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第5回 歌葉新人賞
【リアルタイム・スペース】


途中経過、選考の模様などリアルタイムで公開しております。
このスペースは、みなさんの投稿を歓迎いたします!


[第5回募集要項へのリンク]
[第5回候補作品一覧へのリンク]




第5回ニューウェーブ短歌コミュニケーションのご案内
No.1046
Name佐藤りえ
Date:2007年03月12日 (月) 19時28分
Mailfragile@fun.cx

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第5回ニューウェーブ短歌コミュニケーションのご案内

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このたび、第5回歌葉新人賞授賞式
及び記念のシンポジウムを
開催することになりました。
みなさまのご参加を心からお待ちしております。

◆日時 2007年4月15日(日)13:30〜17:00
(受付開始 13:00)

◆会場 日本出版クラブ会館
東京都新宿区袋町6
TEL 03-3267-6111

交通アクセス
JR飯田橋駅(西口)徒歩8分
地下鉄都営大江戸線 牛込神楽坂駅(A2出口)徒歩2分
地下鉄有楽町線・南北線 飯田橋駅(B3出口)徒歩7分
地下鉄東西線 神楽坂駅(神楽坂口)徒歩7分

◆プログラム◆

*授賞式 第5回歌葉新人賞受賞者 廣西昌也

*シンポジウム

【鼎談】「短歌は新人に何を求めるか」
 荻原裕幸×加藤治郎×穂村弘

【公開討論】「新人は短歌に何を求めるか」
 司会:穂村弘
 ※公開討論の部ではご出席者からご意見をいただきながら、
  会場全体でのディスカッションを予定しております。
  ふるってご参加下さい。

*懇親会
 シンポジウム終了後、17:30より近隣にて懇親会を行います

◆参加費◆
シンポジウム 1,500円
懇親会 4,000円

◆参加申込先◆
佐藤りえ宛て
メールでお申し込みください。(タイトル欄参照)

◆申込み記載内容
1) 申込みパート
*下記から1つお選びください。会費は当日いただきます。
(1)シンポジウム及び懇親会
(2)シンポジウムのみ        
(3)懇親会のみ      

2) お名前 所属グループ名
*メールのタイトルには「第5回NTC参加」とお書きください。

◆受付締切
4月12日(木)
*お席に限りがございますので定員になり次第締め切らせて頂きます。
 尚、満席の場合は当方よりご連絡を差し上げます。

◆主催:
SS-PROJECT(荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘)
コンテンツワークス株式会社

【歌葉】の歌集を購入ご希望の方は、
BookParkまでお願いいたします。
http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/

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みなさまのご参加を心からお待ちしております。
よろしくお願いいたします。


B型で水瓶座の廣西です
No.1045
Name廣西昌也
Date:2006年11月15日 (水) 13時20分

 今回第5回歌葉新人賞を頂くことになり、心から感謝いたします。
 第1回から応募してきて、普段批評してもらう機会の乏しい私にとって大変な刺激になってきました。選者の方々の年ごとのコメントを受け止めながら、どう短歌を作っていくかという作業を続けることができたことはたいへん幸福なことだと思います。
斉藤斎藤さんがおっしゃっていたように、今後、短歌に積極的に関わっていくことで、受賞の恩返しができるように、前向きに行動していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、荻原様、加藤様、穂村様、関係者の方々、ほんとうにありがとうございました。


"songs" goes on
No.1044
Nameフラワーしげる
Date:2006年11月13日 (月) 12時30分

こんにちは

 新人賞決定しましたね。祝辞とお礼と感想を。

 廣西さん、中田さん、おめでとうございます。
 廣西さん、豊かな歌才がおそらくこの機会を得て、全開されることと思います。今後の活躍間違いないですね。御挨拶できませんでしたが、またお目にかかれるのを楽しみにしております。
 中田さん、わたしも穂村さんがおっしゃったように、中田さんの歌には新しいものを感じました。今後の御活躍楽しみです。

 候補者の方々、みなさま、お疲れさまでした。経験してみて分かりましたが、これはけっこうきつかったですね。受賞の期待は後になればなるほど薄く成って、当日はゼロに近い状態でしたが、どうも長いお預けの状態と目の前の審査はちょっと拷問に似た感じもありました。でも、いい経験と言えば、いい経験でしょうか。それに色々な場所で批評してもらったことはやはりいいことだったような気がしますし(歌葉24時、裏葉、ついでに2ちゃんにも感謝)色々な感覚があるものだとあらためて思いました。仕事が滞ってしまったので、そのへんはかなり厳しかったですが。ともあれ、候補者の未来に愛と友情がごろごろ転がっていますように。

 順番としては後になってしまいましたが、選考委員の荻原裕幸さん、加藤治郎さん、穂村弘さん、ありがとうございました。ほんとうに稀有な機会を与えてくださったこと、幾ら感謝しても感謝したりない気がします。
 荻原さん、わたしの短歌にたいする評言「短歌にたいする悪意がある」というのは、ひじょうに面白く、どのあたりがそうなのか詳しく伺いたかったし、短歌にたいする悪意があったらいけないのか、そういうものにも文学的な、詩的な価値があるのでは、ということも伺いたかったのですが、それはいつか直接話せばいいですね。あの場では精細な議論は無理でしたし。
 加藤さん、わたしのものが全応募作のなかで一番短歌的な韻律がある、との評言ただ驚きました。短歌の批評って深いです。人間味がある、に関しては、あらためて考えました。人間味があるのもいいですが、人間味がないのもいいなとも思っているので。
 穂村さん、韻律がないと自分としてはとれない、との発言は御自身の短歌にたいするスタンスに関する明確なクレドですね。穂村さんのそのスタンスと、わたしのスタンスには深い懸隔があるような気がいたしました。
 もう一読明らかだと思うのですが、わたしは「短歌的」韻律より、意味のほうを優先してしまいます。いや、じつはわたしは57577にあまりにも忠実な意識をもった短歌はそれだけで、アレルギー的な拒否反応を起こしてしまいます。だったら、どうして短歌を作っているのかと、言われそうですが。しかし、結果的に57577という形になったという印象の歌も多く、そうした歌はとても好きです。自分のそうした感覚を考えると「枠」といったものにたいする拘泥なのかなという気がしています。
「枠」は好きではありません。しかし、それがないと何事も成立しないし、そもそもわたしは短歌という「枠」も嫌いではない。
 でも、短歌の韻律という枠は、短歌のジャンル性をあまりにも強調しすぎてしまうような気がしてしまうのです。わたしはひとつの短歌をもって、ひとつのマンガと、ひとつの小説、ひとつの映画と勝負したいです。そうして、そのためには意味先行のほうがいいと思っています。もし、短歌というジャンルが、ほかのジャンルと勝負したために、拡散、霧消という形になっても、それはそれでいいと思っています。それだけのものならそれだけのものですし(こういった姿勢を荻原さんは鋭く察知されたのかもしれません)。
 ジャンル内を固めて、優れたものを作って、それで他ジャンルと勝負したらいいではないかという考えもあるかなという気もしますが、そういうスタンスは澱みを作るだろうなという気がします。
 ただ穂村さんの、中田さんにたいする評価、それは短歌的描写という文脈のうえで、新しいリアリティーを追求している、ということだったと、わたしは解釈しているのですが、それはわたしも似たようなことを感じました。
 中田さんの短歌は、おそらく「認識」に関する短歌なのではないでしょうか。認識そのものについての短歌、認識される対象についての短歌ではなく。
 認識の手段について中田さんは拘泥されているのかなとわたしは思いました。
 そしてそれはかなりの程度意識的なものだろうなと思いました。たぶん中田さんは自分の認識システムに関して、かつて深刻な状況に瀕したことがあるのではないでしょうか。そうして、その後、認識システムを再構築したのではないでしょうか。それが、表現上説得力を持った、わたしはそう考えています。
 触覚を一度失った人間が、それを徐々に取り戻していく過程で、そうそう触覚ってこういう感じ、と学習していくようなものをわたしを想像しました。
 一方、中田さんの作品にたいする抵抗感のようなものも分かります。加藤さんが具体的にどういう言葉を使っておられたか、覚えていないのですが、つまりは、練られていない、ということだったと思います。荻原さんも最初は中田さんにたいしては肯定的ではなかったと思います(その後、意見を変えられましたが、唐突な印象を受けました。時間が押していなければ、あの場でもうすこし詳しく聞きたかったですね)。
 そうした、中田さんの作品にたいする抵抗感というのは、やはり、中田さんの作られるものが、短歌という表現形式にたいする拘泥より、認識にたいする拘泥のほうが先行していて、短歌的作品性の点で、見るべきところが少ないという印象があるからだと思います。

 また、ものすごく長くなっています。すみません。待機の時間があまりに長かったので、たまっていました。最後に面白かったことをひとつ。

 審査に耳を傾けていたのですが、何となく後ろを向くと、後ろにいたふたりの女性が、なにやら言いたげで、それから髪を結わえたほうの方が、わたしの左肩から何かをつまみあげて、それを床に捨てました。全体の意味を把握していないながらも、何となくお礼を言い、また審査に注意を戻したのですが、そうしながらも、何が肩に乗っていたのか、少し気になりました。もしや○○ブ○と思ったのです。そのまま真実を知らないのも面白いかなと思いましたが、好奇心に負けて、二次会でその方にうかがってしまいました。
答えは「蟻」でした。なぜ、あんなところに蟻がいたか不思議です。誰かの身体の付いてきたのでしょうか。お二方、ありがとうございました。一方の方は黒崎さんでしたよね。あと、二次会はものすごく楽しかったです。他の候補者たちに会うのはものすごく不思議な感じでしたし、遠方からの方もたくさんいらっしゃって、リアルとネットと時間と場所を超えたお祭りのようでした。早めに帰らなければいけないのがほんとに残念でした。またみなさんにお目にかかりたいものです。

 さて、短歌も短歌の批評もつづいていきますね。最後に歌をひとつ、キリンジの本歌取りですが。

 歌の神は意外に背が低く温度計柄のシャツでその内側の汗の冷たさ


無事終了しました
No.1043
Name多田百合香@ぷらむ。
Date:2006年11月13日 (月) 12時05分
Mailshichigatsunovember@yahoo.co.jp

第5回歌葉新人賞が決まった翌日に
第2回歌葉新人賞次席の兵庫ユカさんの
『七月の心臓』批評会、無事開催、終了いたしました。
おかげさまで満員、
とても熱のある批評が繰り広げられました。

ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。
また、貴重なスペースをお借りして宣伝させていただきまして
ありがとうございました。


第5回歌葉新人賞決定
No.1042
Name加藤治郎
Date:2006年11月12日 (日) 23時21分
Mailjiro.kato
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

各位

11月11日の公開選考会にて、下記の通り受賞作が決定いたしました。


 第5回歌葉新人賞
 廣西昌也「末期の夢」

 次席
 中田有里「今日」


おめでとうございます。

         選考委員 荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘



市川周さん「午後の右翼手」(穂村弘コメント)
No.1041
Name穂村弘
Date:2006年11月01日 (水) 03時45分

 穂村弘です。コメントです。

 ● 市川周さん「午後の右翼手」

 山なりのバックホームを熟れてゆく午後の裂け目へ さぁ 投げましょう

 この一首にみられるように、野球のメタファーによって〈時代、日本、人生〉の「午後」の感覚を詠った連作と読みました。「山なりのバックホーム」は野球のゲームにおいて有効とは云いがたく、今更投げても無駄かもしれない。でも、「投げましょう」、と敢えて云っている。既に「午後」を迎えた〈時代、日本、人生〉の空虚感や不能感をなんとか熟れた価値に転換しよう、という気持ちが連作の構成や文体上の工夫に表れているようです。

 わたくしはまだ生きている自販機のお茶のみどりが美しいから
 半袖じゃ寒いねでもねもう少しリリーフカーでゆけるとこまで
 ステロイドまみれの汗が乾く頃しまい忘れたお立ち台に蝶
 助っ人に帰る島なしテレサ・テンくちずさみつつ見送る放物線   *放物線=アーチ
 老将の静かな夢にふれぬよう耳をそよがせ称えあう犠打
 スクイズは小フライになり昏れる夏 母さん僕は失態ですか

既に大きな勝負の山場が過ぎたあとの敗戦処理を、どのように意味あるものに、そしてできれば美しいものにしていくか。これらの歌の、批評性を伴った苦さのなかにそんな願いが感じられます。

 シャチョさんと呼ばれた僕は右翼手だが天国の優待券をもらった *右翼手=ライト
 「野球中継の途中ではありますが 井伏さんは・・・悪人です。」
 さようなら WBC決勝のウラで暴れている巨大イカ

 「シャチョさん」「天国の優待券」は客引きでしょうか。「井伏さんは」は太宰治の手紙か遺書でしたっけ? 「ウラ」はテレビの裏番組の裏かな。いずれの場合も、メタファーとしての野球が世界を覆い尽くすことができずに、どこからでも自由に破れてくるような感触があって、それが逆に心地よいですね。破れ目からパラレルな別世界のさまざまな色がみえる面白さって「午後」の特権かもしれません。これが「午前」や「正午」だったら、ひとつの世界がもっと強くて支配的になるんじゃないかな。

 きみに手をふったなんだか手をふってばかりだなぁとおもった たたた

 この「たたた」なんかも、弱くて、でも自由で、微妙に野球で(?)、いいと思います。

■■■以上原稿■■■


黒崎恵未さん「ふたこぶらくだ」(荻原裕幸コメント)
No.1040
Name荻原裕幸
Date:2006年10月31日 (火) 22時40分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

荻原裕幸です。コメントの続きです。



黒崎恵未さんの「ふたこぶらくだ」。
一連を読んで、圧倒的ではないか、という印象でした。
ここまで徹底して、セックス、セックス、セックス、と書き、
そのディテールから身体的感覚や精神的感覚までも露出させて、
なおかつ露悪的な印象をうけなかったのが、実に圧倒的でした。

 レイプみたいだからやめてと言われても吐き出すように泣き出してしまう
 ボタンボタンほつれてるのは服だけじゃなくてその中 ずっと治らない
 ままごとのオプションとしてセックスが付いてるような二人の暮らし
 膣に指 指にも膣にも神経があるから二倍きもちがわるい
 肩紐とショーツを糸切り歯でずらす人が男に退化していく

読んでいて、どうにも歯止めがきかなくなっているな、と思いながら、
その、歯止めのきかなさ、がここまで徹底して方法化されていることに、
書かれている内容のどぎつさを的確に選択した冷静さを感じました。
18禁とかR指定とか、ほぼそれに近いものがあるわけなんですが、
読んでゆくうちに、着衣の状態の方が何か不自然、と思いはじめるほど、
これらの歌が、説得力のある一生活風景/感覚として見えて来ました。
エロティシズムとか官能とかいうのとは位相の違う、不思議な性描写ですね。
たぶんそれは、連作全体をつらぬくモチーフが、意外にシンプルな、
生にともなう欠落感、のようなものだからで、
セックスが、その確認と言うか補完と言うか
補完を求めてなお欠落が深まる日々の象徴の一つとして
認識されている(無意識の認識?)からではないかと思います。

 肯定が肯定の箱を開けていく底を見るまで明るい会話
 がんばってどこかの奥の奥の奥にしまったカッターがみつからない
 心臓の音を聞くのにそんなにも切ない顔をしないでほしい
 重力が効かないわたしの内側を私は歩く瞳を閉じて

これらは、他に比してさほどインパクトをもらたす歌ではありませんが、
もがくように生きてむしろさらに深めてしまう生の欠落感のようなものを
すっきりと端的に見せているのではないかと感じました。
こうしたモチーフの強度をそのままあげてゆくと
圧倒的な性描写というところへゆくのではないかと思います。
どろどろした世界のような表情をしながらも、
その奥には透明で清澄で切実な世界が広がっているようです。


廣西昌也さん「末期の夢」(荻原裕幸コメント)
No.1039
Name荻原裕幸
Date:2006年10月31日 (火) 21時43分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

荻原裕幸です。コメントの続きです。



廣西昌也さんの「末期の夢」。
父の病と死を描いた作品ですが、
病だからどうだ死だからどうだという
残される側の心の整理みたいにはならず、
あくまで出来事を出来事としてスケッチしたところに、
この一連の切実さや魅力があるのではないかと思います。

 廣西さん、名前は何?と問われるに坂本と言う 旧姓を言う

事実関係をまったく知らないので、
一首の背後にある私事的な広がりは読めませんが、
実際にそうだったかどうかということではなく、
この風景に自分も出逢ったことがあると錯覚させるほど
ほんとにそこでそういうことがあったんだ、と感じられる一首でした。
分析的に言えば、固有名詞の効果とか、問答の語順とか、
定型の活用の匙加減とか、そういうテクニカルな話でもありますが、
出来事を、生き直している、と言ったらいいでしょうか、
作者は、書くことによってその時間を体験し、
読者は、読むことによってその時間を体験するという、
リアルなコミュニケーションが成立していると思います。

 二晩の看病を終えゆうぐれの吉野家が宇宙ステーションに見ゆ
 初七日も初夜も覚えてないのかな遠く鳥居が見える病窓
 病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ
 「砂浜に隠した」という笑みながらすぐ昏睡の海に沈みぬ
 焼いてきた帰りに見えて美しき無人販売所の新キャベツ

これらの歌には、それぞれ、
体験の強さを効果的に見せる機知が入りこんでいるようですが、
それがつくりもののように見えない何かがあると思います。
書きながらその時間を実際に生きているという
ある種の作者側のトランス状態のようなものかも知れません。
方法論として説明するのはむずかしいですけど、
文体の強度というのは、自身の精神状態を
どういった位置に維持するか、に左右されますので、
意識のありようを一つの方法とした、とは言えそうですね。
読後、他者の体験した出来事だとは感じられなくなるほど
強く惹きこまれた作品でした。


東郷真波さん「発泡ひこうき」(荻原裕幸コメント)
No.1038
Name荻原裕幸
Date:2006年10月31日 (火) 21時00分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

荻原裕幸です。コメントの続きです。



東郷真波さんの「発泡ひこうき」。
一連すべて、「あのひと」とわたしの関係をめぐっているわけで、
そうした、恋愛もの、として読むと水準作的ではありますが、
連作を安易な物語の枠にはめずハイテンションなまま突き抜けてゆくところ、
それともう一点、関西的方言で構成された内面の二重性のようなもの、
このあたりに突出かつ傑出した感覚があるように思います。

 たっぷりのドレッシングの照り返しだけがすべてを愛してくれる
 うつむいた月へたしかに中指を立てて晩春はるかなけむり
 黒いビニール・レイン・コートをかきわけてひかりはじめた頬を見ている
 プラスチック・スプーンですくうひとかけの記憶から噴きあがる新緑
 植物園行き特急は忠実な獣ふたたび唸りはじめた

恋愛を描く、というのは、おおむね
その恋愛から冷めた地点で、俯瞰的になされるもので、
そうでなければ「あなたとわたし」の関係が見えづらいわけです。
この一連にはそういう俯瞰はなく、猪突猛進的ですね。
ある意味、「あなた」がいなくて「わたし」しかいない世界ですが、
他者である「あなた」を「わたし」の認識内にむりやりおさめ、
類型的物語の枠をはめない、という無意識の選択があるように見えます。
ハイテンションにひたすら「わたし」であるところが、
この一連のリアリティをたしかなものにしていると感じます。

(あのひとはただわろうてたはつなつの象牙のいろのばらを抱えて)
(どの傘を追うのやろうか北山の向こうから来る 雷鳴と来る)
(ひやっこい貝がら踏んでいつかこのみちゆきぜんぶ思いだしたい)
(忘れてな 逆光のなか顔あげて泣きだした横顔のそのまま)
(あのひとも言うたはったよじきにこの浜辺も沈むそやから、行かな)

それと、このパーレンでくくった方言的文体の歌群、
俯瞰するかわりに内省して一連の構成を支えているわけですが、
絶妙で、効果は抜群だと思いました。
ほとんどの短歌はそもそも内省的文体で書かれているのですけど、
パーレンと方言とで構成された作品が、ふっと本音をにじませるように、
あるいは、ハイテンションな「わたし」に気づいたかのように、
連作を貫く視点に、奥行きや二重性や現実感などを与え、
映像作品のナレーション風な効果をあげているようです。
連作的効果だけではなく、この方言的文体の切実感は
一首単位で読んでもうまく活きていますね。


佐原みつるさん「水曜の森」(荻原裕幸コメント)
No.1037
Name荻原裕幸
Date:2006年10月31日 (火) 20時19分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

荻原裕幸です。コメントの続きです。



佐原みつるさんの「水曜の森」。
一連三十首にまったくすきのないつくりで、
この技術力と構成力をまずはじめに賞讃しておきます。
一週間を単位として繰り返される日常を描いているために、
「この一週間」ではなく「何度も来る一週間」に見えてしまう
という構成上のハンディを負っているわけなんですが、
そういうハンディをものともせずクリアしていると感じます。

 キーボードに時間は青く溶けだして誰もが口をつぐむ火曜日
 通信の途中で電源が落ちて水曜の森へ届くFAX
 木曜の大きな窓に差す西日マウスパッドに金魚が跳ねる
 金曜は半分開いた抽斗にゼムクリップが冷えて固まる
 日曜はアンモナイトの文鎮をシンクの洗い桶に沈めて
 もうだれに会わなくてもいい月曜は日の暮れるまで靴を磨いて

一首の強さ、構成の巧さ、というのは、この一連の場合、
曜日の入った、全体のフレームを形成する作品にもあきらかです。
フレーム的な情報をもった作品というのは、連作のネック、
一首の独立性や全体のバランスやモチーフへのリアルな没入
などを欠いてしまうファクター、になりやすいのですが、
これらの作品は一連の背骨のように強く良質だと思います。
条件(フレーム)のために弱くなるどころか、
抜き出した部分だけでも連作的流れが揺らぎません。

 まだ誰もいないフロアの片隅の固定電話に降りつもる雪
 玄関のシンビジウムにふくませるコップ半分ほどの感情
 前髪が中途半端に伸びていてマウスポインタ見失う午後
 議事録を手渡す指の一センチ向こう側には川が流れる
 右側の耳に残って離れない排水口の水を吸う音
 欄干に凭れたままで待っているたとえばなにか揺れているもの

また、こうした作品に見られる、
眼前の世界が、悲劇的に、もしくは、祝祭的に、
何か別の世界へとかたちを変えてゆくポイントのみきわめが、
実に巧くて舌をまきました。うますぎるくらいかも……。
うますぎるとリアリティがなくなる場合もあるのですが、
これは、巧さが現実感を損ねていないところも実にいいですね。


望月浩之さん「それはまだ」(荻原裕幸コメント)
No.1036
Name荻原裕幸
Date:2006年10月31日 (火) 19時37分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

こんにちは。荻原裕幸です。
候補作へのコメントしてゆきます。



望月浩之さんの「それはまだ」。
体験した時代を懐かしむという意味でのノスタルジアが、
しかも、その時代の重さを背負わない純然たる感じのノスタルジアが、
いつの頃からか、文芸等のモチーフとして非常に好まれているようですね。
この一連もそうした流れの範疇にあるように思います。
丁寧に、息切れせず、有機的な感じで三十首をまとめ、
完成度の高い一連にしあがっていると感じました。

 さみしさは公園裏に置かれてるミラーフィルムの張られた自販機
 自転車屋の奥の壁にはメンバーも変わってしまったドリフのポスター
 最後まで鳴らなかった教材のトランジスタラジオの半田の匂い
 カバンには行ってる事になっていた学習塾の月謝の袋
 ほとんどのチラシの裏が白かった頃に飛ばした紙ヒコーキ

これらは、思い出話が一般化され過ぎているかなとも思ったのですが、
ありがちな、笑い飛ばすような処理をしなかったところが良くて、
理由の見えない不思議な涙を誘うようなところがありました。
時代的にも重なるのでしょうけど、ちびまる子ちゃんの世界を煮つめたら、
あるいはこんな風になってゆくのかなとも思います。
破調だらけですが、五句構成はきちんと意識されているようで、
そこも意外に気にならずに読めました。

 乾かない昨日の水着はくようださみしさだけで重ねたからだ
 空欄の 月 日 曜日だけ黒板に残されている春の教室 
 レコードのおなじところでとぶ針を指で掬った若い女教師
 革靴の紐がほどけていることに気付いた僕の影が濃い夏
 閉まる音しなかったので振り向けば冷蔵庫からこぼれる光

一般化されてない分だけ、こちらはノスタルジア性が下がりますが、
かわりに、体験の強度のようなものを秘めているのを感じます。
どこまでもかぎりなく些末なことへと視線が向いているのに
それがものすごく切実なことのように感じられるのは、
感情の起伏を意識して抑える文体の効果ではないかと思われます。

この一連はモチーフをノスタルジアに絞りこんだものでしたが、
一つのことにこれだけ特化して揺らがない構成力というのは
大いに買いますし、他作への期待もふくらみます。


中田有里さん「今日」(穂村弘コメント)
No.1035
Name穂村弘
Date:2006年10月30日 (月) 01時21分

 穂村弘です。コメントです。

 ●中田有里さん「今日」

 タイトルからもわかるように21世紀の「今日」の空気感を描くために言葉を使っていて、表現が一周回ったようにみえるけど、よく読むと新鮮です。短歌的にはリアリティの再生が試みられているようにも読めると思います。リアリティの創出じゃなくて再生という印象が面白い。斉藤斎藤さん、宇都宮敦さん、永井祐さんといった男性作者が意識的なところを、自然にこなしているような感じでしょうか。

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

意識の流れに忠実であろうとして意味の伝達を優先できない語順になっているのかな。去年の宇都宮さんの「真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは」を(こちらは明らかに意識的ですが)連想しました。

 てかてかと光った葉っぱがこの道の向こうに縦の信号の横

 これなんかも「この道の向こうに」の「に」のおさまらない感じに、生きている主体の感触があると思います。

 雨の日に銀杏が水に濡れていて雀が少しうるさくしている
 本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある
 昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある

 「雀が少しうるさくしている」っていう云い方が凄く〈今日生きている〉感じを伝えてくると思うんだけど、批評的にどう表現すればいいのか。一首目の「雨」と「水」のズレや、二首めの「本を持って帰って返しに行く」というブレた云い方と、この手触りは繋がっていると感じるけど、でもズレやブレが生のリアリティという単純さでは価値をカバーしきれないので困ります。
 ちょっと無理に云ってみると、「植木」と「壊しかけのビルがある」の並べ方とか、たぶん現実サイドでそうなっていることをそのまま書いているんだけど、この「そのまま」性はアララギ的な写実とは違った理由というか決意に基づいているんじゃないかな。「雨」も「銀杏」も「雀」も「本も」も「植木」も「ビル」も、こんにちではアララギ的な眼差しの期待値を受け止めるほどの生命残量を欠いている。その乏しさは「そのまま」では受け入れにくいところを、〈私〉の脳内で補うんじゃなくて、敢えて、フラットに大事にしようとしている? それは世界の豊かな奥行きを信じて期待してるからじゃなくて、うーん、なんだろう。選考会までにもっとうまい云い方をみつけておきます。

 バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下
 夜空とか映画館とか指先が見えなくなると会いたく思う
 羊かんを供えるように自転車で体を運ぶJRの駅まで
 6月の2日の朝に夏が来てあなたに会うので夏バテしそう
 青空のような夜空のベランダで洗濯バサミが少し欠けてる

など、どれもいいと思います。


廣西昌也さん「末期の夢」(穂村弘コメント)
No.1034
Name穂村弘
Date:2006年10月24日 (火) 02時00分

 穂村弘です。コメントです。

 ●廣西昌也さん「末期の夢」

 父の死という出来事を扱っていて、しかし、その重みに引っ張られることなく、深いところに手を入れた感触があります。

  病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ
  二晩の看病を終えゆうぐれの吉野家が宇宙ステーションに見ゆ
  焼いてきた帰りに見えて美しき無人販売所の新キャベツ

 みえている対象物自体は「犬」「吉野家」「新キャベツ」と変哲のないものなんだけど、斎藤茂吉の「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」じゃないけど、極限状況が生み出すテンションのなかで世界の奥行きを一段階広げてしまうような新鮮なみえ方をしているんでしょうね。というか、それを意識的に短歌化しているわけです。

  弟が、僕が乳児になっていて父が思わずいないいなーい、

 連作の最後に置かれた一首。かつていないいないばあをしてくれた「父」自身が「いない」という反転した世界の表現を通して、こわいような喪失感が出ていると思います。

  それぞれの時間持ち寄り夜伽という奇妙な夜がぼんやり終わる
  振り向けば既に光は絶えていて置き去りにした日暮れのこころ

 など、いつもながら秀歌が多いです。力のある作者ですね。


西島ぺこさん「あ いま泣きたい」(穂村弘コメント)
No.1033
Name穂村弘
Date:2006年10月24日 (火) 01時55分

 穂村弘です。コメントです。

 ●西島ぺこさん「あ いま泣きたい」

 おそらくは若さによる、生命力の風圧みたいなものを感じた一連です。この感覚はうまく説明しにくいんだけど、例えばこんな歌。

  からあげにビタミンCをしぼりだす なにかがくずれる音がしている

レモンを「ビタミンC」に置き換えているんだろうけど、それがレトリックかというと、ちょっと違うんじゃないか。個人に属するテクニックじゃなくて、もっと無責任で反射的でかつ切実なものに思える。歌の表面に反射的に置かれた「ビタミンC」という言葉の背後にある風圧の大きさが想像されて、それが「なにかがくずれる音がしている」にリアリティを与えているように思います。

  くちびるを半分開いて近づいた 流星群の話をしよう

 「流星群の話をしよう」はまあ普通ですね。でも、「くちびるを半分開いて近づいた」はなかなか書けないだろう。でもでも、これを書かせたものが個として才能とか技術なのかというと、そうじゃないように感じる。もっと無名の大きな力を借りているんじゃないか。それを借り続けることは誰にもできないんだけど、少なくとも、今、この一連においてできているということ。同じような手応えのあった多田百合香さんの作品を何度か候補に選んだのを思い出しました。

 こんなにも夜が深いと紳士でも血迷っちゃってとうぜんですよ
 爪をきる ぱちんぱちんというたびに君にさわった部分をすてる
 しゃりしゃりとこれはれんこん 暗闇で食べさせられてあなたとふたり
 母親はサムライのよう そがれてくゴボウが音を立てずに落ちる
 こじあけて 七色の水をそそいだら きみはちいさくあたしを呼んで

などもいいと思いました。


佐原みつるさん「水曜の森」(穂村弘コメント)
No.1032
Name穂村弘
Date:2006年10月24日 (火) 01時53分

 穂村弘です。コメントしていきますね。

 ●佐原みつるさん「水曜の森」

 オフィスの一週間を描いた連作。

  金曜は半分開いた抽斗にゼムクリップが冷えて固まる
  右側の耳に残って離れない排水口の水を吸う音

 全体に、体温が低い世界の面白さみたいなものを感じました。

  まだ誰もいないフロアの片隅の固定電話に降りつもる雪
  テンキーに叩き込まれた番号が蝶の名前に変換される
  通信の途中で電源が落ちて水曜の森へ届くFAX
  議事録を手渡す指の一センチ向こう側には川が流れる

 現実にオーバーラップするように、或いはその「一センチ向こう側」に、生々しい別世界の存在を感じつつ、しかし現身はあくまでもオフィスという「こちら側」にとどまりつづけている。
 その緊迫感が、微かな狂気の匂いを生んでいるようです。

  ゆるゆると坂道下る自転車のハンドルわずか右に傾く
  前髪が中途半端に伸びていてマウスポインタ見失う午後
  なんとなく別の眼鏡に掛けかえて世界は細い銀色の雨
  蝶の絵を留める画鋲を引き抜けばうすむらさきが部屋に満ちゆく

 描かれているのはいずれも実に「わずか」な変化や歪みや動きなんだけど、そのさり気なさに凄みを感じました。自転車のハンドルがわずかに右に傾いていたことが、前髪でマウスポインタを見失ったことが、なんとなく別の眼鏡に掛けかえたことが、画鋲を引き抜いたことが、取り返しのつかない世界の変容を招いてしまう。これらの歌にはその予兆が充ちていて惹かれました。


フラワーしげるさん「惑星そのへん」(加藤治郎コメント)
No.1031
Name加藤治郎
Date:2006年10月22日 (日) 15時01分
Mailjiro.kato
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。加藤治郎です。
続きまして、コメントです。


◇ フラワーしげるさん「惑星そのへん」


荒々しいが粗雑ではない。
そんな魅力がある。
短歌で言えば自由律のカテゴリーに入るが、そういう枠組みの中で語るのも、あまり適当でないように思える。

韻律とは何だ。
音と言っているのは、随分無理な話であって、朗読するわけでもないから、もともと聞こえてこない音なのである。

フラワーしげるさんにおける韻律とは、想念やイメージのうねりであって、音よりも有意である。


 きみはよく喋る人の形 ぼくは性欲だらけの豚の皮で 説教をはじめろ牧師

「豚の皮」に痺れる。
ある人は嫌悪を抱くだろうから、これは個人的な体験である。
この三つのパートのうねり、そのダイナミックスがいいのだ。
定型への還元は不可能である。
生動のない内容で破調となる歌はどうしようもないが、この歌には定型を拒む必然を感じる。そしてそれは短歌なのである。
人であることを疑わざるを得ないほどにいらつく「きみ」のお喋りも、「性欲だらけの豚の皮」も、牧師の説教がめちゃくちゃにしてくれるだろう。

      5      9      7       10        12(5・7)
 きみはよく・喋る人の形 ぼくは性欲・だらけの豚の皮で 説教をはじめろ牧師


初句の5音、結句に再び、5音7音が現れている。
二句、三句、四句と、定型から溢れだしていく。
結句は、非定型の昂進であり、かつ定型への回帰であるというふうに引き裂かれているのだ。


 和民に入るとそこは薔薇の庭園で光り輝くさいころステーキ


下句は、恂{邦雄の『日本人霊歌』に頻出する、塩壺や靴下、蠅捕リボンといった、日常の底辺近くにあるものが、痛烈なメタファーになる、そんな有りように繋がると思われた。
和民という大衆酒場が、薔薇の庭園に変わる幻想。
その両極端の中ほどに「光り輝くさいころステーキ」はある。

 
 年収を越したらもう返せない父よ生きかえって霧のなかから現れてくれ一万円札の束持って
 

諸般の道理はともかく、こういう、はらわたを絞る歌がいいのだ。

野武士の風貌を思い浮かべるフラワーしげるの短歌。



 他に惹かれた歌。

 資格はべつに要らなく 苦しみながらみんな行ってしまう(笑) 死と暴力ア・ゴーゴー

 望んで生まれたわけではないと蛇口が言い 捻れば水の出る

 祖母よ二杯目の中生飲みほしてくれこれはかけがえのないものだと笑ってくれ

 四角形の内側だけが吹雪なんだと小柄な親父の丼物

 勇敢であったことなんて一度もない卵をときながら春の朝に

 ママぼくはあなたのきらいな永遠と遊んでいてもう帰らないかもしれない性的な四角形の薄い枠




公開選考会
No.1030
Name加藤治郎
Date:2006年10月20日 (金) 00時58分
Mailjiro.kato
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。

みなさん、11月11日の公開選考会、ぜひお越しください!

それは、だれでも参加できます。
都合のつかない方には参加できませんが、それはそういうものでしょう。物事には限界があります。
もう少しパワーがあれば、映像をネットに流すということもできるでしょうが、実現できませんでした。
それは、次の世代の皆さんが引き継いでほしいと思います。


ライブであり、みなさんの顔が見える選考会。
私にとっては、最後かもしれません。
選考会の後には、みなさんとちょっと飲みたい気分です。

お待ちしています。




我妻俊樹さん「花とチャック flowers and zippers」(加藤治郎コメント)
No.1029
Name加藤治郎
Date:2006年10月20日 (金) 00時40分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。加藤治郎です。

引き続き、コメントです。


◇ 我妻俊樹さん「花とチャック flowers and zippers」

印象的に言えば、廃虚の中を歩いた読後感である。
それは優しい廃虚で、果実のような死体があちこちに転がっている。
夢の廃虚。

我妻さんの作品を読むと、私が読んでいる範囲の現代短歌というのは、実に狭い領域であって、多様な個性があるようで、ほぼ一様であるように思われてくる。

 
 人間の這入っていない着ぐるみを膝に寝かせた 雨が止んだら

 砂浜で風にころげる水玉のビニール・ボール きのうもあった


リリカルな歌で、気持ちが伝わってくる感じだが、それは錯覚かもしれない。

一首めの「人間」は自分か他人のどちらかであるが、すこし奇妙な感じである。
普通、「着ぐるみを膝に寝かせた」で十分だが、わざわざそう言うことで、変なものを誘発するのである。
人間は這入っていないが、なにか他のものが這入っているのか。
蛇か何か這入っているのか、そんな悪夢の残像が漂う。
「雨がやんだら」は、なんでもないようだが、裏返せば、雨が降っている間、着ぐるみに這入っていて、熊かパンダか、びしょ濡れになっているのである。

二首めも、啄木を思わせる世界なのだが、微妙にねじれている。
「風にころげる水玉のビニール・ボール」が、昨日もあったとすると、今ここで見ている水玉のビニール・ボールは、どこから来たのか。
昨日転がったボールが、都合よくここに戻ってくるわけがない。
別の、水玉のビニール・ボールが今日も転げている。
夢である。
それより「きのうもあった」と言っているが、お前が、昨日もここにいたのだ。



 ガムを噛む私にガムの立場からできるのは味が薄れてゆくこと

 ここから 渡り廊下のような一行を足音だけで満たす ここまで

 本当はもう死んでるの 帽子掛 あなたが話しかけているのは


ここでは<私>や<定型><世界>といった額縁から、はみ出たものが歌われている。
 
 額縁をぬけだすように手をのばす「雨じゃないみたい」とつぶやきながら

という作品もあったが、まさに、額縁をぬけだす感覚である。
<私>がガムに転位する。「味が薄れてゆく」という動かし難い法則。
「渡り廊下のような一行」を、高次から指示する「ここから」「ここまで」は、言葉の枠を突き抜ける快感がある。
死者の側から発せられた「本当はもう死んでるの」にはぞっとするが、「帽子掛」に話しかけている現実の人の像に、よりひどく戦慄する。


 他によいと思った歌。


 きみの抱く消火器は空 ねがえりをページをめくるようにつづける

 風船を埋めた地面をはこぶ船 顔にはいつも目鼻を添えて

 捜された和服のひとが地面から掘り出されてる小石とともに

 きみの抱く消火器は空 ねがえりをページをめくるようにつづける

 信号で曲がるところを間違えた団地の先に団地がつづく

 波が洗うサイクリング道路ひきかえす 悲鳴でしゃべる女となって

 町のある砂漠を午后の各駅の窓から見ててやがて目ざめた





須藤歩実さん「ウミガメの瞳」について(加藤治郎コメント)
No.1028
Name加藤治郎
Date:2006年10月17日 (火) 23時29分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。
加藤治郎です。

続いて、コメントです。


◇ 須藤歩実さん「ウミガメの瞳」

一連、恋愛のムードであり、甘くて軽いトーンだが、ときおり暗示力が強く、難解な歌が混じる。残酷な歌もある。
そういった歌に立ち止まった。
多義的で、むしろ読者の心理が投影されるようである。
そうすると、甘くて軽い歌も反転する。
暗黒の海に漂う泡のように儚いのだ。


 いまなにをしたのわたしに体温計挟ませるような手つきして

 いたくないいたくないったら 指先で銘菓ひよこのひとみをかくす


それぞれ下句は、妙に微細である。
なかなか丁寧に形が与えられているという印象を持つ。
下句は、どちらも暗喩なのだ。

一方、情景や状況は分かりにくい。手探りで何か思い出しているようである。
上句は、抽象的であり、おぼろである。
だから、どういう場面と読むか、それは読者の自画像なのだろう。

「体温計挟ませるような手つき」は、優しく、慎重で、すこしぎこちない手つきを思い浮かべた。そして、相手は病人であり、こういうことをしてやるのは、幼児に対してだろう。風邪をひいた幼子。
そんな手つきだが、上句には、やや咎めるような口調がある。
性的な行為を想像したが、それは愛撫のようなものではない。

「銘菓ひよこのひとみをかくす」は、不思議なほど具体的で細かい。
「銘菓ひよこ」は幼児の暗喩だろう。あるいは無垢な者。
指先で瞳をかくす。
「いたくないいたくないったら」、これは多義的で、注射の場面かもしれないし、どう解釈するかは読者それぞれだろう。
私は、性的な行為と読んだ。


 遮光カーテンからほそくのびる手にあなたは腕をつかまれていた

美しいがどこか不吉な恋の歌。
「遮光カーテン」の喚起力が強く、鮮やかに暗黒の世界が提示されている。
「ほそくのびる手」は、白い。陽光の暗喩に違いないが、身体感覚が強い。
恋人がさらわれてゆく不安が暗示されている。


 もういちど眠りについた君の手がチェロを弾く 弦が切れているのに


残酷な愛の歌だ。「チェロを弾く」は性愛の暗喩だろう。
夢の中で君は、性愛に浸っている。
しかし、弦はもう切れている。それは愛の不毛に他ならない。



 ほかに良いと思った歌。

 エアコンをドライにしたら詩が乾くまえに人差し指でさわって

 海水が静かに満ちてゆくことを感じてよウミガメの瞳で

 地上へとのぼるスーツのあの人は殻をやかれてゆくかたつむり
 
 うつぶせにねむるわたしの乳房にはふくらみはないけれどふくらむ

 走り書きしたxのあやうさでふたり雨がやむのを待って

 黒鍵に触れずに弾いて 閉めきった夏の日の出窓を震わせて





廣西昌也さん「末期の夢」について(加藤治郎コメント)
No.1027
Name加藤治郎
Date:2006年10月13日 (金) 00時34分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。
加藤治郎です。

引き続き、コメントです。


◇ 廣西昌也さん「末期の夢」

応募作の中で、私性の濃さで際立っていた。
きわめて私的でありながら、父の死という主題は普遍的でもある。
作者は、父の末期を回想という形で歌った。
回想は、美しくしたり、ある部分を消去したりもする。
廣西さんの場合、回想という形をとることで、夢や幻影を織り込んでいる。
そこに魅力がある。

 「発車オーライ、発車オーライ」まぼろしの駅で背筋を伸ばしいる父

病室に臥している父を見ている。
たぶん父が唐突に「発車オーライ」と言ったのだろう。
作者は、父の見ている幻影を想像する。父の領域に入ってゆくのだ。
回想の中の夢という、深いところに入っている。

 
 「砂浜に隠した」という笑みながらすぐ昏睡の海に沈みぬ
 父をいま満たす水あり蕭々と暗黒へ向け流れゆく水

このあたりから、一連は海のイメージに覆われてくる。
「昏睡の海」であり、父に水は満ちる。暗黒は死である。


 ぼくたちのこどものころのしぐさなどゆらゆらうかべているのだろうか

ここで、父は海そのものである。父である海が、兄弟の幼年期の像を浮かべている。
もはや幻影ということはできない。父に原型があるとすれば、こういった有りようなのだと語られている。

ラストの十首は、読み応えがある。
とりわけ、これらの歌の濃密さは、群を抜いていた。

 蠍座の弟を抱きしめたのち青黒い火となりゆらぐのみ
 孑々がバケツに踊る大いなる影が地にさし孑々も消ゆ
 触っても不可思議なままなのだろうけれども父を愛撫している
 漢字「死」のとげとげしさよ概念と現実の死に隙間あれども
 ぼろぼろになった骨片無秩序な増殖による変形が見ゆ
 焼いてきた帰りに見えて美しき無人販売所の新キャベツ
 振り向けば既に光は絶えていて置き去りにした日暮れのこころ




tanka goes on
No.1026
Nameフラワーしげる
Date:2006年10月12日 (木) 13時05分

こんにちは

 進行を邪魔しないように手短に。
 觜本さん、裏葉、ご紹介ありがとうございました。これはもう精読いたしました。ぞくぞくしますね。今後の展開も楽しみです。


望月浩之さん「それはまだ」について(加藤治郎コメント)
No.1025
Name加藤治郎
Date:2006年10月11日 (水) 22時43分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。
加藤治郎です。

皆さん、応援の投稿、ありがとうございました。
公開選考会まで、ちょうどあと一ヵ月となりました。
私のコメントを書いていきます。


◇ 望月浩之さん「それはまだ」

視線、もっと広く感覚と言ってもいいが、その終端にあるものが歌われている。
脆くて少しノスタルジックな事物である。
不完全なものに取り囲まれることのやすらぎが歌われているように思う。

 それはまだ買ったばかりのYシャツに針がいくつも刺さっていた朝

新品のYシャツには、針が刺さっている。
こんな見慣れているようで、言葉にする必要を感じたことのない物が歌われているのが新鮮だ。
作者の意識がひどく微細なところに届いている。

 乾かない昨日の水着はくようださみしさだけで重ねたからだ

この歌は、感覚としてよく伝わってくる。
性愛の場面で感じだ虚しさは「さみしさだけで」では説明しきれない。
そこで「乾かない昨日の水着はくようだ」という、身体感覚に訴える比喩が使われた。
冷たくてひどく不快である。ここには、絶望的な嫌悪感がある。

 最後まで鳴らなかった教材のトランジスタラジオの半田の匂い
 カバンには行ってる事になっていた学習塾の月謝の袋

この二首は、中高生の頃の回想だろう。
Yシャツの歌に通じるものがあるが、取るに足らない、世界の一番片隅あるような物である。
この詩型では「半田の匂い」まで突き詰めると、ようやく独特の味わいが出てくる。
作者は、短歌形式の生理をよく知っているのである。

 レコードのおなじところでとぶ針を指で掬った若い女教師

この歌は、一連の中で輝いている。
一瞬の奇跡のようなシーンを捉えた。
出口のない世界から解放された瞬間とも言える。

 *

ほかによいと思った歌。

 火曜日に「この前みたいに降るよ」って言って帰れば雨の水曜

 ほとんどのチラシの裏が白かった頃に飛ばした紙ヒコーキ

 ミニカーがひっくり返ったままにある机の上に夜の静けさ

 閉まる音しなかったので振り向けば冷蔵庫からこぼれる光

 それはまだ店員さんがガソリンを入れてくれてた頃の星空






裏葉
No.1024
Name觜本なつめ
Date:2006年10月09日 (月) 01時41分
Mailuranoha@gmail.com

候補作11作品の非公式選考会を行っています。

裏葉新人賞

http://www.duralumin.net/uranohabbs/

#開設の経緯、選考ルール等については過去ログの8月30日の投稿をご覧ください。

進行に関する議論も公開しています。
裏葉新人賞実行委員会

http://57577.blogspot.com/


【第5回歌葉新人賞公開選考会のご案内】
No.1023
Name佐藤りえ
Date:2006年10月03日 (火) 21時12分
Mailfragile@fun.cx

こんにちは、佐藤です。
『七月の心臓』批評会の前日になりますが、公開選考会を開催いたします。
五度目の、最後の現場です。
みなさまのご参加をお待ちしております、よろしくお願いいたします。

-------------------------------------------------------------
第5回歌葉新人賞/公開選考会

【日時】2006年11月11日(土)13:30〜17:00(受付13:00〜)
【会場】ルノアールマイスペース渋谷パルコ横店(渋谷駅ハチ公口より徒歩10分)
 東京都渋谷区宇田川町4-3興和ビルB1 tel 03-3770-1980      
 http://www.ginza-renoir.co.jp/renoir/041.htm
【選考委員】荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘
【司会】斉藤斎藤

※第5回歌葉新人賞候補作について充分に討議をし、
 選考委員の合意により、受賞作品を決定いたします。

【参加費】1,500円
【参加申込先】佐藤りえ
 fragile★fun.cx (★を@に変えてください)
※準備の都合上、11/8までお申し込みください。
 お席に限りがございます、事前にメールでお申込み下さい。
 万が一満席の場合、折り返しご連絡させていただきます。

【主催】コンテンツワークス株式会社、エスツー・プロジェクト
【協賛】風媒社
-------------------------------------------------------------


『七月の心臓』批評会のお知らせ
No.1022
Name多田百合香@ぷらむ。
Date:2006年10月03日 (火) 19時09分
Mailshichigatsunovember@yahoo.co.jp

こんにちは、多田百合香です。
この場所をお借りして宣伝させて下さい。

友人の兵庫ユカさんが
今年の5月、ブックパーク「歌葉」から
第一歌集『七月の心臓』を出版されました。
来たる11月12日に、有志による批評会を開催します。

ご本人同様、とってもすてきな歌集です。
第二回歌葉新人賞で次席をとられた一連「七月の心臓」も入っています。
ぜひぜひ、いらしてください。

会場でみなさまにお会い出来るのを楽しみにしています。


◆◇ 兵庫ユカ第一歌集『七月の心臓』批評会 ◇◆

【日時】11月12日(日)13:30〜17:00(開場・受付開始 13:00)

【会場】 ルノアールマイスペース渋谷パルコ横店(渋谷駅ハチ公口より徒歩10分)
 東京都渋谷区宇田川町4-3興和ビルB1 tel 03-3770-1980      
 http://www.ginza-renoir.co.jp/renoir/041.htm

【パネリスト】大辻隆弘、川野里子、黒瀬珂瀾、斉藤斎藤
       司会:佐藤りえ
 
【会費】批評会 1500円 
 *終了後、近隣にて懇親会(会費4500円程度)を予定しております。
  あわせてご参加ください。

【発起人】松平盟子、藤原龍一郎、加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸

申込/問合せ先:『七月の心臓』批評会実行委員会(斉藤斎藤)
  shichigatsunovember@yahoo.co.jp

  <準備の都合上、11/8までにお申し込みください>

*批評会告知ページURL(コピペ推奨)
http://www.d3.dion.ne.jp/~y_hyogo/shichigatsukokuchi.html

*著者サイト
http://www.d3.dion.ne.jp/~y_hyogo/

*歌集販売ページ(BookPark・歌葉)
http://www.bookpark.ne.jp/cm/utnh/detail.asp?select_id=52

------------------------------------------------------------

『七月の心臓』著者自選五首

オルガンが売られたあとの教会に春は溜まったままなのだろう

鳩尾に電話をのせて待っている水なのかふねなのかおまえは

アヲハタのジャムの小瓶の棒磁石だれの中にも聖域はある

自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る

きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本


Re[1017]: ノート
No.1021
Nameフラワーしげる
Date:2006年09月11日 (月) 15時05分

こんにちは、たびたびすみません。

 ぺこさん、さらに追伸を書きたくなってしまいました。
 歌が読み手によって変わるっていうのは、やっぱり解釈の違いが出てくるからだよなあ、とそんなことを考えました。
 
 一枚の犬の写真、たとえば柴犬の写真があったとして、何も情報が与えられなければ、男はそれを見て、オスだと思い、女はメスだと思うみたいです。統計をとったわけではなく、自分の経験をもとに言っているので、もしかしたら間違いがあるかもしれないですが、少なくとも子供にはそういう傾向があるように見えます。それがどういうことかと言うと、どうも人間は対象に自分を投影してしまうのではないかという気がしているのです。
 I went to the sea という英文がぽつんとあるとします。これを読んで、男はやはりこの I は、男であると無意識のうちに判断すると思います。女だと思う理由も必然性もないですから、その判断はもう一瞬のものです。一方、女のほうは、この I は女であると判断するでしょう。男であると判断する理由はないですから。 I に関して、性別を疑うのは、何かしら理由がある場合でしょう。たとえば、文学テキストで厳密な批評が必要になった、という特殊な場合に。でないかぎり、I went to the sea という文には、性別の情報がないにもかかわらず、解釈は暗黙のうちに下されてしまうわけです。しかし、分かりやすいような気がしたので、英語にしましたが、べつに日本語でもいいかな。「わたしは海に行った」でもたぶん同じことが起こると思います。「海に行った」しかなかったら、さらに、自分にひきつけて考えるかな。何にしても、解釈って厄介です。自分が無意識のうちに決定したことにたいする信頼ってすごく強いですからね。「えー、男に決まってんじゃない」「何いってんのよ、ばかね、女よ、これは」みたいなやりとりになってしまうんですよね。
 性別以外には年齢などもそうした傾向があるようで、たとえば一匹のペンギンの写真を見た場合、私自身、それがオスで、自分と同じような年齢ではないかと、まず思ってしまいます。
 わたしは眼鏡をかけていませんが、こういったことは、たぶん無意識の眼鏡をかけている状態なのかなって気がします。そして、さらに言えば、投影するのは、性別や年齢などだけでなく、自分の生まれや環境や経験、その時の状況、精神的物理的状況などもそうだと思います。とすれば、けっこう度のきつい眼鏡になりますよね。
 解釈の時に無意識的に影響してしまうのはそしてそれだけではないと思います。作者の名前が書かれていれば、その字、表記、男なのか、女なのか。それらはかなりの程度、解釈に影響を与えると思います。実際、わたしは佐原みつるさんの感想を書いた時、佐原さんが男だと思っていました。だから、あの感想はなるべく、作者を見ないようにして作中の主体を見るようにしていましたが、それは完全に切り離すことはできず、その意味では、わたしが書いた感想は間違った解釈に基づいた間違った感想ということになるかもしれません。やっぱり無意識の眼鏡をかけているんですよね。でも、それは外すのが難しい眼鏡です。なにしろ「自分」という眼鏡だから。
 解釈するっていうのは、じつは対象について語るより、自分について語る割合のほうが圧倒的に多い、客観的な批評なんて存在しない、ってことは昔からみんな言ってますね。世界観や経験がむきだしになる面もあり、なかなか大変なものだと思います。だからといって、客観的な批評を諦めるつもりはありませんが。
 わたしの作品にぺこさんの名前がついていたら、そしてぺこさんの作品にわたしの名前がついていたら、印象はちょっと違った感じになったかもしれませんね。

 しかし、性別の分からない話は、詩的な問題として面白い面もあるような気がします。柴犬とペンギンをあげましたが、柴犬はもしかしたら、男の子的に見えるかもしれませんね。いや、これこそ、無意識の判断かな。ひよこはどうでしょう? あれはちっちゃい女の子? あれは性別あんまり感じさせないか。実際に性別の判断難しいらしいし。では、物はどうでしょうか。木や草は。樫のでっかいのは老人って感じしますね。機械とかもありますね。クレーンは女には見えないです。いや、それも私だけ? 風とかの自然現象はどうでしょう? 風は男? 海はフランス語では女でしたっけ。
 感情はどうでしょうか、柴犬はちょっとさびしい感じします。楽器は楽しそう? 冷蔵庫は温かい? でも、暗いアパートの片隅にあると寂しそう。空き地に棄てられていると、おばけのよう。

 トロリーよしばさん、ぺこさんあての書きこみの末尾に書くことをお許しください。あまりに自分ばかり発言しているのでちょっと心苦しい感じです。丁寧な感想ありがとうございます。ううむ、褒めすぎではないかと思いましたが、とても嬉しいです。ありがとうございました。すこし発言を控えて展開を見守ろうと思います。


みなさんの記事を拝見して
No.1020
Nameトロリーよしば
Date:2006年09月11日 (月) 13時21分
Mailmimitabu317@yahoo.co.jp

フラワーさん、西島さん
はじめして
私はまだ短歌を勉強中の中年女子(ジョシは変ですね)です

ずっと ここを拝見しています
お二人のとても心配りの利いた真摯で誠実な短歌への取り組みをしっかり感じさせる記事を拝見し
静かな・・そう 感動が私の中に広がっています

それぞれの候補作への解釈、とても勉強になります
今回が最後ということだからという訳でもないのでしょうが(とても残念ですが)
どれも繊細な神経がきらきらとちりばめられて
読み応えがありました

ここで成長された方が大勢いるのでしょうね

さて 
フラワーさん ぺこさん
僭越ですが
私にも感想を言わせてくださいませ

ぺこさんの作品から2首

じつは 最初候補作を一読したときの印象と
ここの9月10日の記事のイメージにギャップがありました
(失礼な言い方をごめんなさい)


・地球儀の中身に住んでいるような錯覚 まわりが青ばっかりで

今の自分の混乱を言い表すなら、こんな感じだと思いました
まわりが青ばっかり
そして地球儀の中ではなくて、中身としたところが面白い
中だと6文字になってしまうから?とも思いましたが
身という字が、軽いフルフル周る地球儀ではなく重たい重たい地球儀に思えました

・できるだけ非難されたくない わらうにんげんたちの間をクロール

さきほどここの記事と短歌にギャップがあったと申しましたが
風刺めいた感じが、9月10日の記事の素直なやさしいイメージと一致しなかったのです
でも逆に、この作品を拝見し先ほどのギャップが埋まりました

わらうにんげんたち
私たちはコミュニケーションする上で笑うことがあります
子供のように無邪気に笑うのではなくて
哂いもあれば 嘲笑もある
そんなわらいは保身でもあり
せめてもの、自分への正直さでもあるのでしょうか
「できるだけ避難されたくない」
それは多くの日本人が共通して持つ思いのような気がします
そのことが閉塞感を生みもするのでしょうが
西島さんの作品には共感できるものが多かったです
ああ、そうそうと頷きながら読みました

続いてフラワーさん

一首一首あげての感想を述べにくいので
全体の感想を書かせてください
なぜなら、一首一首歌を読みくだくというより
機関銃で撃たれるように一連の歌がダダダダと迫ってきたからです

フラワーさんはお若い方かなと勝手に思っているのですが
自分を周りを追い詰めていくようなどこか残酷な視線に、純粋さがにじみでていると思いました
一つ一つの歌にもがきを感じます
私は老獪で(でもない)半端な中年なのでこういう痛みに綺麗なリボンをかけてしまいました

だからフラワーさんの歌に爆撃をうけて血のでる自分を意識したいと・・・それゆえ、この方の作品をもっともっと読みたいものだと思うのです

たとえば

髪を掴まれてひっと言い、あわれな弱いもの振りまわされている

存在は何だかあやういかなスタバの奧のあの男の汚い歯

きみはよく喋る人の形 ぼくは性欲だらけの豚の皮で 説教をはじめろ牧師

盗癖は困ったもんなんだ彼女の母親の財布の赤きれい

資格はべつに要らなく 苦しみながらみんな行ってしまう(笑) 死と暴力ア・ゴーゴー

性欲を汚いものと言う性欲から生まれたじつに魅力的なあなた

これらに、とても惹かれました
叫びと孤独を感じました

以上です

見当はずれで歌の意味を理解していない発言ばかりかと思いますが
ご容赦ください

あと印象に残ったのは
須藤歩さんの「ウミガメの瞳です」

・いまなにをしたのわたしに体温計挟ませるような手つきして

・海水が静かに満ちてゆくことを感じてよウミガメの瞳で

今回の候補作品は、都会的で乾いた歌が多いかなと思いますなか
この一連は土臭さや体温を感じました
生物的というか・・・
生き物の短歌とでも言えばいいかな
あたたかいんですよね
詠んでいる作者の熱でしょうか
それが私には魅力でした


Re[1017]: ノート
No.1019
Nameフラワーしげる
Date:2006年09月11日 (月) 11時38分

こんにちは

 はじめまして、ぺこさん、短歌というか言葉は確かに面白いものですね。人間はすべて言葉でできているのかもしれないし。
 自分の歌への評ありがとうございます。これはなかなかどきどきするものですね、
『花とチャック flowers and zippers』と『午後の右翼手』への評が興味深かったです。
 ほんとうに読み手によって、歌は違うものになるようですね。「歌葉24時」のほうなどを見ると、その思いを新たにします。
 わたしのノートに関しては、確かに書くのは楽しいです。歌を作るのも楽しいですが(ぺこさんの書きこみのなかの「楽しい」という言葉を数えてみたら六つありました)、ほかの方の作った短歌について書くのもかなり好きかもしれません。
 猫に引っかかれるとものすごく腫れたりしますよね。消毒はなさいましたか。わたしは怪我は嫌いですが、消毒するのは好きです。気の荒い猫にも傷にもいいことがありますように。

P.S.
「爪をきる ぱちんぱちんというたびに君にさわった部分をすてる」は、人間にたいする嫌悪なのかなあって書きましたが、逆かもしれないとも思います。判断ちょっと難しいです。


西島ぺこさん、
No.1018
Name枡野浩一
Date:2006年09月10日 (日) 01時21分
Mailii@masuno.de
URLhttp://masuno.de/blog/

はじめまして。

私も腹ぺこです。

皆さんの作品を味わいつつ咀嚼しつつ、
しばらくは黙してここを見守りたいと思います。


ノート
No.1017
Name西島ぺこ
Date:2006年09月10日 (日) 00時44分

はじめまして。西島ぺこです。
ことばには色や音や速度やにおいがあって、
それがたくさん集まるとものがたりになるのですね。
すごいなあ、楽しいなあ。
基本はすきなものをとりあげたただの感想ですが、
私もフラワーさんのようにノートをとってみました。


『それはまだ』 望月浩之
はじめまして。
 ほとんどのチラシの裏が白かった頃に飛ばした紙ヒコーキ
 こまり顔見せてる君を前にしてブラスバンドの音だけ響く
 インスタントラーメン茹でてる頃に吹く土曜の午後の校庭の風
 傘差したハイソックスがもみの木を見上げたときに濡らしたくちびる
 閉まる音しなかったので振り向けば冷蔵庫からこぼれる光
がすきです。フラワーさんもおっしゃっていましたが、
体言止めが多いですね。まるで大切なものだけいれたきらきらの小さな箱を
ちょっとだけのぞかせてもらったようなきもちになりました。私の宝箱です。


『水曜の森』佐原みつる 
はじめまして。
 銀色の匙がカップの底にある砂をかきまわしている朝は
 古ぼけた時計を腕に巻いている蝶の居場所はきっと知らない
 通信の途中で電源が落ちて水曜の森へ届くFAX
 木曜の大きな窓に差す西日マウスパッドに金魚が跳ねる
 蝶の絵を留める画鋲を引き抜けばうすむらさきが部屋に満ちゆく
がすきです。「蝶」が、キーワードなんでしょうか。
森につながるなにかの感じを受けました。
「金魚」や「蝶」や「〜曜日」はいい意味でとても無表情です。
静かなのに存在感がある。風景の一部としてとけこむ無表情さがとても表情です。


『発泡ひこうき』東郷真波
はじめまして。
 満ち足りてねむる車掌は大好きな灯台前の駅を飛ばした
 ノイズ・ノイズ・ノイズここから南へとひろがる暴風警報を知る
 なにひとつ求めぬ腕をしならせてやさしいひとが放つひこうき
 プラスチック・スプーンですくうひとかけの記憶から噴きあがる新緑
 真珠色のベビーシューズを脱がせてもかすかに重く熱い足首
がすきです。東郷さんのうたには、おとがありますね。
ことばにスピードがあるからですね。遅い速度でも、もちろん速い速度でも。
一枚の絵ではなく、映像を観ているようなきもちになりました。


『末期の夢』廣西昌也
はじめまして。
 触っても不可思議なままなのだろうけれども父を愛撫している
 じめじめと妻と離れる夕刻の西空にいま異界がひらく
 焼いてきた帰りに見えて美しき無人販売所の新キャベツ
 「おとうさん」幼いころの言い方でこわれた人に呼びかけてみる
 「発車オーライ、発車オーライ」まぼろしの駅で背筋を伸ばしいる父
がすきです。ほかの歌人さんの作品もそうですが、この作品は特に30首でひとつだから、
ピックアップなんてするものじゃないのかもしれないと思いました。
でも、うたひとつひとつをよんでいくときに、あああああと思ったのです。
あああああと思ったことをもっとじょうずに伝えたいけれど、私にはこれでいっぱいです。


『ふたこぶらくだ』黒崎恵未
はじめまして。
 レイプみたいだからやめてと言われても吐き出すように泣き出してしまう
 あなた病気なんじゃないのと唐突に真理のように言われてしまう
 重力が効かないわたしの内側を私は歩く瞳を閉じて
 肯定が肯定の箱を開けていく底を見るまで明るい会話
 心臓の音を聞くのにそんなにも切ない顔をしないでほしい
がすきです。はじめ、ああエロティックだなあと思いました。
でも、動物的でない。生ぐさくない。すん、と入ってくる。
人と関わることはとてもきもちがいいのに、さみしい。
それがセックスであらわされていたのではないかと思いました。


『ウミガメの瞳』須藤歩実
はじめまして。
 首飾り外してあげる夢をみるわたしのうなじのような気がする
 思いがけず深く沈んだソファからわたしの羽音がきこえるよ、ほら
 もういちど眠りについた君の手がチェロを弾く 弦が切れているのに
 もし君がこのまま眠ってしまったら枕の下で卵を茹でる 
 信号が積み木のキリンにみえるよね 吹き流されたなまぬるい風
がすきです。唐突だ、と思いました。
なにか、なにかとても唐突で、一瞬不安にさせられる。
でも、それはきっと自然なことなのですね。
その不安がもっともっとほしくて、がつがつよみました。


『花とチャック flowers and zippers』我妻俊樹
はじめまして。
 ガムを噛む私にガムの立場からできるのは味が薄れてゆくこと
 右にいた人がいないと右からの陽射しで焼けてしまう右顔
 砂浜で風にころげる水玉のビニール・ボール きのうもあった
 分けて書く苗字と名前くちびるに上下があるとされる私に
 波が洗うサイクリング道路ひきかえす 悲鳴でしゃべる女となって
がすきです。ビニール・ボールや日焼けは自分が孤独であることをひきたて、
「こどくであることは当たり前だ」と言っているみたいです。
私はそれをああそうだったとすんなりと納得してしまいます。
きっとひとりきりなのですね。きっと。
それが正しいか正しくないか、楽しいか楽しくないかではなく。


『惑星そのへん』フラワーしげる
はじめまして。
 ああ、そうだよ、指を持ちあげるのさえつらくて、でもいまから4トン車を運転するのだ。運転手だから
 存在は何だかあやういかなスタバの奧のあの男の汚い歯
 性欲を汚いものと言う性欲から生まれたじつに魅力的なあなた
 えらいえらいひとのするむごいことたくさんで空も悲しんで雨だ
 ママぼくはあなたのきらいな永遠と遊んでいてもう帰らないかもしれない性的な四角形の薄い枠
がすきです。私は声に出して「えっ」と言ってしまいました。
そして、くちびるだけではなぞりきれなかったので、声に出してうたをよみました。
どんどん破っていかれる。それはもう、快感のようでした。おもしろい。
でも私は、『惑星そのへん』が短歌だとわかります。これは短歌です。


『今日』中田有里
はじめまして。
 マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる
 昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
 すり鉢で豆腐をすってぐちゃぐちゃにしてからあなたの口に入れたい
 おはようと言えたら合格 隣人の頭に水をかけてはいけない
 どう見ても人の形に見えるので私はあなたに優しくしよう
がすきです。まず、『今日』には強さと弱さが交差しているような印象を受けました。
マヨネーズと一緒に生きるのはひどく受け身な感じだけど、
ぐちゃぐちゃにした豆腐はあなたの口にいれるくらい攻撃的。
もしかしたら、強さと弱さは反対ではなく、むしろイコールかもしれない。


『午後の右翼手』市川周
 抱き枕に「抱いてやるよ」とうそぶけば部屋に満ちくる人魚の匂い
 どこまでがわたくしそこかしこに鱗 肉体改造しすぎた朝に
 七割は液体ですから僕なんて手動の脱水機からペラペラ
 千年忌ライトポールのその下で優しいミイラになれたらいいな
 きみに手をふったなんだか手をふってばかりだなぁとおもった たたた
がすきです。よみながら、どうしよーうと思いました。
何がどうしよーうではないのですが。だから、私もペラペラになるし、
同じ場所で優しいミイラになりたいとのぞんでいるのです。
ときどき見えない手でくすぐられているような気がしました。


個人的に。
フラワーしげるさん。
コメントありがとうございました。
私が中学生のとき、国語の先生に「作品のひとりあるき」ということばを教えてもらいました。
それは、「作り手が作り上げた文章やうたは読み手を得た時点で、作り手の手から離れ、
作り手の意図とは関係なく読み手の解釈で内容や意味がかわる」という意味です。
これってほんとうに面白いことですね。
同じ作品を読んでも、私の目とフラワーさんの目が違っていて、それはどちらも真実なのですね。
何度も作品は作られ、生まれ変わる。何気ないことばでも千の意味を持つ。
いくつもの可能性の中で自由に泳ぐ。どこまでも飛ぶ。
私はフラワーさんの歌葉ノートをじっくり読ませてもらって、
ああ、こんな風に感じるのか!と思うことがたくさんありました。
そしてフラワーさんは頭のよい人だなあと思いました。
きょう、友達の家の猫に手の甲をひっかかれました。
とても気の荒い猫で、初対面では気を許してはくれないそうです。
でも、どうしても仲良くなりたかったんです。初対面でした。
一瞬の隙を突いて腹をなでました。血が出ました。
その傷だらけの手の甲を見ながら、キーボードを打っています。
フラワーさんはみんなにコメントをするとき、あんなに長い文だったけれど
きっと楽しみながら書いていたのではないかと思います。
私も楽しいです。楽しいですね。
私なんかがみんなの作品をどうこう言っていいのかなと思いましたが
異例ついでに便乗させてください。


枡野浩一さん
はじめまして、西島ぺこです。
その大注目の漫画家さんについては知りませんでした。
西島ぺこの「ぺこ」は腹ぺこのぺこです。本名かどうかはわかりません。
でもきっと、親からもらった名ではないような気がします。
しかし名前は身軽であったほうがいいと思うので、
腹ぺこじゃなくなるかもしれません。
いまはとても、腹ぺこであります。


私も、とても長いかきこみでごめんなさい。
また、失礼なことがあったらもっとごめんなさい。
なんだか緊張しましたが、楽しかったです。ありがとうございました。


なるほど!
No.1016
Name枡野浩一
Date:2006年09月09日 (土) 13時39分
Mailii@masuno.de
URLhttp://masuno.de/blog/

たいへん面白い秘密の告白、ありがとうございました。

昔、
テレビで「音楽の正体」という番組をやっていて、
そこで語られていたことの愉しさ、切なさを連想しました。

いとうせいこうさんが昔どこかで書いていた、
「小説を思う」ことを日々の習慣にしている
女性主人公のことも思いだしました。


Re[1014]: フラワーしげるさんの発言を拝読して。
No.1015
Nameフラワーしげる
Date:2006年09月09日 (土) 13時17分

こんにちは

 枡野さん、はじめまして。不躾など、とんでもありません。わざわざ名前をあげてくださったこと、大変嬉しく思っております。でも、自作への言及ですか。うーん、考えもしませんでした。どちらかと言えば、しないほうが自然ではないですか?? それにべらぼうに難しいです。どう考えても客観的には書けそうにないですし。
 しかし、せっかくのリクエストなので、できる範囲でやってみます。客観的な批評・感想はやはり無理そうだし、自注自解といったものもどうもこの場にはそぐわない気がするので、三十首から派生するのではないかと思われる問題を一般化して、それにたいする雑感のような形でまとめてみたいと思います。果たしてこの場でこういうふうなことをやっていいのか、不安ではありますが、異例ついでにやってみます。この最後の歌葉にはなんとなくカーニヴァルあるいはお祭りめいた雰囲気もありますし、カーニヴァルだったら道化やトリックスターの存在は欠かせないですしね。どうか、ほかのみなさんも、ハンバーグ定食の付け合わせのニンジンみたいなものだと思って、読み流してください。


フラワーしげる「惑星そのへん」を巡って

 歌葉新人賞は多くの驚きをもたらしてくれたわけであるが、それらの驚きのなかには、恐ろしいスピード感とともに、短歌の枠を広げてくれたことにたいする驚きがあったと思う。これは短歌であると、送りつけてくる応募者と、然り、これも短歌である、と受け取る審査員の姿を目にすることは、少なくとも私にとっては、爽快以外のなにものでもなかった。なぜなら、それは自分が、物事の枠というものはできるだけ曖昧なほうがいい、原理はなるべく少ないほうがいい、という考えの持ち主であるからだと思う。
 物事の枠を取り払うことは気持ちのよい作業である。短歌を枠から取りだすのもまた楽しい作業である。まず手始めに韻律から自由にし、音数から自由にし、短歌的抒情から自由にする。意味から自由にする。そうすると範囲はどんどん広がっていく。
 韻律からの自由を重んじると、短くなり、長くなり、破調になる。意味から自由になると、あるいはナンセンスになり、あるいは記号のようになっていく。内容から自由になると、普段は無意識の段階で短歌の題材から外されているものがどんどん増えてくる―政治、宗教、性、欲望、差別、やくざ、右翼、左翼などなど。
 それらの程度はさまざまであって、韻律から自由になるということを極端に推し進めていくと、たとえば、一冊の長篇小説を書きあげて、これは短歌であると主張することもできる。あるいは、一文字を紙に書いて、たとえば「指」と書いて、同様なことを主張することもできる。そして最後にはただの暗示でもよくなる。分厚い鉛の箱にスピーカーを入れ、密閉し、気の遠くなるような大音量で音楽を鳴らす、結果は聞こえない大音量、そのような現代音楽の実験のようになる。つまり、人が行けない場所に書かれた短歌、糊付けされた歌集、そういったものになる。
 いや、それすら要らなくなるかもしれない、「いまわたしの頭のなかに素晴らしい短歌があります」と言えば十分である。あるいは「わたしはいま何も表現しないことによって短歌を表現しようとしている」と言ってもいい。そして、最後には何もしないで短歌というものを生きることになる。その場合、見るものはすべて短歌になるだろう。窓も扉も犬も痩せた駅員もすべて短歌である。ただ言語になっていないだけの。
 表現方法にたいして自由になることもできる。フォントを工夫し、紙を工夫し、表記を工夫する。最初はそういう身近な形ではじまるだろう。しかし展開はほぼ無限である。たとえば、つぎつぎに電話で一首を告げるというのもいいし、壜のなかに入れてインド洋に流すのも興味深いだろう。手旗信号の入門書と双眼鏡を誰かに渡し、あらかじめ日時を指定して、丘の上から一首を送信するのもいいだろう。晴れていればさぞ気持ちのいいことだろう。
 そうして、さまざまなことから自由になって、最後には何をするかというと、自由になりたいという欲求から自由になるということだろうか。
 とすると、べつに前のままでもいいじゃないかということになるかもしれない。振りだしに帰る、である。
 フラワーしげるの「惑星そのへん」三十首は、上記に述べた段階のいずれかに位置するものである。

 いかがでしょうか。いささかミスティフィケイションに流れた嫌いがあることは御容赦ください。もう少し、砕けたことを書きますと、連作として考えると散漫であるし、固有のリズムがないことはないものの、愛唱性というものはかけらもない感じなので、そのあたりを重んずる方にはあまり喜んではもらえないでしょうね。わたしは愛唱性のある短歌ものすごく好きなんですけど。
 
 というわけで、またしても長文もうしわけありません。


フラワーしげるさんの発言を拝読して。
No.1014
Name枡野浩一
Date:2006年09月08日 (金) 17時30分
Mailii@masuno.de
URLhttp://masuno.de/blog/

フラワーしげるさん、はじめまして。

フラワーしげるさんの発言を興味深く拝読して、
ひとつ、
足りないものがあるのではないか……と、
感じずにはいられませんでした。

ここを見ている皆さんも、
もしかしたら私と
同じようにお感じになっているのではと想像し、
勇気を出してご指摘しますね。

それは……。

「フラワーしげる作品への言及」です。



賞の候補にあげられているご本人が、
ほかの候補者の作品にエールをおくる……
それ自体が異例の試みで、
たいへん面白かったです。

自画自賛になってしまうのを
避けられたのでしょうけれども、
「それだけをあえて避けて語る」ことによって、
「それ」の意味がよりいっそう強まってしまう……
言葉には、
そんな性質があるように思います。

ぜひ
「それ」についてのコメントも拝読したく、
リクエストいたします。



なお先日、
「変な名前」などと
不躾なことを書いてしまいましたが、
言葉足らずでしたね。

「華のあるお名前」
と訂正し、
おわび申し上げます。

正岡豊さんの日記で作品と共に拝読して以来、
そのお名前は忘れられません。


選考会日程の発表、ありがとうございます。
No.1013
Name月原真幸
Date:2006年09月08日 (金) 00時41分

今回の公開選考会は11月11日なのですね。
日程の発表、どうもありがとうございます。
都合をつけて張り切って参加させていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。


第5回歌葉新人賞選考会日程
No.1012
Name加藤治郎
Date:2006年09月07日 (木) 13時01分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。

名古屋、雨です。

みなさん、コメントありがとうございます。



第5回歌葉新人賞選考会は、今年も公開で実施します。

日程は11/11(土)。場所は東京です。

詳細は追ってお知らせしますが、スケジュール、お願いいたします。




冷蔵庫を開けて短歌の紙パックを取りだし
No.1011
Nameフラワーしげる
Date:2006年09月07日 (木) 13時00分


夏はすっかり終わったのでしょうか。

 天秤のAさん、短歌というか、詩的なものと、生活は共存できると思うので、存分にはまってください。短歌はじつに片々たるものだし、時折気恥ずかしいものであるかもしれませんが、生も死も愛も憎悪も神も悪魔もその片々たるものに宿ることがあるようです。
 確かに歌葉の選考などのスタイル、ぞくぞくするくらい面白いですね。今年かぎりとはほんとに残念です。増田静さん、斉藤斎藤さんをはじめ受賞者の顔ぶれも掛け値なしにすごいと思います。
 勉強になったとのこと、恐縮で片腹痛いです(誤用)。余生を短歌に捧げきるですか。さて、どうなりますでしょうか。わたしは短歌が好きなので、そういうことになるかもしれませんね。いずれにせよ今後ともよろしくお願いいたします。

 私信のようなものになってしまいましたね。失礼いたしました。


水瓶のBと親友
No.1010
Name天秤のA
Date:2006年09月07日 (木) 03時07分

ほんとうです。性懲りもなく。しっかしおもしろいですねー。これ今年で終わりなんですか。もったいない。
こんなことを真剣にやってご飯食べてる大人たちがいるんだなー。潔い。
なんとしてもこの世界にはまりきってしまう前に出て行かねば。

フラワーしげるさん、勉強になりました。
ぜひ余生を短歌に捧げきってから死んでください。


歌葉ノート
No.1009
Nameフラワーしげる
Date:2006年09月06日 (水) 05時46分


 はじめまして、フラワーしげるといいます。候補作、いずれも興味深いものばかりで、自分なりのノートをとってみました。長いですが、御笑覧いただければ幸いです。審査員の荻原さん、加藤さん、穂村さん、応援の書きこみをしてくださった桜木さん、まず挨拶をすべきなのかもしれませんが、ここは審査の場でもありますし、多大な感謝とともにこの時点では省略させていただきます。

望月浩之「それはまだ」

 最初と最後の歌が「それはまだ」というタイトルにもなっている言葉ではじまります。構成やスタイルや洗練といった、理知によって成立することに重きをおく作者なのでしょうか。そうしたものを重んじる作者の場合、直截な感情はたいてい暗示に留められるわけですが、その暗示の仕方は短歌的というより、詩のほうに近いのかなと思います。その点では前回の笹井さんや宇都宮さんと通底するものを感じました。短歌が詩的なものをとりこんでいくという最近の流れは何かしらの必然性によっているのでしょうね。

  見送りは花壇の外で咲いているはっきりしない色の朝顔
  乾かない昨日の水着はくようださみしさだけで重ねたから
  最後まで鳴らなかった教材のトランジスタラジオの半田の匂い
  カバンには行ってる事になっていた学習塾の月謝の袋
  どうやって食べたらいいかわからないグミの食べ方話し合うふたり

 これらは回想のようです。いずれも微妙なことが歌われているし、それは軽い失望だったり、非達成感や無力感だったりします。こういうところには文句なく魅力を感じます。

  弟がポップコーンを入れていた小さな紙のコップの重さ
  ほとんどのチラシの裏が白かった頃に飛ばした紙ヒコーキ
  ミニカーがひっくり返ったままにある机の上に夜の静けさ
  閉まる音しなかったので振り向けば冷蔵庫からこぼれる光
  飲み干したコーヒーカップの底にある溶けないままのグラニュー糖
  それはまだ店員さんがガソリンを入れてくれてた頃の星空

 小さなもの、薄いもの、静かなものの博物誌ですね。後半の体言止めの連続ちょっと圧巻です。何かに突き動かされて作歌している様子が目に浮かぶような感じを覚えました。候補作のなかで一番好きです。


佐原みつる「水曜の森」

 外界の物と、内面にたたなわる感覚・感情との結びつき方に、説得力があると思いました。それを支えているのは、作中の主体の視線であるわけですが、その視線がそのままひとつの態度あるいはスタンスのようなものになっているのが面白いです。
 そして、外界の事物にたいしても、作中主体の内面に浮かぶものにたいしても、その視線 /態度は少し突き放し、距離を置こうとしているようです。この一連の魅力はそこにあるでしょうか。

  銀色の匙がカップの底にある砂をかきまわしている朝は
  議事録を手渡す指の一センチ向こう側には川が流れる
  見極めが肝心なのはわかってる紙パックに挿す細いストロー
  欄干に凭れたままで待っているたとえばなにか揺れているもの
  蝶の絵を留める画鋲を引き抜けばうすむらさきが部屋に満ちゆく
  もうだれに会わなくてもいい月曜は日の暮れるまで靴を磨いて

 これらの歌の示す感情は悲しみや憂鬱とかではなくて「苦さ」のように思われます。そしてその「苦さ」にはひじょうに実感が感じられます。また、何度か現れる「蝶」や「森」のイメージは、その「苦さ」とよく似合っていると思います。
 つぎの歌はとくに印象に残ります。

  ゆうぐれのシンクを叩く赤い水あやまってくれなくていいから

「赤い水」は血でしょうか。頻出する「指」の語から考えると、指を怪我したのでしょうか。いや、誰かに傷つけられた? そのあたりが謎として残るところも興味深いです。


東郷真波「発泡ひこうき」

 明るい絵、明るい写真のような一連だと思います。内容にかかわらずに。
 一読してひっかかってきたのはつぎの歌でした。

  満ち足りてねむる車掌は大好きな灯台前の駅を飛ばした

「満ち足りてねむる」はそれだけで、惹きつけられる表現だと思うのですが、その幸福感は「大好きな灯台前の駅を飛ば」すことによって、損なわれたのでしょうか、それとも、「大好きな灯台前の駅を飛ば」すほど、幸福感のうちにあるのだから、問題とするに足らないのでしょうか。それに、そもそも車掌が駅を飛ばす、ということはどういう意味なのでしょうか。運転手だったら分かるのですが。
 この歌はそういった意味で曖昧なわけですが、それにもかかわらず、ある種の魅力を持っていると思います。その魅力とは確かにこの作者が語を紡いでいる時、強い幸福感のうちにあったことが感得できるところから生じるのではないでしょうか。こんな歌もあります。

  テーブルの隙間をめぐる回遊魚 炭酸飲料ばかりを運ぶ

 ここに作中主体の考えていること、感情の種類を類推する手掛かりはありません。おそらく意図的に加えられなかったか、作者の重要・非重要の尺度に照らしあわせて自然に削られたのでしょう。
「回遊魚」とあるし、「炭酸飲料ばかりを運ぶ」とあるし、ウエイターあるいはウエイトレスなのかもしれない、だとしたら、仕事の歌なので、苦しい、という感情があると解釈していいのかもしれません。しかし、苦しい感情を仄めかすのに、「回遊魚」というどちらかというと、滑らかな運動を連想させる語を使うものでしょうか。解釈のみを考えると読み手としてはかなり手詰まり感に捕らわれてしまうのですが、ただ、「回遊魚」と「炭酸飲料」の組み合わせは、漠然とですが、軽やかなものを暗示するような気がして、内容の分からないまま、わたしが受け取った印象は、爽快感に近いものでした。
 もう少し感情が明示される歌もあります。

  たっぷりのドレッシングの照り返しだけがすべてを愛してくれる

 これはわたしはとても好きだし、感情の質感も比較的よくわかります。「だけが」という限定が、限定された以外の状況での愛の不在を示してはいますが、「たっぷりの」「すべてを」は眼前にある豊かな愛情の存在を示しています。そして、眼前の豊かな愛情の存在は、読者である私にもよく伝わってきます。たとえ、なぜ「照り返し」でなくてはならないか、愛するのは誰なのか、愛されるのは厳密には誰かは分からなくても。この歌を支配してるのは、幸福感というか、それより強い浄福感ではないかと推測させるところがあります。
 浄福感ということを考えると、「照り返し」の語が暗示する「光」は腑に落ちる感じがするような気もします。
 幸福感、浄福感の過剰(貶してはいません)は以下の歌ではさらにはっきりするでしょうか。

  なにひとつ求めぬ腕をしならせてやさしいひとが放つひこうき

 東郷真波さんは短歌の世界では比較的稀な心性を持つ作者ではないでしょうか。浅くはない孤絶感のなかに見られる喜びの感覚は、説得力あると思います。柔らかな感触の観相、微妙なユーモアも魅力的です。歌集が出たら、本棚のよい場所に置きたいなと思わせる作者だと思います。


廣西昌也「末期の夢」

 この一連は書かずにはいられなかったものだと思います。しかし、死、とくに近い人間の死を題材にした作品というのは、その事実に読み手も引っ張られるわけで、批評などするにあたっては、かなり難しいものであると思いました。
 私事にわたりますが、「父親の死」はわたしも経験していることで、あまり冷静な気持ちで読めません。ですから、読んでいるうちに、なるべく直截に触れていないものを探している自分を意識します。これは読み手の姿勢としてはちょっと問題かもしれません。

  病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ

 これは何といっても「辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ」ですね。存在そのものに触れたという感触を、読み手である私も覚えました。

  触っても不可思議なままなのだろうけれども父を愛撫している

 これは人の死体に触ったことのある人ならば実感できることではないかと思います。

  焼いてきた帰りに見えて美しき無人販売所の新キャベツ
 
「見えて」の無造作な感じがおそろしくリアリティーありますね。推敲では作れない種類の歌だと思います。

  振り向けば既に光は絶えていて置き去りにした日暮れのこころ

 集中の白眉だと思います。多言を要すべき歌ではないでしょう。


黒崎恵未「ふたこぶらくだ」

 一連の主題はセックスのように見えないでもないですが、でも、ほんとうの主題は違うもの、もっと厄介なもののようですね。「あなた」だったり、「わたし」だったり、「ふたりでいること」「自死」ではないかと思います。
 あとは、すべては無意味ではないかという自分への問いでしょうか。作中主体が世界というものに対した時のオプティミズムとペシミズムの相克、そのあたり興味深いですす。
 また、作品化のためのエネルギーと自己発現のためのエネルギーを比較した時、自己発現のためのエネルギーのほうが大きいのかなという印象も持ちました。全体にやむにやまれぬ感強いですね。

  長すぎる歯車の歯をもつ人が近づいてきて回ろうとする
  水道の前に毎日立っていて流れるものをただただ流す

 この二首に惹かれてしまうのですが、それはこの二首が自分の好みということだと思います。

  重力が効かないわたしの内側を私は歩く瞳を閉じて

 二律背反的な生の状態をひじょうによく表していると思います。重力が効く、という表現の無造作さや、「わたし」「私」の表記が違うことが恣意的に感じられることなど、疑問に思われるところもないではないですが、それでもそうした疑問を吹き飛ばす力というか、魅力を具えた一首だと思います。


須藤歩実「ウミガメの瞳」

 ドライだな、とまず思ったのですが、なぜ自分がそう思ったのか、なかなか分かりませんでした。しかし「ドライ」という言葉は批評の用語としてはじつにふさわしくなく、何かほかに言い方はないかなと考えたのですが、なかなかうまい表現がみつかりません。ここで私の用いる「ドライ」は「情に流されない」「湿っぽくない」といった意味に考えてください。
 何にたいしてドライだなと思ったかというと、どうも短歌という形式自体に向かう際の作者のスタンスにたいして思ったようです。この作者は、短歌をひとつのツールとして使っているのではないかと私は思ったのです。もちろん短歌をツールとして使っていない作者などいないわけですが、あらためてそう思ったのは、この作者がそのツールを使って、表現しようと思っているのが、ある種のファンタジーなのかなという印象を覚えたからです。いやファンタジーの語は誤解の余地があるかな。もっと簡単に「空想」あるいは「シチュエイション」と言ったほうがいいかもしれません。
 魅力的な「空想」および「シチュエイション」はあまたです。

  クレヨンの白をなくしたことなんか気がつかないままの夏休み
  あたたかい風は気圧の関係で受話器の向こうへ流れてゆきます
  ホイップクリームをまぜてまぜすぎて雲までとどけ螺旋階段

 これらの歌を楽しめるかどうかは、作者とどのくらい心性が近いかによるでしょうか。近ければこの一連は心愉しく読めると思います。それは、音楽のなかのひとつのジャンルを楽しんで聞くようなものかと思いますし、それで不都合な点はまったくないと思います。
 そもそも、短歌も音楽と一緒で、もう少しジャンル分けされてもいいような気もします。みんながみんな性別も年齢も個人差も超えてすべての人に訴える短歌を目指さなくてもいいと思うのですよね。高校生の女子と、100歳の男性とでは感覚が違って当たり前でしょう。
 音楽だって、クラシックや演歌からエレクトロニカ、ポストロックまであるわけですから。もちろん、すべての人間にとって意味のあるものがつくれればすごいわけですが。
 しかし、話がずれました。この作者の感覚で面白いなと思ったものがほかにもあります。

  首飾り外してあげる夢をみるわたしのうなじのような気がする
  湖にうつる夕陽をみる君の頬にうつった夕陽をみつめる

 この二首は、入れ子のような何かを思わせます。この作者は感覚で書いているように見えますが、論理の人ではないでしょうか。


我妻俊樹「花とチャック flowers and zippers」

 短歌であるのに、最後まで読んだら小説を読んだような読後感でした。アメリカの現代文学を読んだような感じ。重すぎるというほどではないですが、無視できないものを手渡されたような感覚もありました。それぞれに小道具めいた「詩素」のようなものがあるのですが、どれもそれぞれの機能をちゃんと果たしている感じがします。一首で立つタイプの歌を作る方ですね。どれも写真のように鮮やかで多大な意味を孕んでいると思います。秀歌はひじょうに多いです。

  人間の這入っていない着ぐるみを膝に寝かせた 雨が止んだら
  きみの抱く消火器は空 ねがえりをページをめくるようにつづける
  捜された和服のひとが地面から掘り出されてる小石とともに
  自動ドアって書いてるだけのただのドア閉めにいく家族をぬけだして
  信号で曲がるところを間違えた団地の先に団地がつづく
  波が洗うサイクリング道路ひきかえす 悲鳴でしゃべる女となって
  本当はもう死んでるの 帽子掛 あなたが話しかけているのは
  閉じるとき心はチャックに巻き込まれ何か叫んだように朝焼け

 しかし、精密さ、端正さ、面白さに舌を巻きつつも、違和感が少し残るのはなぜかと考えています。何かうまく言えないのですが、作る時に感じさせたいと望んだものしか現れていない気がするのです。もちろんみんなそう思って作るわけだし、だからだめだとも思わないのですが。
 すこし否定的なことを言ってしまいましたが、この歌の入った歌集が書店にあったら、私は買うと思いますし、この作者が新人賞になってもわたしはまったく驚きません。

  砂浜で風にころげる水玉のビニール・ボール きのうもあった

 こういう歌を作れる人はほかにいないような気がします。寡聞ですが。


西島ぺこ「あ いま泣きたい」

 タイトル、魅力的です。

  爪をきる ぱちんぱちんというたびに君にさわった部分をすてる

 これはやはり人間にたいする嫌悪の情について詠んだのでしょうか。一般に何かにたいする嫌悪の情を題材にすると、読み手にマイナスの感情を与えることが少なくないような気がするのですが、これはあっけらかんとしているせいか、そういうふうにはならないような気がします。
 歌の結びがストレートな意思の表出になっていて、そのあたりは、好悪が分かれるところかもしれませんね。作者と作中人物がかなり近い印象がありますので、作中人物の意思表明にたいする好悪がそのまま歌にたいする好悪につながるかもしれません。ただ、それがどうした的な強さがありますね。

  ブラウスにアイロンかける 朝 きみが目覚める前にはだかで倒立
  こじあけて 七色の水をそそいだら きみはちいさくあたしを呼んで

 これらの歌にある迷いのなさのようなものに目を奪われます。


中田有里「今日」

 あまりに飾らないタイトルにまず驚きました。そして、一首目で同様の驚きを覚えました。

  薄い葉が冷たくなってる冬の朝君の口から白い息が出て

 ただごと歌がかなり好きなので、いいぞいいぞと思っていると、

  マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる

 ときます。うーん、これなんでしょう。何だかよくわかりませんが、とても面白いです。
 ただごと歌というのは、なぜかきわまればほとんど不条理感のようなものに近づく気がするのですが、この作者にもそういうものがあります。
 
  手袋が冷たい朝に雨と雨の間の空気きづかれずに吸う
  何本も出てきた葉っぱがてかてかと光って口の端っこにつける
  OLが一人一本傘差して祭りも昨日終わって今日は

 そして、一連のなかでもこの二首のただごと振りはすごいと思います。ほとんど脱帽です。

  昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
  雨の日に銀杏が水に濡れていて雀が少しうるさくしている

 そしてわたしのとくに好きなのは以下の二首です。

  羊かんを供えるように自転車で体を運ぶJRの駅まで
  夜空とか映画館とか指先が見えなくなると会いたく思う

「羊かん」の「羹」の字くらい漢字にして欲しかったのですが、そういうことにこだわらない感じもすごいと思います。世界にあるすべての物は触れば触った感触があるはずで、実際、そこの場所に行けば、実際に触れるわけで、観念にまみれた生活をしていると、時折、それがものすごく素晴らしいことであるような気がします。中田有里さん、期待したいと思います。


市川周「午後の右翼手」

 とてもスタイリッシュな一連だと思います。語がよく吟味されていますね。
 私が一番惹かれたのはこの歌でした。

  きみの唇だれかが湿すつかのまを三本間にはさまれており

 ふたつの時間、ふたつの場がひじょうにうまく折り込まれていて、それをふわりとユーモアが包んでいる。この歌に関してはほぼ完璧だと思います。
 上の句に状況提示、下の句でオチのようなもの、という構成が多いのは、単調だという意見も出てくるかもしれませんね。

  凡フライグラブの中で死んでゆく 鯨ヶ丘にゆれる向日葵

 これも野球の場とべつの場所の対比ですね。印象に残ります。

  どこまでがわたくしそこかしこに鱗 肉体改造しすぎた朝に

 ユーモア指向の歌も目立ちますね。

  きみに手をふったなんだか手をふってばかりだなぁとおもった たたた

 この歌は、やはりグラウンドのなかと捕らえるべきなんでしょうか。状況を特定できない面はありますが、最後の「たたた」が効いていると思います。


 ほんとうに長々と書きました。すみません。しかし、結局、個人的な好き嫌いのことばかり書いているような気もします。失礼がなかったか気になりますが、ひきつづきこの歌葉の場を楽しみたいと思います。失礼いたしました。
 



筆名について
No.1008
Name枡野浩一
Date:2006年09月06日 (水) 00時58分
Mailii@masuno.de
URLhttp://masuno.de/blog/

変な名前の歌人が
受賞することで知られている歌葉新人賞。

お名前を見るかぎり、
「フラワーしげる」さんが
抜きん出ていると感じました。

「西島ぺこ」さんは、
漫画界で今とても注目されている新鋭に
「渡辺ペコ」
http://www.ne.jp/asahi/peko/pro/
がいることは、
ご存じなかったのかもしれませんね。
知った上で、この名前だとしたら、脱帽。
あるいは、ご本名なのか……。

選考の過程と結果、楽しみにしております!


コメントについて
No.1007
Name加藤治郎
Date:2006年09月05日 (火) 20時19分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

1005,1006を書き込まれた方に、そしてみなさんに

こんにちは。
今回、とくに、投稿のルールは明示してありませんでしたが、過去ログをご覧いただいたのですね。

匿名は、ご遠慮いただくということで、お願いいたします。
1005,1006は、とりあえずこのままにしておきます。




申し訳ございませんが、選考を妨害するようなコメント、公序良俗に反する表現、誹謗中傷、プライバシーの侵害その他不適切なコメントは、ご遠慮いただいております。著しく反する場合、こちらの判断でいただいたコメントを削除させていただくこともありますのであらかじめご了承ください。
ご協力お願いいたします。


@「こんなのどこがいいの」的なネガティブな発言、誹謗中傷の類はご遠慮願います。


A匿名での発言は、ご遠慮願います。



よろしくお願いいたします。


あ゛っ…
No.1006
Name[1005]書込みの者です。
Date:2006年09月05日 (火) 18時26分

申し訳ありません、匿名禁止なんですね。
偽名なら良かったんでしょうか?
大差ないと思いますが、ルールですしね。

削除する気がなかったので、削除キーを入れなかったのですが、まあ今も削除する気はないので、でも、えーと、どうしたら良いですか。
ひとまずお詫び致します。


はじめまして。
No.1005
Name匿名で失礼致します。
Date:2006年09月05日 (火) 01時36分

私は、東郷真波さんの「発泡ひこうき」を推します。
東郷さんはおそらく女性だと思われますが、少年ぽさが好きです。

(もう十代の女の子歌人には飽きました。なんで少年が出てこないのでしょう。それも13,4歳の思春期真っ只中の少年。動物的に一般的に、女の子のほうが男の子よりも成長が早いんですから、十代の女の子の何が瑞々しいのか理解に苦しみます。撰者が男性だとやはり女の子を選んでしまうのでしょうか。逆も然りですが。)
この作品がほんとうに少年の作品だったら、フラワーしげるさんどころの騒ぎではないと思いました。

ところでこの書込みは、「内情に詳しすぎて口出せないんだけど、なんか書かない?」といったかんじに唆されて書いてみましたので、悪しからず。


この三人を応援します。
No.1004
Name佐伯大輔
Date:2006年09月03日 (日) 01時38分

まず、黒崎恵未さんの「ふたこぶらくだ」。後半、少し失速したように、私自身は感じたのですが、30首だけじゃなくて、これ以外の歌、それ以上の歌を読んでみたいと強く感じさせられたので、応援したいと思います。

次に、市川周さんの「午後の右翼手」
かなり、使っている材料に偏りがあると思いますが、実際声に出した時の音がいいなっておもいました。 それから、何度読んでも面白いと感じさせられたので、応援したいと思います。

最後に、廣西昌也「末期の夢」。30首のみを考えた時、一番、完成度は高いのかな〜、と感じました。応援していきたいと思います。

偉そうに書いてしまいましたが、これが最後の歌葉新人賞と思うと、書き込んでしまいました。
この賞が、最高にもり上がっていったらいいなあ、と思います。


廣西さん、フラワーさんを応援します
No.1003
Name桜木 幹
Date:2006年08月30日 (水) 00時48分

一次選考お疲れ様です。
残念ながら拙作品はだめでしたが、候補作をみて廣西さんとフラワーさんの作品がよいかと思いましたので、応援コメントさせていただきます。
廣西さんはこれまでの流れからいうと正統派?な作風で安心して読める感じがします。
フラワーさんはかなり定型の枠をはみだしてますが、個性でのりきっている感じがします。
選考会が楽しみです。


候補作品を読もう!
No.1002
Name加藤治郎
Date:2006年08月22日 (火) 22時05分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。

加藤です。

新人賞候補作品が歌葉のサイトにアップされました。

http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/

皆さんのコメント、お待ちしています!


これから
No.1001
Name加藤治郎
Date:2006年08月20日 (日) 23時05分
URLhttp://jiro31.cocolog-nifty.com/

こんにちは。

一次選考の結果が発表になりました。うーん、という感じです。

今後の進行ですが、おおよそ昨年どおりです。
選考委員のそれぞれの候補作へのコメントが順次アップされます。
その後、公開選考会を開催し、その場で受賞作を選出いたします。

皆さんの応援コメントもどうぞよろしくお願いいたします。



荻原裕幸選「第5回歌葉新人賞候補作品&一次予選通過作品」
No.1000
Name荻原裕幸
Date:2006年08月20日 (日) 22時26分
Mailogihara@na.rim.or.jp
URLhttp://ogihara.cocolog-nifty.com/

こんにちは。
荻原裕幸です。
ぼくの一次選考の結果は以下の通りです。

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■候補作品

[ID 161] 望月浩之 「それはまだ」
[ID 167] 佐原みつる 「水曜の森」
[ID 200] 東郷真波 「発泡ひこうき」
[ID 221] 廣西昌也 「末期の夢」
[ID 253] 黒崎恵未 「ふたこぶらくだ」
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■一次予選通過作品

[ID 138] 日野やや子 「アンチェインド・ヒダマリ」
[ID 139] 深井順子 「谷底にて君を想う」
[ID 242] 瀧音幸司 「あおすぎる空」
[ID 249] 末松さくや 「てのひらの名前」
[ID 258] 我妻俊樹 「花とチャック flowers and zippers」
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応募者のみなさん、ありがとうございました。


穂村弘選「第5回歌葉新人賞候補作品&一次予選通過作品」
No.999
Name穂村弘
Date:2006年08月20日 (日) 14時30分

こんにちは、穂村弘です。
私の一次選考結果は次の通りです。
よろしくお願いいたします。

●候補作品
[ID 167]佐原みつる「水曜の森」
[ID 216]西島ぺこ 「あ いま泣きたい」
[ID 221]廣西昌也 「末期の夢」
[ID 228]中田有里 「今日」
[ID 251]市川周  「午後の右翼手」

●一次予選通過作品
[ID 161]望月浩之 「それはまだ」
[ID 200]東郷真波 「発泡ひ