと流れていかない」とか
穂村さんが言う「表層の言葉を信頼しきれない」とか
あるいはそういうところに原因があるのかな。

 流星は流れる 歌姫は歌う 渡り鳥さえ渡る 僕らは

加藤さんが「ぶつぶつ切れる」って指摘してましたが、
名がそのものの属性を示す→僕ら→僕(しもべ)、
といった発想のまわりくどさがあるかも知れませんね。



ぼくからは以上です。
穂村さん、冒頭の質問、この理解でよいですか?
加藤さん、加えて何かありましたらよろしくお願いします。

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[552] Re[551][550][549][548]: 宇都宮敦作品について 穂村弘 2003年09月24日 (水) 12時11分

[ID 123] 宇都宮敦さん「くちびるとかスリーセブンとか まばたきとかピアスとか」について。
タイトルにみられるとっちらかり方がいいですね。

水玉のひとつひとつがよく見るとドクロマークだ あなたが好きだ

こういうハイテンションな愛の感覚があると同時に、

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

この歌には言葉の温度を下げる方向に向う時代性とのせめぎあいから生まれたリアリティを感じます。何を言ってるのかわからなくなりつつ、しかし、確かな愛情の手触りだけが残るような、これは秀歌だと思います。とてもリアルな愛の歌にみえる。他の歌についてもそれらを支えている愛情に対して信頼がおけるように感じました。

夜が明けた やたらと喉が渇いてた 君が寝言で「ねむい」と言った
くすぐったがりから気持ちよさがりにかえる 朝日にもえる窓わく
骨だけの傘がぶざまに転がってバカは思った まだ骨はある

「君が寝言で「ねむい」と言った」とか「まだ骨はある」とかいいですね。二首目は朝のセックスの歌でしょうか。「くすぐったがりから気持ちよさがりにかえる」という、微差を越えるためにも自分が力を尽くさなくてはならないという枡野的斉藤斎藤的な意識のまともさは、やはり「現在」のものだと思います。
弱点としては、心の冷たさが足りないために、背後の愛情を信頼できるほどには表層の言葉を信頼しきれないというところでしょうか。




[551] Re[550][549][548]: 宇都宮敦作品について 荻原裕幸 2003年09月23日 (火) 22時55分

加藤さん、ありがとうございました。
一字下げは、う〜ん、なんでしょうね、
一行空きに書く感覚と似てるのかな。
引用では、わかりにくくなるので、
ぼくは冒頭のスペースをすべて外しましたが、
こだわりがあるのだとしたら、
まったく理解できていません。(^^;;;

では、穂村さん、お願いできますでしょうか。
よろしくお願いします。

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[550] Re[549][548]: 宇都宮敦作品について 加藤治郎 2003年09月23日 (火) 20時42分

読み直してみると、わりと楽しめる一連だったです。
ユーモアの感覚はいいんですね。
冴えていると思います。
ただ、どうも全体に停滞感があって、今ひとつ乗り切れなかった。
「流星は流れる 歌姫は歌う 渡り鳥さえ渡る 僕らは」のような、ぶつぶつ切れる歌がちょっと気になりました。
機知がすーっと流れていかないと、読み通しにくんです。
「 でたらめな愛なのだからでたらめでなおかつ笑える苻割りで歌う」
これなんかは、ややくどい感じがした。
それから、細かいことですが、なんで一首おきに一字下げているのかな。
このガタガタな感じ、プラスにはなっていないと思うんだが。。。

いいと思ったのはこんな作品です。

 水玉のひとつひとつがよく見るとドクロマークだ あなたが好きだ
くちびるは動詞であると主張してくちびっている君が大好き
じゃれあったベッドを筏みたいだと例えて 例えっぱなしの僕ら
カーテンが光をはらんでゆれていて僕は何かを思い出しそう
 骨だけの傘がぶざまに転がってバカは思った まだ骨はある
 まいにちの電話のノイズにまぎれてた氷河のきしみを聞いていたんだ



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[549] Re[548]: 宇都宮敦作品について 荻原裕幸 2003年09月23日 (火) 13時25分

[ID 123]、宇都宮敦さんの
「くちびるとかスリーセブンとか まばたきとかピアスとか」、
才気を感じさせる一連だと思って、でも、
笑いのこぼれる感触を堪能しながら、読みました。
ことば、と言うか、意味の破れ目みたいなところに、
爪をかけてぐいぐいと広げてゆく文体に惹かれます。
ノンセンスと言ったらいいのか、あるいは、
まざあぐうす現代青春群像版、という感じでしょうか。

 はばたきやしらたきなんかにならないで そのまばたきはまばたきのまま

ノンセンスの感覚がとてもいいように思います。
欲を出してモチーフ化してそれが表にあらわれると、
おやじギャグみたいになってしまう世界ですが、
この人はノンセンスを出ない場所に
うまく踏みとどまって書いていますよね。
他に、以下のような歌にも惹かれました。

 くちびるは動詞であると主張してくちびっている君が大好き
 じゃれあったベッドを筏みたいだと例えて 例えっぱなしの僕ら
 死んだように眠った人と眠るように死んだ人とは違うのだった
 こんなにもかすかで弱々しくたって光は光と気づいてしまった
 流星は流れる 歌姫は歌う 渡り鳥さえ渡る 僕らは
 だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

引用の四首目にも直に出ていますが、
全体に「気づき」というモチーフが多いように感じました。
それも、日常の時空で気づく、のではなく、
主に、ことば上で気づく、というのがおもしろいですね。
小池純代さんなんかが、
トラディショナルでマジカルな言語感覚をもっていますが、
宇都宮さんの場合は、カジュアルでマジカル、かな。

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[548] 宇都宮敦作品について 荻原裕幸 2003年09月22日 (月) 22時55分

では、次は、[ID 123] 「くちびるとかスリーセブンとか まばたきとかピアスとか」に進みます。
宇都宮敦さんの作品です。
穂村さんが選んでいます。

加藤さん、コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめます。
どうぞよろしくお願いします。

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[547] Re[546][545][543][541][540][539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月22日 (月) 22時51分

加藤さん、どうもありがとうございました。
そうですね。「近代」は、
きちんと起源的なところを見据えないと、
おっしゃるように、定家も「近代」、
といった議論になりかねませんね。



では、鈴木二文字さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[546] Re[545][543][541][540][539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 加藤治郎 2003年09月22日 (月) 22時21分

むずかしいですねえ。
ぼくなんかは普通に枕詞をつかっているんですが、これもいわば古代和歌を基層にしているとみるべきか、あるいは単に技法の引用なんだよというべきか。
どうかなあ。短歌史上の〈近代〉を広く規定すると、結局ひとりの「作者」によって詠まれたものは近代なのか、じゃあ「花も紅葉もなかりけり」は、どうなんだ、定家という「作者」がいて、その世界観を示しているというふうに、議論が拡散していってしまうと思うんです。
もう祝詞の時代の直前まで。

我田引水的ですが、鈴木さんの作品から、こういう議論が起こったこと、それはこの形式への批評性を孕んでいたという点で、評価できると思います。





http://www.sweetswan.com/jiro/


[545] Re[543][541][540][539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月22日 (月) 13時12分

穂村さん、
コメントありがとうございました。
現代、と言うか、現在、が、
未だ「近代」の枠組みのなかにいる/ある、
というような認識でいいのではないでしょうか。
そのことにどれだけ自覚的であるか、
といった態度のあらわれとしてしか、
現代/現在を生きている証が示せない、
みたいなところがあるんじゃないかと思います。

穂村さんのことばで言えば、
「生の現場性」を無意識に方法化して、
その伝達性を単純に「信じている」、
という書き方もどこか空々しくなるし、
「コンセプト」を読みとらせて、
作者の世界観をそこにたちあげさせるのも、
純粋に機能すると「信じて」書かれているものは、
やはりどこか空々しくなりますよね。
歌葉新人賞の応募者さんたちには、
この空々しさを超えようとしている人が
かなりいて、頼もしく嬉しく感じます。

鈴木二文字さんはあきらかに「コンセプト」系ですが、
どこか冷めていて、疑いながら書いている印象ですよね。
加藤さんのことばで言えば、
「短歌形式への批評」←→「読んで楽しんでもらう」
がこもごもにたちあがってくるような。
疑いながら書く、というのは「現在のゼロ地点」かな。
この「ゼロ」は凄いことだと感じています。



では、鈴木二文字さんの作品に、
加藤さんからもう一言もらってから、
次の作品に進みましょうか。
加藤さん、これまでの意見への意見でも、
追加の意見でも雑感でも構いませんので。
どうぞよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[544] Re[542]: 応援コメント>兵庫ユカ作品 荻原裕幸 2003年09月22日 (月) 12時40分

>五十嵐きよみさん

応援コメントどうもありがとうございました。
選考の参考にさせていただきますね。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[543] Re[541][540][539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 穂村弘 2003年09月22日 (月) 12時12分

荻原さんは言いました。
>近代短歌の「近代」という部分にこだわると、
>ぼくは、現在もなお、ぼくたちを囲んでいる状況は、
>「近代」という枠組みのなかにあると考えています。

ぼくもそう思うけど、その上にオーバーラップしてくるはずの「現代」っていうのが、短歌においてはどういう展開をしてきたのか、ちょっとわかりにくいんですよね。「口語」なんていう他にはない要素が大きかったりするし。今でも、「コンセプト」とは別のもっと直接的な「生の現場性」があるだろう、みたいなことを漠然とみんなが信じているというか、「近代」の呪縛は他のジャンルに比べても強いんじゃないかな。鈴木さんの作品には、呪縛でありかつ財産でもあったような「それ」を相対化する強度があると思います。ゼロから組み立てられた爽快感がありますよね。この徹底度からモードの切り替え点で機能できるような能力の高さを感じます。短歌の世界には言語感覚の異能者は定期的に(?)出現するけど、そっちの方はとても珍しいですよね。



[542] 応援コメント>兵庫ユカ作品 五十嵐きよみ 2003年09月20日 (土) 18時50分

こんにちは。
選評が一段落しているようなので、
遅まきながら応援コメントに顔を出しました。

それぞれに読みごたえのある候補作の中で、
島なおみさん、斉藤斎藤さん、兵庫ユカさんの作品に
特に注目しているのですが、
このうち、島さん、斉藤さんについては、
謎彦さんから応援コメントがありましたので、
私からは兵庫ユカさんの作品について書かせていただきます。

個人的なことながら、兵庫ユカさんの短歌は、
かなり早い時期から読ませていただいているひとりです。
作品とは関係のない話になりますが、
私が3年前から開催しているネット歌会「梨の実歌会」に
第1回から第15回まで、ユカさんには欠かさず出詠していただきました。
また、現在開催中の「題詠マラソン2003」も、
アイデアを思いついた時点では、ユカさんと私・イガラシの2人で
100首の歌を詠み合うという内容のものでした。
(それが、162名もの方にご参加いただくイベントになったのは、
また別の話になりますので、ここでは省略させていただきますが)

つまり、ユカさんとは、ネットを通じて知り合い、
ともに歌歴が浅かったころから、少しでも上達したいと
ネット上で切磋琢磨してきた歌友といいますか、
ライバル同士ということになります。
ネット限定の新人賞「歌葉新人賞」において、
ネット上で育ってきた新人の作品が候補作に選ばれたことは、
非常に興味深くも、刺激的にも、うれしくも思っています。

さて、ユカさんの作品からはいつも、
いてもたってもいられないような切実さ、
焦燥感といったものを強く感じ取ってきました。
これまでに読んできたユカさんの歌の中では、
桔梗や鍵盤ハモニカやマグネシウムリボンといったものが、
次々と燃えたり焼かれたりしていました。

今回の作品「七月の心臓」では、
具体的に燃えたり焼かれたりしたものはありませんでしたが、
それだけにいっそう、矢継ぎ早に繰り出される言葉から、
強い焦燥感が立ち上ってくるように感じられました。

透明感のある歌、というふうに呼ばれる歌がありますが、
兵庫作品は、その対極にある叙情性を備えているように感じられます。
何もかも焼き尽くされて、黒焦げになってしまいそうな抒情。
必死に<真実>を希求しているかの作中主体の姿に惹かれます。

一首の独立性の高さ、完成度の高さにも注目します。
記号をいっさい使わずに、定型を守りながら、
シンプルに字句の持つ力だけで30首を構成して
次へ次へとどんどん読ませてしまう<言葉の力>が
兵庫作品には備わっていると思います。

個人的には、以下のような歌が特に好きでした。
(絞りきれずに多くなりました)

 *

正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり
花束を庇って歩く雑踏のわかれわかれの予行演習
折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり
通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す
誰からの施しかだけ確かめて携帯電話を片手で畳む
沸点をずらされている日曜の真昼 い草のスリッパを干す
きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本
あのバスの前の前では原付で夏が右折の順番を待つ
虹の根を掘り出す重機駅前にどんな光も残さないよう
友だちでいてほしかったあのひとの売り言葉から光がきえる

http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/


[541] Re[540][539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月20日 (土) 03時38分

加藤さん、穂村さん、
鈴木二文字さんの作品について、
プラスα、補足、等ありましたらお願いします。



飛び石の連休に入りました。
選考委員のかかわるイベントもありますので、
次の作品へ進むのは、月曜の午後以降とします。
どうぞよろしくお願いします。

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[540] Re[539][538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月20日 (土) 02時52分

加藤さん、どうもありがとうございました。
「近代短歌の対極にあるのは、なにか」、
これは大切でむずかしい問題ですね。
鈴木二文字さんの作品に
そうした意識が奔っているのは感じます。
感じた上での註文というつもりでコメントを書きました。
これだけのきらめくような才があるのだから、
註文がハードでもいいかなというきもちもありまして。(^^;;;



近代短歌の「近代」という部分にこだわると、
ぼくは、現在もなお、ぼくたちを囲んでいる状況は、
「近代」という枠組みのなかにあると考えています。
1970年前後に、「近代」の問題点が露呈して、
進化とか進歩とか発展ということに関して、
絶望的な状況が社会にも文芸にもあるわけですが、
だからと言って「近代」が終わったわけではなく、
「近代」の後半戦みたいな状況がある。
それが現在ではないかと思います。

「私」という枠組みについて言えば、
鈴木二文字さんのもちこんでいる視点は、
たしかに従来の短歌の「私」からは離脱的なのですが、
いわゆる「神の視点」としての「作者」はいますし、
そこからたちあがる「私」というのは、
モダニズムや前衛短歌のそれと、
大きく離れたものではないように感じるのです。
だからこの人を信頼していいんじゃないかと思うし、
同時にだからこの人も
「私」から完全に離脱しているわけじゃない、
とも思うんですね。

逆に、「私」の枠組みそのものにこだわりをもった、
斉藤斎藤さん、兵庫ユカさん、の作品を読むと、
徹底してこだわることによって、
「私」の消失点のような場所に肉迫している気もするんです。
どちらの道筋・方法が良いという話ではないのですが、
鈴木二文字さんが結論的に書いた
「1/1短歌。あるいは絶対短歌。」というのは、
そうした、短歌から完全に離脱した場所ではなく、
むしろ短歌にパラサイトするような場所に
瞬間的に生じるようなものではないか、
という持論があるものですから、
ついついマイナス方向にこだわってしまうのかも知れません。

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[539] Re[538][537][536][535]: 鈴木二文字作品について 加藤治郎 2003年09月20日 (土) 00時12分

「たんかっち」を読んで、近代短歌の対極にあるのは、なにかというようなことを考えていたのですが、応募作のおおよそは「私」の詩であるという枠組みの中か、その周辺にあるんですが、この作品だけは、殆ど違う場所で書かれていますね。
作歌の軸が、うんと読者寄りにある。
自分の感情や思いを表現するのではなく、読んで楽しんでもらうところにモチーフがある。
そういう面と、短歌形式への批評という2つの側面がありますね。

謎彦さんのときもそう思ったのですが、短歌におけるエンターテイメント性といえるかと思いますが、これはもう並のアイデアや技量では難しい。最上級のポジションではないか。

そういうところにまともに向かっていったわけです。

 【育成3日目。われを入力する。】
0999909999099990われ

「われ」を入力する、つまり「われ」をこういうふうに扱うところが、「たんかっち」という作品の位置を象徴していますね。痛烈な批評を秘めていますが、ぱっと「9999」と反応する感触が心地よくて、導入部として巧いと思います。

で「口語」「スリル&サスペンス入り」「スポンサー入り」といった具合に、短歌の状況をアイロニカルにインプットしてゆくプロセス、これも批評そのもので、面白い。

【育成365日と1日目。1/1短歌。あるいは絶対短歌。】
10bytes
14bytes
10bytes
14bytes
14bytes

最後の一首、鮮やかだと思います。
日本語は2bytesで表現されるので、
ちょうど57577になるわけですが、完璧な生命体に育ったというのです。
クローン短歌という感じかな。



荻原さんのいう「可能なかぎり短歌らしい短歌のようなもの」、穂村さんの「従来的な読みを誘うところ」、そういうものを排除して見えてくるものが狙いにあったわけなので、それはそのまま受容したいです。それがこの作品の批評の強度になっているわけですから。

先行するところでは西田政史さんの「そして現在の彼方へ」(『ストロベリー・カレンダー』)がありましたね。これは、短歌の連作でゲーム(不快度数が増減する)をやった。
西田さんの場合、表記に凝っていましたが、一首一首は短歌の韻律がベースになっていましたね。今から読むと、枠組みの新しさに比べ、文体がまだまだ大人しかったかなと思えるのです。


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[538] Re[537][536][535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月19日 (金) 14時00分

穂村さん、ありがとうございました。
「育成ソフト」っていう名称があったかどうか、
ぼくにはちょっとわかりませんが、
「たまごっち」をはじめ、
「プリンセス・メーカー」(娘を育てる)、
「アクア・ゾーン」(熱帯魚を育てる)、
といった「育てゲー」と呼ばれるゲームや、
あと、メールソフトの「ポストペット」とか、
1990年代的な社会現象にもなった一連の、
電子生命体系、と言ったらいいのかな、
の系譜を意識しての「枠組み」なのでしょうね。



ちなみに、ぼくは、以下のような歌/箇所に、
人工生命体的な「かわいらしさ」と
作者の悪戯的な方法意識とが
うまく出ているように感じました。

   【育成5日目。重複率を50%に設定。】
 おれくれこれされしれそれちれつれとれなれにれぬれのれふれまれやれよれわれ

   【育成50日目。「ウイークリィ短歌」創刊。創刊号は斎藤茂吉フィギュア同梱。】
 ぎざぎざの付いているのがシャンプーで、付いてないのがアルジャーノンです。

   【育成93日目。貨幣とは未来の人間に対する無限の信頼です。】
 BL428369H
  日本銀行券 
   五千円

   【育成162日目。MRI検査。どこを切っても短歌。】
 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



では、加藤さん、よろしくお願いします。
穂村さん、補足があれば、どうぞ。

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[537] Re[536][535]: 鈴木二文字作品について 穂村弘 2003年09月19日 (金) 12時12分

[ID 122] 鈴木二文字さんの「たんかっち」について。
「たんかっち」は「たまごっち」のもじりでしょうか。「たまごっち」をやったことがないので、よくわからないんだけど、たぶん育成ソフト(って云うんだっけ?)のイメージを下敷きにしてるんですよね。統一的なコンセプトで連作という場を構成していて、とても緻密に面白く仕上がっていると思います。前回の謎彦さんの連作も凄かったけど、あのなかには例えば「本歌取り」が幾つもあったりして、そうすると、読者は反射的に、この歌は本歌取りとして成功しているのか、とか、本歌よりもいいものになっているのか、などと考えてしまう。そんな風に一首単位の、いわば従来的な読みを誘うところがあったと思うんです。ところが「たんかっち」では、そういう読みは封じられていますね。荻原さんが「枠組みに奉仕している」とお書きですが、このつくりだと「枠組み自体の意義」と「奉仕の強度」が評価の対象になると思います。その観点から、この作品をみたとき、「奉仕の強度」は充分に感じられました。縦横無尽に創造的ですよね。気になったのは「枠組み」の方で、これを本当に面白がれるのは、「育成ソフト」と「短歌」を両方知っているひとに限定されるってことですね。単純な感想だけど、ちょっと狭くないかなあ。




[536] Re[535]: 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月19日 (金) 06時06分

[ID 122]、鈴木二文字さんの「たんかっち」について。
今回の応募作の中で、新しいことにかける、
意欲というか実験意識というか、きわだっていますね。
個々の作品を語るよりも、全体的に書いた方が、
いろいろ伝わるのではないかと思いますので、
ともかく全体から感じたことを書いてみます。

詞書を含め、読んでかなりおもしろいテキストでした。
発想にも方向性にも賛成している作品です。
ただ、Ver1.0未満なのかも、という印象ももちました。
これは、たぶん、プログラム的に考えて、
リアルを極端にははみ出ないようにしているのでしょうが、
この種の「箱庭的ロマンティシズム」は、
もっと徹底してロマンティシズムに走ってもいいと思うんです。
リラダンの『未来のイヴ』とか、
ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』とか、
そうした世界に到達できるような可能性をもった方法ですよね。

ないものねだり、と言われるかも知れませんが、
鈴木二文字さんが、短歌の歴史から得ることのできる、
可能なかぎり短歌らしい短歌のようなものが組みこまれ、
一方で、同時代の短歌として、
鈴木二文字さんがめざすところの作品が入る。
(後者については当然入っているはずなのですが、
 全作が「枠組みに奉仕している」ように読めてしまいました。)
そうした上での、枠組みとしての「たんかっち」であれば、
たぶんぼくはかなり強く讃辞を呈すると思います。

うまくまとまりませんが、とりあえず。

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[535] 鈴木二文字作品について 荻原裕幸 2003年09月18日 (木) 12時05分

では、次は、[ID 122] 「たんかっち」に進みます。
鈴木二文字さんの作品です。
加藤さんが選んでいます。

穂村さん、コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめますので。
どうぞよろしくお願いします。

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[534] Re[533][532][531][529][528][524]: 大塚真祐子作品について 荻原裕幸 2003年09月18日 (木) 12時02分

穂村さん、どうもありがとうございました。
「それほど痒くないところを掻かれているような不思議な気分」
というところ、よくわかります。
とりわけ抽象性が高い文体の場合、
きちんと読者に届かない作品が一つでもあると、
連作的な意味・事象のつながりが完全に消えて、
そこだけ浮いてしまう、という面があるように思います。
意味・事象でつなげた連作では起きない事態ですね。

大塚さんには、
ばーんと烈しく扉をひらいてもらいたいですし、
それを期待できる作者じゃないかと思います。(^^)



では、大塚真祐子さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

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[533] Re[532][531][529][528][524]: 大塚真祐子作品について 穂村弘 2003年09月17日 (水) 17時34分

荻原裕幸さん
>あと一点、大塚真祐子さんの一連、
>抽象的な展開力を中心に30首をまとめているのも、
>おもしろいなと思った要因の一つでした。

抽象的な展開力、ってわかるような気がします。大塚さんの一連を読んで、なんというか、それほど痒くないところを掻かれているような不思議な気分になったけど、表現が新たな展開をみせたり、価値を獲得するときって、そういうところがあるのかもしれないな、と思います。あるところで、ばーんと扉が開くような。




[532] Re[531][529][528][524]: 大塚真祐子作品について 荻原裕幸 2003年09月17日 (水) 09時24分

あと一点、大塚真祐子さんの一連、
抽象的な展開力を中心に30首をまとめているのも、
おもしろいなと思った要因の一つでした。

 呼吸するヨーグルトからト音記号萌えてみどりの六月となる
 はしりゆく横断歩道のきみたちを見下ろす夏そのものの気配だ

はじまりと終わりの歌、
物語的な印象だけはありますが、
具体的な物語はもっていないようなんですね。
だけど、はじまりとか終わって何かがはじまるとか、
そういうイメージは明らかにたちあがっている。
こうした文体の力で意味以前の何かを成り立たせるところも、
ぼくの中では期待感につながっています。



ぼくから以上です。
加藤さん、穂村さん、
プラスアルファで何かあればお願いします。

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[531] Re[529][528][524]: 大塚真祐子作品について 荻原裕幸 2003年09月17日 (水) 09時13分

[ID 115]、大塚真祐子さんの「光合成以前」について、
穂村さん、加藤さん、コメントありがとうございました。
ぼくは、ことばとイメージの斬新な展開力に惹かれました。
力はすでにある程度以上顕在化していると思いますが、
さらに潜在的な、底力みたいなものも感じられる作者だと思います。

 虹の角度をはかるため立ちあがるきみのみずみずしき触角よ
 この世界以外のものになるために空豆をふかくふかく切りこむ
 惑星の重みを受けとめようとするその筆圧がなんてきみだろう
 ほらあの日埋められなかった空欄があたらしい化学式をさけぶよ

特殊なことばをほとんど使わずに、
わりにさっぱりした素材ばかりなんだけれど、
思いがけない方向からことばが繰り出されて、
こちらにつきささってくるような感じが良かったです。
日常の生にべたっとはりついたような力でもなくて、
かと言って、修辞の力だけでもなくて、
書きながら自身の感覚の在処をたしかめているみたいですね。



 内臓を抱きしめてゆくビールスの日々うつくしい黄金分割

穂村さんの指摘にあった、
「私」を掴みにくいという意味(ですよね?)での
「遠隔操作感」があるということ、
たしかに感じられる部分があると思いました。
穂村さんの言う「充分いい歌」というレベルのこの歌が、
この一連の中では、むしろ目立たないくらいに、
他のいくつかの歌がきわだっていたという気がします。

それから、加藤さんの指摘の「未完成だという印象」
ならびに「破調の歌」「4・4調でリズムが平板」という点、

 浴槽を渦巻く水はわたくしの素足を岸とは思わないだろう

この歌などは、「素足を岸とは」だけではなく、
続く「思わないだろう」まで8音で、
七七が、8音8音になっているんですね。
こういう定型意識・定型観をめぐっては、
評価のわかれるところじゃないかと思いますが、
各歌のイメージの切れ味が、言ってみれば、
あまりにもよすぎるので、
こういう各句の語感の切れ味の悪い部分は、かえって、
イメージを読者に届けやすくする作用があると感じていました。
のんびりした/もたついた感じゆえに、
読んでいる意識にするっと入りこんで来るような。



全体に、短歌におさまりきらないかも知れないと思うほどの、
イメージの展開力というのがあって、
文体の不安定な部分というのは、
作者が、定型との折りあいをつける上での、
暫定的な着地点になっているのかも知れませんね。
小器用に定型へのまとまりがつけられていない点でも、
この作者に大きな期待感を持っています。
ぐっと短歌の世界に踏みこんで、
さらに新しい世界をぜひ見せてもらいたいです。
他にも、以下の歌に惹かれました。

 昼間のガード下のドトールにいて全宇宙の心音が降ってくる
 曇天はあかるい きみの背に金の把手が見えたから触れている
 ブレーキの音に共鳴した鳥がひとつ小さく鳴いた未来で
 皮のある果実その肌その影を愛する23時、消灯。
 繰りかえす季節に名前があるために末尾の余白はまばたくつよく
 「行」を「生」と変換されてひとびとの少女の部分が立ちつくしている
 暗闇に慣れたからだで息をすることをやめないヨーグルト食む

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[530] Re[527]: かけこみ応援:島なおみ氏へ 荻原裕幸 2003年09月17日 (水) 09時03分

>謎彦さん

ふたたびコメントありがとうございました。(^^)
選考の三人の各コメントには、
おのずと「間」が生じると思いますので、
コメントのタイミングは、それほど気にせずに、どうぞ。

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[529] Re[528][524]: 大塚真祐子作品について 加藤治郎 2003年09月16日 (火) 20時38分

そうですね。
あっと驚くようなイメージの展開、イメージの結合があって、詩的なポテンシャルが大きい作者だと思います。

ただ、全体的に未完成だという印象があって、なぜだろうと思ったのですが、まず単純に、破調の歌が多いですよね。
もちろん、破調も技巧のひとつなんですけど、なにか不全感が残った。
とくに8音の句が多いんです。高野公彦さん言ういわゆる4・4調でリズムが平板な句が目立ちますね。
「素足を岸とは」「かたちで始まる」「末尾の余白は」こんな類です。
「空豆をふかく」のように5・3はいいんですけどね。これは急迫調でいい。

どうしてかな。
たぶん、8音でも気にならないというか、気にしていないという感じじゃないかな。
そういう定型意識というところで、ちょっと推しきれなかった。

いいと思った歌は、

 この世界以外のものになるために空豆をふかくふかく切りこむ
 「行」を「生」と変換されてひとびとの少女の部分が立ちつくしている
 惑星の重みを受けとめようとするその筆圧がなんてきみだろう 
 暗闇に慣れたからだで息をすることをやめないヨーグルト食む

です。


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[528] Re[524]: 大塚真祐子作品について 穂村弘 2003年09月16日 (火) 17時32分


[ID 115] 大塚真祐子さんの「光合成以前」について。
言葉の新鮮な組み合わせで次々に世界を拓く力を感じました。どの歌も詩になっていて、とても才能のあるひとですね。一方で充分に詩的でありつつ、短歌というにはどこかクールというか、そのなかに<私>がみえにくい印象もありました。

内臓を抱きしめてゆくビールスの日々うつくしい黄金分割

充分いい歌なんだけど、もうひと味、狭義の私性でなくても「日々うつくしい黄金分割」という言葉そのものが<私>であればいいと思うんだけど、わずかに遠隔操作感がありますね。
以下のような歌がいいと思いました。

真昼間のガード下のドトールにいて全宇宙の心音が降ってくる
ブレーキの音に共鳴した鳥がひとつ小さく鳴いた未来で
皮のある果実その肌その影を愛する23時、消灯。
俎板のかたわらにはずれたバンドエイドの指のかたちの昨日
ほらあの日埋められなかった空欄があたらしい化学式をさけぶよ

「あたらしい化学式をさけぶよ」には、<私>が充ちているように感じます。



[527] かけこみ応援:島なおみ氏へ 謎彦 2003年09月16日 (火) 12時43分

 先程の投稿と入れ違いに、お休みが終わってしまったようで恐縮です。大急ぎでもう一本だけ応援コメントを。

 島なおみ氏の作品については、さしあたり1点指摘させて下さい。我々には文字の集合体を「縦書で、右から左へ改行」というレイアウトで読もうとする認知回路が、消しがたく刷り込まれているようで、島氏はそのあたりへも積極的に目配りされたのではないでしょうか。

>               B国          の
>          ポリネーター        は
>               象       に
> 似 て 踏 み ゆ く 鋼の音    が 
>              素敵  
>                ね

例えばこの歌は「B国のポリネーターは……」と読み進めてゆくべきものですが、この歌を一目見ただけの段階では、右側の「の は に が ね」という文字の群が、あたかも無内容な縦書文章のように、真っ先に脳裏へ流れ込んでくる。その感触が、この歌の一種無機的なムードとよく調和するように思われます。

> アマンドの     水   の
>     香り      に
>       ほうたる    が
>     光       を
> 閉じ        て
>           落
>     ち        て   い
> き                  ます

そしてこの歌では、パッと見てまず目に入る「の が に を て て ます い ち き」といった平仮名の乱舞が、「ほうたるが落ちていきます」という歌題と、やがて脳裏で結び合うのです。

おじゃまいたしました。スタジオにお返しいたします (^^)

http://www.geocities.co.jp/Stylish-Modern/2272/waka.htm


[526] Re[525]: かけこみ応援:斉藤斎藤氏へ 荻原裕幸 2003年09月16日 (火) 12時42分

>謎彦さん

コメントどうもありがとうございました。
読解・選考の参考にさせていただきますね。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[525] かけこみ応援:斉藤斎藤氏へ 謎彦 2003年09月16日 (火) 12時27分

 こんにちは、昨年お世話になりました謎彦です。審査員方がお休みのうちに、かけこみで応援コメント進上します。

 「斉藤斎藤論」を誰かが書く頃になったら、その人の次くらいには私も書かせてもらいたいものですが、今回は瑣末なところで2点指摘するにとどめます。

 第1に、人称代名詞の使い分けに意義がある。短歌の連作だと、まったく音数の都合だけで「あ/われ/わたし/わたくし」等が混在することが少なくありませんが、斉藤氏の一連では、

 1 幾分第三者的なスタンスで自身や他者を認識する場合には
   「わたし」や「あなた」を使う
 2 他者との繋がりや相互認知を希求している、自身や他者に
   対しては「ぼく」や「きみ」を使う
 3 相手に真向かう状況の中で、あわてふためき系のアイデン
   ティティ・クライシスに陥った自身に対しては
   「おれ」を使う

という風に読み取れるのです。

 第2に、「おそれいりますが性の対象」や「矢野さんかどうか確認が要る」、それから「唇でぼくにはなしかけてた」という箇所も含めていいでしょうが、心許なさの表現(極めて大づかみに言えば)が第四句字余りという韻律に乗せられることで、増幅効果を得ているように思われます。

http://www.lebal.co.jp/cyabasira_bbs/online_tanka.html


[524] 大塚真祐子作品について 荻原裕幸 2003年09月16日 (火) 12時26分

では、選考を再開したいと思います。(^^)
どうぞよろしくお願いします。



次は、[ID 115]、「光合成以前」、
大塚真祐子さんの作品です。
荻原が選んでいます。

加藤さん、穂村さん、
ご意見お願いできますでしょうか。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[523] 進行について 荻原裕幸 2003年09月12日 (金) 19時41分

それでは、ここで少し、
選考の中休みをとりたいと思います。
連休明けの16日に再開の予定です。



これまで議論してきたのは以下の7篇です。

 [ID 24] 島なおみ 「エデンプロジェクト ―わたしは世界を席巻する―」
 [ID 39] 斉藤斎藤 「ちから、ちから」
 [ID 45] 觜本なつめ 「渦」
 [ID 70] 廣西昌也 「ファミリー」
 [ID 76] 兵庫ユカ 「七月の心臓」
 [ID 78] 我妻俊樹 「ニセ宇宙」
 [ID 108]  多田百合香 「そんなんじゃない、夏」

再開後、以下の5篇について議論を進めます。

 [ID 115] 大塚真祐子 「光合成以前」
 [ID 122] 鈴木二文字 「たんかっち」
 [ID 123]  宇都宮敦  「くちびるとかスリーセブンとか まばたきとかピアスとか」
 [ID 129]  岡田幸生  「03」
 [ID 131]  魚柳志野 「亜熱帯花冠」



再開後もぜひご注目下さい。
どうぞよろしくお願いします。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[522] Re[521][520][519][518][517][516][515][514]: 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月12日 (金) 15時40分

では、多田百合香さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[521] Re[520][519][518][517][516][515][514]: 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月11日 (木) 13時24分

>穂村さん

「自然な若さ」ですか……。
うん、そうか。そうかも知れないですね。
ことばの感触にしても、イメージにしても、
いくら意識的にそれを構成したところで、
まるっきり「若さ」のない場所では
リアルにはたちあがらないでしょうからね。



いささか余談的になりますが、
前回の候補作の「6月の雨」と比較して、
多田さんのなかであきらかに何か変化が起きてますよね。
一時的なものなのか、そうでないかはわからないけど。
ぼくはそういう変化自体はプラスに感じています。
「自然な若さ」としてそこにあるものを、
意識的に掴みなおそうとしていると言ったらいいかな。
自己模倣にならない次元でそれをしているでしょ。

「50歳になってもこういう歌」ということがあるとすれば、
それはやはり、こうした変化、自己更新を、
過去の模倣にならない次元で実現させてゆく
意志であり意識であり方法かな、という気がします。
作家的個性としての「若さ」ということになるのかな。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[520] Re[519][518][517][516][515][514]: 多田百合香作品について 穂村弘 2003年09月11日 (木) 12時12分

荻原さんは言いました。
>ただ、その一方で、全体を読みなおしてみたところ、
>多田さんの作品から「言葉の温度の高さ」の部分が、
>きわだったものとしてたちあがるのかどうか、
>そこのところがもう一つ掴みきれないでいます。
>穂村さんが書いている「言葉の温度の高さ」をめぐる要素が、
>ぼくには、定型に何かを強引に親和させてゆくときの反作用、
>として強くたちあがるものに似ているように思われるのですが、
>多田さんの文体は、そこのところに自由さ自在さもあって、

たぶんそれは多田さんの「言葉の温度の高さ」の部分がキャラクターや作家意識によるものではなくて、自然な若さによるところが大きいからだと思います。50歳になってもこういう歌だったら、それは作家的個性ですよね。



[519] Re[518][517][516][515][514]: 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月11日 (木) 11時27分

穂村さん、ありがとうございました。(^^)
「言葉の温度の高/低」というのは、
意識しなかった/できなかった視点でした。
穂村さんのコメントを読んでなるほどと思いました。

枡野浩一さんと斉藤斎藤さんが「似ている」
という感触はぼくには生じないのですが、
穂村さんが「世界の直視」(#466)と書いていたように、
なぜそうなのか、なぜそう言いうるのか、という
自問自答的な、その確かさを確かめるような、
文体上(正確には、推敲上かな)のアプローチの姿勢には、
共通しているものがあるように思います。
ぴったり一致はしないかも知れないけど、
これが穂村さんの言う「言葉の温度の低さ」
とつながる部分なのかなあと思いました。

こうした「言葉の温度の低さ」的な要素に対して、
「口をついてでた実感」
「比喩じゃなくて、実生活上の体験」
「口からでまかせ的なリアリティ」
などが、「言葉の温度の高さ」につながる要素ということですよね。
で、その対象となっている多田さんの作品についても、
穂村さんが抜粋した部分はよくわかりました。



ただ、その一方で、全体を読みなおしてみたところ、
多田さんの作品から「言葉の温度の高さ」の部分が、
きわだったものとしてたちあがるのかどうか、
そこのところがもう一つ掴みきれないでいます。
穂村さんが書いている「言葉の温度の高さ」をめぐる要素が、
ぼくには、定型に何かを強引に親和させてゆくときの反作用、
として強くたちあがるものに似ているように思われるのですが、
多田さんの文体は、そこのところに自由さ自在さもあって、

 古ぼけたやかんを一つぶらさげて市民球場見まわりにいく
 みたこともない形してる自転車に乗ってねむがる夕焼けマニア
 バスが二台連なって行ったけど遅れたとか捨てられたとかそんなんじゃない

といった、定型への親和が自然になされること、あるいは、
定型への親和を中断して歪みの発生(反作用)を回避することにも、
少なからず意識が向いているような印象をうけています。
たぶんこれは受け取り手のアンテナの問題ということでしょうね。



ぼくからは以上です。
穂村さん、理解に齟齬があるようでしたら、
補足をお願いできますでしょうか。
加藤さん、これまでのところで、
何かありましたらよろしくお願いします。

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[518] Re[517][516][515][514]: 多田百合香作品について 穂村弘 2003年09月11日 (木) 00時13分

[ID 108] 多田百合香さんの「そんなんじゃない、夏」について。
バブルの頃とは違って、近年の短歌の文体は、世界に誠実に向き合おうとすることで言葉の温度が低くなるっていう傾向があるように思います。枡野浩一さんとか、今回の作者でいうと斉藤斎藤さんなんかがそうですね。それはよくわかるんだけど、一方でぼくのなかでは温度の高い言葉に対する未練があって、今回の多田さんや宇都宮さんの作品に心惹かれました。

新宿の東口ってしんきろう 遠くに聞こえる瓜売りの声
さっきまではいてた靴下とんでいく永遠なんて嘘か冗談
よっぱらいってうらがえしだね クーラーの効き過ぎている最終電車

「新宿の東口ってしんきろう」「さっきまではいてた靴下とんでいく」「よっぱらいってうらがえしだね」などは口をついてでた実感
というか、こういう言葉が生き生きと立ち上がってくるときは威力があると思います。

濃硫酸2mlとばしあうどうせ明日もいなかはいなか

「濃硫酸2mlとばしあう」と「どうせ明日もいなかはいなか」の組み合わせも面白い。「濃硫酸」は比喩じゃなくて、実生活上の体験と
いう印象です。

首都高をぐるぐるまわる夢をみる乳酸菌をひきつれながら

「乳酸菌をひきつれながら」で次元が変わるんだけど、こういう口からでまかせ的なリアリティは今貴重だと思います。

弱点に思えるのは、言葉がツールでもあるという意識が細部まで行き届いていないところですね。冒頭の破調なんかはまずいと思いま
す。テンションや言葉の温度で勝負するときは同時に冷たさを抱いてないと駄目なんだけど、その部分はちょっと弱かったかな。







[517] Re[516][515][514]: 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月10日 (水) 16時08分

加藤さん、ありがとうございました。
「現在形のノスタルジー」、
なるほどと思いました。
「夏」が軸になっていことも、
ノスタルジーにうまく機能するんでしょうね。
では、穂村さん、よろしくお願いします。

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[516] Re[515][514]: 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月10日 (水) 16時03分

[ID 108]、多田百合香さんの「そんなんじゃない、夏」。
夏と言うか、夏休みの「絵日記」のような印象でした。
素朴で瑞々しいといった感じがひろがっていましたが、
いずれも狙ってそのように書いているのでしょうね。

 古ぼけたやかんを一つぶらさげて市民球場見まわりにいく

前後の文脈がはっきりしないわけですけど、
こういうシーンの切り取り方ひとつで、
充分読ませてくれる作品ですね。
単語のチョイスも良いのかな。おもしろいです。

 ぐららあがあぐららあがあって何だっけ不意に夜中に聞こえてくる声

これも好きな歌でした。
ほんとに奇怪な声なのか
犬か猫か鳥の声なのか、人の鼾なのか寝言なのか、
そのへんははっきりしませんが、
独特の夏の夜ふかし感みたいなものを感じました。

他にも好きな歌がありました。以下のような作品です。

 新宿の東口ってしんきろう 遠くに聞こえる瓜売りの声
 みたこともない形してる自転車に乗ってねむがる夕焼けマニア
 バスが二台連なって行ったけど遅れたとか捨てられたとかそんなんじゃない
 ぜんまいの触覚つまんで考える本妻になるってどうするんだっけ
 「漫才をやろうよ」これはプロポーズひまわりの花捧げて笑う
 風向きを知るためだよとつぶやいてしゃぼんだま液ひとびんあける
 息継ぎの合間に入道雲をみる今年も泳げないまま、おしまい。

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[515] Re[514]: 多田百合香作品について 加藤治郎 2003年09月10日 (水) 01時35分

もう一度よみなおしてみると、このみずみずしさ、ナチュラルな感覚、なかなかいいと思いました。
ピュアというより、ナチュラルなんだろうね。でも単純ではない。
現在形のノスタルジーとでもいうかな。
これは年齢差からくるのかもしれないけど、市民球場、しゃぼんだま液、線香花火とか、作者にいまながれている時間が、ぼくの目には懐かしく感じられる。
普遍性があるということなのだと思います。

ただ、最初と最後の歌が、やけに幼かったかな。それが疑問でした。

いい歌、多かったです。

  新宿の東口ってしんきろう 遠くに聞こえる瓜売りの声

暑い日の都会が蜃気楼になって、遠くうりうりかえるうりうりのこえって、懐かしい呪文のような声が聞こえてきた。
白昼夢の感触ですね。

  バスが二台連なって行ったけど遅れたとか捨てられたとかそんなんじゃない

「バスが二台連なって」なんていう風景のきりとり方がうまいです。
もちろん、バスに遅れたといっているんじゃなくて、バスが淡い比喩になって、遅れたとか捨てられたという情緒を引き出している。で、それを違うといって宙吊りになっている。
平明な歌にみえるが、けっこう複雑なことをいっているんじゃないか。

こんな歌にも○をつけました。

  みたこともない形してる自転車に乗ってねむがる夕焼けマニア
  古ぼけたやかんを一つぶらさげて市民球場見まわりにいく
  ぜんまいの触覚つまんで考える本妻になるってどうするんだっけ
  あなたからもらった本が香り立つ言葉をちらかした部屋にいるとき
  「漫才をやろうよ」これはプロポーズひまわりの花捧げて笑う
  風向きを知るためだよとつぶやいてしゃぼんだま液ひとびんあける
  今私は誰の娘でもない 海でじんましんの薬飲み干している
  上がりたい上がりたいってってささやかに泣く線香花火が落ちそうで じぁん
  やさしくないビーグル犬がやってくるでんしんばしらを蹴飛ばしながら



http://www.sweetswan.com/jiro/


[514] 多田百合香作品について 荻原裕幸 2003年09月10日 (水) 00時34分

では、次は、[ID 108] 「そんなんじゃない、夏」に進みます。
多田百合香さんの作品です。
穂村さんが選んでいます。
多田さんは前回の候補にあがった作者でしたね。

では、加藤さん、
コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめますので。
どうぞよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[513] Re[512][511][510][509][508][507][506]: 我妻俊樹作品について 荻原裕幸 2003年09月10日 (水) 00時29分

穂村弘さん、コメントありがとうございました。
口語・散文系の文体の結句というのは、
意識しないと単調になりがちで、
たしかに我妻さんはその点工夫がありますね。



では、我妻俊樹さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[512] Re[511][510][509][508][507][506]: 我妻俊樹作品について 穂村弘 2003年09月09日 (火) 17時53分

荻原裕幸さんは言いました。
>ひとつひとつの作品を見てゆくとかなりいいものが多い。
>三者で引いた歌がわりあいばらけているというのは、
>ある意味で一首単位でのムラが少ないことの証左とも言えましょうか。

三人がひいた歌をあわせると、ずいぶん多くなりますね。たぶん外界に対する根本的な違和感とか恐怖があるために、一首のなかで、「なにかは必ずできる」っていうタイプなんでしょうね。大滝和子さんなんかが典型かな。またこの作者はそういう地肩の強さだけで書いてるわけではなく、例えば以下のような結句のバリエーションからも、文体に対する意識の高さが感じられます。

満ちていく海にたゆたうあの髪はあたしの髪よそう告げてきて
月食のはじまる時刻おしえてもおしえても聞き返す寝言は
夏の終り小雨に湿る歯ブラシを託す裸体画モデルのゆびに
切り裂き魔きりさきマコが出没する星座通りの乙女座の髪(付近)
雨を待つ気分で騒ぐぼくたちが本当はだれもいないということ
パーマン何号が猿だっけ このゆびは何指だっけ おしえて先輩
三回転コースターから未配達郵便物がとび散って 蝕
だれの手か分からぬものが土塀よりつき出している 鳩を掴んで
赤い目をしてない写真一枚も いちまいもなく ぼくもウサギも


[511] Re[510][509][508][507][506]: 我妻俊樹作品について 荻原裕幸 2003年09月09日 (火) 00時57分

加藤さん、ありがとうございました。(^^)
ぼくはやや批判めいた書き方をしていますが、
細かい「瑕」を言っているだけのことですし、
加藤さん穂村さんともに、
連作構成に対して十全な評価ではないようですし、
順位の取り方にそれぞれ差が出ていますけど、
読みに大きなずれが生じているわけではないようですね。

ひとつひとつの作品を見てゆくとかなりいいものが多い。
三者で引いた歌がわりあいばらけているというのは、
ある意味で一首単位でのムラが少ないことの証左とも言えましょうか。
その一方で、全体のまとまりを見たときに、
個々の作品の力が必ずしも活かしきれてはいないところもある。
そんな感じなのかと思います。



加藤さんが、
「ゆめの器があって、そこに拡がるイメージを筆記している」
という書き方をしています。
たぶん、こう読むのが「正解」なんでしょうね。
『不思議の国のアリス』を読むような具合に。

 三回転コースターから未配達郵便物がとび散って 蝕

加藤さんが○をつけた歌で、
ぼくがよくわからなかった歌です。
ぼくは、「蝕」というところから、
コースターを下から見上げている視線を感じて、
コースターの背景の陽射しに対する「蝕」だと読んだのですが、
そうすると「未配達郵便物」というのが、
なぜそれだとわかるのか、が、うまくわかりませんでした。
夢における認識の感覚だと考えれば、
この種の「わかってしまっている」状態も
さほど不思議ではないですね。



えと、ぼくからは以上です。
加藤さん、穂村さん、
プラスアルファで何かあればお願いします。

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[510] Re[509][508][507][506]: 我妻俊樹作品について 加藤治郎 2003年09月08日 (月) 23時34分

興奮して読みました。

カラフルな悪夢とでもいいましょうか。
ゆめの器があって、そこに拡がるイメージを筆記している感じですね。
その像の凝縮度が濃くて、読ませるのだと思います。

  青ざめていくあいだじゅう手拍子がキャベツ畑のほうから響く

傑作です。
死と夢の境界を歌っていますね。
この手拍子は、もうなんともいいようがない不吉さ。
死へ誘ってゆくような、死への歩みを促すような感触です。


終わりから3首めですが、

  子守唄の二番の歌詞をでたらめに歌うとき夢の出口が変わる

に強く惹かれました。
「夢の出口が変わる」、ここに、なにか望みを託せる感じがしたんです。
これは1首めの「出口はひとつしかなく銀色のドアノブに指紋かさねゆく 死は」を受けているのでしょう。
出口は変わるんだということ。
このメッセージに、促されるものがあります。

タイトルや2部構成、全体の組み立ては必ずしも成功しているとは思わないけど、個々の作品の瞬発力が圧倒的だと思います。

ほかにこんな作品に○をつけました。

 
  体温計挿んだまま眠っている キノコの餌になる夢見ている
  あの月の欠けた部分でこすられた野原に薄い街がひろがる
  月食のはじまる時刻おしえてもおしえても聞き返す寝言は
  夏の終り小雨に湿る歯ブラシを託す裸体画モデルのゆびに
  とりどりの瞳の色に咲き誇るポピー畑がみていた洪水
  雨を待つ気分で騒ぐぼくたちが本当はだれもいないということ
  ペンキ缶浴びた兵士が青空を撃ちつづけてる 汐風の中
  砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を
  よく冷えたトマトジュースで洗ってと書かれたメモが帽子の中に
  三回転コースターから未配達郵便物がとび散って 蝕
  晴れわたる空に星座の滲みだす音楽、脳によくない音楽
  気がつけば口に栞をはさまれて星を見ている八月の海


*

http://www.sweetswan.com/jiro/


[509] Re[508][507][506]: 我妻俊樹作品について 荻原裕幸 2003年09月08日 (月) 21時15分

穂村さん、ありがとうございました。(^^)
では、加藤さん、よろしくお願いします。



余談ですが、現在の
リアルタイム・スペースのアクセス数、
日差はありますが、350〜450/日くらいです。
みなさん、どうもありがとうございます。(^^)

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[508] Re[507][506]: 我妻俊樹作品について 穂村弘 2003年09月08日 (月) 17時57分


[ID 78]、我妻俊樹さんの「ニセ宇宙」について。
詩的感受性の強さを感じます。
目の前の現実に対する違和感、それから反転形としての非在のものを夢見るドライブ感がありますね。

迷信をすべて信じるママの目にたくさんお墓が映っていた日

「ママの目」に<私>は映ってないところに怖さと魅力を感じました。
全体にいい歌が多いと思います。

月食のはじまる時刻おしえてもおしえても聞き返す寝言は
ぼくたちは陽気に眠る かぞえてもかぞえても数があわない集団
赤い目をしてない写真一枚も いちまいもなく ぼくもウサギも
夏の終り小雨に湿る歯ブラシを託す裸体画モデルのゆびに
パーマン何号が猿だっけ このゆびは何指だっけ おしえて先輩

タイトルが「ニセ宇宙」で、なかのパートが「世界恐怖症」と「贋地球時代」というのに、やや重複感があるような気がしました。


[507] Re[506]: 我妻俊樹作品について 荻原裕幸 2003年09月07日 (日) 02時04分

では、ぼくから先に。(^^)



[ID 78]、我妻俊樹さんの「ニセ宇宙」。
構成力、何かを伝えてゆこうとする意志の強さ、
そうしたものをひしひしと感じる一連ですね。
良いと思う歌、好きな歌、たくさんありました。

 パイ投げのパイが視界をよこぎって修羅場にかわる夏の教室
 雨を待つ気分で騒ぐぼくたちが本当はだれもいないということ
 ペンキ缶浴びた兵士が青空を撃ちつづけてる 汐風の中
 あの月の欠けた部分でこすられた野原に薄い街がひろがる
 パーマン何号が猿だっけ このゆびは何指だっけ おしえて先輩
 青ざめていくあいだじゅう手拍子がキャベツ畑のほうから響く
 よく冷えたトマトジュースで洗ってと書かれたメモが帽子の中に
 だれの手か分からぬものが土塀よりつき出している 鳩を掴んで

自分の選の過程で、
順位を上にあげたい気もしたんですが、
場や文脈を見失ってしまう作品もあって、
どうも上にあげきれなかったという次第です。
場や文脈を見失ってしまったのは以下のような作品です。

 切り裂き魔きりさきマコが出没する星座通りの乙女座の髪(付近)
 切り裂き魔きりさきマコの犯行と断定 ずたずただったぼくらも
 「ダッチワイフに生まれ変わるの」真っ黒なリボンで結ばれていた朝顔
 三回転コースターから未配達郵便物がとび散って 蝕
 意志のない目をして笑うスナップにお花畑の一員として



先にあげた方の歌にも、解釈しきれない、
といった感じのものはいくつもありますが、
でもイメージはすとんと自分のなかに落ちてきました。
どこかしらアメリカナイズされた映画やマンガのような感じで。

#479で、觜本なつめさんの作品を
「箱庭的モチーフ」と言いました。
[ID 122]、鈴木二文字さんの「たんかっち」
などもあきらかにそうなんですが、
この一連にもそうした箱庭的なものを感じます。
「外」との回路をいったん遮断することによって、
こころの世界のようなものを構成するわけですよね。
これはかなり緻密になされてないと
ちょっと苦しいかなと思うんです。
一部の歌であっても、場や文脈を見失ってしまうと、
(それは単に読者としてのぼくの問題かも知れませんが、)
全体がうまく掴みきれなくなってしまうようです。

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[506] 我妻俊樹作品について 荻原裕幸 2003年09月07日 (日) 01時14分

次は、[ID 78] 「ニセ宇宙」に進みます。
我妻俊樹さんの作品です。
加藤さんが選んでいます。

では、穂村さん、
コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめますので。
どうぞよろしくお願いします。

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[505] Re[504][503][502][501][500][499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月07日 (日) 01時06分

加藤さん、どうもありがとうございました。(^^)
「作中主体」の歌の結句については、
言葉が生硬、用語の引用がやや性急、だけれど、
批評意識(作家が作品の外側で考えている価値の意識、かな)は、
さほど感じられなかった、
「懺悔中毒」の歌の結句については、
「韻文的に言葉を尽くした」プロセスを見れば、
気にせずに「受け入れられる範囲」、ということですね。

この場では、是非、可否、を出せそうにありませんが、
三者の読解ではっきり差異が生じたポイントとして、
留意しておきたいと思います。



では、兵庫ユカさんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

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[504] Re[503][502][501][500][499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 加藤治郎 2003年09月06日 (土) 23時17分

「作家(的意識)が作品に顔を出してしまう」という点ですが、

  脱ぐようにうながされても鰐を着たままいつまでも作中主体

この歌でいうと、どうかなあ。
遊園地かどっかで、鰐の着包みを着ていて、ずっとそのまま立ちつくしている。
そんな情景が、結句の「作中主体」で、比喩に転化していくわけですね。
いや、もうどちらが比喩とか言い切れなくて、汗ぐっしょりで呆然と鰐のぬいぐるみの中から出られない<私>の像と作中主体という概念のアナロジーが提示されている。
鰐の着包み=作(中)ですね。
「作中主体」という言葉は確かに生硬だけれど、これはそういう用語の引用がやや性急というだけで、そんなに批評意識は感じなかったです。

 
穂村さんのいう「散文的な思いが歌の言葉にのりきらない」「歌の流れのなかに、散文的というか歌の外側の思いみたいなものが出てくる」ですが、いまひとつ「散文的」という用語が分かりにくいなあ。
よく使うんですけどね。散文的という短歌批評用語。
おそらく「歌う」以前に、おおよそ歌う内容が見えていて、言葉を置いていっているということかなと思うのですが。
歌う行為の最中にとんでもないものに突き当たる感覚が弱いということかなと。

  もじゃもじゃになりたいだけのげつまつのまちにあふれる懺悔中毒

この歌は、いわゆる「散文的」ではないと思いますよ。
意味の展開の飛び方も「濁音を連打」という韻律面でも、韻文としかいいようがないと思います。
たしかに「懺悔中毒」が予めあったという感触はあるけれど、ぼくは受け入れられる範囲だと思う。
仮に「懺悔中毒」が見えていたとしても、そこに辿り着くまでの、韻文的に言葉を尽くしたところを見たいと思うんです。



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[503] Re[502][501][500][499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月06日 (土) 15時50分

穂村さん、どうもありがとうございました。
うん、なんとなく、わかったような気がしてきた。
「散文的に言いたいことの方にひっぱられて出てきてる」
「散文的な思いが歌の言葉にのりきらないでごろんと出ている」
「歌の外側の思いみたいなものが出てくる」
という部分、そうかも知れませんね。

あなた・わたし観みたいなのが、
先に、と言うか根っこみたいなところにあって、
だけど散文的にはどうにも解決しない問題であって、
短歌の様式にある程度「自己」をまかせることによって、
そこに一つの突破口を見出そうとしているような感じなのかな。
だから「自己」が歌の「わたし」にのりきっていないと、
そこに「つくりもの感」みたいなのが出るっていうか。



 もじゃもじゃになりたいだけのげつまつのまちにあふれる懺悔中毒

こういう歌の「懺悔中毒」ということばの繰り出し方、
作家としての「自己」と作中の「わたし」とが、
いったんきれいにまじりあって流れはじめているのに、
そこで急に「自己」がやんわりとたちあがってますね。

 脱ぐようにうながされても鰐を着たままいつまでも作中主体
 
ただ、ぼくの読むときの感触としては、
この「作中主体」は、推敲不足か、
あるいはちょっと楽屋に落としすぎと思うのですが、
前の「懺悔中毒」は、逆に、作中の「わたし」を
作家の「自己」の側にひきよせるちょっとした手法、
という印象もあるんですよね。
「、」「。」とか「( )」とかいった
暴力的な感じのする覚醒とは違うんですけど、
やんわりと「自己」のことばであることを主張するような。

感情移入という観点からは興醒めなんですが、
まさに感情移入しきれないあなた・わたし感が、
この一連のモチーフとして広がっていることを思えば、
これはこれで自然なことばの繰り出し方かなとも感じます。
このあたりが一つの評価・感じ方の分岐点かも知れませんね。



加藤さんは、この、えと、一言でいえば、
「作家(的意識)が作品に顔を出してしまう」
ことについて、どんな印象をお持ちでしょうか?

あと、加藤さん穂村さんとも、
まったく別の件でも構いませんので、
何かつけ加えることがあればよろしくお願いします。

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[502] Re[501][500][499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 穂村弘 2003年09月06日 (土) 14時36分


荻原さんは言いました。
> えと、穂村さん、説明抜きでも構いませんので、
> 読みきれない・よくないと感じた方の例歌を
> あといくつかあげてみていただけませんか?
> 読解の感触の差異をたしかめておきたいので。


はい。

自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る

これはいい歌だと思うけど、「自転車を盗まれたことないひとの」という発想を信じて言葉を広げていってもよかったんじゃないか。歌の〈私〉に自然にのっていくとでもいうのかな。「語彙」は散文的に言いたいことの方にひっぱられて出てきてるような。

もじゃもじゃになりたいだけのげつまつのまちにあふれる懺悔中毒

加藤さんが挙げていた歌でこれも悪くないけど、「もじゃもじゃになりたいだけ」と「懺悔中毒」の組み合わせがぼくにはちょっとわかりにくかったですね。「懺悔中毒」は加藤さんのいう「ごめんなさい、ごめんなさいと言って分かり合うことへの拒絶感」でいいのかな。これも散文的な思いが歌の言葉にのりきらないでごろんと出ているような気がするんだけど。「もじゃもじや」「だけ」「げつまつ」「ざんげちゅうどく」と濁音を連打するところは面白いと思いました。

そうやってみてゆくと、歌の流れのなかに、散文的というか歌の外側の思いみたいなものが出てくるように感じられてひっかかるのかな。荻原さんの挙げていた「作中主体」にもちょっとそういうところがある。兵庫さんは、斉藤斎藤さんのように歌の流れに対する断念(?)から立ち上がってくるタイプじゃないと思うから、モチーフの苦さとは別に才気ある歌言葉がもっと伸び伸びと展開されてもいいような気がするんです。



[501] Re[500][499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月06日 (土) 13時51分

穂村さんの「苦い感じ」というのは、
ふたりの関係のことなんだと思うし、
加藤さんの「疾走感」というのは、
「苦い感じ」=「コミュニケーションや分かり合うことへの不信」、
そこからどこかへ抜けてゆこうとする姿勢ですよね。
ぼくも、「どうしても入りこめないあなたの領域と
どうしても出られないわたしの領域が、
日常のなかにどう広がるか」と書きましたが、
このあたりのモチーフの受けとめ方については、
さほど距離があるわけではないようですね。



評価の分岐点になりそうなのは、
穂村さんが指摘した
「言葉の屈折感がつよくて読みきれない歌」が、
全体にどのくらい広がってしまっているか、
というあたりになるのかな。
穂村さんのあげていた

 自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る
 ラベンダーオイルの茶色 無自覚に憐れむことの歪(ひず)みのような

という二首は、
全体のモチーフに順接しているとは思うけど、
それを巧く表現できている、とはぼくも言いにくいです。
えと、穂村さん、説明抜きでも構いませんので、
読みきれない・よくないと感じた方の例歌を
あといくつかあげてみていただけませんか?
読解の感触の差異をたしかめておきたいので。

どうぞよろしくお願いします。

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[500] Re[499][498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月06日 (土) 13時20分

加藤さん、どうもありがとうございました。
では、ぼくも。



[ID 76]、兵庫ユカさんの「七月の心臓」。
先に述べた斉藤斎藤さんの作品もそうでしたが、
この人も、あなたとわたし/ふたり、の世界に、
恋愛的な状況・感情におさまりきらない角度からも、
作家の自意識みたいなものをきちんと奔らせていますね。

 正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり
 折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり
 通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す
 でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める
 ベーコンが次々跳んでわたしではないひとになることができない
 すきじゃない理由をきいて粘膜が切れてもどうかそれをいわせて

あなたの個性とかわたしの個性をどれだけ描いても、
およそ恋愛的な場面では類型的になってゆくものですが、
あなたとわたしがどのように通じているか、通じていないか、
といった、つながりのありかた、を描いてゆくときは、
その人(作者)の個性というのが明確になると思います。
引用歌は、つながりの不全感、というか、
どうしても入りこめないあなたの領域と
どうしても出られないわたしの領域が、
日常のなかにどう広がるかを見せてくれている。
日常的な空間の感触と意識の広がりが、
強烈にまざりあって構成されておもしろい歌だと思いました。

 脱ぐようにうながされても鰐を着たままいつまでも作中主体

これ、「作中主体」なんていうことばを
素のままで出してしまっている。
ぼくには推敲不足だと思えたのですが、
作家としての意識が剥き出しになっていて、
全体の方法の方向性が見える一首にはなっていますね。



 自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る

この一首、「CDがくるくる回る」は、
限られた体験でできあがったあなたの話しぶり、の比喩なのでは?
このCDは音楽CDだと思うけど、
CDってつまりは「ROM」ですよね。
かたまってしまって体験を書き足せないあなたの感触、
みたいなことを言っているんじゃないでしょうか。
一連のベストからは遠い気はしますが、
一貫したモチーフの一つとしては読めました。

あと、

 桁数がどんどん増えてもう声をころせないもう勝ち負けはいい

という歌から最後の歌までの9首の流れが好きです。
それまで過剰なほど丁寧にあなたとわたしを観察しているのに、
このあたりでスイッチが入ったというかブレーキが壊れたというか。

 虹の根を掘り出す重機駅前にどんな光も残さないよう

これなんて、絵空事的表現ではあるんですけど、
ロマンティックな感性ではないと思うんですよね。
駅前で工事をしているその重機を見ながら、
絶望を絶望のままひきうけようとしている
ある種の悲惨ででも同時にどこか明るい決意
のようなものが巧く出ている一首だと思いました。



長くなりましたが、そんな感じです。

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[499] Re[498][497][494]: 兵庫ユカ作品について 加藤治郎 2003年09月06日 (土) 11時23分

おはようございます。
みんなよふかし。



さて、兵庫ユカ。
ピーク感がありました。
兵庫さんの作品すべてを読んでいるわけではないが、ああここに作者のピークがあるという感じは伝わってくるものだと思うんですよね。
穂村さんは「苦さ」と言ったけれど、いらいら、焦燥感を振り切るように、突っ走っている。
そんな疾走感が魅力の一連。
なにが作者を走らせているか。
コミュニケーションや分かり合うことへの不信かと思うのです。
 
  誰からの施しかだけ確かめて携帯電話を片手で畳む

メールが来るんですね。やたら来る。
心地よい言葉が並んでいるんだろう。
それを施しという、この冷えた眼差し。
そういう自分を幾重にも囲む偽ものから逃れたい。


  シーリングライトに虫が溜まるようふわふわとしてやさしい言葉

この歌もねっこは同じだと思います。
「やさしい言葉」が自分を囲んでいる。
それをシーリングライトに虫の死骸が溜まるようだという。
上句、やわらかい感触だけど、伝えているイメージは心の廃墟ですよね。強烈です。

  もじゃもじゃになりたいだけのげつまつのまちにあふれる懺悔中毒

この懺悔中毒というのも、ごめんなさい、ごめんなさいと言って分かり合うことへの拒絶感だと思います。
もじゃもじゃになりたい、という衝動も惹かれます。

一連から訴えてくるものがはっきりありましたね。


 穂村さんの挙げた

  自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る

ですが、屈折感というか、情緒の接続、飛躍の問題だとおもうのですが、この一首に関していえば、成立しているように思います。
「自転車を盗まれたことないひと」で、辛い目にあったことのない呑気さを象徴させていて、彼の語彙に圧迫感というか息苦しさ、いらいらを感じているんですね。「CDがくるくる回る」無機質なイメージは、意味的な比喩として、巧いんじゃないか。
四句めの「語彙CDが」が句割れになっているが、一字空けておけばよかったかもしれません。
この歌では、「盗まれたことないひとの」が、ちょっと舌足らずかなという点が気になりました。
兵庫さんは、57577の定型できっちり詠いますね。ここはやや苦しかったかな。

たしかに「語彙」は硬いが、これは「自転車を盗まれたことないひとの」特定の言葉というニュアンスですね。



全体的に○がついた歌が多かったです。

ほかによいと思った歌を引いておきます。

  七月の心臓としてアボカドの種がちいさなカップで光る

  獰猛なとこもかわいいこの家のコーヒーミルはどことなく栗鼠

  正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり

  必要か聞いてからするセックスはsupplementsたぶん海を見ている

  通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す

  でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める

  ベーコンが次々跳んでわたしではないひとになることができない

  沸点をずらされている日曜の真昼 い草のスリッパを干す

  すきじゃない理由をきいて粘膜が切れてもどうかそれをいわせて

  きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本

★彡

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[498] Re[497][494]: 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月06日 (土) 03時46分

穂村さん、ありがとうございました。
マイナスの指摘としては、
切実感はそれなりに伝わるけど、
歌にうまく反映しきれていない、
「言葉の屈折感がつよくて読みきれない歌」
が多くあったということですね。

この「屈折感」というのは、
語の斡旋やことばの繰り出し方に見られる
意味や心情の不明瞭さ、といった感じでしょうか。

では、加藤さん、よろしくお願いします。
ぼくも自分の意見をまとめることにします。

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[497] Re[494]: 兵庫ユカ作品について 穂村弘 2003年09月06日 (土) 02時14分

では、[ID 76] 兵庫ユカさんの「七月の心臓」について。

全体に苦い感じのする一連でその苦さに惹かれるところがありました。力のある作者だと思います。ただ、とても微妙なことを切実に云おうとしてるのはわかるんだけど、言葉の屈折感がつよくて私には読みきれない歌も多かったです。

自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る

「自転車を盗まれたことないひとの」っていう発想だけで勝負できそうな歌で、そういう場合すんなり秀歌におさまるのが普通だと思うんだけど、何故かそうなっていないんですよね。「CD」の歌詞の「語彙」とも思えないから、「自転車を盗まれたことないひとの語彙」と「CDがくるくる回る」の間に切れがあるのかな。この部分がどうも読みきれない。やっぱりこれ、「語彙」が歌を難しくしてないかな。その難しさを一首が充分には受け切れてないような気がします。ここはどうしても「語彙」じゃなきゃいけないのかなあ。内面の切実感が伝わってくるだけにもどかしい気がします。

ラベンダーオイルの茶色 無自覚に憐れむことの歪(ひず)みのような

これも下句の屈折感を「ラベンダーオイルの茶色」では受け切れてないんじゃないかな。

魅力を感じたのはこんな歌。

きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本
わかってるすぐに発つから温い手でわたしの靴に触るな夕日
友だちでいてほしかったあのひとの売り言葉から光がきえる
通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める

特に「栞」はいいですね。



[496] Re[495][493][492][491][490][489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月06日 (土) 01時29分

名古屋、少し涼しくなりましたね。
さすがに今夜は、うちの近所でも
蝉の声ではなく、虫の声がしています。



>加藤さん

この「挨拶」的な展開も、ザ・ビートルズも、
それなりの「家族論」ではあり得るけど、ただ、
全体の構成としてどうか、ということですね。

どうもありがとうございました。(^^)

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[495] Re[493][492][491][490][489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 加藤治郎 2003年09月06日 (土) 00時58分

こんばんは。
涼しくなりましたね。虫がりーりー鳴いています。

廣西昌也さんの作品にひとこと。

荻原さんの指摘のとおり、「チャップマン」(『サニー・サイド・アップ』)と「夏のウォーターフォール」(『昏睡のパラダイス』)を踏まえていますね。
あいさつは、ありがたいとおもいます。
「チャップマン」>ジョン・レノンは、射殺される前の彼が<主夫>であったことから家族論に繋がりますね。まさに「襁褓を替へてゐる」だったのです。
「夏のウォーターフォール」は、オウムのその後をテーマにした一連なので、その擬家族的集団という側面を捉えたのでしょう。
そうはいえるが、祖父の歌のような地点とは、歌の出所が違うように思うんです。
祖父は私の位置から(それが虚構であっても)詠まれている。
ジョン・レノンは題詠的かな。





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[494] 兵庫ユカ作品について 荻原裕幸 2003年09月05日 (金) 18時33分

どこかで中休みをとる予定ですが、
当面このくらいのペースで進めてゆきますね。(^^)



では、次は、[ID 76] 「七月の心臓」に進みます。
兵庫ユカさんの作品です。
加藤さんと荻原が選んでいます。
穂村さんからご意見お願いできますでしょうか。

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[493] Re[492][491][490][489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月05日 (金) 18時08分

穂村さん、ありがとうございました。
「そんなに無理はしてないようにみえる」
ということですね。わかりました。

歪ませているとぼくが感じるいちばんの原因は、
たぶん「後から」気づいたからでしょうね。
先に読んでしまったイメージが揺れるから。
これは作品自体の「責任」ではなく、
読む側(ぼく)の問題と考えた方がいいかな。



では、廣西昌也さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
お二人とも、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、どうぞ。

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[492] Re[491][490][489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 穂村弘 2003年09月05日 (金) 17時33分


荻原さんは言いました。
> 百十二頁製氷皿の脇平面の蚊の崩壊現場
>
>そして、その少し前のこれは、『昏睡のパラダイス』の112ページ、
>「ゆうぐれは製氷皿を軋ませて氷をおとすひとつは海に」が
>印刷されたその脇の余白のあたりの平面に
>蚊が挟まれて死んだ、ということなんでしょうね。

そ、そうか。
不思議な歌だと思ってたけど、荻原さんよくわかりましたね。

>「挨拶」ならば一連に入る意味もよくわかるけど、
>何かそれが全体を少し歪ませてもったいないような気も……。
>いや、もしかして、他にも「挨拶」が潜んでいるのかなあ。
>穂村さんは、この「挨拶」について、
>どんな風に評価されますか?

うーん、「全体を少し歪ませて」るかなあ。ぼくには「歴史の展望の感触」を「家族・家系とパラレルに絡みあわせよう」という流れから、そんなに無理はしてないようにみえるけど。積極的に評価するほどでもないのは、連句みたいな場ならともかく、ここでの「挨拶」自体の意味が(荻原さんとは逆に)ぴんとこないからです。


[491] Re[490][489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月05日 (金) 03時55分

加藤さん、ありがとうございました。
「祖父の歌の前に、チャップマンやリンゴが出てきて」
という指摘があったように、
なぜか急にザ・ビートルズがぽんぽんぽんと出てきて、
漠然と、作者のこだわりなんだろうと思っていたのですが、
これってつまり加藤さんへの「挨拶」なんですね……。
加藤さんはそれも含めてややマイナスの感触でうけとめたのかな。

 忘れたい名前が詞書にあるマーク・チャップマンとあともう一人

この、短歌のテクニカルタームである「詞書」
ということばにひっかかっていたのですが、
よく考えてみれば、『サニー・サイド・アップ』の
「チャップマン」の一連を示唆しているわけで、

 百十二頁製氷皿の脇平面の蚊の崩壊現場

そして、その少し前のこれは、『昏睡のパラダイス』の112ページ、
「ゆうぐれは製氷皿を軋ませて氷をおとすひとつは海に」が
印刷されたその脇の余白のあたりの平面に
蚊が挟まれて死んだ、ということなんでしょうね。
「挨拶」ならば一連に入る意味もよくわかるけど、
何かそれが全体を少し歪ませてもったいないような気も……。
いや、もしかして、他にも「挨拶」が潜んでいるのかなあ。
穂村さんは、この「挨拶」について、
どんな風に評価されますか?

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[490] Re[489][488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 加藤治郎 2003年09月04日 (木) 23時21分

そうね。
一首一首は、先にあげた歌をふくめ秀歌が多いけど、30首全体では全面的には賛成できないところがある。
かえって、こういうケース、珍しいかもしれない。

祖母の歌もいいです。
で、繰り返しになりますが、ラスト7首ぐらいの祖父の歌がいい。
そうすると、この30首というのは、それをどう引き立たせるか、が構成上のポイントだと思うんです。
極論すると、祖母と祖父の歌以外は、叙景歌でもいい。
落ち着いた歌が並んで、秀歌を押し上げればいいんだ。
地の歌がうまく配置されていないのかな、この一連は。

多様な歌が並ぶことがダイナミックスになる場合もあるが、祖父の歌の前に、チャップマンやリンゴが出てきて、ITの風では、ちょっと困ると思うんです。


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[489] Re[488][487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月04日 (木) 13時09分

穂村さん、ありがとうございました。
「バナナのあれ」の一首、ぼくもいいと思います。
この祖母を「ファミリー」として認識することの
拒絶感とやむを得ない感の間のこころの動きとか。
「バナナのあれ」を「ないもの」としてきた時間の流れとか。

全体の構成について、穂村さんが、
近代、戦後、今、と書かれていたので、
あらためて眺めなおしてみました。
「平安の恋のたかみ」というのも含め、
たしかに、歴史の展望の感触、出てますね。
家族・家系とパラレルに絡みあわせようとしたのかな。
ちょっとそこまでは読みきれなかったです。
加藤さんは「どうもバラバラな印象を拭えない」
と書いていましたが、ぼくも、
素朴な羅列っていう印象がありました。
あるいは羅列こそが狙いだったのかな。

一首一首で読んでいい感じの歌が揃った一連なので、
この構成をよしとして読みきれるかどうかが、
評価を大きく変えているかも知れませんね。
加藤さん、この構成面について、あるいはその他、
何かつけ加えることありましたらお願いします。

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[488] Re[487][486][483][482]: 廣西昌也作品について 穂村弘 2003年09月04日 (木) 12時06分

では[ID 70]、廣西昌也さんの「ファミリー」について。

ひも状のものが剥けたりするでせうバナナのあれも食べてゐる祖母

これで心を掴まれました。「バナナ」の「ひも状のもの」は誰もが知っているけど、通常は意識にはのぼってこないよね。それで「祖母」を詠うっていうのは凄いんじゃないかな。異様でありつつ、鋭い批評性がある。この「祖母」がなんだか動物のようにみえるってことが、逆に我々自身を照らし出す。我々の心が時間の流れとともに「ひも状のもの」を「ないもの」として意識の底に眠らせる方向に動いてきたってことがみえてくる。或いは逆に、今スーパーモデルの間で「バナナのひも状のもの」を食べるのが大流行、バナナ本体はサルに食わせろ、とかね。それから斉藤斎藤さんの「のり弁」もそうだったけど、これも言葉の出し方がうまいと思います。「ひも状のものが剥けたりするでせう」と入って「バナナのあれも」という流れがいい。
全体として、「ファミリー」を軸に、この国の近代、戦後、今と我々自身を映し出す試み(固有名詞は各時代性にはりついたものを選んでいるんじゃないかな)だと思いました。それがすべて「バナナのひも」のレベルでできていれば凄いんだけど、なかなかそうはいかないかな。でも秀歌が揃っていると思います。

雷が来さうで祖父の仏壇の前であふむけ 冥し水の香
カマキリの子供が這つてゐる網戸やつぱり母は迎へに来ない
来るはずのメール、娘の眠る部屋、尿意、キンチョウリキッドの無臭
祖父の死はまず曾祖父に告げられて曾祖父は見き群青の空
三歳の娘が入れた薄い茶に深くふかーくお辞儀しました
一条の蝉の初音の長きよりかなたに今も若き祖父の死

前回の応募作の

くちづけに蝦の味せる現實の不均衡感知りし日ありき

この上句もすごい破壊力だったから(加藤さんが、なんだっけ「サタニック」とか評してなかった?)、潜在的な力が高い作者だと思います。


[487] Re[486][483][482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月04日 (木) 00時51分

加藤さん、ありがとうございました。
ファミリーの軸というか核として
祖父が描かれている、という読みですね。
あと、ぼくも固有名詞のある歌については、
構成としてはうまく読みきれませんでした。

では、穂村さん、お願いできますでしょうか。

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[486] Re[483][482]: 廣西昌也作品について 加藤治郎 2003年09月03日 (水) 23時56分

廣西さん、昨年も歌葉新人賞候補作に残りましたね。
独特の粘っこさ、存在感があります。

今回は、若くして戦死した祖父が中心的なモチーフですね。
祖父の歌は、いいと思いました。

  井戸水をぎーこぎーこと汲みました遺骨がとても汚れてまして

  午前二時過ぎ戦友が戸を叩き祖父は新聞紙にくるまれて

最後に前面に出てきます。
新聞紙にくるまれた遺骨というのが、強く訴えてきます。

  死ぬ前に忘れることのかなしさと忘れる前に死ぬかなしさと

この歌、しんと哀しいものがあって、秀歌だと思います。

全体の構成を見えると

  雷が来さうで祖父の仏壇の前であふむけ 冥し水の香

が四首めにあるが、ちょっと間が空いて、利根川進やジョン・レノンとか登場して、

  でぃあぱぁーいずそいるどぉーなどと唄ひつつ襁褓を替へてゐるジョン・レノン

奇妙な可笑しさがあるが、どうもバラバラな印象を拭えない。
もちろん一首一首独立しても差し支えないんだが、この場合、うまく祖父の死に収斂してゆかないと思うんです。


あと、他によいと思った作品。

 後ろから僕をさがして豆腐屋のラッパがどんどん近づいてくる

 三歳の娘が入れた薄い茶に深くふかーくお辞儀しました


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[485] Re[484][470]: 「斉藤斎藤」を支持します 荻原裕幸 2003年09月03日 (水) 17時14分

鈴木二文字さん、こんにちは。
鈴木さんは「斉藤斎藤」を支持する、
と記憶しておきますね。(^^)

ちなみに、
誰かのコメントに絡ませてコメントを出すと、
相手もコメントを返したくなろうかと思います。
ただ、#447に書いた通り、
> コメント数は、今から受賞者決定までの間に、
> 1作品に対しては1人1コメントと限らせて下さい。
は選考進行の都合上徹底していただきたいので、
選考三者のコメント以外のコメントに対しては、
自身の単独のご意見として、
できるだけ他者の意見の文脈に
ダイレクトに入りこまないようお願いします。
ややこしい注文ばかりですみません。(^^;;;

なお、枡野浩一さんの#470の意見に対しての
斉藤斎藤さん自身の所感は、
▼ゆかいな仲間たちとその斉藤斎藤
http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=saitousaitou
でご覧いただけます。

どうぞよろしくお願いします。

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[484] Re[470]: 「斉藤斎藤」を支持します 鈴木二文字 2003年09月03日 (水) 16時38分

●こんにちは。鈴木@一口大です。
●確かに割って入るタイミング、むつかしいですね。
なが縄に入るタイミングを見はからっているときみたいに、むつかしー。
現在進行中の廣西昌也さんの作品についての議論のさまたげになってしまったら、申し訳ありません。

●[470]で、枡野浩一さんが、「斉藤斎藤」さんの筆名のセンスについて、
いくつかの例を挙げて違和を表明しておられますが、私は「松尾スズキ」の実例を挙げておけば、
支持の材料としてはそれでじゅうぶんなように思います。
だって「松尾スズキ」が、あるじゃないか。
●著書『大人失格』(光文社文庫)のあとがきで
>まあ、本名が「勝幸」なんて凄く意味のある名前なんで、人前に出るときは、
>なんかなるべく意味薄い名前がいいなと思って、パッとつけた訳で。
>特にウケを狙っているとかではないのですよ全く。極力その、いきごみを
>感じさせたくないなと。名前ごときで。【掲出は「いきごみ」に傍点】
●とかつてスズキ自身が言っていたように、斉藤斎藤さんの筆名も、
枡野さんが「ご本人が面白がっているほど」とおっしゃるほどご本人がウケを狙っているとは思えません。
それより、名前なんかどうでもいい、
意味出すまい、意味出すまーいとして、極限まで行ってしまったような印象を受けます。

●むしろこれは、「批評」なんだとそのように私は理解しています。
●斉藤斎藤作品を読むとき、私たちは(短歌を読むときの慣習として)
無意識のうちに、作品のさいごに「斉藤斎藤」の名前をプリントしていますよね。

とりとめのないきれいごと聞きながら君のかけがえのなさを想った  斉藤斎藤
目に見える桃を欲しがるくちびるがくやしくてくちびるで塞いで  斉藤斎藤
愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?  斉藤斎藤
つないでないほうの小指でブラジルの首都ブラジリアはもう気持ち右  斉藤斎藤

●とすると、この「斉藤斎藤」が常に、一首に対する批評としてはたらくわけですよ。
●これは、候補作品の初出のときに斉藤斎藤さんが、即座に発言者の名前に
「斉藤 斎藤(P.N)」と書いて、(P.N)と但し書かれることの違和感を身をもって、
チャーミングに検証してみせたあれと、機能としてはおなじことです。
●「批評」「検証」という言葉がここでなにやらエラげだったら、セルフつっこみ、
ヒトコトで置き換えるなら、「なんちゃって」でもいい。


とりとめのないきれいごと聞きながら君のかけがえのなさを想った  なんちゃって
目に見える桃を欲しがるくちびるがくやしくてくちびるで塞いで  なんちゃって
愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?  なんちゃって
つないでないほうの小指でブラジルの首都ブラジリアはもう気持ち右  なんちゃって

●「こんなまともな作品をつくる人」だからこそ、「斉藤斎藤」という筆名で
自分の作品に対してツッコまずにはいられないのだ、そう思うべきではないでしょうか。
「なんちゃって」はあの印象的なフレーズ、「いかがなものか」とも置き換え可能。
●それはあるいは「照れ」とも形容されるべきもので、おそらく枡野浩一さんは
その「照れ」に「ここは、照れるな」と敏感に反応しているんだと思うのですが、
私は、斉藤斎藤さんと世代が近しいということとは関係なく、その「照れ」を、
批評としてとても清潔で、信頼できるもののようにかんじます。
●そしてその「照れ」との格闘の痕跡って、枡野さんご自身のお仕事にも私は見ていたのですが。
だから、今回、枡野さんが[470]でおっしゃったことに、私は違和感を覚えたのでした。

●「斉藤」は本名の名字ですらない、とうかがったときには、やられたーと思いましたね。
といってもそれは誰情報かっていったらご本人情報、斉藤斎藤情報なので、
ほんとは本名ということもありましょう。「斉藤斎藤」と名字と名前で漢字がちがっているのは、
「斎藤さん」と書いたときに、それが名字呼ばわりなのか名前呼ばわりなのか
ということがわかるようにという、こまやかな心配りなのだと思います。
親切、なんですよね。基本的にこの方。作品をみても。デフォルトで親切。
●「斉藤斎藤」という筆名で自分の作品に対して批評をしているのも、
それが彼(たぶん)にとっての「親切」だから。
読者に対して、というよりは、むしろ言葉に対して、かな。
●だから、枡野さんが、改名を迫ったら、あっさりご本人は名前を変えてしまいそうな
気がしますが(おなじ機能を出せるなら名前なんてどうでもいいと思っている点において)、
私は、すくなくともこの歌葉新人賞の選考期間中は、斉藤斎藤さんに筆名を変えないでいただきたいと
強く願っています。「斉藤斎藤」の筆名コミで、この作品の世界が成立していると判断するからです。
●いささか長くなりました。どうかおかまいなく選考のほう、お続け下さい。
仕事から帰るたびにパソコンをあけること、いま毎日とてもたのしみにしています。


[483] Re[482]: 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月03日 (水) 14時06分

[ID 70]、廣西昌也さんの「ファミリー」。
タイトルにあるように、
家族を軸にしたスナップショット風な連作ですね。
ものすごく切ないもの怖いものが、
奥の方からふわっと出てくるようで、
強く惹かれる歌がありました。

 集落が澱む田圃の向かふまで影を伸ばして立つてゐる母
 群青の空の真下のかあさんは僕をどこかに捨てさうでした
 カマキリの子供が這つてゐる網戸やつぱり母は迎へに来ない

 井戸水をぎーこぎーこと汲みました遺骨がとても汚れてまして
 祖父の死はまず曾祖父に告げられて曾祖父は見き群青の空

母ものと祖父ものは特にひかれました。
その他にも以下の作品がよかったです。

 ひも状のものが剥けたりするでせうバナナのあれも食べてゐる祖母
 平安の恋の高みにたなびける雲を携帯メールで送れ
 三歳の娘が入れた薄い茶に深くふかーくお辞儀しました

こういう風に、軽く軽く書かれているもので、
くいっと読む側を作品のふところに引きよせているところ、
とても良質な感覚だと思います。



全体を読んで、
何かを訴求する力、その強さのことを考えて、
この作品を上位にもってこられなかったのですが、
穂村さんは5篇のうちに入れていますし、
読むアングルの問題なのかも知れませんね。

あと、前回の応募のときに指摘した
擬古的な文体・表記など、
気になるところも少しだけありますが、
(ex.「奪われてゐるだけでしょう」)
ほぼクリアされていてうれしく思いました。

では、加藤さん、よろしくお願いします。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[482] 廣西昌也作品について 荻原裕幸 2003年09月03日 (水) 13時35分

では、次は、[ID 70] 「ファミリー」に進みます。
廣西昌也さんの作品です。
穂村さんが選んでいます。
廣西さんは前回の候補にあがった作者でしたね。



それでは、まず、荻原からコメント出します。
荻原のコメントが出ましたら、
加藤さん、お願いします。
二人のコメントが出たところで、
穂村さんにコメントをもらうという流れで。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[481] Re[480][479][478][477][476][475][474]: 觜本なつめ作品について 荻原裕幸 2003年09月03日 (水) 13時24分

加藤さん、ありがとうございました。
穂村さん、加えて何かありましたら、
どのタイミングでも結構ですので、
どうぞよろしくお願いします。
では、觜本なつめさんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[480] Re[479][478][477][476][475][474]: 觜本なつめ作品について 加藤治郎 2003年09月03日 (水) 00時58分

お二人の挙げた歌で

  断水の蛇口をにぶく突き上げて発作のごとく水はもどれり

もいいですね。断水の後に、がくっと蛇口が鳴って水が出てくる。
こういう小さな、誰も今まで語っていないディテールを扱うとき、短歌って生き生きしますね。
で「発作のごとく」で、一連のモチーフと交差しています。
この歌が終末部に置かれたのも、なかなか巧い。

穂村さんのいう「生々しい息遣いのようなもの」は、けっきょく韻律にこめるしかないですね。
この作者の場合、わりと韻律のセンスはいいのですが、そのあたりもっと自覚的になるといいと思います。

作者は、まだ学生かな。
現代短歌の世界に登場してきてほしいですね。
期待しています。

http://www.sweetswan.com/jiro/


[479] Re[478][477][476][475][474]: 觜本なつめ作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 23時01分

加藤さん、どうもありがとうございました。
ぼくはちょっと狭く読みすぎたかも知れません。
メインモチーフは全体に広がっているようですね。



こういう連作の展開、
箱庭的モチーフとでも言いましょうか、
外とのつながりをやわらかく切断して、
世界を特化して深めてゆく書き方ですが、
そこに生々しいリアルがたちあがるか、
それともイメージの収集みたいに感じるか、で、
評価が違う方向に流れる面があるように思います。
三者の評価に微妙な差異が出ているところ、
そのあたりともかかわるかも知れませんね。

 赤く熱おびた木の実をくちうつしおまえと子宮を交換したい

という歌も、加藤さんに「激情」と言われてみて、
はじめてなるほどと思ったのですが、
はじめに読んで、子宮交換のイメージは、
どこまでも観念的なものだと感じていました。



えと、ぼくからは以上です。
補足的なこと、あるいは、
何かプラスαがありましたら、
よろしくお願いします。>加藤さん、穂村さん

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[478] Re[477][476][475][474]: 觜本なつめ作品について 加藤治郎 2003年09月02日 (火) 19時51分

そうですね。「ビリチスの歌」の系譜は少ないですね。
殆ど絶えているような。
「あまだむ」の佐竹游さんにそんな一連があったように思いますが、今ちょっと引けません。ちがっていたらごめんなさいです。

さて、軽くて爽やかでちょっぴり感傷的な作品が多かったなかで、この作者の世界には特異な印象を持ちました。
暗い情熱に惹かれたといいますか。
同性愛のダークな官能美。

  痛いほど勃起している空豆のあおき勁き莢ねじりとりたり

荻原さんは男根説ですか。なるほど。
ぼくは、クリトリスをイメージしたんです。
「痛いほど」というのは一人称の感覚なので。
自己処罰、あるいはその幻影というふうに受けとりました。
処罰は自己愛の極地でしょう。
韻律の起伏が強烈。「あおき勁き」の「キ」、「ねじりとりたり」の「リ」。
その間で「空豆」「莢」の「ソ」と「サ」が響いている。
高揚する情感と韻律が融合しています。

 風消えぬ与謝野晶子の恋歌を女が女を恋ううたとして

連作の3首めで、この歌の置き方は巧いと思います。
この懐古的情緒がしばらく尾を引いて
 
 朽ちてゆくミシンの匂い蜜か塵蜜か塵かと唱えつつ踏め

この「り」と「つ」の刻み方ですね。
韻律の快楽があります。

 小箱の箱を閉じるように女を こっそり鍵の場所をいいあう

作者は、「小箱の蓋を」と言っているが、ここは怪我の功名(?)というか、箱の方がいい。
入子重を想像しました。
迷宮的イメージがある。
下句は、小説的で常套句すれすれかもしれないが、読ませる。

 赤く熱おびた木の実をくちうつしおまえと子宮を交換したい

この激情もいいんじゃないか。

かと思うと

 君の口からは花粉がこぼれ出てもうそこいらが明るいのです

こういう現代的な文体もあって、一連のなかではこういう軽さが生きている。
恋人の、ここでは彼女の口から花粉がこぼれ出て、というのは耽美的だけれど、下句ですっと開かれてゆく。

この歌までふくめて、同性愛のモチーフは貫かれていると思います。

力のある作者ですね。注目作です。

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[477] Re[476][475][474]: 觜本なつめ作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 18時59分

穂村さん、どうもありがとうございました。
では、加藤さん、お願いできますでしょうか。



男性のは系譜があるような気がしますが、
女性の同性愛のモチーフって短歌では稀なのかな。
塚本邦雄がたまに栗秋さよ子という歌人の作品を語りますね。
「嘴合わす鳩らよりやや罪深く指組みて来つ女同志の」とか、
「青年のキスに浄まり来し者に捺す茵陳*(いんちん)の苦き唇」とか。
(*「陳」はくさかんむりに「陳」です。代用。)

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[476] Re[475][474]: 觜本なつめ作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 18時36分

[ID 45]、觜本なつめさんの「渦」、
短歌版「ビリチスの歌」という感じなのでしょうか。
一連に、男性への視線そのものが欠如しているようで、
とてもおもしろく読みました。

 痛いほど勃起している空豆のあおき勁き莢ねじりとりたり

ここにメインの世界観が集約されているのでしょうね。
メタファーとしては男根を示唆しているようですが、
もっと根源的な男性的概念の否定、
あるいは簒奪といった印象の一首です。
こうした、モチーフへの没入、魅力を感じます。
ただ、一連を読んで○を付けた歌は、上記の他、

 朽ちてゆくミシンの匂い蜜か塵蜜か塵かと唱えつつ踏め
 くちなしの匂う坂道くちなしのことばで話すくちなしになる
 君の口からは花粉がこぼれ出てもうそこいらが明るいのです
 ヘアピンでいえば曲がっているあたり今日という日も半分を過ぎ
 断水の蛇口をにぶく突き上げて発作のごとく水はもどれり
 週末のとりとめもない雨音に私のしるしの消えてゆく部屋

といったあたりで、どちらかと言えば、
メインのモチーフから逸れているものでした。
これら、ときに言葉につき、ときに物につきながら、
掴みきれない世界に挑んでゆくような感覚の歌に、
この一連の作品の力としての核を感じたので、
一首目からはっきりたちあがるモチーフの方には、
いささかの不発感をうけたような次第です。

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[475] Re[474]: 觜本なつめ作品について 穂村弘 2003年09月02日 (火) 17時39分

では、[ID 45] 觜本なつめさん「渦」について。
女性の同性愛が一連の軸になっているのでしょうか。
同性に対するシンパシーというレベルを超えそうなものは短歌の世界では珍しいですね。

赤く熱おびた木の実をくちうつしおまえと子宮を交換したい
どこまでもひとつになるかならないかおんなじ色のくちべにをぬる

「子宮を交換したい」「おんなじ色のくちべにをぬる」など面白いんだけど、どこか観念的というか、記述内容のわりに生々しい息遣いのようなものは薄いように感じました。
私がいいと思ったのは、そこからちょっとずれた次のような歌です。

ヘアピンでいえば曲がっているあたり今日という日も半分を過ぎ
断水の蛇口をにぶく突き上げて発作のごとく水はもどれり
もう絵など描く気はなくてからっぽの絵の具箱にはががんぼを飼う

モノで自分を照らし出すタイプの、こういう歌の方が生々しいような気が。
激しい空虚さと、どこかほの白いような喪失感に魅力を感じました。



[474] 觜本なつめ作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 13時23分

では、次は、[ID 45] 「渦」に進みます。
觜本なつめさんの作品です。
加藤さんが選んでいます。

えと、どうしようかな、
では、穂村さん、
コメントをお願いできますでしょうか。
ぼくも並行してコメントをまとめますので。
どうぞよろしくお願いします。

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[473] 【第2回歌葉新人賞公開最終選考会】 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 13時18分

2003年10月11日(土)の午後、
東京圏での開催を予定しています。

詳細が決まりましたら、順次、
この場で発表させていただきます。

どちらさまもよろしくお願いします。

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[472] Re[471][469][468][467][466][465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 13時03分

枡野浩一さん、こんにちは。
では、「枡野浩一は斉藤斎藤という筆名に反対した」
ということ、記憶しておきますね。



穂村さん、どうもでした。
「韻文的な盛り上がりに簡単に身をゆだねないで、
そのなかに常に散文的な意識を通そうとする」、
そういった仕草というか態度というか、
これはわりあいはっきり出ているみたいですね。

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

のり弁が、ぶちまけられて、わけのわからない状態、
というなめらかな順番にことばが繰り出されず、
表面的な意識の順番の方が優先されているようです。
あえて表面的な自意識をならべておくことで、
韻文的な盛り上がり=短歌としての文体の強度によって
「自分の意識」が消される/奪われる詩型の生理に対し、
拒む姿勢を見せているのかも知れないですね。



では、斉藤斎藤さんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
何かありましたら、後になってからでも構わないので、
適宜コメント入れて下さいね。>加藤さん、穂村さん

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[471] Re[469][468][467][466][465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 穂村弘 2003年09月02日 (火) 12時09分


枡野浩一さん、こんにちは。

>「斉藤斎藤」という筆名のセンスは、
>いかがなものかという感じを表明しておきます。

「いかがなものかという感じを表明しておきます」は、[UtanohaBBS 437]の斉藤斎藤さんご自身の発言の本歌取り(?)ですよね。
私も、なんか、印象的な言い回しだなと思っていました。

荻原裕幸さんは言いました。
>「書き手には無制限に自由が保証されている」
>「書けばただちに書いたことに縛られてゆく」
>という表裏一体的なことばのしくみと
>格闘しながら書いている印象を受けます。

そうですね。「格闘しながら書く」に関連していうと、

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
「だぁ〜れだ?」 あなたの声とぬくもりの知らないひとだったらどうしよう
愛ありき。その愛が君のかたちをとろうとしてるけど、それでいい?
矢野さんが髪から耳を出している 矢野さんかどうか確認が要る

この「なんでしょう」とか「どうしよう」とか「それでいい?」って、つまり「確認が要る」ってことですよね。韻文的な盛り上がりに簡単に身をゆだねないで、そのなかに常に散文的な意識を通そうとするんだよね。だから言葉の温度は下がって、「自分勝手に都合のいいことを詠いあげる」ことにならない。前述の「いかがなものかという感じを表明しておきます」も温度の低さが印象的な言葉遣いだと思います。


[470] こんなタイミングですが、お邪魔します。 枡野浩一 2003年09月02日 (火) 11時40分

斉藤斎藤さんの作品にエールをおくる気持ちがあることを大前提に、
「斉藤斎藤」という筆名のセンスは、
いかがなものかという感じを表明しておきます。

以前、
私が某所で付け句を募集した時も投稿してくれた斉藤斎藤さんですが、
その時にも、
「こんなまともな作品をつくる人の考える筆名とは思えない……」
と正直感じておりました。
正直感じただけではなく、
正直その旨お伝えしたかもしれません。

ご本人が面白がっているほど、
面白みのある筆名ではないと思います。
まるで、
枡野桝野
荻原萩原
穂村種村
治郎治朗
みたいな名前です。
佐藤さとる
なだいなだ
のように、
韻をふんでる系の名前ならまだしも……。
百歩譲って
平櫛田中
のように、
姓名ともに姓みたいな名前の系譜と考えるにしても、
なにしろ
歌葉歌集
装丁装釘
松任谷由実松任谷由美
みたいな名前です。

もしも私がアンチ「ネット」派の歌人だったら、
斉藤斎藤という名の歌人が歌葉新人賞を受賞した場合、
真っ先に筆名のセンスを攻撃し、
そのことによって作品のセンスすら否定すると思います。
「これだから桝野系カンタン短歌とやらは最低なのである」
とか匿名で書くと思います。
斉藤斎藤の作風は、かんたん短歌ではないのに……。
「カンタン」は片仮名ではなく平仮名なのに……。
桝野ではなく枡野なのに……。
前途ある新鋭歌人の将来が、
こんなことで閉ざされてしまうのを黙って見ていることができません。
選考委員の皆様はいかが思われますか。
私は思わず、
斉藤齋藤
斎藤齋藤
齊藤齋藤
などなど紛らわしい名前をネットで次々と使用し、
いやがらせをしてでも改名を迫りたい気持ちです。

斉藤斎藤さんは、
ほめられても、
けなされても、
そんなことには負けない人だ……と信じて、
あえて憎まれ役を買って出ることにしました。
うにまる
という筆名に疑問を呈した、林あまりのように。
金色冬生
という筆名に抵抗し続けた、やなせたかしのように。
高岡淳死
という筆名を勝手に高岡淳四と改名した……のは、だれだっけ?

申し上げたいのはそれだけです。
言葉で人の心を動かすことなんてできないのでは、
という思いにとらわれているこのごろ、
「言っても満足するのは自分だけ」
と心の中の自分が囁いていますが、
せめて
「枡野浩一は斉藤斎藤という筆名に反対した」
という痕跡だけでも残せたらと考え、
場ちがいかとも思いましたが、
書き込ませていただきました。

あ、
最後に一言。

ご本名だったら、ごめんなさい。

http://8202.teacup.com/h/bbs


[469] Re[468][467][466][465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年09月02日 (火) 02時54分

加藤さん、ありがとうございました。
穂村さん、補足的なことがありましたらどうぞ。



穂村さんのコメントのなかで、
「日常性の背後の宿命みたいなものに対する感度のよさ」
「自分勝手に都合のいいことを詠いあげるっていうタイプの歌ではない」
という指摘があって、なるほどと思いました。
ある種劇的な恋人の死のことにしても、
それが経験か設定かはわかりませんが、
「書き手には無制限に自由が保証されている」
「書けばただちに書いたことに縛られてゆく」
という表裏一体的なことばのしくみと
格闘しながら書いている印象を受けます。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[468] Re[467][466][465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 加藤治郎 2003年09月01日 (月) 23時04分

「恋人の事故死」を背景にする読みが、この作品にとっていいですね。
最初、「二年後」というのが、ぴんと来なかったんだが、どういうときに「二年後」という感じ方をするかというと、或る深刻な、生の区切りとなるような、重い出来事を受けたとき、そういうのでしょう。

荻原さんの言うように
 急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛
 医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した
 まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた
は、作品として事故死を提示していますね。
「もうそろそろ」と、呼吸器なり、そういう装置を外すことを承諾した場面でしょう。

「三十一文字」は、詩形論に向かうのかと思ったが、そうじゃない。
この死を受けての、絶叫のようなもので、次の一行の空白も、そう理解すると納得しました。

良い一連です。

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[467] Re[466][465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年09月01日 (月) 14時33分

穂村弘さん、
斉藤斎藤さんの作品へのコメント、
どうもありがとうございました。



> 一連の背景には恋人の事故死があるのかな。

私的背景という話は少し横においたまま、
作品背景として考えてみたいと思いますが、
12首目あたりから「急ブレーキ」
「医師は〜」「まばたきの〜」という流れ、
そうした読みも自然に入って来そうですね。
「三十一文字であらわしなさい」は、あるいは、
わたしときみの最後/最期の会話ということなのかな。

ぼくはどちらかと言えば、
根源にある論理や言語観のところで読みましたが、
むしろそうした背景を前に立てて読んだ方が、
すっきりと30首の構成が見渡せそうですね。
えと、加藤さん、こうした構成の面、
もし何かありましたらよろしくお願いします。

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[466] Re[465][464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 穂村弘 2003年09月01日 (月) 12時03分

穂村です。
ヘルシアを飲んでいます。

[ID 39]斉藤斎藤さんの「ちから、ちから」について。

一連の背景には恋人の事故死があるのかな。
それぞれの歌のなかに、目の前の世界を見ようとか認識しようという意識の強さと、そこから生まれてくる痛みのようなものを感じました。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

「これ」を表現しようとするときに、いちばん面白くなるようにうまく言葉が使われているように思います。日常性の背後の宿命みたいなものに対する感度のよさがそれを可能にしているんじゃないかな。

とりとめのないきれいごと聞きながら君のかけがえのなさを想った

地味にみえるけど、上下句の間に意外に飛躍があってそこからリアリティが生まれていますね。私とか他者とか孤独とか関係とか、全体に世界観が「まとも」だと思います。枡野浩一的な世界の直視ができている。逆にいうと、自分勝手に都合のいいことを詠いあげるっていうタイプの歌ではないですね。
他にいいと思ったのはこの辺りです。

眠れずに見ているほどいてもほどいてもくるぶしを組んで寝るクセ
君のはつ恋のはなしを聴いてたら吐き気してきた背中さすって
急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛


[465] Re[464][463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年08月31日 (日) 17時41分

>加藤さん

加藤さんの意見を読んでから、
はじめにまとめてあったメモを
意見の違いができるだけ表に見えるように、
整理しなおしているので、
もし何かありましたら、
随時つっこんでおいて下さいまし。
どうぞよろしくお願いします。(^^)

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[464] Re[463][462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年08月31日 (日) 17時30分

では、穂村さんにまとめていただいている間に。
コメントがちょっと長めかも知れませんが、
一発言としてまとめておきます。



[ID 39]、斉藤斎藤さんの「ちから、ちから」。
魅力とも腕力とも体力とも言えそうな、
この人の文体が持っている「力」に惹かれました。
モチーフ・素材が、日常だったり恋愛だったりして、
いかにも「いまどき」な表情を見せています。
ただ、いちばん大きな作者の関心は、
「言語」ないしは「実存」みたいなところへ
はっきりと向いていると思いました。

 「だぁ〜れだ?」 あなたの声とぬくもりの知らないひとだったらどうしよう
 とりとめのないきれいごと聞きながら君のかけがえのなさを想った

冒頭の二首。このあたり、
恋愛の場面を借りて、「私と他者の存在論」、
短歌で言うなら、寺山修司がたちあげたような、
「私とは誰か?」みたいなコンテクストを
背景にひきよせているように読めました。
個体が何をもってその個体であるのか、
といったモチーフの提示かと思います。

 おれはおれが何故何故何故かきみはきみを抱いているセミダブルベッドで
 あなたあれ。あなたをつつむ光あれ。万有引力あれ、わたしあれ。

冒頭の二首よりはこちらの方が
モチーフはいささか曇りますが、
作品的にうまくできていると思いました。
恋愛の場面・心象表現のかたちを借りつつ、
私と他者の鏡像的な類似性の問題であるとか、
論理を超えたところに存在する現実の感触とか。
前半15首の作品については、
あえて速度を落として理屈っぽく読むと、
そうしたものも見えてくるように感じます。



一首をある程度の速度で読んだ場合には、
後半に惹かれる歌が多くあるように感じました。

 死ぬときはみんなひとりとみんな言う/私は電車で渋谷に行きます
 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ/自動改札に引っかかる

この二首は、ぼくがスラッシュを入れたところで、
微妙に構文の意味のつながりが横すべりしてゆくようです。
「だから」がそこに書いて消されたみたいな感じ。
読んですぐにわかるんだけど、微妙に違和が残って、
まあ、強引に言えば、「短歌的喩」に似ているかなあ。
口語体の短歌でこの種の構文のずらしがあるのって珍しいのでは。

それから、文体の力ということで、
強く惹かれたのは、以下のような作品でした。
すべて後半に集中していました。
前半は組み立てが理屈っぽくて、
ここまでは惹かれなかった。

 うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象
 内側の線まで沸騰したお湯を注いで明日をお待ちください
 矢野さんが髪から耳を出している 矢野さんかどうか確認が要る
 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
 泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと
 ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように
 あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり

アイデアとか個々のフレーズとか、
前例がまったくないことばの感触ではないのですが、
一度読んだだけで忘れられなくなるような、
言わば「斉藤斎藤印」がついているようなんですね。
主題=何を表現しているか、でもなく、
方法=如何に表現しているか、でもなく、
文体=誰が表現しているか、にとことんこだわる、
そうしたスタイルが明確に出ているとも思います。

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[463] Re[462][461]: 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年08月30日 (土) 22時09分

加藤治郎さん、
斉藤斎藤さんの作品へのコメント、
どうもありがとうございました。



マイナスポイントとしての指摘は、
「詩として突き抜けたところに行く、
そういうものを求めるとちょっと物足りない」
という点に集約されるわけですね。

コメント後半で引用されていた
「〜三十一文字であらわしなさい」というのは、
いわゆるメタ短歌になるわけで、
しばしばそうした作品には、「詩」に向かう
作者のある感触みたいなのがたちあがるわけですが、
そこにも、不発感をうけた、という感じですね。



では、えと、穂村さん、
パソコンの接続状況いかがでしょうか?
うまくつながったところでコメントお願いします。
ぼくも、自分の意見を別にまとめることにします。

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[462] Re[461]: 斉藤斎藤作品について 加藤治郎 2003年08月30日 (土) 20時25分

はい、では。

粘着力のある一連で、30首読ませる力はありましたね。
冴えた歌、異化した面白い歌も多いが、詩として突き抜けたところに行く、そういうものを求めるとちょっと物足りない。

いいと思った歌は、

  つないでないほうの小指でブラジルの首都ブラジリアはもう気持ち右

恋人とのいちゃいちゃ感覚が、「ブラジルの首都ブラジリア」という韻の面白さとミックスされて、うまく仕上がっていますね。

  (おっぱいはあまり得意じゃないもんでブラをはずしてほっとしたのだ)

ちっちゃかったんだ。なかなかこうは歌えない。

あと、

  まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた

  あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす

  元禄寿司従業員控室入口に「会議中」の紙 ぼくもまぜて

  矢野さんが髪から耳を出している 矢野さんかどうか確認が要る

  ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように

こんなところも○がつきました。


 このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい

は、かなり考えて置いた歌だろうが、唐突に感じた。
これだけ異質でしょう。
読者に何を期待したのかな。
破調で、あえて散文化した一行、なおかつ、平凡なメッセージを装っている。
で、この作品が三十一文字であるという、自己批評を孕んでいる。
詩型論みたいな場所へ、もってゆくのが、全体のモチーフと合っているのか、分からない。
そっちの方向に読み手をもってゆく理由が、今ひとつ分からないなあ。
連作のなかの効果という面でね。
変な所に、はみ出てしまったんじゃないか。


http://www.sweetswan.com/jiro/


[461] 斉藤斎藤作品について 荻原裕幸 2003年08月30日 (土) 17時58分

では、次は、[ID 39] 「ちから、ちから」に進みます。
斉藤斎藤さんの作品です。
穂村さんと荻原が選んでいます。

まず、加藤さんからご意見をお願いできますでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。

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[460] Re[459][458][457][456][455][454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月30日 (土) 03時42分

島なおみさんの作品については、
いちおうここでひとくぎり入れたいと思います。
補足的なことがあれば、後からでも構わないので、
適宜コメント入れて下さいね。>加藤さん、穂村さん

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[459] Re[458][457][456][455][454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月30日 (土) 03時35分

>穂村さん

なるほど。「詩的結晶度の問題」ですか。
話がつながって見えてきました。
「単独で勝負できるものなのか」と指摘の歌、
レミング、とか、ねとねとがうにゅうにゅ、とか、
どちらも時事的なコンテクストにつながりそうです。
判断の分岐点が、そこにかかわるのかも知れないですね。

どうもありがとうございました。(^^)

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[458] Re[457][456][455][454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 穂村弘 2003年08月29日 (金) 17時37分

穂村です。

荻原さんは言いました。
>マイナスポイントとしてあげられたのは、
>1)言葉の連なり自体にさほど意外性がなく詩的な相乗効果が弱い
>2)もう少し一首の独立性が欲しい
>といったところですね。
>
>1)については、あわせて、
>表記とのバランスかも知れないと留保を入れていますが、
>これは、自在になりすぎると逆にわかりにくい、といった
>価値の表・裏を構成する要素かも知れませんね。
>
>2)は、ちょっと意外な気もしました。
>たとえば、30首目の作品でしょうか?

そうですね。独立性という言葉は適当じゃなかったかな。加藤さん同様に私も作品が相互に凭れあっているとは思わなかったんで、独立性というよりは、むしろ上記の1)に絡むような、一首で勝負にいけるかという詩的結晶度の問題かもしれません。例として挙げた吉川さんの歌は詩的結晶度のあるいわゆる「秀歌」だと思うんですよね。その観点からは、荻原さんご指摘の30首目も確かに一首では弱くみえるけど、これは一連の着地としての役割が重いので多少そうなるのはわかります。ほかにおふたりがいいとおっしゃった歌では、

][

          食べれば食べるほど   
飢えてゆく    レミングの
焦り      の
ような戦争だった 


IX

        ねとねと       が
             うにゅうにゅ     を 喰い散らかして
    ぞわぞわ          増える
 粘菌      も
いい


この辺りはこのまま単独で勝負できるものなのか、やや不安を感じます。そもそも単独で勝負できなくてはいけないのか、という問題はあるわけですけど。そちらはもっと極端にコンセプチュアルな連作についての話し合いで浮上してきそうですね。逆に島さんの作品を連作の有機性というか相互作用という方向からみると、狙いのひとつでしょうがきちんと歌番号がふってあったりして、加藤治郎さんの先例作品のように歌同士が混ざって(?)一首の単位も定かでないというようなやり方はしていませんね。だからこそ一首ごとの結晶度が意識にのぼるのかもしれません。荻原さんご指摘の「先例のもつ「重さ」がなくきわめてソフトに実現」というのは感触としてよくわかります。


[457] Re[456][455][454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月29日 (金) 13時29分

>加藤さん

> 「空間」として文字を配置する平面を見ている

> 短歌形式の場合、定型の律と、こういった表記との相互作用が出てくる

といったところ、よくわかりました。
「原稿用紙では駄目で」というのは、
なぜそう言えるのか検証は要りそうですが、
歌人が【印刷状態を想定する】だけでなく、
【実際に自身で版下を起こしている】、
つまり、DTP状態になっていることと
何かかかわりありそうですね。

どうもありがとうございました。(^^)

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[456] Re[455][454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 加藤治郎 2003年08月29日 (金) 12時45分


そうですね。
視覚効果によって生じるリズムということですね。
意味と音、この場合漢字を含めて同じでも、表記形式が違うとリズムは違ってきますね。
当たり前ですが、仮に

人類がうまれたひのことおぼえてるたいくつなひかわりばえないひ

と表記されたときとの違いは明らかだと思います。

石川啄木、土岐善麿の多行表記と比べると、3行で表記されているわけですが、彼らの場合、中心にあるのは、「行」であり「改行」ですね。

島さんの場合、操作としては改行ですが、中心にあるのは「空間」として文字を配置する平面を見ていること。
そこが違いますね。

現代詩との比較ということも出てきますが、現代詩がネットで発表されると、どんな感じになるか、まだこれからだと思いますね。
短歌形式の場合、定型の律と、こういった表記との相互作用が出てくるので、非定型詩の改行とは、また違ってくるんじゃないか。

空間として、短歌の場を見ていること。
それが新しい。
それは、原稿用紙では駄目で、こうした巻き紙的な空間と、自在に文字を配置できるワードプロセッシング環境が必要なんです。



[455] Re[454][453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月29日 (金) 03時10分

>穂村弘さん

そう言えば、「一首の独立性」のことって、
たしか前回の選考のときにも出た問題でしたね。
独立してない/している、議論になると、
間違いなく膠着が予測されますが、(^^;;;
穂村さんが独立性の薄さを感じる歌の例示、
(可能ならばちょっとコメント付で、)
どうぞよろしくお願いします。
そこはいま議論を詰めずに先に進みます。



>加藤治郎さん

一点だけ、確認的に。
「視覚的リズム」「視覚的な韻律」ということ。
もう少しだけ説明をお願いできますでしょうか。
さかのぼれば、石川啄木、土岐善麿も多行ですよね。
他ジャンルにも、現代詩の改行や多行俳句があるわけで、
そうした歴史的な改行表記、他ジャンルの改行表記と
「日本語のワードプロセッシング環境が生みだす必然」との
差異みたいなところで、何かあれば、お願いします。

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[454] Re[453][452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月29日 (金) 01時24分

加藤治郎さん、
島なおみさんの作品へのコメント、
どうもありがとうございました。



引用の際の、歌番号的に使われたローマ数字が、
たぶん化けているのではないかと思います。
とりあえず内容でわかるので問題ないですけど、
最後のところの、「ハルオ」を思い出すというのは、
「0
 1」
「…たい殖えた」
の二首ですね。(^^)

言葉では ない言葉では ない言葉 ではない言葉 ではない言葉/加藤治郎
1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0

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[453] Re[452][451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 加藤治郎 2003年08月29日 (金) 01時00分

「才気煥発」というのは、短歌新人賞の世界では死語だと思っていたが、島さんには、まずそれを感じましたね。
まあ、なまいき、ということですが。いいと思います。

穂村さんが言う「詩的な相乗効果が弱い」については、表記の効果とポエジーが相殺されずに、というか、表記が醸し出すポエジーの印象の方が強かったです。
「一首の独立性」については、作品が相互に凭れあっている、相互補完的という感じは殆どなかったです。

視覚的リズムの効果・可能性を、あらためて思いました。
この場をうまく生かしていますね。
横書きで、なおかつ、ページという制約がないから、かなり思い切ったことができる。
なんでみんなやらないんだろ、ってね。
黙読の韻律よりも、視覚的な韻律の方が強いかもしれない。

挑発する感覚が一連に充ちていて、それが読む快楽だった。

特にいいと思った作品を引いておきます。

X


とうめいな羽音
   (近づき)bbbb     (遠ざかり) b  b   b
      (近づき)  b b bbb
(触れて)b             (遠ざかりゆく)  b   b   b



]

           人類がうまれた
           ひ        のこと  おぼえてるたいくつな
           ひ        か     わりばえない
           ひ


][

          食べれば食べるほど   
飢えてゆく    レミングの
焦り      の
ような戦争だった 


]]Z

              落
              雷
                  ののちの楽園 
                         雨
              に
              芽を
           吹いて
             わ         、
             た       、
                し           、
                   が               、
                   増       、
                   え          、
                   る       、
                                快  、
                              楽


]]\

               われ       とは
               何          ぞ      や。
限りな  く   続く   問い 
0 
1 
               そ 
0 
              れは 
1 
              生き 
0 
             るため 
1 
0 
              の饒 
1 
0 
               舌 
1 


]]]


                    …たい殖えた
     い殖やして殖え
               たい殖えた
                        い殖えたい殖え
  たい殖えたい殖…




]]\ 、]]] は、私の『マイ・ロマンサー』の「ハルオ」という連作を思い出すけど、まあ、知らないでやっているんだろうが、根っこは同じですね。
日本語のワードプロセッシング環境が生みだす必然を感じて、おもしろかったです。



http://www.sweetswan.com/jiro/


[452] Re[451][449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月28日 (木) 22時39分

司会を兼任すると、
自分のコメントを入れるタイミングがむずかしいですけど、(^^;;;
加藤さんにまとめていただいてる間に、入れておきますね。



[ID 24]、島なおみさんの
「エデンプロジェクト ―わたしは世界を席巻する―」。

受粉・植物の増殖、
国家の世界への進出、
自己実現ないし自己の拡大、
といった「欲望」にからむ抽象概念をそれぞれ関連させて、
現在、現実にぼくたちをとりまくイメージを、
うまくたちあがらせているのを感じました。

IX

        ねとねと       が
             うにゅうにゅ     を 喰い散らかして
    ぞわぞわ          増える
 粘菌      も
いい

という歌は、具体的には顕微鏡的な視野でしょうが、
昨今まさに「ぞわぞわ」している国際情勢、
みたいなところにもスムーズにつながる感じです。
それから、

IV


 じめての 愛は 
          ひとりきりだった
      完全な
          イブと い
                つ
                  か
          よばれて

という歌、連作的な流れでは、
たぶん単性の生殖のイメージかと思いますが、
(どこかミトコンドリア・イブも連想されました。)
一方で実生活的な孤独感みたいなものが読みとれます。

まず、こういう連作の意味やイメージの多層性、
といったところでおもしろく読みました。



それから、もう一点、
見ての通りのかなり派手な表記法ですが、
短歌における比較的新しい記憶としては、
加藤治郎『マイ・ロマンサー』の「VX」、
といったところにつながる印象をもちます。
さらに新しい記憶としては、
岡井隆『E/T』における、
横書き改行表記はもっと近いでしょうか。
この加藤、岡井のトライアルにつながるのかな。

ただ、島さんの場合、先例のもつ「重さ」がなく
きわめてソフトに実現しているのが印象的ですね。
この種の表記法を展開する場合に必要な(とぼくが感じる)、
単純さとおもしろさがあって、いいなと思います。
特殊な技(?)をほとんど使わずに、
大半は改行とスペースだけで展開しているわけですから。

あと、花粉の飛散のイメージとか、
細胞の分裂・増殖のイメージとか、
何かそういった連作にかかわるイメージを
具体的に「かたち」として見せている、
のではないかということも感じました。
(余談ですが、ブラウザをスクロールすると、
万華鏡を見ているみたいな感じですね。)

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[451] Re[449][448]: [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月28日 (木) 21時43分

穂村弘さん、
島なおみさんの作品へのコメント、
どうもありがとうございました。



マイナスポイントとしてあげられたのは、
1)言葉の連なり自体にさほど意外性がなく詩的な相乗効果が弱い
2)もう少し一首の独立性が欲しい
といったところですね。

1)については、あわせて、
表記とのバランスかも知れないと留保を入れていますが、
これは、自在になりすぎると逆にわかりにくい、といった
価値の表・裏を構成する要素かも知れませんね。

2)は、ちょっと意外な気もしました。
たとえば、30首目の作品でしょうか?
全体に抽象的な文体が多い気もするので、
連作中の一首の独立性の問題というよりは、
文体の特徴の問題かな、とも思うのですが、
30首目以外にも具体的にわかりやすいのがあれば、
例示をお願いできますでしょうか。
どんな作品に対して感じているのか確認しておきたいので。
どうぞよろしくお願いします。



では、ぼくも別にコメントをまとめますが、
加藤さん、島さんの作品について、いかがでしょうか?

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[449] Re[448]: [ID 24] 島なおみ作品について 穂村弘 2003年08月28日 (木) 17時43分

穂村です。
では[ID 24]島なおみさん「エデンプロジェクト ―わたしは世界を席巻する―」から。
アクロバティックな表記の工夫によって言葉に重層性を持たせているところが面白いと思いました。何度か出てくる「ポリネーター」がわからなかったのですが、花粉媒介者のことらしいですね。種としての人間の運命みたいなものを「花」にオーバーラップさせてるのかな。一首だけあげると例えばこんな歌がいいと思いました。ちゃんとコピーできるかな。

XXVIII

             半
                 円
                    の
                      地
                         球
                           が
                            空
                              に
        浮     か    ぶ     の         を


た      見ましょう 
                       あなたの     庭  で


歌葉新人賞という場に対するトライアルとしても新鮮だと思います。弱点としては、言葉の連なり自体にさほど意外性がなく詩的な相乗効果が弱いことかな。ただこれは表記とのバランスの問題で意識的に抑え気味になっているのかもしれませんね。あとトリッキーな書き方をする場合でも、もう少し一首の独立性が欲しいような気はします。アクロバティックでかつ一首で勝負可能な例としては吉川宏志さんのこんな作品が思い浮かびます。

「鵙は『ガリア人が(円都は〈滅びた〉と言った)と言った』と言った」

※「鵙」に「もず」のルビ。



[448] [ID 24] 島なおみ作品について 荻原裕幸 2003年08月28日 (木) 13時25分

こんにちは。
あらためまして、
今回、司会進行を兼任する荻原です。
どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

これからしばらくの間、
候補作品を順に読んでゆきたいと思います。
今回は、オフラインで、
公開での最終選考会を予定していますので、
ここで議論を尽くしてしまうことよりも、
三人の意見、特に意見の相違点を確認すること、
に重点を置いて進めてゆきたいと考えています。
議論の膠着をできるだけ避けて、
テンポ良く進めてゆくつもりでおります。



では、まず、[ID 24] 「エデンプロジェクト ―わたしは世界を席巻する―」から。
島なおみさんの作品です。
加藤さんと荻原が選んでいます。

えと、そうですね、
まず、穂村さんからお願いできますでしょうか。
30首全体のこと、表記のこと、いい歌わるい歌、その他、
視点は自由で構いませんので、ご意見をお願いします。

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[447] 【みなさんのコメントについて】 荻原裕幸 2003年08月28日 (木) 12時11分

こんにちは。(^^)

選考委員のディスカッション中の
各候補作品に対する
みなさんからのコメントについて。

原則として応援のコメントのみとして下さい。
作者自身による応援コメントでも構いません。
また、三者の議論に直に割って入るコメントは、
できれば避けていただきたいと思います。

タイミングとしては、
対象としている作品について、
選考委員の三者のコメントが一通り出てから、
としていただけるとありがたいです。
また、コメント数は、今から受賞者決定までの間に、
1作品に対しては1人1コメントと限らせて下さい。

みなさんからのコメントの内容について、
選考委員がこの場で直にレスをすることは、
あまりないと思いますが、
もちろんきちんと読ませていただき、
最終選考の参考にさせていただきます。

どうぞよろしくお願いします。

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