[1960] 本日はお休み 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/19(Sun) 08:20

ちょっと、ここ数日、この掲示板の書き込みが、錯綜しているように思います。
とりあえず、本日、私は、所用でこのまま出かけて、夜八時過ぎに帰宅します。
まことに恐縮ですが、本日は、一日、この掲示板への書き込みを控えていただけ
ますでしょうか。
まことに勝手なお願いではありますが、よろしく、ご協力ください。
今後、問題を整理して、発展的な交流の場にいたしましょう。


[1959] いったいどれくらい生きていられるのだろう 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/19(Sun) 07:54

私は思うのですが、結局、読者の参加っていうのがキー・ポイントになるとおもうんですね。
作者が顔を出す出さないって言ったって、虚しいとおもうんですよ。
作者って結局消えちゃうって思うんです。どっちにしても。
作品が作品として成功した場合にも、失敗した場合にも。
それぞれの理由で。
失敗した場合は、そもそも何も無いですよね。
成功した場合も、作品だけが残る。
否応無く。
それが作者の究極の喜びじゃないかなぁ。
たとえば野のお地蔵様みたいに。
夕焼けが誰かにとっては、西方浄土の夢だったみたいに。
具現したものが、享受者を得たときに、実現、完成するというか。
読者を永遠に待っていて、より完全な読者を得たときに完成する本みたいな感じで。
それが同時代なら幸運で、時代には理解されない場合とかもあって、でもいつか来る船、いつか吹く風を待ってるみたいに、待つもの。


救世観音、百済観音、阿修羅像 異国に果てる渡来の仏師

というのは、史実とは違うかもしれませんが、でも仏師の名前なんて知りませんよね。(ご存知の方もいらっしゃるかもしれないけれど。)
でも仏は美しい。
具現して、作者は見えない。完璧に作者から離脱している。
享受者のものになってる。
否、誰のものでもない。だから誰のものでもある。
姿を顕しているのは、共感なんです。
何らかの差別かなにかで、もしかしたら名前というのが後世に刻めなかったとしても、
それでも、美が完成したものであればあるほど、名前のあるなしに関わらず、作者を離れるのです。
美の形象、誰かの思惟の具現。既に現れた何か。
完璧に見えているのに、完璧に現れているのに、
完璧に隠れている。消えている。


[1958] ストーカー行為に対する勧告 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/19(Sun) 07:48

この一両日中に、
一方的な内容のメールを繰り返し送りつけられ、
大変迷惑しています。
送り方についても内容についても、
どんなに親しい相手であっても、許されるものではありません。
これは立派に、ストーカー行為に該当します。

まず、必要な用件以外の内容で、
親しい交際のない相手に対して発信することは、
マナー違反です。

まして、
BBS上でひんぱんにやりとりを交わしたとはいえ、
面識のない方を、わたしは「親しい間柄」だとは認知していません。

ご自身に思いあたるかたは、
謝罪に相当する行為は一切いりません。
今後、このようなことのなきように忠告します。

このように勧告を行ったうえで、
なお迷惑行為がつづく場合には、
しかるべき処置をとらせていただきます。

なお、この勧告には、藤原龍一郎さんの了解を取り付けてあります。


[1957] わたしの高校時代 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/19(Sun) 07:13

以前、藤原さんが総合誌でインタビューしてくださったときに、
高校時代の話を聞いていただいて。
なのに、ゲラをいただいて、わたしはカットの指示を出しました。
藤原さん、なんでやねんと思われたとおもいます。

わたしの高校時代。
不良でもなんでもなかったけれど、「学校一」目立っていたそうです。
自覚がなかった。
あれから二十年近く経った今でも、
妹は、同窓生から
あんたの姉さんを知らんヤツはおらんかった。
と言われるそうです。
当時は
学校一目立ってる。そんなに目立ちたいんか。と、
口汚い匿名の投書を受けたりもしました。

たいした成績でもなく、校則もよく守り、
発言も真面目すぎるくらいまじめだったと思います。
でも、わたしの言動は、周囲にものすごい衝撃を与えていたらしく、
わたしはそのことにいっこうに気づきませんでした。

唯一自覚できたのは、
文芸部にはいっていたので、
部誌の「幻」「北野文学」(大阪府立北野高校なので)を文化祭などで頒布すると、
校外の方で「会いたい」と思ってくださる方がいて、
部室は他校の生徒(必ず変人)がよく訪れていました。
OBで、ちょいとかっこいいお医者さんが交際を申し込んでくださって、
何度かドライブに連れてってもらった。
よかったのは、あれぐらい。

同じ学校の生徒でも、
わたしの家は高校の近くにあったので、
朝夕、周辺を徘徊して、わたしが出てくるのを待ってる人もいた。
後輩の男の子たちでした。

わたしは、今だに、それらがセルフイメージの一部になってなくて、
他人のことのように思います。
なので、カットさせていただこうと思ったのでした。
最近、たしかにわたしだったんだな、
と思えるようになってきた。
短歌をつくっていることを、やっと周りによろこんでもらえるようになったしね。


[1956] 何か淋しい結論ですが     投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/19(Sun) 06:44

松本洋一さんへ

そうですか
空ではなくて、単に空洞なんですか
満ちることのないからっぽの容器なんですか
なんだかそう簡単に空洞にされたくないっていう感じなんですけれどね
だって、じゃあ、ここにいる私はいったい何なんでしょうって思うじゃありませんか
いつでも何かにとって変わられる可変体なのかしら
ちょっと淋しいですよね
でもそれが現実の私なのかな

ここに確かにいると
いえるものはないですね それは空洞ってことなのかもしれませんね。

からっぽの中吹き抜ける風になれその空洞の夜の蝙蝠
何かこの世への手紙書きたくて書けないままに死んだ蝙蝠


[1955] 高校時代少し演劇部にいた 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/18(Sat) 23:20

 進学クラスにいた私は、担任の迫害と放課後の補習にめげずやりぬくつもりでしたが、裏方に回してもらっても集団プレーであるから迷惑かけっぱなし。1年で舞台監督して消えました。校舎の隅から隅走り回り焼却炉の隣の倉庫で大道具を作っていました。職員会議かなんかで余ったりんごとゆで卵を恵んでもらい役者にぶーたれられながらも
演劇って良いなあ。いつかもう一度やるんだ…。

そういうことで、辰巳さん、金と暇集めて見に行く計画中。


[1954] 再会 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/18(Sat) 22:53

今日は夕方から人に会い、そのまま息子を迎えに、東京駅へ行った。
入線してきたひかり238号の窓には、少し視線を落とした顔が貼りついて、どうしてだかわたしを見ないで、いっしょにいた友人のほうへ、窓越しにまず軽い会釈のしぐさをした。
会うのは半月ぶりだった。
扉がひらいて、大阪にいた子はすっかり乗り物酔いで蒼醒めている。
見たことのないシャツとズボンを穿いていた。
それから、東京駅近くの鳥料理の店にしばらくいて、わたしはそこで冷酒を三杯のんだ。もう9時も近くなって、友人とはお別れした。

中央線で、わたしはわずかな隙間に座り、息子は少し離れて、ドア越しに流れてゆく、よるの外気を追いかけている。
いつのまにか、舟をこいで、眠ってしまっていた。

おい、いいかげんにしろよ。さっきから、凭れかかって。

半分顔をあげたら、目の前の吊革に、もう手の届くようになった息子が立っている。

ごめんなさい。……

わたしは隣にいたわかいお兄さんに謝って、また眠った。

もう、次だよ。

また声がした。立ちあがって歩き、今度はドアに凭れかかった。

おかあさん。
いつのまに、そんなにふらふらするようになったんだよ。
おかあさんは、酔っても気は変わらないけど、前はそんなに体がふらつかなかったよ。

わたしは、何もかも恥部をさらした気がして、もう物が言えなかった。

だいたい、頼りすぎなんだよ。

……だれに?

おれとか。……

わたしは息子の手を握りしめたけれど、顔があげられなかった。
手を握る、ということが、ただ自分がつなぎとめられたいだけの、さびしい再会の儀式である気がして、冷たいドアに頬をあてがったまま、顔が、あげられなかった。


目を閉ぢてどこもかしこも朽ち葉色 一晩中の手をつなぎをり
  
どうしやうもないこと互みに告げあつて灯りの落ちたかなしい顔だ

                            泰子


[1953] ところで、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/18(Sat) 20:36

私の最も好きな作家・保坂和志が、
こんな一文を発表しています。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/sankei5.html

ここには、
「かんたん短歌」の教祖・枡野浩一にも、
「かんたん短歌」以外の短歌の信奉者にも、
耳の痛い要素が含まれているのではないかと感じましたので、
ぜひご一読ください。

http://talk.to/mass-no


[1952] すみません。 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/18(Sat) 20:14

さっき、私と同姓同名の歌人のかたのホームページを開いていたら、間違われていたかたがおられたので、釈明させてください。
 ここで、哲学者の東浩紀(とうとう一発変換で出るようになってしまった)について、とんでもない大間違いの文章を引用したのは、名古屋の松本洋一で、ブルガリアに海外青年協力隊(文化財保護)で行っていらっしゃるまつもとよういちさんじゃありません。お騒がせしてすみませんでした。
 枡野さんへ。歌集と新聞お送りくださってありがとうございます。まだ届いていないのでわかりませんが、枡野さんの記事とと東浩紀の文章の関係が、正しいか間違っている(と松本が勝手に思い込んでいるだけなのか)は、記事を見てから、判断いたしたいと思います。なにしろ、かんたん短歌についての資料が、加藤千恵の「ハッピー・アイスクリーム」しかございませんので。
 風間さんへ。「空」なのですか?ちょっと違うような気がするのですが。私は、「私」や「作者」が、「国家」がそうなのと同じ構造で、「中が空洞」だと思っているのですが。それこそ東浩紀の文脈で言えば「否定神学」的に(と言うとまた間違ってしまうかも知れないからやめますが)どう違うのかということは、また考えます。とりいそぎ上文まで。とにかくいろいろ(西王さんにも)すみませんでした。御迷惑をおかけしました。


[1951] 表現というものは 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/18(Sat) 18:22

 エスペラントの勉強会で考えていたこと。
 作文の問題があった。私は1年の経験もないのでさして気にならないことが、何十年とやってる人に気になるらしい。まあいろいろな表現ができうるので解答が出ないのだ。で、「出題者はこの文法事項を使って欲しいから、ということのみ考えるから、一つの文としての注意が足りなくなるのでは。」と言った。変に納得された。
 伝えることに最重要ポイントを持つエスペラントの作文とはいささかアプローチが違う短歌でも、その短さゆえに注意力が必要なのは言うまでもないでしょう。
 表現者としての個人ならいくらでも書き込む、それで良いでしょうが。


[1950] 松木 秀さん、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/18(Sat) 17:20

そのご指摘は鋭いですね。
私も、
加藤千恵が登場して以来、
枡野浩一はなんて従来の短歌っぽいんだろうとあきれています。

石井辰彦さん、
私があなたの名前をきちんと書いて呼びかけたのはこれが初めてですが、
これで最後にします。
下のあなたの書き込みはまったく予想外で驚かされました。
「必勝の、というか狡いレトリック」かどうかは別にしても、
ここの掲示板でかつて、
西王燦さんと枡野浩一が交わしたやりとりの一部を、
ほうふつさせるのが、
あのときの辰巳泰子さんの書き込みだったのです。
ですから、
(以前も別の場所で同様のやりとりがあったので)
の「別の場所で」というのは私の記憶ちがいでした。
「ここの場所で」
が正解です。
過去ログをたどればきっと出てくるかと思います。
が、
「レトリック」ではなかったことを、
あなたにわかっていただきたいとも別に思わない無口な私です。

毎日新聞のコラムは、数日後に、
私のホームページのどこかにアップする予定です。

http://talk.to/mass-no


[1948] 研究熱心! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/18(Sat) 16:35

枡野浩一さん、私の著作を熟読していただいたそうで、恐縮です。どうもありがとう! この上はあなたの「ある判断」なるものを率直にお示しいただければ、なお嬉しいでしょうね。思わせ振りな書き方があなたのスタイルだ、ということは、十分承知しているのですが、ちょっと気になります。

で、さすがに教祖を名乗られるだけのことはありますね、枡野さん! 短歌全般に対しては、確かに私よりあなたの方が研究熱心だと思います。私なんか、不勉強で、枡野さんのお名前を(短歌関係者としてですが)存じ上げるようになったのもつい最近のことなのですから。まだ御著作を拝読する時間さえないくらいです。枡野さんを見習い、もっと研究熱心にならなければなりませんね! 研究熱心だからといって必ずしも見るべき結果を残せるわけではない、とは十分承知の上で、私なりに励むことにいたしましょう。

なんてね、さて枡野さんは、「そういう反応があるのをもちろん想像した上で[1937]の書き込みをした」と突っ込まれるのでしょうか? それって必勝の、というか狡いレトリックですよ。枡野さんとは、もっと腰を据えて議論をしたいと思っています。


[1947] 言外の意味 投稿者:松木 秀 投稿日:2001/08/18(Sat) 16:33

この掲示板での皆様のやりとりや、毎日新聞の枡野浩一さんの記事などを読んで、
なぜかとりとめもなくこの言葉を連想してしまいました。
さきほどマスノ短歌教掲示板にも断片的なうわごとじみたことを書いてしまったのですが。

大元は、短歌人60周年記念号の座談会(「現代短歌」の「現在」)の中にあった、
このようなやりとりを参考にしています(78ページ)。

 武下 うちの娘、高校一年生なんですよ。
 藤原 作ってるの?
 武下 全然駄目ですよ。読ませるとね、とても面白いことを言う。「言外の意味が
    しんどい」って言うんですよ。たぶん、彼女たちの世代が短歌にこれから
    関わってくるとすると、その言外の意味を全部排除したかたちになるんじゃ
ないかという気がしますね。
 三枝 そうね。だからそこが面白いですね。全部排除した歌を作ったつもりが実は
    すごい背後の意味を抱えちゃったり(笑)とかいうこともあるんでしょうね。 武下 それは短歌のもつ機能として抱えちゃいますよね。読み手のほうで。

「かんたん短歌」の一部と「ただごと歌」は、言外の意味をなるべく排除する、という
点では似通っていたりするのではないか、とも思うのでありました。
そして毎日新聞の枡野コラムでは、「言外の意味を排除した短歌にすることによって、
ものすごい背後の意味をあらわしている歌」として、加藤千恵さんの歌が紹介されて
いる、との感想を持ちました。

余談になります。『ハッピーロンリーウォーリーソング』を読んでみると、かんたん短歌の提唱者の歌は案外「かんたん短歌」ではなかったりする、と今にして印象を抱いてしまった私でありました。

とりとめのない文にて失礼いたします。

http://www2.diary.ne.jp/user/86872/


[1946] とりとめもありませんが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/18(Sat) 14:53

>松本洋一さん
>私は「私」というのも「作者」というのも中心が空洞だと思っています
>「だれが私に『私』であることを教えたのか」と問うてみればわかると思います。「鏡」を見なければ、私が『私』であることを認識することはできないでしょう。作者もまた「言葉」という「鏡」に映すことによってしか見えてきません

仏教ではそれを<空>と言っていますね。
顕教でも密教でも。
宗教というより、宇宙を理解しようとする哲学としての仏教としてですけれど。
宇宙は
空にして満ちているんですよね。
その素粒子としての人間も、また空であるのは同感できます。
個人といっても、宇宙の多様な構成要素、そして様々な人間関係が影響しあって、
出来ているわけですから、複合しているわけですよね。
人類の悠久の歴史と、現在関わって生きている、そのすべてが、一人の人間に、
溶け込んでいるのですから。

私の中には無数の人が、他者の中にも無数の人が、その関係性の強弱、濃淡によって、いろいろあると思いますが、私の中に生きている誰か、誰かの中に生きている私
山崎方代さんの歌じゃないけれど
誰かが死ねばその人の中の私も死に、私が死ねば、私の中の誰かも死ぬ。
今日会った行きずりの人も、昔会った誰かも、記憶の海に内蔵される。
数分の一か、数万分の一かの違い。
純粋に、誰とも関わりのない人間、当然のことながら一人も存在しません。
この世の誰かに無縁な人は、誰もいない。
言葉も同じ。作品もまた。
すべてはコラージュであり、綴れ織りであり、反響であり、反射であるのでしょう。
魂の交響楽を奏でるのも、それを破壊しあうのも、関わりあわなければ、存在しえない人間の、人間だけでない、動植物だけでない、星も鉱石も、何もかも、
何もかもに関係しあって、個人は、私は、「私は私」と言うのでしょう。
世界のすべてに感化・感応しながら、それでも、かけがえのない、譲り渡せない、何かを、やはり、他者と何かこの薄皮一枚隔てたために、痛みを一人引き受けなければならず、たった一人生まれ、また死ななければならないものとして、この虚空に、銀河に浮かんで、私たちは存在しているのでしょうね。


[1945] ためいき 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/18(Sat) 13:44

こんなはずではなかったと思うばかりの毎日、ふっ


[1944] それから私、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/18(Sat) 13:03

主夫はくびになりまして、
今はもっぱら単行本制作などをしています。
保育園に子供たちを預けている時間しか仕事できないのですが。

あと、
「出口なし〜」の歌は、
加藤千恵の歌の下手なパロディでした。
ごめんなさい。

ついてない びっくりするほどついてない ほんとにあるの? あたしにあした
(加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』中央公論新社より)

http://talk.to/mass-no


[1943] 松本洋一さん、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/18(Sat) 12:56

オカザキマリ(おかざき真里)さんとの合作である
私のデビュー短歌集2冊と、
毎日新聞夕刊、
お送りしました。
あした宅配便で届くと思います、ご笑覧ください。

そうですが、
私の我田引水な「読み」は外れていましたね。

が、
奥村晃作も香川ヒサも、
私が一方的に親和性を感じている数少ない歌人のうちのふたり。
枡野浩一の提唱する「かんたん短歌」と時にニアミスするのは、
じつは彼らなんじゃないかと思っているほどです。

どこが無口なんだと思いはじめましたので、
このへんで失礼します。

http://talk.to/mass-no


[1942] いくつかのこと 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/18(Sat) 11:08

辰巳さんへ、私は頭が悪いので、いい例になっているかどうかわかりませんが、あの文章を書いたとき、私の頭の中に会ったのは

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買いに行く(奥村晃作)  
                         (資料なし。うろおぼえ)
一つづつはさまれてゐるもの見ては口へと運ぶミックスサンド(香川ヒサ)

というものでした。これらの作品は、短歌という極限にパフォーマティヴな場にあって、あえてコンスタティヴに書くことによって、あるパフォーマンスをしているものだと解釈しました。これに比べると、「かんたん短歌」も、辰巳さんがつくった「かんたん短歌もどき」も、ずっとパフォーマティヴです。「・・かわいいとおもう誰でも」とか、山羊の比喩とか「・・開けたことないけど・・きっと・・だな」というのは、立派な「身ぶり」だと思います。
 東浩紀については、「郵便的不安たち」「不可視なものの世界」(共に朝日新聞社)を読んで下さい。ほんとうにあそこに、浅田彰への反論を含めて、全部書いてあります。
 風間さんへ 私は「私」というのも「作者」というのも中心が空洞だと思っています。「だれが私に『私』であることを教えたのか」と問うてみればわかると思います。「鏡」を見なければ、私が『私』であることを認識することはできないでしょう。作者もまた「言葉」という「鏡」に映すことによってしか見えてきません。「鏡」がだめなら「スクリーン」でも「ブラウン管」でも「インターフェイス」でもいいです。鏡が鏡を映し会っている。ただその鏡は、資質とか、環境とかによって歪んでいる。強いていえばその「歪みかた」が私ということになるのでしょう。ともかく、その互いに映し会う鏡の連鎖が「私たち」であり、それを「国家」というゲームに仕立て上げていくのが「システム」でしょう。ただ、その「システム」は見えない。なぜなら、ゲームのプレイヤーはゲームの「中に」いると同時に「上から」も見える。(例えば、攻略本を使って)しかし国家というゲームには「上」はない。なぜなら、このゲームにはシナリオがない(あるように見えるのは、すでに起こってしまったことを一番あとから後ろを振り返ってあるストーリーをつくってしまっているからです。)しかも、ゲームは一つではなく、複数存在し、お互いがお互いに影響しあっている。したがって、横に出ることもできない。(一つのゲームを出ても、また別のゲームの中に入るだけだ。)かくして「システム」は見ることができない。しかし、見ようとしてしまう。見えないものを見ようとするから複雑なことになる。で、いろいろな作業仮説や足場をつくって「上」や「横」をつくろうとする。でもそれは、あいかわらず「中」にある。
  しゃべりすぎだな、どうも。言えば言うほど嘘っぽくなる。


[1940] ほんとうに。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/18(Sat) 00:29

枡野さんは、短歌が好きだと思うよ。
このBBSでも、自分のつくった短歌で、勝負してるじゃんか。
なんでもうたで言えばいいとは思わないけど、
そういうシンプルなこと、忘れてない人っていいと思うよ。
あと、〆切の近いお仕事、がんばってください。


[1939] また告知です 投稿者:松原一成 投稿日:2001/08/18(Sat) 00:12

森本平さん、出演していただけるんですね。うれしいです。
ありがとうございます。稽古始まるのが楽しみです。
って、その前に自分が脚本書かなきゃ。

またも告知ですが、
「人物科学史」という番組の構成を担当しました。
中高生の理科離れを防ごうという20分番組で、
アインシュタインの魅力を、CGの博士、少年、少女が、
語り合っていきます。
来週火曜日(21日)午後2時より、NHK教育で放送されますので、
よろしかったら。
中高生対象とはいえ、大人が観ても、面白いように作ってますから。

問題は、平日の午後2時という時間ですが、
主夫やっている枡野さんに観ていただけたりしたら、うれしいです。
23日(木)の同じ時間にも、再放送がありますので。

相対性理論のこととか出てきますが、
かんたんにかんたんにまとめてますから。


[1938] え!?字義どおりだとおもうんですけど。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 23:27

字義どおり以外のものを、枡野さんに感じとらせてしまったのね。

あ、でもこれ、
逆説的に「具体例」ですね。ふーん………。

枡野さんは、勉強熱心というより、短歌が好きなんだと思うよ。
だから、でしょ。
いいじゃん!いいことじゃん!!


[1937] 無口な無口な無口な私。 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/17(Fri) 23:17

辰巳泰子さんのは枡野浩一の定義する「かんたん短歌」ではないですね。
「歌人」が書くと、言葉はどうして「字義どおり」に見えないのでしょう?

石井辰彦さんの著作を私は熟読した上で、
ある判断をして「無口」になっているのですが、
石井辰彦さんの言葉(字義どおりの言葉であれ、
身振りとしての言葉であれ)を見るかぎり、
その逆はないんでしょう。

つまり、
世間のイメージとはちがって(?)、
枡野浩一のほうが短歌全般に関しても、
研究熱心なのだと思っています。

http://talk.to/mass-no


[1935] Re[1915]: 最新ニュース 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 22:44

> 来年、また舞台で朗読の機会を持ちます。
>
> 「9・14辰巳泰子の世界――眠れない夜を越えて」
> コンセプトは、性愛です。
>
> 松原一成さんの脚本で、朗読劇も行います。


さてさて、最新ニュースです!!

脚本のタイトルは、「ポータブル・シンドローム」
松原さんのオリジナルです。

ポータブルテレビと、都会に一人暮らしの女の子の、ふしぎな関係を描いたおはなし。
これをもとに短歌を書き下ろし、朗読劇として構成します。

今をときめく森本平さんがご出演!
本日、ご快諾をいただき、
「義を見てせざるは勇なきなり」とのお言葉をともに頂戴しました。

辰巳との、二人芝居ふうに構成します。

終わりは始まりのものがたり。

今後の展開に、乞う、ご期待!!!


[1934] かんたん短歌 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/17(Fri) 22:38

どうしたの? プロモーションはどうしたの? ここでだけ無口な無口なあなた

わあ、ほんとにかんたんだ!


[1933] かんたん短歌もつくっちゃお。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 18:08

まっさらで鼻を鳴らしてくるヤツがかわいいとおもう
                   多分誰でも

           詠み人しらず、ということで。


[1932] では、あかにゃん短歌でお返し。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 16:12

おしごとでたくさんたくさん本をよむ
        山羊さんになってしまわないかな

開けたことないけど窓の向こうには
          きっとおおきなお月さんだな

あかにゃんは、
某所で使ってた、辰巳のハンドルネームです。


[1931] 再び ある危惧にこたえて。     投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/17(Fri) 14:43


松本洋一さん
>ゲームのことを考えると、分かりやすいかも知れません。ゲームのなかで、プレイヤーが出会うキャラは、ちゃんと立っている(充実している)のに、プレイヤー自身(「サクラ大戦」の、大神二郎、「遥かなる時空の中で」の、神の巫女)は、誰が入っても感情移入しやすいように、キャラとしては空洞にしてある。つまり(乱暴な比喩かも知れないが)国家というゲームも、「誰か」が動かしやすいように一番中心が空洞にしてある。「靖国」というのも、国家というゲームをやりやすくするための「設定」だ、と。それと「声」との関係も。「声」は、不透明なもので、物質的です。ゲームに例えると(何でも例えるのはマズイかも知れないが)プレイヤーが出会うモンスターもしくは「悪役」みたいなもので、最初は、理解できないものだけれど、戦っているうちに、性質がわかってきたりして、倒せたり、味方になったりする、と。


解りやすい喩えで説明して下さってありがとうございます。
中心を空洞にしておくのは、日本では、(否、もしかしたら世界でも、)昔からお得意の手法ですけれど、病弱な帝とか、幼帝とか、愚昧な大名とか、船場の大旦那やぼんちとか、公卿には詩歌管弦、蹴鞠でもさせておくとか、なるだけ幕府の執権や、家老や番頭がやり易いようにしておくわけですけれど、
荻原さんの心配されているシステムとの関連で書くと、
まず あの、いかにも美も何もない人工的な、新興宗教の社殿かとも見まがう靖国神社は、絶対的な集団への隷属を強いるための、都合のいい御神体を入れるための空の器だったわけですけれど、いつでも都合のいい教義・信条・主義・主張なんかを搭載可能のカプセルとしては、十分だったのでしょうか。

ところで、もっと本格的な、もっと歴史も伝統もあるもっと摩訶不思議な、本格的な簡素な美も精神も感じさせる、故に、もっとも怖れるべき、日本教の総社ともいうべき神殿をも、日本は持っていますね。
その神殿は美しく、そのご神体の鏡は二千年の闇の中で鈍く輝き続け、その繁栄を保証し続けてきた。
その鏡こそ、技術信仰と真新しい意識革新の象徴であって、人々がお金を出しても手に入れたい、明るい未来の象徴でもあって、それさえあれば、食べるに困ることはなく、部族間の戦いに敗れることはなく、永遠に、自らの優秀さと、健気さと、律儀さの証明のように輝き続け、内をも外をも十分に満たし続けるはずだった、そういうご神体だった。
(そのためにそれをも含む三種の神器のために、国体の護持のために、終戦だって遅らせられ、二つ目の原爆まで投下された、その・・・)
そこでは、思想も哲学も精神も、どういうわけかシステムと呼ばれ、そしてまさに物理的なシステムにも等しいのであった。税制や、教育や、法律や、それらすべてを司る、体制そのものと、等しいのであった。

その中心を空にしておくこと。
それは不可欠だった。
なぜならば適宜に取替え可能にしておくため。
カプセルさえ取り替えれば、着脱可能のカプセルにさえしておけば、いつでも最新流行の技術なり思想なりに(その借り物を思想と呼ぶならば)交換可能だからだ。
そして、この国の、唯一の思想というべき思想があるならば、まさに、このこと。
空にして新しく、ということなのだ。
25年ごとの遷宮にも鮮やかに、その思想は貫かれていて、いつも新しく在るということが、真に旧い伝統を持つものの、第一の意識といえた。
それをおざなりにしたとき、必ずこの国は滅びる。
人々は塗炭を舐める。。。
しかし、変らぬもの、鏡の持ち主は、二重の構造、いれこ構造にして、保存する。
二重支配の構造として。権威と権力の分離。虚の力と実の力を併せ持つシステム。


それで、なせ゛こんな無関係にも近いことを長々と書くかというと、
私が、作品の後ろに作者は引く、消えていたい、と書いたことが、ある危惧を、呼んだらしいから。
作者の後退。顔の見えなさ、曖昧さ、それは日本のシステムそのもの。
それは、「無私」につながり、「無私」はかつての国家主義、帝国主義、絶対天皇制の亡霊を、思い起こさせる、という危惧ではなかったか、と想像するからです。
もちろん、私の意図とは、全く別の発想からなっていると私は思っていますが。

人々を薙ぎ倒し、焼き殺すための【無私】など、私は求めるわけがありません。
核により一瞬でこの世界から【蒸発】させられるのはいやです。
(今では幸が不幸か、より深く世界は運命共同体なので、等しく頭上に核を頂いて、日々一見安穏に、暮らしてはいますが)
でもきっと、望むと望まないとに関わらず、その発想には類似点があり、危険であると、指摘されているのでしょうね。

私としては、そのような危険に抵抗するためにこそ、文学の力が有効であってほしいと、堪え難いものを堪えさせるのは、もはや詩としか名づけようのないものしかないと、そのために、できうる限りの消去も必要であると思っているのですが。。。


[1930] 無口な無口な私。 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/17(Fri) 14:36

今、
私が20日しめきりの仕事から
逃避するように読んでいるのは、
小林一博『出版大崩壊』(イースト・プレス)です。

出口なし びっくりするほど出口なし あしたはあるの? 出版界に
(お粗末!)

http://talk.to/mass-no


[1929] 枡野さん、無口になっちゃうの? 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 13:07

なんだ。つまんない。………
わたしはメディアのことわからないので、かえって新鮮な風に感じていました。
自分にできないはなしには、とても惹きつけられる。


[1928] といった反応があるのを、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/17(Fri) 11:58

もちろん想像した上で下の書き込みをしたわけですが
(以前も別の場所で同様のやりとりがあったので)、
いえいえ、
せっかくの機会ですので、
毎日新聞のその原稿は、
掲載されてから数日後(論理的な理由はないです、気持ちの問題)には、
皆さんに見ていただける場所に再録する予定です。
ご興味のある方は、
ご覧いただけると幸いです。

今回のコラムは、
その「具体例」を具体的に(かつ「我田引水」的に)
指摘したことだけが枡野浩一の「視点」で、
それ以外はほとんどほかの人の言葉に頼ったものなので、
ここでその具体例を私のほうから明らかにしてしまうと、
コラムの価値がほとんどゼロになってしまうという、
たいへんセコくて、切実な事情があるのでございます。

もちろん私以外の皆さんから、
「具体例」が出されることを私自身も秘かに期待しておりますが、
しばらくここの掲示板では、
無口な一読者になりたいと思います。
そこにも、
たいへんセコくて、切実な事情があるのでございます。

http://talk.to/mass-no


[1927] >枡野浩一さん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 11:33

では、具体例については、
松本洋一さんにお聞きしますね。
松本洋一さんなら、わたしのような者にも、かんたんで、わかりやすい言葉をくださるかも。

毎日新聞は、残念ながらとってないです。

いったん話題を振っておき、それ以上に興味を持ったものに対して、
「他のメディアに書いています。これ以上は話題にしません」と。

だったら初めから話題にしなかったらいいのに。……と一瞬思いましたが、
まあ、そもそもBBSは、議論をたのしむというより、各自の宣伝・広告の場なので、別に使い方を間違ってはおられませんのよね。


[1926] 具体例、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/17(Fri) 09:36

じつは松本洋一さんは、
すでに出している、
と私は読みました。

私の「読み」は、
本日の毎日新聞夕刊(東日本版)に。
この話は今後も自分のテーマとして考えたいことなので、
これ以上、
掲示板でお話するのは控えますが。

http://talk.to/mass-no


[1925] 昨日読んだ歌集から 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/17(Fri) 06:40

黒田和美歌集『六月挽歌』(洋々社刊 2000円)を読んだ。
黒田さんは、私にとっては、早稲田短歌会の10年先輩にあたる。

・抱かれて死すとふ至福遺されて恋ふのみ荒野のダッチ・ワイフは

大和屋竺への挽歌である。

福島泰樹の解説によると、美空ひばり、一条さゆり、樺美智子は同年齢だそうだ。


[1924] 私の声     投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/17(Fri) 05:41

作者(現実的な私)の立つ位置を明示することで、そのシステム
(思想・精神・?なるもの)の侵入を阻止できると、考える考え方があるわけ
なのでしょうか。

私は、作者が後ろに引くことで、作品(と作中人物)が、作者そのものに
成り代わってその役目を果たすものと考えましたが、
別の考え方によれば、作者のいないように見えることをいいことに、
空家に泥棒が忍びこむように、その作品は容易に、何者か、そのヌエのような、
システムとやらの好餌となり、作中主体は摩り替わり、作者は永遠の失踪届を
提出されたも同じことになり、その蒸発事件は、あたかも、作者自らが望んで
行方不明となり、作者自ら望んで自殺までしてくれたほどに、完璧に完全犯罪も
可能であるとの、シナリオが用意されることになる、と、
そのような危惧だったのではないかと思いますが、

この演出を担当するものは、芥川龍之介の作品『蜘蛛の糸』を借りるならば、
一人地獄から抜け出そうとするカンダタの足にとりついてくる無数の地獄の亡者、
即ち、集団的意志であり、集団の意志こそが、その誰も一人で地獄からの脱出は
させないとする何かでありその何かとは、大いなる神の意志とでも偽装され、
美徳や良心や、忠誠心に仮装され、「みんな」と同じ、「みんな」の一致した意見と、
大手を振って歩くものの、正体でもあって、この集団への
隷属を求める意志こそが、他ならない「システム」の正体だといえるのでしょう。

そして、この「集団への隷属の意志」こそは、文学と<私>を疎外し、抹殺しようとするものなのだとすれば、
これはいったいどうした循環になっていることだろう。
(現実の意志に抵抗し対抗する超現実の意志、超現実の力。虚構の、文学の力。最後には、詩こそが現実を生きのびる力になるといったことはないものだろうか。)


しかし、現実的な私の立つ位置を直接明示する、作者が姿を現している、そのことが空洞との誤謬を避けるという考え方を私は採用しない。
私はたとえ失踪届を出されようとも、作品の後ろに控えていたい。
そして、作品に、立派に、私の、作者の代理を果たし、作者以上の純粋存在として、
声を出し、語ってもらいたい。
集団に隷属を求める意志に、対抗できるのは、やはり、素裸の私(作品)。 日常や、現実の仮装
を解かれた、純粋個、実存する私でしかないと思うからだ。


[1923] Re[1921]: 松本洋一さんのコメント転載します。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/17(Fri) 03:24

> 短歌というのはある意味、極限にパフォーマ
> ティヴな言葉のわけだから、

この部分は、議論を待たずにわかります。
ただし、

>このとき、コンスタンティヴ(字義どおり)な使い方
> をした方が、よりパフォーマティヴになるという逆説的なこともあると。

この部分は、観念的にそういうことが考えられるというおはなしなのか。
それとも、具体例のあることなのか。

具体例、ほしいっす!!
観念的で仮説にすぎないなら、あんまりそそられるおはなしじゃございませんです。


[1922] 松本洋一さんのコメントの、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/17(Fri) 02:39

前後の文脈も大切なんですが、
まあ、
そこまで望むのは贅沢というものでしょう。

毎日新聞の夕刊(東日本版)の連載コラム
『君のニャは、』は、
明けてきょう掲載です。
掲載紙は、
(数日後になりますが)
松本洋一さんにお送りします。

http://talk.to/mass-no


[1921] 松本洋一さんのコメント転載します。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/17(Fri) 02:03

では、承諾がいただけたものとして、
「短歌人」掲示板にあった
松本洋一さんのコメント転載します。

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「小池さんの「哲学」について」
投稿日 2001年8月8日(水)22時17分 投稿者 冬野由布

冬野は暑さでダウンして実家へ帰っておりますので、代わりに松本が。
小池さんの言っておられるのは、要するにシニフィエ(言葉の意味)とシニフィア
ン(文脈が発する言葉の意味以外のもの)の結びつきの恣位性のことですね。表現
者ならこれを利用しない手はない、と。哲学者とか言語学者って言葉を意味と意味
以外のものに別けるのって好きね。1972年生まれの哲学者、東浩輝は、言葉をコン
スタンティヴ(字義どおり)の使い方と、パフォーマティヴ(パフォーマンスす
る、演戯する、身振りとしての言葉の使い方のふた通りがあると言っておりまし
た。例えば「君はバカだ」と言ったとき、コンスタンティヴにとれば、字義どおり
君はバカだと言っているので、これには正しいか正しくないかという判断ができ
る。しかし、パフォーマティヴに「君はバカだ」という言葉で「君が好きだ」とい
うことをあらわそうとするとき、ここには、正しいか正しくないかという判断はで
きず、かわりに失敗したか成功したかという判断が成立する。このとき「君」がそ
のパフォーマティヴな使い方が理解できずコンスタンティヴに意味をとって怒って
しまえば、それは失敗したのだと。短歌というのはある意味、極限にパフォーマ
ティヴな言葉のわけだから、このとき、コンスタンティヴ(字義どおり)な使い方
をした方が、よりパフォーマティヴになるという逆説的なこともあると。
え、結論?結論はなし。ただこう言っている人もいるなあということ。では。

--------------------------------------------------------------------------

以上です。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1920] Re[1910]: 再び、作品と書き手の関係 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/17(Fri) 02:01

>風間祥さん

靖国神社の問題について、
物理的な霊の存在をぼくは肯定していないので、
こういうコメントの展開をされると
どうお答えしていいのかわかりません。

それから、天人五衰は想像しませんでした。
ボヴァリー夫人は連想しましたけど。
その上でコメントしたことなので、
特に付け加えることはありません。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1919] 大学院生・東浩紀が…… 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/16(Thu) 23:30

生意気な主張を執拗に繰り返して、ある大学教授を怒らせかかっていたパーティ! なんてことを、思い出しました。

ところで、今週月曜から NHK 教育テレビでまとめての再放送が始まった BBS 制作の連続コメディ『宇宙船レッド・ドワーフ号』ですが、あれ、大好きです。


[1918] 夏至明の文章、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/16(Thu) 22:22

浅田彰も東浩紀も読んでいない私には、
たいへん好感の持てる執筆「態度」だったと思います。
これから気をつけて浅田明や東浩紀(とくに後者)を読んでみよう、
と初めて思いました。
それは一文がガイドとして成功しているということでしょう。
ガイドとして成功しているとき、
そこにはやはり書き手の「視点」があったのだと
私は思います。

松本洋一さんの、短歌人掲示板の書き込みを
私が「我田引水」したくなったのも、
松本さんの一文が、
東浩紀の著作をよく理解し、
咀嚼した上で書かれたものだったからなのでは。
私は毎日新聞のコラムで、
いわば「孫引き」をしたことになりますが、
私が受けとめたのは東浩紀の著作そのものではなく、
松本さんによって要約された一文のほうだった、
ということは大事なのではと感じています。

デリダ→東浩紀→松本洋一→枡野浩一
という流れ。
そこにはどんな「誤配」が生じ、
どんな「視点」の変化が生まれているでしょうか。

いろんな話がパラレルに書き込まれていくここの掲示板、
不思議で刺激的ですね。

http://talk.to/mass-no


[1915] 痴漢電車 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/16(Thu) 22:08

来年、また舞台で朗読の機会を持ちます。

「9・14辰巳泰子の世界――眠れない夜を越えて」
コンセプトは、性愛です。

松原一成さんの脚本で、朗読劇も行います。

あと、バトル以降、わたしは毎日夥しいメールを松原さんに発信していて、そのなかから、エッセイ風のものを何点か編集して、朗読したいと思っています。
試作として、一点ご紹介しておきます。

「痴漢電車」
                  辰巳泰子

中学一年のときでした。

おとうとと二人で、電車でお出かけしました。
リウマチ熱で入院中の、妹のところへ行く途中でした。
十三駅のホームで、
三国へ行く電車を待っていた。
白っぽくてうす明るい曇り空の下では、
いろんなものが乾いて見えた。

わたしは、薄地のきついジーパンを穿いていて、
線路に向かって、
白線の際でぼんやりしていたら、
急にお尻全体に、なまあったかい感触が走りました。

おとうとがいたずらしたのかと思って、
辺りを見回すと、
すぐそばに、ネクタイを締めた、
中年の、背の高いおじさんが立っていた。

見つめ合ったまま
しばらく声を失っていたら、
おじさんは、戸惑ったような、悲しいような赤い目をして、
ご、ごめんね!
と小さく叫んで、踵を返し、
ホームのずっと端のほうへ去っていきました。

あれはいわゆる痴漢っていうのかなあ。
発作的で、どうしようもなかったという風に見えました。
そのわりには、
思いっきりなぜ回していったけど。

わたしは、電車のなかで、なぜか
自分がいちばんいけなかった気がして、
ご、ごめんね!
と叫んだおじさんを、
追っかけて許してあげないといけない気がした。


[1914] 森本さん、おめでとうございます 投稿者:松原一成 投稿日:2001/08/16(Thu) 20:26

>森本平さんが、短歌研究評論賞を受賞されたとのこと。
>題名は「『戦争と虐殺』後の現代短歌」とのこと。早く読んでみたい。
>森本平さん、おめでとうございます。

おめでとうございます。
題名、いかにも森本さんらしいですね。
私も、早く読んでみたいです。


[1913] すいません。 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/16(Thu) 17:57

東浩紀と、その生年月日を間違えたのは僕です。枡野さん、荻原氏(別に差別してるわけではないけど、この方が呼び慣れてるので)その他の方々、ごめんなさい。
「腐っても文学」夏至明の文章は、浅田明への反論まで含めて、東浩紀自身が書いてますので、(だれも、自分自身が生きた年代のほうが、重要であることーこの地点から、東浩紀の年代のほうが、70年代を相対化して見やすいこと。ーデリダもラカンも、彼が世界を見るときの絶好の装置であること)ここには嫉妬はないけれど、単なる紹介に終わっている(夏至明自身の東浩紀への言及がなかった)気がします。
 風間さんへ
 ゲームのことを考えると、分かりやすいかも知れません。ゲームのなかで、プレイヤーが出会うキャラは、ちゃんと立っている(充実している)のに、プレイヤー自身(「サクラ大戦」の、大神二郎、「遥かなる時空の中で」の、神の巫女)は、誰が入っても感情移入しやすいように、キャラとしては空洞にしてある。つまり(乱暴な比喩かも知れないが)国家というゲームも、「誰か」が動かしやすいように一番中心が空洞にしてある。「靖国」というのも、国家というゲームをやりやすくするための「設定」だ、と。それと「声」との関係も。「声」は、不透明なもので、物質的です。ゲームに例えると(何でも例えるのはマズイかも知れないが)プレイヤーが出会うモンスターもしくは「悪役」みたいなもので、最初は、理解できないものだけれど、戦っているうちに、性質がわかってきたりして、倒せたり、味方になったりする、と。
 「パール・ハーバー」は、全体的にいい映画だと思いましたが、日本軍機が、赤十字マークつけた車を銃撃するという史実にないシーンを勝手に創作しておいて、日本公開版では、CGを使って赤十字マークを消しているところを見ると、やはり、日本を、ベトナム戦争映画におけるベトコン、大二次大戦映画におけるナチス(あんなに立派でもないけれど)とみなしているのでしょう。しかし、それも、ハリウッド映画の「お約束」のうちだと思います。
冬野ヘ。こんなところに夫婦喧嘩を持ち込むのはやめろ。べつにHビデオを借りてこようとどうしようと勝手だ。一度だってお前を管理したことがあったか?ただ、失業保険が、もうないのだぞ。無駄づかいするするのだけはやめろ。


[1912] アリゾナの旗 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/16(Thu) 16:12

西王です。

>枡野さん

「腐っても文学?!」の、嫉妬傾向のこと、お書きのとおりだと思います。
そのなかで東浩紀についての文章は(だけはといってもいい)、その嫉妬
があかるくひらかれていて気持ちがいいのですね。松本さんにぜひご一読
と薦めたのもこの部分でした。
このエピソードは繰り返し書いていますが、私の連句ゲームの師匠であった
窪田薫という老人が、死の床から『存在論的、郵便的』を読むように強く
薦める手紙を送って来たのでした。連句ゲームと東浩紀さんの文章とが、
どこでどう結びつくのか、謎でした。窪田薫老は『不過視なものの世界』を
読むことなく亡くなったのでもありましたが。

>石井辰彦さん

『パールハーバー』は、ぜひとも時間を作ってでもご覧ください。
この映画に対して、どうしても足が向かない、という傾向も見受けられま
すが、ひょっとしたら、それは私たちの中の微妙な「嫉妬」のなせるわざで
はないか、と思ったりしています。

アリゾナの旗は、沈んだままの戦艦の上に記念館を作り、星条旗を掲げて
いる光景のことですが、「真珠湾奇襲」は、アメリカのトラウマであり、
それを決して忘れないでおこうということでしょう。
一方、日本の、、、

などということは措いて、とにかく大傑作の映画だと思います。


[1911] The Mummy Returns 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/16(Thu) 14:09

西王さん、『ハミナプトラ2 黄金のピラミッド』をあちこちで薦めまくったのは、私です。この掲示板にも、プロレス絡みで書き込んだかもしれません。あれは名作ではまったくありませんが、ある意味で傑作だと思います。

この夏はわりと映画を観ました(過去形なのは、もう秋だからですね!)が、『A.I.』にしろ『ハムナプトラ2』にしろ『千と千尋の神隠し』にしろ『PLANET OF THE APES / 猿の惑星』にしろ、それぞれに楽しめましたね。今週観たジェラール・コルビオ監督の話題作『王は踊る』は、疑問だらけでしたが……。

で、問題の『パール・ハーバー』ですが、朝日新聞(東京版だけかも)に掲載された秋山登さんの呆気にとられるような批評を読んじゃったので、観に行く気が完全に失せてしまいました。秋山さんの映画評は、かなり高く評価していますのでね。もっとも、そんな空前の大愚作なら、観ておいてもよいような気もします。西王さんは、お薦めなんですか?


[1910] 再び、作品と書き手の関係 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/16(Thu) 11:49

荻原さん 私は霊が靖国に帰るとは、どうしても感じられません。
もしも霊の存在を肯定するとしてですが、もちろん。
もしも帰るとしても山河の全体、あるいは蛍になって、
或いは峨や蝶や蝉や蜻蛉になって、
この国のどこか山紫水明なところに宿っても、どう考えても、
あの美しくもない殺風景な社に帰ってくるなんて、未来永劫思えないのです。
でもそれが、結局、その日本の美しい風景を言うことこそが、
靖国だっていう言い方をされてしまうかもしれないけれど、それはもう仕方がないです。
そんなこと私の知ったことではないって言いたいです。
私は本物はみんな美しいと思っています。
どこかで、美しくないものは本物じゃない。贋物だって思っています。
靖国神社って、ただ殺風景だなって思うだけです。
死者の魂が、よるべなく集まってきて、やすらうような、そんな優しさがどこにあるでしょう。
それに、仮に、実は、そのお隣のどこかに、蛍の集まる川があったりするかもしれませんが、
それだって、今となっては、間違いだったって、気づいていると思いますし、
もうよりしろとはしないと思います。


それから、ちょっと思ったのですが、もしかしたら、私が消えて満ちるという言い方をした、
その言い方が、死者的な、死んで生きるみたいな、つまり、三島由紀夫じゃないけれど、
葉隠れ的な、天人五衰的な、再生、輪廻的なイメージに通うような感じを受けられたのかもしれないと。
私は、そんなことは全然発想の中になかったけれど、もしかしたら人が聞いた時、
連想するかもしれないって、思ったりしました。
でも、私には、そんな発想はないですよ。
文学者としての才能や資質は、三島由紀夫は素晴らしいと思いますけれど、最後の方の行動も思想も共感もできませんし、興味もありません。


私が言っているのは、作中人物と作者の関係です。あくまでも。
ボヴァリー夫人と、フロべールの関係です。
作者が消えていてほしいという意味は、それでしかないです。
作者は、その作品と、作中人物のために消えるのです。
作者が引くのは、作品と作中人物のためです。
そして、それで十分なはずです。
消えて満ちるとは、そういう意味です。
作家が後ろに引いても、作品があるから、作中人物がいるから、
空洞化はないんです。
それ以外の意味ではありません。
作品を大事にするから、後ろに下がっている、
というだだそれだけのことなんです


[1909] ではなく、冬野 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/16(Thu) 11:16

わがノートパソコンが不調、うっとうしいので暫くペースを落とす。しかもうっとうしく眠い。暑い。
 この掲示板を見るであろう夫よ、へんに管理するのだけはよしてくれないだろうか。


[1908] 西王燦さん、 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/16(Thu) 11:15

毎日新聞のコラム、
東浩紀の名前はまちがえずに済んだようです。
あと生年は書きませんでしたので、
それもまちがえずに済みました。
でも内容はまちがいだらけかもしれません。
まちがいから何かが生まれればいい、
と、
ひらきなおりぎみで書きました。

西王燦さんがあまりにおすすめしているので、
私も『腐っても「文学」!?』読みました。
東浩紀のことを考察する夏至明の一文は面白かったですが、
この本は監修者の「嫉妬」が生んだ一冊なのでは、
という印象が最後までぬぐえずに困りました。
「嫉妬」が何かを生んでも当然いいのですが、
もっと「嫉妬する自分」を笑う視点があればよかったのに……。
(その「嫉妬」のことにまで言及している、
夏至明の一文は、クールだったと思います)
そして監修者があこがれているらしい、
腐ってない「文学」が、
存在した時期などかつてあったのか?
……そのへんは、
NHK人間講座、猪瀬直樹「作家の誕生」
を参照すると興味深いですね。

http://talk.to/mass-no


[1906] 61616 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/16(Thu) 10:10

カウンターが61616だった。
今日で夏休みは終り。前半は法事で、後半は長男と一緒に家でだらだら過ごした。
昨日は休暇中にもかかわらず、有楽町社屋閉鎖のセレモニーに立会いに行ったわけ。
蒸し暑い五階の部屋で、空想対談の稽古をしたのも今となっては懐かしい。
辰巳泰子さんの来訪を喜んでいたトイレのフラッパー・ドアももう永遠に誰も
開く人はいない。

本日の毎日新聞によると
森本平さんが、短歌研究評論賞を受賞されたとのこと。
題名は「『戦争と虐殺』後の現代短歌」とのこと。早く読んでみたい。
森本平さん、おめでとうございます。


[1905] すっきりしたぜ 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/16(Thu) 07:53

 こういう場を使ってするこたないと思うが辰巳さんに貸しがあるのが消えたか借りをつっくたか、有難う。
 ヴァーチャルってのもなかなかやるな。


[1904] 言わずもがなではありますが。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/16(Thu) 06:01

わたしは常に、きわどい発言を繰り返しておりますが、確信犯です。
よい子は絶対まねをしないように。
影響を受けた方が、バランスを崩しても、当方は一切関知いたしません。


[1903] 荻原さん。  投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/16(Thu) 02:51

コメントありがとうございました。
何か、違うような気がするけれど
よく考えてみます。




[1902] どあほ!!! 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/16(Thu) 01:40

>冬野さん
〔1898〕で、ご自身の「狂気」についてお書き

 要するに経験の問題ではない、私の性質が問題なのだ。

はっきりいって、あなたの体調不良に関しては、あなたの性質が問題でしょう。
人のわるぐちすら、言わないんだからさ。
なんでもかんでも、自分のせいにして、自分を責める。
(わたしもそういう性質だけど)
それじゃ、ふつう、病気になりますよ。
でも、あなたには、こうして自分を出してゆける強さがある。

あなたは、ここでダンナの不能まで自分の性質の問題にしてるけど、それは絶対ちがうって!!ダンナの不能が、何のせいかは知らないけれど、あなたのせいじゃないのは確かだよ。そりゃ、「どあほ」って勘違い。
それに、百歩いや、一万歩譲って、あなたのせいだとしたら、
あなたが変われば解決するってことじゃないか。
女を磨くとかさ。やり方ありますよ。
それで解決しなかったらさ。そりゃあなたのせいではないさ。
いや、でもしかし、よくおっしゃいましたね。
それに、よくがまんしたね。
その忍耐力に関しては、もう、いっぱいほめてあげるよ!!


[1901] 誤字訂正して再UPさせていただきました。元のは削除させて頂きます。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:39

[1881] 荻原さんへ  「靖国」とか「システム」よくわからないのですが。再び<危険>について言うならば。    投稿者:風間 祥  投稿日:2001/08/15(Wed) 16:50

荻原さん
>完全に消えて完全に「何か」があらわれる
ことだけが問題なのではなく
顔を出すこと自体を問題にしているのです。
むろん「何か」を完全に抑えるのは
とてもむずかしいことなのかも知れませんが、
主格が生な感じかどうかを問うという
思考の軸を抱えこむことが
そもそも「何か」を積極的に呼びこんでしまうのでは?
生か否かを問わない思考の場というのもあるのでは?
朗読にはそうした可能性もあると思っています。

>ちなみに「何か」とは、短歌のことではないです。
説明するのはとてもむずかしいものですが、
たとえば、「戦没者の霊は靖国にかえる」と
ぼくたちに考えさせてしまうようなシステムです。

「戦没者の霊は靖国に帰る」
そんなことを、私はおそらく永遠に考えることがないと思うので
よくわからない感覚ですが、
「ぼくたちに考えさせてしまう」って、単なる言い回しではなく、
荻原さんは、実際にそんな風に思われたことがありますか。

何を意味しているのか、わからないままにお答えするのも何ですが、
例えば、
個人主義が衰退する時、ファシズムが、無防備な都市に侵入するように
顔を現すようなことでしょうか。

もう一度書きますが、
「戦没者の霊は靖国に帰る」と、<どこかの誰か>はそう思うわけですね?
何らかの場合に。
それは、「主格が生な感じかどうかを問うという
思考の軸を抱えこむことが」呼び込む、ことなんですね?

それは、言葉をかえていえばどういうことなのでしょう。
主体の生臭さを一旦消去する方向が、呼び込む
「システム」とは。
実際に、そんなシステムがあるのですか。
抽象的な意味なのですか。
考えるヒントを頂きたいですね。
というより、解っていらっしゃるのなら、
解りやすく説明していただけると助かります。
「説明するのはとてもむずかしいものですが、」とだけ、仰る
その内容を類推するのに、分ち書きもなく、一度に、この一つのwindow上に
書き込むのは、私には、とても難しいことです。


例えばですが、
匿名性、無名性を目指した時に、
個を失って、全体の総和の一単位として、「消える」
と、誤って解される場合があります。
たしかに、
高名な文学者たちの場合の心性に、、晩年の「日本回帰」があります。
そのような場合の日本とはなにか。
若い頃、とても先鋭的な人が、なぜかそうなることが。
突然の母体回帰願望のように、「日本回帰」に至ることが。
周りを唖然とさせるようなことが。

またはそうではなくても、漱石も「則天去私」を言い、鴎外もまた、
「阿部一族」などを書くというように、何らかの、哲学的、文学的逡巡や
瞑想、挫折、などの跡を見せることがあります。

(何年か前、岡井さんも、無名ということを言われていたような気がします。
そして、その頃、歌会始めの選者になられました。)

『日本文化』を考えさせるということを意味しているとするならば、確かに、
そのような、傾向といったものは、考えられるかもしれません。
「自然回帰」大いなる大自然を畏敬し、「我」を主張することの
悠久の前に、虚しいことを感じ、海・山・月・漣などと、合体、同一化して、
あたかも、自らを『消去』されたかのような感覚に身をゆだねようとする、
その感覚が。
その感覚を、例えば、悪しき為政者によって、利用されるならば、
私たちには、怖れるべきなにものかが生まれるということになるでしょう。

それは、ともかくも、錯覚にしても、何らかの意味で、「空」になったと思われる
主体に取って代わろうとする<何者か>です。
でも、その問題についての危惧ならば、既に、[1848]に於いて、

≫荻原さん
≫朗読(というか作品)から作者が消えてしまったとき、
語りはじめるのはでは一体何なのでしょうね。
日本語や日本という場に、ひそかに、
根をおろしているあるシステムなんじゃないか
とぼくは思うのですが……。

>私の言っている意味での、消える、場合で言うならば、
消えて満ちるわけですから、そのような空洞化、また、その空洞に
作者以外のものが棲みつく怖れはないものと信じています。
実際には空洞は生じないからです。
<私>は、そこに生きていて、そこに私の魂は満ちているはずだからです。


私なりの答えを示しました。
主体の空洞化はなく、より強化されたと言ってもいい、「主体」によって、
満ちている、そこに何者も、侵入することは出来ません。
しかし、一見にしろ、空洞と見える、「空」なり「虚」なりが、それこそが、
その姿の無防備性の外見こそが問題であると指摘されているのでしょうか。

それは、あたかも、権威のみによって満ちている虚の王が、
その権威を利用しようとする権力志向者によって、利用せられ、権力を付帯させられる
ことの恐れと共通しているとの指摘でしょうか。

ところで、朗読の力が、そのような時に発する力とは、
ですが、
私も、朗読の生の魅力とパワーを嫌いばかりではないので、
まして、演劇好きなので私見を述べさせていただけるならば、
おそらく、様式化、形式化によって、失われる、やはり人間の生の魅力、
力でしかないのです。
新鮮な現在形の活力。そこに、注ぎ込まれている血と肉と、息と、生命体の、生き生きとした発露が、新しい生きる力を伝達するのです。
死者をも魅する、また圧倒してやまない、現在生きているものの力そのもの、
現在形の生者の祭り、この世は、生者の饗宴であることを、主張している人間の力があるのです。
そしてそれは、衰えた古い血に取って代わって、亡霊の侵入を許さない力。
しかし、矛盾したことを言うようですが、それは、確かに既に、何らかの抽象化の過程を経験した
擬似現実、複合化を果たした現実時間なのです。
免疫のように、亡霊はすでに血肉化した形で、昇華・一体化しているからです。
全くベタな現実そのままではない。
舞台のゴーストが、あるいは文学のゴーストが、この世の、ゴーストへの防波堤の役目を果たすと、
私は信じたいのですが。


[1900] Re[1896]: 1971 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:27

>西王燦さん

> えーっと、とにかく、私は記憶が希薄なので、東浩輝という別の人の話題である
> ならば、困ってしまうのですが、
> 荻原さんが強く拘っている1970年というパラダイムを、とてもすっきりと語って
> いるのが東浩紀さんの考え方だと思うので、余計なことを書いています。

ありがとうございます。
東浩紀さんの文章については
何かを語れるほど読んでいませんので、
近々じっくり読んでみることにします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1899] Re[1881]: 「靖国」とか「システム」よくわからないのですが。再び<危険>について言うならば。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:23

>風間祥さん

> 「戦没者の霊は靖国に帰る」
> そんなことを、私はおそらく永遠に考えることがないと思うので
> よくわからない感覚ですが、
> 「ぼくたちに考えさせてしまう」って、単なる言い回しではなく、
> 荻原さんは、実際にそんな風に思われたことがありますか。

ええ、個人的に、ありますよ。
物理的にそのような現象が起きるとは思っていませんが、
霊が靖国にかえる、という感覚ははっきりわかります。
この感覚が存在するからこそ、
ナショナリズムに利用されたわけですし、
今でも参拝が国内外の批判の対象になるわけですし、
素直に死者を悼むきもちから
参拝するひともいるのだと思われます。
アクティブな感覚と言いきるのはむずかしいですけど、
日本という場の空気の成分のようにあることはたしかでしょう。



それで、短歌の話に戻しますけれど、
作中の主格が生な感じかどうか、というのは、
ぼくたちの、広い意味での生活空間、精神世界における
場の空気をどのくらいの比率で有するか、
という問いだと思うんですよ。
0が妥当か100が妥当かその中間が妥当か、
という問いをたててしまうことによって
価値の評価軸として場の空気を容認してしまっている。
靖国神社の例で言えば、
参拝に賛成/反対という現実的な反応か、
賛成も反対もありうるとか沈黙等の現実逃避的な反応か
いずれかの選択を強いるわけですし、
どの選択肢も現存の場からどこへも進めない。
「靖国に霊がかえる」とは誰も感覚しえない
そのような新しい場に向かわないと解決しません。
この評価軸を外す=場の空気をわざわざ容認はしない
以外にはどうにもならない状態だと思います。
わかりやすいかどうかわかりませんが、
ぼくの考えの要点はこんなところです。



あと補足的に書くと、
匿名性とか無名性云々から、
風間さんが、消えて満ちる、と言っているのは、
私的な感覚から逃れて一般的な感覚へ向かうことですね。
一般的でことばが悪ければ普遍的と言ってもいいですが、
いずれにせよ、何ものも侵入させない、ことによって、
侵入させないものを逆説的に規定してしまい
無意識に強化してしまうことになると思います。
たとえ0であっても、比率を価値として問うことは、
問う元になっている場の空気を
容認してしまうことになるとぼくには思われます。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1898] Re[1863]: 私の狂気 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:12

>  辰巳泰子さん、あなたが灼熱の地獄にいるならば、私は極北の闇に閉じ込められているのです。凍死寸前。
>  私は確かに生きている人間ですがそれに拘泥する意識が薄いようです。私が生んだ唯一の人間が≪冬野由布≫。おそらくこれからもそうであるそのことが今私を苦しめています。
>-------------------

この極北は性の極北でもある、結婚してこの方13年男性経験が無いということ。
成人女性を抱けない夫は自慰はかまわないという。そのくせAVはみせない。そのからくりくらい知っているが。で市内某ホテルに仮眠した日みたが気分は盛り下がり系で経験なさゆえそうなるのかなどと狂い始め辻君と少し付き合った。やはり盛り下がった。
 要するに経験の問題ではない、私の性質が問題なのだ。


[1897] 完全閉鎖 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:10

今日(15日)は、朗読バトル「空想対談」の練習場だった有楽町のビルが、完全閉鎖される日だったんですね。
藤原さんの日記で知りました。
あすこから、生まれたものは、大きかった。
あのビル、壊されるんですね。あまりにも象徴的で、怖ろしいくらいです。
あすこで始まったことは、確実に、わたしの「現実」を壊しましたが、あたらしい物語の始まりの場所ともなりました。

と、ディープな話はそれくらいにしておいて、

わたしは、学習参考書編集の仕事を、フリーで受けています。
それで食べてるんですが、小中学校教科書改訂に伴う原稿執筆・編集委託の仕事の一段落が見えてきています。
つまり、この9月以降、少し手が空いてきそうなのです。

教科は国語。
国語辞典・漢字字典の経験もあります。
大学受験教材の校閲ほか、国語活用資料集も執筆経験あり。
学参に限らず、仕事の幅を広げたいとも思っています。
フリーで食って、もう3年を越えました。
縁故のあるかた、是非是非お仕事くださいな!!!


[1896] 1971 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:00

西王です。たびたびです。

>藤原さん。

「プロジェクトX」の「声」について言うならば、是非とも中島みゆきの曲も、
という書き込みは、私、自分で気に入っているのです。機会があったら、考えて
みておいてください。

さて、[1879]で、枡野さんが引用されたところの、松本さんの(短歌人掲示板の)
記事の、東浩輝さんが東浩紀さんであるならば、彼の誕生年は1972年ではなく、
1971年だと思います。
まあ、一年くらいどうでもいいですし、枡野さんの新聞記事はすでに済んだこと
なので、たいしたことではありませんが。

えーっと、とにかく、私は記憶が希薄なので、東浩輝という別の人の話題である
ならば、困ってしまうのですが、
荻原さんが強く拘っている1970年というパラダイムを、とてもすっきりと語って
いるのが東浩紀さんの考え方だと思うので、余計なことを書いています。


さて、もうすこし『パールハーバー』を応援したい。
短歌人の掲示板では

 ハムナンプトラとかが「面白かった」という話を聞くと、TVのお笑い番組を面 白がって見るのと同じ基準で映画が語られているような気がして悲しくなる。

というような過激な意見もあります。
こちらの掲示板で「ハムナプトラ」を推奨していたのは誰でしたっけ。
私は、1も2も、じつに楽しく観たものですが、、、。

では。


[1895] 血圧お大事に。 投稿者:小黒 世茂 投稿日:2001/08/15(Wed) 23:41

藤原龍一郎さん

本日、あつかましくもメールを出させていただきました。
短歌を引用してくださったり、朗読バトルを書かせて頂いたりとお世話になっています。
朗読バトルでの熱気を受けて、私も大切なことを見逃したり聞き逃してはいけないと、気を入れて拝見致しました。あくる日の帰阪の新幹線のなかではもうグッタリ。嬉しい疲れでした。

電脳日記によりますと奥様の御実家が和歌山市だそうですね。同郷なので不謹慎ながら勝手に親しんでしまいました。

私は足掛け三年、郷里の和歌山放送〔ラジオ〕でお世話になっています。
今は月1回、6分半の和歌や短歌のお話をしています。紀伊半島を巡り、草木の万葉歌とその時々の風景を紹介しています。北から南まで長い紀伊半島は植物が豊富。熊野街道や高野街道などできるだけ歩き、その土地の人や伝承などと交流しつつ取材をしようと心がけています。暑くても寒くても楽しいです!!
そのなかで和歌や短歌を紹介しています。
最近やっと間の取り方に注意をはらえるようになりました。タドタドしいかぎりです。
朗読といっても私のはエッセーのなかに組み込んだもの。
ささやかに自分ながらいろいろ試しています。

血圧、どうぞ大切になさってください。


[1894] Re[1887][1884]: パールハーバーへどうぞ 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/15(Wed) 23:08

西王です。

松本さんの記事(短歌人掲示板)について荻原さんお書き。

> > > 「小池さんの「哲学」について」
> > 投稿日 2001年8月8日(水)22時17分 投稿者 冬野由布
> > が該当記事ではないでしょうか?
> ここでこういう話もなんですけど……。

でしたね。あいかわらずボケをかましていてごめん。
松本さんが突然に東浩紀のことを引用していたので、私が読み散らしていた
現在の東さんの、なんとなく「居心地のわるい」辛さが、いちばんよく描かれて
いる『別冊宝島』を、松本さんに薦めたのでした。ごめんごめん。

●余談ですが、(ここに書くのもなんですが)
短歌人の夏の集会で、村田馨さんに向かって「朗読排斥論」を語りながら、
短歌朗読をするならば、ぜひとも鳥肌實のようなスタイルで!と、声を荒げて
いたものです。>藤原さん。ははは。

では。さらにも『パールハーバー』に援護射撃を!


[1893] 誤字訂正をしたぃ。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/15(Wed) 23:04

「則天去私」という字の誤変換に気がつきませんでした。
全体にこの字を訂正して、「削除」、「訂正版に交換」したいなぁ。


[1892] Re[1856]: 小黒世茂さんのレポート 投稿者:小黒 世茂 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:20

辰巳さん

お会いできて嬉しく思いました。偶然目に入ってきたこのページ。
私こそありがとうございました。
今年の四月に郷里の和歌山放送〔ラジオ〕の中で、辰巳さんの短歌を御紹介させていただきました。「いまごろお断りして」と反省です。

だれともうまくやりたいと思ふはさびし躑躅の蜜の香を立つる雨

和歌山市の花は躑躅。和歌山城には躑躅がたくさん。雨の日には蜜の甘さがけだるく感じます。

> わたしも、今日読みました。
> 「トピックス」として、
> 7・1朗読バトルについて、お書きくださいました。
> ありがとうございます。
> 小黒さんの感想を引用させていただきますと、
>
> いつしか自分自身の心のそこにある澱、そして飲み込んでしまった溜息を、ふっと覗いてしまったような言いようの無い苦みが残った。
>
> ここ、
> 小黒さんの感じ方をしてくださったのだと、うれしく思いました。
>
> 全体に、
> ぴったりの形容が見つからず、言葉を探しながらのレポートに拝読しました。
>
> ご来場、及び記事にご紹介、ありがとうございました。


[1891] Re[1889]: あらら、まだ読めるんですね。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:11

> ここの掲示板に「転載」しておけば、
> 過去ログとして保存されるけれど……。

>松本洋一さん

該当記事、転載してもいいですか?
了承をとる常套手段ですが、
もしだめだったらお知らせ下さい。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1890] Re[1886][1847]: 小黒世茂さんのリポート 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:08

>小黒世茂さん

> 突然のメール出現。驚かれたことでしょう。ごめんなさい!

いらっしゃい。ご無沙汰しています。
書きこみどうもありがとうございました。
今までもご覧になっていらっしゃたのですか?
ここは自由に発言できる場所ですので、
どうぞお気軽にご利用下さいね。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1889] あらら、まだ読めるんですね。 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:07

でもログは保存されないのですね。

ここの掲示板に「転載」しておけば、
過去ログとして保存されるけれど……。

http://talk.to/mass-no


[1888] 松本洋一さんからのお返事、無事いただきました。 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:05

西王燦さん、
私のコラムを読んだ人が、
あとで短歌人の掲示板を見て、
全体の話の流れを確認できるというのがベストだったんですが、
まあ、
インターネットとはこういうものだから仕方ないですね……。

字義どおり「我田引水」なのですが、
今週金曜日、関東版の毎日新聞夕刊をご覧になれる方は、
ご笑覧いただけると幸いです。

http://talk.to/mass-no


[1887] Re[1884]: パールハーバーへどうぞ 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 22:00

>西王燦さん

> えーっと、短歌人の掲示板で、東浩紀(浩輝はまちがい)の話題を
> 振ったのは私でしたが、おそらく、それに対するレスポンスが、
> ここにお書きの松本さんの記事だと思います。
> あとで削除されたのかしら、今は読むことができないようです。

読めましたが?

> 「小池さんの「哲学」について」
> 投稿日 2001年8月8日(水)22時17分 投稿者 冬野由布

が該当記事ではないでしょうか?
ここでこういう話もなんですけど……。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1886] Re[1847]: 小黒世茂さんのリポート 投稿者:小黒 世茂 投稿日:2001/08/15(Wed) 21:42

突然のメール出現。驚かれたことでしょう。ごめんなさい!
このたびは歌壇8月号をお読みいただきありがとうございました。

> で、小黒さんは私の朗読についてこう書かれています。「彼自身の韻律によって奏でられた言葉は、じわっと胸に沁みる。言葉が耳に刺さる印象はなかった」……ううむ、言葉が耳に刺さらない、というのは、問題ですね。あの時はひどい夏風邪で、声が出なかったのですが、それはあまり理由にはならないのかも。反省します!

私は石井さんの声を「奏でる」と表現致しました。お褒めしたつもりだったのです。
周りの人達へも、その素晴らしさを随分と伝えてきました。

> それと、ちょっと小黒さんに苦言。作品の引用は正確にしてほしいものです。ルビを含めて、すべての文字や記号は、細心の注意を払って選択されているのですから。朗読会のリポートであっても、これはゆるがせにはできない問題です。

石井さんそして作品に対し申し訳ないことを致しました。
最近〔5ヶ月前〕から手描きからワープロ描きに変えてたどたどしくキーを打っております。全神経を注いだ筈が......。これ以上言うと「恥の上塗り」になりますね。

> ともあれ、小黒さんはじめ関西勢の朗読を、聴いてみたいところですね。


[1885] パールハーバーと鳥肌實 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/15(Wed) 21:33

鳥肌實がライブで、「パールハーバー」を直立不動最敬礼して感涙に咽びつつ見た、
というギャグをかましてました。


[1884] パールハーバーへどうぞ 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/15(Wed) 21:19

西王です。

枡野さんお書き[1879]
-------------------------------------------------------------
短歌人の掲示板、
http://www5.airnet.ne.jp/~ttsc/bbs/tankajin/tankajin-bbs.cgi
に、
〈1972年生まれの哲学者、東浩輝は〉
の書き込みをされた〈松本〉さんは、
松本洋一さんなのでしょうか。
------------------------------------------------------------

えーっと、短歌人の掲示板で、東浩紀(浩輝はまちがい)の話題を
振ったのは私でしたが、おそらく、それに対するレスポンスが、
ここにお書きの松本さんの記事だと思います。
あとで削除されたのかしら、今は読むことができないようです。

●えーっと、ただいま、短歌人の掲示板では、映画の話題で盛り上がって
います。
『ハムナプトラ』も『パールハーバー』も、短歌人掲示板では評価が低いです。
お気が向いたならば、応援演説を願います。>みなさん。


[1883] Re[1881]: 荻原さんへ  「靖国」とか「システム」よくわからないのですが。再び<危険>について言うならば。   投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 20:43

>風間祥さん

ゆっくり読んでレスします。
ちょっと時間下さいね。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1882] Re[1878]: 荻原氏へ。個人的な連絡 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 20:39

>松本洋一さん

事情了解しました。
急ぎのときは電話利用しますね。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1880] これから浜松です。 投稿者:鈴木英子 投稿日:2001/08/15(Wed) 15:03

藤原さん、ありがとうございます。『淘汰の川』再読して下さっていたなんて。
再読ってとても光栄だと思っています。さぞ、たくさんのご本たちのなかから
偶然でも何でも、抜き出していただいたということが嬉しいです。
ちなみに私も山羊座の1月生まれで、ちょうど藤原さんと10年違いなので、
来年早々には40歳です。30歳で出した『淘汰の川』から一体何が出来たかなと
思うと心許ないのですが、悔いることはないので、このまま良い40代をと思います。

短歌人の皆さんから10日ほど遅れですが、これから浜松へ帰省します。
義母の話によると、本当に暑いらしいのですが。


[1879] 松本洋一さん、はじめまして。 投稿者:枡野浩一 投稿日:2001/08/15(Wed) 11:11

短歌人の掲示板、
http://www5.airnet.ne.jp/~ttsc/bbs/tankajin/tankajin-bbs.cgi
に、
〈1972年生まれの哲学者、東浩輝は〉
の書き込みをされた〈松本〉さんは、
松本洋一さんなのでしょうか。

(ひらがなの
まつもとよういちさんは、
ほんとうに同名別人なのですよね?)

じつは今週金曜日の毎日新聞夕刊(東日本版)の
枡野浩一連載コラムにて、
〈松本〉さんのその書き込みを
「我田引水」させていただきました。

新聞が発行されましたら、
一部お送りしたく、
もしよろしかったらご住所を
枡野浩一
mass-no@jd5.so-net.ne.jp
までご一報いただけると幸いです。

http://talk.to/mass-no


[1878] 荻原氏へ。個人的な連絡 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/15(Wed) 08:29


このパソコンは、コンピューター学校の借り物なので、すぐ返してしまいます。だからメールはだめだよ。それから、返してしまうまでは、掲示板しか覗かないからね。つぎ、コンピュータを買えるかどうか、ひとえに私が、就職できるかどうかにかかっています。(さうです。私はプータローなのです)だから、連絡があれば、短歌人か、この掲示板か、「まつもとよういちの部屋」(さうです。同姓同名の歌人がいるのです)まで。8月いっぱいまで。


[1877] あの夏の光と影は何処へ行ってしまったの 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/15(Wed) 06:49

鈴木英子さん、ご無沙汰してます。
偶然ですが、昨日、本棚の整理をしていて、鈴木さんの『淘汰の川』を
ぱらぱらと拾い再読したところでした。思いや行為がシンクロするのは
嬉しいことです。

「八月の濡れた砂」、若き日の村野武範が見られる映画ですね。
川村真樹も、今はどんな人生を生きているのやら。倦怠感にみちた歌ももちろん好き。
映研らしくて、ほほえましいです。「あしたの夏は、あしたも続く」ってやつ。
今、こういう曲をかけてくれるのは、NHKラジオ第一放送の「午後のロータリー」
くらいかも。
山崎ハコは1994年の暮れに封切られた『愛の新世界』ってポルノ映画の
テーマとして、カバー曲の「今夜は踊ろう」(荒木一郎がオリジナル)を
ハコ節で、歌っていたのが印象的でした。

今、『短歌人』の掲示板で映画の話が盛り上がっています。↓

http://www5.airnet.ne.jp/~ttsc/bbs/tankajin/tankajin-bbs.cgi

映画好きのみなさんは、のぞいてみてください。小池光が選んだベスト10等もあります。


[1876] どうしていいかわからないんです。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/15(Wed) 05:36

>叱られるとかそういう問題ではなく、
ばらばらにコメントしてまとまりがないと
コミュニケーションがはかりにくいということです。
人間の思惟がどのような性質かは関係ないですよ。
ここに書いている人はみんな人間です(たぶん)。(^^)

掲示板にはそれぞれの性質があり能力もあり、その速さの許容量にも従って流れなければならないことは、理解しました。そして、他者の文を、分かち書きによって、次ページへあまり流しては、いけないことも理解しました。
藤原さんと同じように、忙しい方も多く、過去ログを辿るのも、面倒でもあり、見逃してしまうことも多いでしょうから。
ただ、論文を書くのと違って、ディスカッションしながら、導かれるものもありますし、何かコメントを書いてみて初めて、次の考えも浮かぶということはないのでしょうか。書くことで初めて、考えというものは、導かれるものではないでしょうか。
少なくとも私は、頭が悪いせいかもしれないけれど、一度に全部、
最終結論まで、考えられないのです。
それをいちいち、みんなの人がみんな、同じようにやったら、収集がつかなくなるということかも知れませんが。
他の方は、明晰に全部を一目瞭然に、ご自分の考えを、見渡せているのでしょうか。
そうならとても羨ましいです。全部とは言わないまでも、棋士のように、相当先まで、考えをまとめられたら。
でも、きっと、そういうことではないのでしょうね。
いつも私は、かんちがいしていますから。教えていただかないとわからないんです。
どれくらいまとめて書けば、どれくらい整理して書けば、他者と円滑に、コミュ二ケーションが諮れるのでしょう。
そうしたいと思っていますが。


[1875] >松本洋一さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 03:00

ああ、なんだ、松本さんもつながってたんだ。
どうもどうも、ごぶさたしています。
いきなりですけど、19日(日)に
名古屋栄のYWCAでミニシンポやりますので、
冬野さんとご一緒にいかがでしょうか?

この掲示板
http://www.sweetswan.com/biscuit/
に案内掲示してあります。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1874] Re[1841]: 作者は完全には消えられないでしょう。どんなことをしても。   投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 02:54

>風間祥さん

> どんなに化身を試み、隠れ蓑を着ても、
> 作者が完全に消滅することは、逆にできないのではないかと考えています。

> 消え去ることの意味は、同時に作品内に
> 再生・復活することを促しているのです。
> そこのところが微妙で紛らわしく思われるかもしれませんが。

風間さんが、作中主格と作者の関係を問う
ような場所で文体論を検討している([1837] 等)のは
よくわかるし、別に紛らわしいとは感じませんよ。(^^)
思考なり情動なりを、よりピュアなかたちで
作品に刻印したいということではないのでしょうか?

ただ、生であるかどうかを一つの軸に含んで
風間さんのように文体論をつきつめてゆくと
過度に生な感じを消して
蒸発してしまうところまでゆかなくても
その手前で、すでに一部消失による
作者ではない「何か」が顔を出しはじめる
という具合になるのではないですか。
完全に消えて完全に「何か」があらわれる
ことだけが問題なのではなく
顔を出すこと自体を問題にしているのです。
むろん「何か」を完全に抑えるのは
とてもむずかしいことなのかも知れませんが、
主格が生な感じかどうかを問うという
思考の軸を抱えこむことが
そもそも「何か」を積極的に呼びこんでしまうのでは?
生か否かを問わない思考の場というのもあるのでは?
朗読にはそうした可能性もあると思っています。

ちなみに「何か」とは、短歌のことではないです。
説明するのはとてもむずかしいものですが、
たとえば、「戦没者の霊は靖国にかえる」と
ぼくたちに感じさせてしまうようなシステムです。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1873] >風間祥さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/15(Wed) 01:51

> 分かち書きをして、藤原さんに叱られるかと思いますが。
> 人間の思惟というものは、一度には流れて参りません。
> どうぞお許しください。

叱られるとかそういう問題ではなく、
ばらばらにコメントしてまとまりがないと
コミュニケーションがはかりにくいということです。
人間の思惟がどのような性質かは関係ないですよ。
ここに書いている人はみんな人間です(たぶん)。(^^)

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1872] しんと懐かしいです。 投稿者:鈴木英子 投稿日:2001/08/15(Wed) 01:10

こんばんは。藤原さん、いかがでしょうか。また暑さも戻ってきましたね。
どうぞ、お大切になさって下さい。この掲示板も日記も、本当に刺激を
受けるので藤原さんがお元気でいて下さらないと、淋しいです。
山崎ハコの話とか、見ていると嬉しいです。私が国学院短歌にいた当時、
短研の飲み会の終わりは、誰かがハコを歌い出すとひとりひとりそれに
くっついて何となく静かな合唱になって果てるというパターンでした。
「短歌人」では藤原さんが「トーク・バック・ストリート」(間違ってませんか?
今、手元になくて間違っていたらごめんなさい。)を書いてらした頃ですよね。
その後、今から10年くらい前だったと思うのですが、渡辺えり子の芝居にハコが
客演して、大丈夫かな、あのか細い体で最後まで持つかな、と最前席でハラハラしながら
観ておりました。
ちなみに、映画研究会(夫がいました)の飲み会の締めは石川セリの「八月の
濡れた砂」でした。これはいつもいっつも同じ。
また、当時、寺山修司のもとから「第2のカルメン・マキ」としてデビューした
荒井沙知は、今でも忘れられません。知っているひとって本当に少ないでしょうけれど。
嬉しくてついついお邪魔しました。


[1871] 辰巳泰子が同窓会と言っているのは 投稿者:松本洋一 投稿日:2001/08/14(Tue) 23:39

かつての短歌人関西歌会のことです。ここにはかつて正岡豊や山崎郁子もいました。
 私が中島みゆきの歌を最初に聴いたのは、彼女のデビュー直後、西尾小学校の講堂で、コンサートを開いたときでした。このとき彼女は「私、暑いのダメ。ごめんねー」といって、30分ほど座を外して、ふたたび帰ってきて歌い始めたのです。北海道出身じゃねー。それで、最後にアンコールで、「なにか聞きたい曲あるー?」と言ったのですが、「時代」以外の曲を誰も知らず、シーンとしてしまったので、これはいかん、と思い、おもわず僕が「時代のB面!」という無礼なアンコールをしてしまった(注:「傷ついた翼」)のですが、彼女は「あー、あの曲はちょっとキツい思い出があるのよねー」と言いながら、ちゃんと歌ってくれました。いまから考えれば、信じられない話ですよねー。
 ちなみに、冬野は、山崎ハコは「夕陽のふるさと」が好きだそうで、ぼくは圧倒的に「気分を換えて」です。ほかに、「森田童子」もいましたよねー。あの頃の女性フォークシンガーは、豊穰だったですねー。


[1870] 私自身も倫理の人 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/14(Tue) 23:13

実は私は来年もう五十歳になってしまう。
だから、このところ、やたらに焦ってみたり、いや、落ち着かなければならない、と
思ってみたり、心騒ぐ日々を過ごしている。

中島みゆき、山崎ハコ、森田童子の三人はやはり好きだ。
四十九歳ってのは、やはり、風の中の昴か、そんなにカッコイイもんじゃないのか。


[1869] 倫理の人 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 22:11

ああ、わかる。

ふるさと忘れた/はずもないのに/せんど見つめれば/遠い昔を思い出す/
どうして一人で汽車に乗り/涙こぼさずうたをこぼした……

という「夢のおろろん」のサビが、いっとう好きです。
「せんど」は、関西の言葉で、「ずっと」の意でしょうね。
あのうた、好きだなあ。
松本さん(大矢裕樹さん)が出ていらして、もう同窓会ですな・これは!


[1868] みゆきより浩子な私  投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/14(Tue) 21:44

 中島みゆきもいいですがね。私は高音の出る歌手が好みなので、谷山浩子ですな。
 片思いの相手に振り向いてもらうために地球一個滅ぼす女ってのも怖い。あの声にだまされてはいけません。
 この二人はお神酒徳利なことは周知?のことです。
 最近の谷山浩子は低音と行かないまでも中音に深みが出てきたような。高音の凄まじいのは好き嫌いのポイントになると思うな。 
松本です。中島みゆきと聞いて、つい黙っていられなくなって口を出します。お聞きの歌は「ルート66」です。彼女の魅力は「生きていてもいいですか」から「寒水魚』までだと思います。この頃の彼女の歌は「怨み」が「思想」になっていました。その後でも「夜を往け」などいいと思いました。実は私「山崎ハコ」のファンクラブに入っていました。「山崎ハコを励ます会」というものです。ここにすごく詩のうまい人がいましたが、今はどうしたでしょう。ちなみに彼女は、「怨み」の人というよりは、優れて「倫理の人」だと思いました。祐子、あとかきたいことある?え、ない。じゃ送っちゃうよ。


[1867] 連続でごめんなさいよ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 20:15

「怨みがわかる」っていうのは、大人の感情だと思います。
それにしても、
十ン年前、ずーっとずーっと眩しい大人に見えた、藤原さんや西王さんと、こんな話が分かちあえるなんて、わたしはしあわせだーーー。(酔っぱらいデス)


[1866] >西王さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 20:01

「怨み」って、いいですね!
「怒り」ってのは、正義感むき出しで、わたしもわかくて自分に根拠のない自信があったころは、「怒り」なんて持てましたけれど。
それにしても、
「怨み」は、持ってることの、自分自身がいちばん辛い感情なんじゃないでしょうか。
人がもっとも共感できるのは、そこなんじゃないか。

中島みゆき、好きなほうです。「ひとを捨てるなら九月」とか。
サビの部分が、次の歌詞の曲名、誰か教えてください。
(うろ覚えなので、間違っていたらご容赦)

「こんな海辺にくるんじゃなかった/いいかげんな町ならよかった/多分あなたはもういないから/振り返れない/国道 海伝い」

でも、山崎ハコが、もっと好き。


[1865] シンガーソングライター 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/14(Tue) 19:02

西王です。

藤原さんが次のように書きました。[1857]

>ちょっと、誤解を生むかもしれませんが、NHKの「プロジェクトX」での
>田口トモロヲの「XXだった」という過去形を多用した乾いたナレーションは
>現在というイヤな時代が、高度成長期の先人の努力を無化してしまったという現実
>を語るナレーションというかたちを借りた「怨み節」のように私には聞こえます。

まったく同感です。で、ここで誤解の部分を誇張して言うならば、田口トモロヲの
語り口は、けっして無色透明などではないですよね。あきらかに一つの色を指示す
るような語り方だと思います。ずっと下のほうで、朗読の透明性という話題が出て
いましたが、田口さんの語り方はドライではあるが、クールではないですね。

さて、あるとき、CBCテレビが、「プロジェクトX」とほとんど同じような番組
を作ってみました、とさ。CBCの方はある青年のプロジェクトの失敗物語でした
が、ほとんど愉快犯ふうに、泣かせどころでは、NHKの場合と同じように、中島
みゆきの例の唄を流したそうです。
ここの部分が、今日の笑い話です。CBCの場合は、NHKの番組で、多くの視聴
者がホロリとするはずの中島みゆきの唄が流れたとたん、視聴率がガクンと落ちた
ということです(笑)。

さて、
きざな言葉を使えば田口トモロヲの語り口は「ナラティブ」なものです。あの番組
と、朗読(もしくは声)とを結びつけて話題にするならば、ぜひとも中島みゆきの
唄も採り上げてほしい。短歌が「リリック」であるならば、です。

以下、余談風に回顧します。この部分についての、私の記憶の信頼度は70%くら
いです。もし間違っていたら、ご両人にお詫び。


高野公彦さんは、中島みゆきの唄が好きで、毎日、駅まで自転車で行く間、ウオー
クマンでもって彼女の唄を聴いていた。中島みゆきの唄には「世間に対する怨み」
のようなものが感じられる。辰巳泰子の短歌を読むと、中島みゆきの唄に表現され
ているような「怨み」が読む者に伝わる。

というようなことを、どこかに、書いていました。


[1864] >冬野さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 18:36

よく生きてるねえ。
冬野さん、人のわるぐち言わないからね。そりゃからだもこわすさ。
ずいぶん昔、
わたしが京都に一人で住んでたころね、一度泊まりに来てくれたね。

ちょうどわたしは男と別れたばっかりで、
お好み焼き屋さんで、二人でお好み焼いたっけか。
あんとき、あなたはうどんが食べたかったんだっけ?
細かいこと忘れました。
わたしが男と別れたことを、あなたに話したらさ。
あなたは、泣いて、泣いて、泣いて、止まらなかった。
3年間尽くしに尽くしてくれたのに、こっちは男と思えなくなって、
ほかに好きな人ができて、別れたんだった。

あのとき、あなたは、男の気持ちになって泣いたんだろか。
もしそうなら、
わたしはその男のためには泣けなくなっていたから、
あなたが泣いてくれて、
ほんとうに救われた。

でも、あなたは、
もっと違う涙を流していたんじゃないか。
もう、男のために泣けなくなったわたしを、憐れんでくれたんじゃなかろうか。
あのとき、お店の座卓に泣き伏すあなたを見ていて、
そんな気がした。
あのとき、わたしにとっていちばん辛かったことは、
自分がひどいことをしていながら、すでに感情がわかなくなっていたことだった。

あなたは、わたしの話しぶりから、そのことを感じ取ったんじゃないか。
だから、わたしが失った感情を肩代わりしてくれているんだ、
と思えました。
あなたは、部屋に戻ってからも、一晩中泣き続けたね。
忘れられない夜でした。
一生恩に着ると思いました。


[1863] 私の狂気 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/14(Tue) 18:09

 辰巳泰子さん、あなたが灼熱の地獄にいるならば、私は極北の闇に閉じ込められているのです。凍死寸前。
 私は確かに生きている人間ですがそれに拘泥する意識が薄いようです。私が生んだ唯一の人間が≪冬野由布≫。おそらくこれからもそうであるそのことが今私を苦しめています。
 現実に対して憤ったりしても、どうもちぐはぐな感じ。


[1861] でも、現実も   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/14(Tue) 14:27

生で始まり、死で終るよ。

文学にも混沌をカオスを主題とする文学もあるよ。
だからって、所詮現実ほどのスケールも深さも望めないけれど。
だって、現実は神の創造で、芸術は、人間の、多くは個人の創造だもの。
神の創造を書き換えたがる、上書きにしろ、創造のやり直しを命じたがるのが、芸術家でしょ。
安心を拒絶しながら、安心に至りたい、我儘な、甘えたがりの魂なんじゃないかな。

そしてもちろん、死で、一旦、終ったように見えて、限りなく輪廻転生してゆく物語でもあるよね。


[1860] 現実と物語 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 12:34

ここに、現実そのままの物語があるとします。

小説を書き始めてつくづく思ったのは、
物語には、現実にはとうてい用意できない「型」があるということ。
この「型」のなかで読者は救われ、安心を得て、ページを閉じることができる。
「型」のありようはストーリーであったり、文体であったりするけれども、その機能は、短歌の形式に相当するものです。
どんな残酷な物語にも、「安心」を用意することが不可欠なんです。
「安心」のない物語は、読者を得ることができません。
カタルシスであってもいいし、
統一されたスタイルであってもいいし、
よくある落ちのつけようであってもいいけれど、
そのような「型」は、現実には、ない!

私小説というスタイルは、まさにこの「安心」の「型」に相当するもので、では現実とイコールかというと、まったく違う。
だって、現実に、「型」はないんだから。
これは、物を書く・書かれたものを論評するにあたっての、忘れてはならない但し書きだと思われる。


[1859] 少し見ないうちにすごいことになってる… 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/14(Tue) 09:20

 夏休みですからね。先週から体調が変。ぜんそくぽくて内科へ行ったところ、ハイヴァーベンチレーション起こしてしまい、ポリ袋かぶってベッドに休んでおりました。そりゃー脈拍の速いこと、駆け足している状態が2日ぶっ続けで。パソコンはやっていかんよー、と医師に言われていた。揖斐にいけばそういう環境から脱出できるし涼しいだろうと、思ったのですが、妹夫婦が来るってんで追い出されて、ユースホステリングしとりました。「姉のほうは連絡もよこさずこいと言ってもこないのに妹のほうはいきなりやってくる」遠慮してるんですが、私はさ。
 血圧は低いほうで最近ようよう120の大台を確保。時々100切るから。それでも朝は抜いていないけれど。今は芋けんぴかじってるけど後で食べる。連れ合いのほうが腎臓悪い関係で高いので、二人用の食事は薄味にしてある。もう他人は味がないというレベル。それでも私はかまわないし。
 辰巳さんあたりに聞いたほうがいいかなあ。げっけいしゅうきが21にちていどで2つきすぎた、それはいいとして、こんかい7・26から8.14まで断続している。一日半ほどきて一週間のあきがある。盆休みあけたら医者へ行くけれど。ちなみに基礎体温をつけても虚しい結果、意味無いって言われてます。


[1858] 狂った現実 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/14(Tue) 02:52

藤原さんの日記に、

いったい、現実を把握している者はいるのだろうか

とあって、どうしても答えておきたい思いがあります。
自分のことを書くのがいちばん「安全」なので、自分のことを書きます。

わたしが、35年の人生で、いちばん「狂った現実」にいた時間は、1989年から1990年にかけてでした。
ちょうど、「紅い花」を上梓し、現代歌人協会賞をいただき、上京した時期です。
上京にあたって、わたしはたくさんの言い訳を用意して、相手によって使い分けましたが、実際には、ひとつきりしかありませんでした。
人工妊娠中絶をしたことです。
この世に身の置きどころがなく、死ぬに死ねないという心境に至ったこと。
そのひとつきりでした。
「メジャーになりたいから」「結婚したい人がいるから」
相手によって使い分けられたこれらの言い訳は、自分のためというより、相手のためでしたけれど、
しかし、わたしの「狂った現実」は、この事実がもとになってはいますが、
もう少し違うところにありました。

わたしは、「ほんとうは産みたかったのだけれど」という、エクスキューズを用意せずにはいられませんでした。

父親の見当は二人で、てっきりあたらしいほうがそうだと思っていたけれど、よく考えたら可能性を否定できないことや、
私生児を育てる世間の目に耐えられないことや、
まだまだ自由に振る舞っていたいことから、
わたしのなかでは、「産まない」選択がとっくにできあがっていたというのに、
「産んで育てるにはどうしたらいいか」を人に相談したり、
見当をつけたほうの男に認知を要求したり、
電話を使って、男の本籍地を確かめたり、
迷走を重ねました。

わたしにとって「狂った現実」とは、「ほんとうは産みたかったのだけれど」というような、エクスキューズのなかに、自分を生かし続けてしまう現実です。

わたしは、当時からながきにわたって、
わたし自身の迷走を、とうてい正視できませんでした。
自分にとって、必要だったことは、
「してよかったか・わるかったか」という判断ではなくて、
迷走を正視すること。
そのひとつきりであればよかった。

そのひとつきりがあれば、どんなにか強くいられるだろう。

そして、
たとえわたしの生きるのが、
「正気でいることが困難な現実」になってゆくとしても、
ぶあついエクスキューズを塗り重ねた「狂った現実」を生きることはできない。

そして、迷走が正視できるようになったきっかけは、

自分には守り育てる者があるということと、
自分が周囲からあいされているという実感でした。

そのなかで、自分にできることを問うとき、
「迷走」と、目にしてきた「風景」が、しんに手元に残ったのでした。

書きたい!
スキャンダルを逆手にとって、という解釈が常につきまとうけれども、
知ったことかい。
地球の裏側であるとさえ思えれば、誰が殺されていたって今夜の安眠は保証されてしまうのが、にんげんというもの。
そうして、身近な人物にだけ、絶えずこころを揺らしながら生きてしまうのが、にんげんというもの。

そいつを、
許すとか、許さないとか、いいとか、わるいとかで考えてしまうのは
「狂った現実」を産み落とすことになる。


[1857] 初盆で留守してました 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/13(Mon) 23:50

初盆で二日間、留守にしていました。
たくさんのみなさまに書き込んでいただき、刺激を受けています。

沼谷香澄さんお書き
わたしはしばらく、ことばの快楽をテーマに朗読をやっていました。

沼谷さんの「声の同人誌」の作品は、まさに、読むこと、読まれることの快楽が
実現していると、私は思うわけです。
風間さんは、「声の同人誌」をお聞きになったようですので、沼谷さんの言葉は
ある程度受けとめられるのではないかと思います。
私の「声の同人誌」の作品は、「時代のノイズと混沌」です。
つまり、作品を声に出すことに、鮮明なモチーフを持つ事が、朗読をする意味なのだと
現在の私は理解しています。
西王さんの気持ちは共有できるものの、私はそういう気持ちをふりはらって、
時代と密着した表現の実現に少しでも近づきたいと、思ったわけです。
声で表現する「時代」というのは、ここ1年ほどの期間、私がひそかにこだわってきた
テーマでした。そして、ともかく、現時点で自分の力が及ぶ範囲のことはやった、との
気持ちではあります。これを乗り越える方法論があれば、さらにチャレンジすることは
やぶさかではありません。

ちょっと、誤解を生むかもしれませんが、NHKの「プロジェクトX」での
田口トモロヲの「XXだった」という過去形を多用した乾いたナレーションは
現在というイヤな時代が、高度成長期の先人の努力を無化してしまったという現実を
語るナレーションというかたちを借りた「怨み節」のように私には聞こえます。

声の可能性というものを語るとき、たしかに、沼谷香澄さんのおっしゃるように
「現実に聞けと言い放ってしまうのは酷だ」という気持ちもあるのですが、
現在必要なのは、やはり、具体論なのかな、と思わざるをえません。
実際に声を出した人達、たとえば、「連鎖する歌人たち」に出演した方達も
ここに書き込んでいただくと嬉しいです。
あ、辰巳泰子さんや石井辰彦さんは、書き込んでくださっていますが。



[1856] 小黒世茂さんのレポート 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/13(Mon) 20:43

わたしも、今日読みました。
「トピックス」として、
7・1朗読バトルについて、お書きくださいました。
ありがとうございます。
小黒さんの感想を引用させていただきますと、

いつしか自分自身の心のそこにある澱、そして飲み込んでしまった溜息を、ふっと覗いてしまったような言いようの無い苦みが残った。

ここ、
小黒さんの感じ方をしてくださったのだと、うれしく思いました。

全体に、
ぴったりの形容が見つからず、言葉を探しながらのレポートに拝読しました。

ご来場、及び記事にご紹介、ありがとうございました。


[1855] 昔話に出てくるような、<痴>の神でもあった。   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 20:39

虚であり、空であり、痴、であり、微笑みであり、愛であり、故に充たされており、となれば、キリストの、汝ら幼子の如くというのに、通い、仏教の蓮華微笑に通い、とも思えます。
でも一方で、絶えず、完全虚であるゆえの、その権威に、権力を結びつけようというエネルギーの発生源でもあって、古今類を見ないほどの、永遠に老獪、狡猾な政権でもあったわけですよね。それが二重に機能していたわけですね。


[1854] 遊びの王なのですね。天皇とは。空虚の最大の意味を具現する。虚の王ですね。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 20:21

>芸能(たとえば今様)と和歌とは、天皇を(空虚な)中心とするヒエラルキー
において、別のステージにあったもの(いまもあるもの)かもしれませんね。

>●あ、きのうは、村の葬式に行っていました。浄土宗の葬式ですが、この儀式
のなかに和歌を朗読する場面があります。
僧侶が柩のまえに歩み寄って、「あなたの命は朝の露のように消えるけれど、
阿弥陀如来はあなたを浄土へ誘うだろう」というような意味内容の和歌をプレゼ
ントするのですね。ふふ。

これはやられますね。たしかに。ふふ、です。

そして、
わかりました。
何故私が、歌に惹かれるか。
歌が好きなのか。
それはつまりこういうことだったんですね。
遊びであり、虚であったからだったんです。


[1853] 私は人の声を聴くのが好き。     投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 20:11

『朗読者』という本がありましたね。

それからアガサ・クリスティ―の本など読むと、本を読んでもらいながら気持ちよさそうに、眠りに落ちる老婦人など出てきますね。憧れてしまいます。
小さな時母に読んでもらった絵本や、眠る時の祖母の御伽噺や、昔話、懐かしく思い出します。
人の声の癒しの力って、すごいものがあると思います。
そういう朗読って無条件に好きです。

声は、身体の中で最も魂そのものに近いものではないかと思わせるところがあります。
声は魂が露出したものです。露頭に出た金鉱石のように、声は心そのままを伝えます。
その意味では、朗読イベントなどは、もしかしたら、露天掘りの金鉱山に踏み入るようなものでしょうか。


[1852] 地平線は動く 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/13(Mon) 19:49

西王です。

天皇(制)と短歌朗読との関係?について、いかにも半畳ふうに書いていました
小泉総理大臣の「靖国神社参拝」モンダイは、私の予想が敗退するような感じで
一応の進展がありましたね。

かみさん(武下)が、「おそらく今日行くのね」という予想を出したので、私は
絶対に15日だよ、というトトカルチョを提出し、もし負けたならば、禁煙を
約束したのでした、、、が。

ただ、「私には口はひとつしかないが、幸いにして耳は二つある」という絶妙な
レトリックは、天皇(制)と短歌との、奇妙にハッピーな因果関係を隠喩している
ような気がする、などと思うのも、おそらく私のひがみだと見えるだろうなあ。


[1851] 蝉丸トンネル 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/13(Mon) 19:30

>風間さん

[1850]の書き込みを見ながら、ふと、『天皇制の文化人類学』(山口昌男)
を想起しました。すこし以前の本ですが、岩波現代文庫で再版されていて、
今でも読むことができます。

すでにお読みかもしれませんが、とてもいい文章です。

芸能(たとえば今様)と和歌とは、天皇を(空虚な)中心とするヒエラルキー
において、別のステージにあったもの(いまもあるもの)かもしれませんね。

●あ、きのうは、村の葬式に行っていました。浄土宗の葬式ですが、この儀式
のなかに和歌を朗読する場面があります。
僧侶が柩のまえに歩み寄って、「あなたの命は朝の露のように消えるけれど、
阿弥陀如来はあなたを浄土へ誘うだろう」というような意味内容の和歌をプレゼ
ントするのですね。ふふ。


[1850] あるいはまた、純粋な第三者。芸能の発生。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 17:01

荻原さん
>朗読(というか作品)から作者が消えてしまったとき、
語りはじめるのはでは一体何なのでしょうね。
日本語や日本という場に、ひそかに、
根をおろしているあるシステムなんじゃないか
とぼくは思うのですが……。

に、結びつくかもしれません。

分かち書きをして、藤原さんに叱られるかと思いますが。
人間の思惟というものは、一度には流れて参りません。
どうぞお許しください。


[1849] 「声の同人誌」の感想 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 16:29

前にも申し上げましたが、
(>人間の声っていいものだなぁ)

葡萄さんの声が好きでした。


[1848] それはとても危険なことでもあると思いますが   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 16:24

荻原さん
>朗読(というか作品)から作者が消えてしまったとき、
語りはじめるのはでは一体何なのでしょうね。
日本語や日本という場に、ひそかに、
根をおろしているあるシステムなんじゃないか
とぼくは思うのですが……。

私の言っている意味での、消える、場合で言うならば、
消えて満ちるわけですから、そのような空洞化、また、その空洞に
作者以外のものが棲みつく怖れはないものと信じています。
実際には空洞は生じないからです。
<私>は、そこに生きていて、そこに私の魂は満ちているはずだからです。


[1847] 小黒世茂さんのリポート 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/13(Mon) 16:12

「歌壇」9月号に掲載された小黒世茂さんの文章「鮮しい抒情を求めて」を拝読しました。7月1日の「朗読バトル」のリポートです。写真入りはちょっと恥ずかしいけれど、ありがたいことではありますね。

で、小黒さんは私の朗読についてこう書かれています。「彼自身の韻律によって奏でられた言葉は、じわっと胸に沁みる。言葉が耳に刺さる印象はなかった」……ううむ、言葉が耳に刺さらない、というのは、問題ですね。あの時はひどい夏風邪で、声が出なかったのですが、それはあまり理由にはならないのかも。反省します!

それと、ちょっと小黒さんに苦言。作品の引用は正確にしてほしいものです。ルビを含めて、すべての文字や記号は、細心の注意を払って選択されているのですから。朗読会のリポートであっても、これはゆるがせにはできない問題です。

ともあれ、小黒さんはじめ関西勢の朗読を、聴いてみたいところですね。


[1846] >松原一成さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/13(Mon) 12:03

レスありがとう。

表現者を目指しているくせに、
すぐに勘違いをしてしまう軟弱な自分がいるので、
そいつを離れたところに立たせて、今、直球を投げ続けている

「そいつ」は、離れたところで、「結果がすべてという世界で、一匹で生きてる人間」であるあなたの直球を、受け続けているというわけね。
自分で自分に投げてるんですね。
わりかしつまんない絵だね。
だいいち、色気がないじゃん!

わたしは、
「そいつ」の投げた球のほうに興味がわきますね。
へろへろでも。


[1845] 以前、辰巳さんに‥‥ 投稿者:松原一成 投稿日:2001/08/13(Mon) 11:23

‥‥言った「覚悟のない人に直球を投げてはいけない」という言葉を、
今、自分にぶつけているところです。
表現者を目指しているくせに、
すぐに勘違いをしてしまう軟弱な自分がいるので、
そいつを離れたところに立たせて、今、直球を投げ続けている。
あとは‥‥結果で示すしかありませんね。
これでも、結果がすべてという世界で、一匹で生きてる人間なので。

はげしい日ざしのあたる場所で勝負というのは、無論のぞむところです。


[1844] 正気でいるのが困難な現実。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/13(Mon) 10:29

朝帰りが続いています。

という書き出しはたまらなく魅力的なのだけれど、
ここは、徹底的に話し合うことあって、という但し書きをつけておこう。

現実のなかに、物語を見いだすのはきらい。
ていねいにこわしてしまう、あるいはこわしてさしあげることはあっても、
狂った現実の中に、わたしは決して棲まないぞ。

わたしをあいしているというのなら、
わたしに決めさせないで、自分で決めてちょうだいな。

あなたのことを、見ています。
それだけは、約束する。

正気でいるのが困難な現実を、
どのようにも取り違えないでいる強靱さがなければ、
表現者は、顔をあげてはいけない。
わたしとて、同じこと。

はげしい日ざしのあたる場所で、勝負だよ。

>松原一成さん。


[1843] <システム>と<私> 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 09:45

この時に現れるのが、荻原さんの言う『システム』かどうかということですけれど、
私の場合は、「違う」と思いたいです。
思いたいけれど、
そのようなシステムは存在するとすれば、それがまさに「短歌」というシステムだと、思いますが、
そうしてみると、私たち短歌を書くものは、知らず知らずのうちに、そのシステムのイッカンとして、そのシステムの存続を願い、そのシステムの永久統合の上に、「私の歌」も歌うということになるのでしょうか。
そしてそれが、天皇制と底の底で深く深く意識の底深く結びつき、母の胎内を泳ぐ胎児のように、その中で成長するとしたら、
私は、それを、喜ぶ゛きでしょうか。
恐れ、忌まわしいことに思うべきでしょうか。
西洋の神の負わせた原罪に無縁な私たちも、このゆっくりと包んでくるぼんやりとした感触をトラウマのように背負って生きていかなければならないのでしょうか。

統べて括られるものではなく、雑草のそよぎのように、そこにある小石のように、私は私であることを、誰も来ない道の雑木、海辺の砂であることを、ただそこにあって、生きていると、ただ何者でもなく、私は私として生きていると、ここで言うのは、まもなく吹く風に一掃される、余りにも小さな声でしょうか。


[1842] もっと単純に 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 06:13

他の方の意見上の意味は知りませんが、私の書いている場合の「消す」「消せていない」は、
作品内に限っていえば、単純な意味です。
例えば、生き腐れすると言われている鯖を酢で絞めるとか、鯛に「針」をして仮死させるとか、鮮度を保つため、生臭い匂いを嫌うため、一旦殺す、一旦殺すことで生きさせる。
漁師や、板前さん。また、舞台でも使う手段にすぎません。

また、訊かれてもいないのに答えるのもおかしいのですが、個人的なことを言えば、(姿勢としていうならば)、作者は、作品を前面に、自らは消えているべきだと思うのです。
それは、伝える際の邪魔になりたくないから。障害物になりたくないから、羞かしいから。という、これも単純な理由です。


[1841] 作者は完全には消えられないでしょう。どんなことをしても。   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 05:37

荻原さん
>朗読(というか作品)から作者が消えてしまったとき、
語りはじめるのはでは一体何なのでしょうね。
日本語や日本という場に、ひそかに、
根をおろしているあるシステムなんじゃないか
とぼくは思うのですが……。


特別なシャーマン的な場合を除いて、普通の作品と作者に限って言えば、
どんなに化身を試み、隠れ蓑を着ても、作者が完全に消滅することは、逆にできないのではないかと考えています。
どんなに腐心しても、必ず痕跡を残し、完全犯罪は成らず、ものの見事に、その文体によって、作者は特定できるものと、どんなに当座のスタイルを変えてみても、誰かの作品は、別の誰かによって、見破られるものと思っています。見破る力があるかどうかは自信がありませんが。

そしてまた、作品から作者を消すと言っても、さっきも書いたように、消え去ることの意味は、同時に作品内に再生・復活することを促しているのです。
そこのところが微妙で紛らわしく思われるかもしれませんが。


[1840] 仮定 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 05:07

世界の生気を吸い、遍く生命の嘆きを代理し、贖い、伝え、天上の水滴となるまで昇華する、そんな存在としての言語媒体。
原始的メディアの戦士のような存在。
成り代わり歌い、成り代わり伝え、その前に、誰よりも真っ先に傷つき、真っ先に憂い、真っ先に滅びる者。
その命の代償のように与えられた、言葉の力。それを伝える力。
そんな力を持つものがいた。
沖縄のノロのような存在。
夭折の詩人や、作家もまたその一人一人であっただろう。
彼らは自分を空にして、受容し、内に秘なるものと化学反応を起こし、その結晶を他者へ伝達するのだ。
小さな自我は溶解し、超我的な、、客観と同値化した我がそこに生まれてくるのを待っただろう。普遍への命が芽生えるのを。

しかしまた一方、それとは無縁の地平に立つ者もいたはずだ。
異端の神も。
また代理されることを受容しない、束ねられない草草も。
そのそれぞれに詩は宿り、息づいていたはずだ。


[1839] ある声。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/13(Mon) 04:18

政治の方法と短歌を並列してはいけないかもしれないけれど、
短歌は、古代の呪術に起源をもっているとも思われるので、今ここでそうすることも許されて然るべきことではあるだろう。
古代の日本では、卑弥呼なるものがいて、或いはアマテラスなどがいて、「男弟」など、それを助けるヒトがいて、政も諮られた。天の声を伝えるスタイルのものであった。天と下界をつなぐものとしての、声。


[1838] 短歌朗読をめぐっての議論は、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/13(Mon) 03:19

やはりまだ朗読は是か非かという大枠から、
抜けだすのはむずかしいのかも知れませんね。
朗読といったって個別に存在しているわけで、
その個々の朗読について語りあわないと
どこまでも声が大きくなるばかりで、
共有した何かを持たないかぎりは
平行線がつづく部分が多そうです。

ここでも話題に出ましたが、
藤原龍一郎さんも参加した
塩谷風月さんたちの「声の同人誌」
http://www1.mahoroba.ne.jp/~shiotani/koe.html
というのは、物理的な「場」を共有できないことに対して、
うまく人と人をつなぐような試みだと思うのですが、
たとえば、そうした具体的な「声のテキスト」を
出発点にしてみてはどうなのでしょうか。



ところで、余談的に書きますが、
作者のイメージべったりの朗読の是非は
ひとまず横において考えるとして、
朗読(というか作品)から作者が消えてしまったとき、
語りはじめるのはでは一体何なのでしょうね。
日本語や日本という場に、ひそかに、
根をおろしているあるシステムなんじゃないか
とぼくは思うのですが……。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1837] 作中主体と作家 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/12(Sun) 23:23

結局のところ、この問題というのは(西王さんが疑問に思われた)天皇制と、朗読の関係なんですね。
(天皇制にも、二種類あって、文字通りの意味の、故意か偶然か必然か現在も同じ名で呼ばれる権力を伴わない「象徴的天皇制」と、明治以降の、悪しき祭政一致の、強大な権力を付帯された絶対天皇制がありますが)

それは、誰が物語るかということ。
物語る人と、主体との関係。
作中主体と作家との関係。
客観性の有る無し。
均衡と調和がどこで保たれるか。はかられるか。
表面張力の保ち方。
どれくらい浮いていれば正しく浮いていられるか。
どれくらい生(なま)を消せば、羞恥心に接触しないか。拒否感の障害なく、作品内容を他者の胸に届けられるか。
どれくらい生(なま)を残せば、鮮度と魅力が保てるか。
ライヴ感覚のよさと、作品としての完成度の高さと、透明性は、どのあたりで引き合うか。
すべてを充たす、その一線はどこにあるか。

天皇が政の表面に出て、親政というのでしょうか。
直接指揮し指導することと、作者が直接、朗読することは、どこか、似ていませんか?

作品が、透明性と多義性を保つには、作者は消えていることが、望ましい。
読者の自由な空想を阻むことが多いから。
読者をがっかりさせることが多いから。
しかしまた、読者の想像をも上回る魅力的な作者であることも可能ではある。可能性としては。
その場合は、より身体化され、生命化された像を、読者のフィルターを突き破って、現出させることになる。
舞台芸術や、映像化された作品の魅力に通うものとなるだろう。

しかし多くは、見るもはずかしい、聴くに堪えないと、思わせるものも、あるだろう。
しかしまた、それは、朗読に限ったことではない。
一次元でも、二次元でも、三次元でも、四次元でも、それは、同じことなのだ。
短歌が文字だけで、書かれていたとしても、同じことなのだ。
羞ずかしさというのは。
どれくらい浮いていたら正しく浮いていられるかというのは。
そもそも浮く必要があるのか、という人もあるだろう。
浮いてはいけないという人もあるだろう。
生(なま)を消し、昇華させ、多義性と普遍性を獲得するといっても、
行過ぎれば、蒸発してしまうだろう。
地上のどこかに、しっかりと、つなぎとめる「リアル」を求める人もいるだろう。
地上にベタリと張り付くことを前提とする人だっているだろう。
そのことの羞恥に無関係ではいられない。書くということ。

書くことは羞恥心との戦いなのだから、それでも書きたいことがあるかどうか、それが核心的な命題にはなってくるだろう。
書くこと、朗読すること、その双方の方法を試して、全的に、表現しようとすることには、意義があると思う。
さらに身を晒すように、朗読を果敢に試みる人が増えてきたのも、時代的な内的必然性を伴ったことなのだろう。

私は否定しているわけではない。
解っていただけるのだろうか。


[1836] >沼田さん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/12(Sun) 01:37

ところで辰巳さんの[1821]から、辰巳さんは総合的な自己表現の一環として短歌のテキストによる呈示と朗読による呈示を行っておいでだと解釈しました

そうです、そうです。
ありがとうございます。こんなふうに端的に言っていただけると、
何かうれしいですね。


[1835] 短歌と朗読と私 投稿者:沼谷香澄 投稿日:2001/08/12(Sun) 01:05

横から失礼します。

朗読を否定するまえにいろいろな朗読を聞いてみてください、というのは簡単なことであると同時に酷なことでもあると思います。
わたしもそう言いたいんですけど、たとえば私も7月1日のバトルは聞いていないので話に参加できないことになってしまいます。
ですので、短歌にとってなにがよくて何が悪いかという基準から、総論のみにて、話を進めることは、やむをえないだろうと思います。

さて
[1815]西王さんの発言より
>ただ、文字で書かれたものの多義性を、声で語る(しかも聴衆のまえで)ことが
>ひとつの方向に絞っていくような気配を感じるのです。

おっしゃるとおりだと思います。朗読がテキストの多義性を狭める要因にはなりえます。
わたしは、朗読を、テキストに対するひとつの解釈を呈示してみせることだと考えています。
しかしべつにそれがテキストの多義性を否定することだとは思わないです。
いろんな解釈があっていいのではないですか。
余談になりますが、だからわたしは作者自身が朗読することにこだわる立場には賛成していないです。
全く知られていない事実ですが、わたしは「未来」誌にて岡井隆選歌欄に投稿していました、いまでも歌稿は(送るときは)岡井先生に送っていますが、この点に関しては師の説に反対している、つもりです。

2年前になりますが、短歌同人誌「レ・パピエ・シアン」で朗読特集をはじめて組んだとき、朗読を行わない立場から藤井靖子さんが書いてくださいました.
そのときの藤井さんの主張は、テキストを読んだときに読者の中で響く声を大事にしたいから、朗読は、行わないし、聞かない。というものだったと記憶しています.藤井さんの主張は西王さんの感じておられることと近いのではないかと、思いました.

ところで辰巳さんの[1821]から、辰巳さんは総合的な自己表現の一環として短歌のテキストによる呈示と朗読による呈示を行っておいでだと解釈しました。また、藤原さんの朗読は、4月28日の築地と「声の同人誌」でお聞きする限り、また違う立場からつくられていると感じます.声を使った短歌表現の試み、と解釈しています。わたしはまた別の立場から朗読を行っていると言っていいと思います.つまり、一口に短歌の朗読は是か非かという議論でくくってほしくない、というのが、やっている人間のひとりとしての正直なお願いです。

ついでに宣伝めきますが、わたしはしばらく、ことばの快楽をテーマに朗読をやっていました。現在自分のサイトで公開している作品はこのテーマに則しています。一年半前の録音で技術的な完成度については言いにくいですが、よかったら聞いてみてください。昨年の「レ・パピエ・シアン」朗読特集号CDに収録したものです。現在はまた違うことを考えています.8月18日のウエノでちょっとやってみようかと思って準備中ですなのですが今日まで予定外の入院(軽い妊娠中毒症のようでした)で時間をそがれてしまってあせっています。これも余談ですねすいません。

長文で失礼しました。

末筆になりましたが、藤原さん、おだいじにしてください。

http://homepage2.nifty.com/swampland/


[1834] 酔鯨のみながら 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/11(Sat) 18:55

えのきの含め煮や、ごぼう食べてます。
ああ。おいち。

わたしは血圧低くて、医者から朝ご飯は必ず食べなさい、と言われてますが。
血圧と食習慣は、とても深い関係にあると思う。
今は亡き祖父は、低血圧独特の、脳軟化症でねたきりになりましたが、
白身の煮魚ばっかり、食べてました。
で、わたいは、
そのあとの煮凝りを、母と真夜中に食べるのが、いっとうたのしみでした。
酔っぱらいモードです。
ああ。


[1833] じつはいま、 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/11(Sat) 18:27

一人暮らし状態なんです!
ぼーっとして、眠いばっかり。
ほんとは、すんごい大仕事?こなさなきゃならんのですけど。
息子は、夏休みなんで、大阪のわたいの実家に入り浸り。

>石井さん。
いいなあ。ブラディマリーのモーニングカクテル。
わたし、今こそとばかり、からだにわるいことしてます。一人のお食事は。
でも、ふんとに、さじ加減に注意して、からだお大切に。
(ああ、すぐに母親根性が)


[1832] 素晴らしいものでした、↓ 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/11(Sat) 14:54

「詩のボクシング]の
若林真理子さんの朗読が
まさにこの例にあたります。


[1831] 抽象性、多義性、普遍性の獲得に向かって。一旦消すことの意味。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/11(Sat) 14:49

違和感の根拠は、身体性を消去できないこと。
例えば長岡輝子さんが宮澤賢治の作品を朗読するのには感じない違和感を、
多くの詩人違、歌人の朗読には感じる。
これはなぜなんだろう。
消せていないからだと思う。
消すといっても、永久に、身体性を消去してしまうわけではない。
一度消して、再び甦らせるのだ。
再構成して、キリストが復活するように、空海が同行二人の友となるように、
一旦、完全に肉体を滅ぼさせ、後に、抽象化された存在として、不完全な身体を消去して、完璧な肉体をもったものとして、甦るのだ。
その時、身体は再び武器ともなる。
声は力ともなる。


[1830] 血圧。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/11(Sat) 14:28

あ、なんかたのしそうな話題だ。

息子のアトピーの食事療法を極めたわたしとしては、
医者の指示というより実感として、
血圧のあがりにくい食事のとりかたというものがあるなあ、と。
それは、内容もさることながら、
一皿にいろんな味が混ざり合ったものを摂るより、ごぼうならごぼう、それだけを煮つけたものを摂る。ごま和えとかにして。
で、なるべくゆっくり噛む。

脳への刺激を、単純にするというのかな。

母乳にアレルゲンがでるので、
食事療法の徹底は、わたし自身も行わざるを得なくて。
ほんと、息子は死にかけてましたから。
でも、一週間で、すごくよくなった。おんなじ子?ってくらいに。
食事、恐るべし!
続けなきゃいけないと思うから、手が出ないんですよ。
しばし、調整。
ということでいいではないですか。
好きな物を止めつづけるのはつらい。
好きな物を食べる日のために、期間付きで調整するようにすれば、そんなに悪くもならないのでは?
三日、一週間など、体調に応じて期間を決めれば、おうちの方にも負担にならないし。

ちなみに、
母乳の味って、食べたものによって変わるんです。
いつも、子どもに飲ませる前に、自分のちちを味見してました。
焼き魚をたべたら、さらさらしてさかなフレバー。
お肉をたべたら、粘りけがでる。お酒臭いこともあったなあ。

うーん。
どうぶつ!


[1829] 今、NHK BS 中継中の 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/11(Sat) 14:26

>それは、もう一つのパターンを、あえて省いたためだ。
まさにベタな作者そのものの朗読。
何の虚構化もない、そのままの朗読。シンプルで素朴な朗読を


「詩のボクシング]の
若林真理子さんの朗読が
まさにこの例にあたります。


[1828] 血圧、お大事に! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/11(Sat) 13:25

藤原さん、私もかなり血圧が高いんですが、病院嫌いでほっぽってあります。こういう時、結婚していて家庭があると、奥さんあたりがお医者さんにに連れてってくれるんでしょうね。

どうでもいいことですが、木曜日に初めて行った神宮前の某イタリアン・レストランは、不思議だったなあ! ギャルソンがみんなホストクラブのホストそのもの(無意味に日焼けした肌、ロン毛でメッシュのオールバック、ゴールドのネックレスやブレスレット、着崩したスーツに胸元を広く開けたシャツ、などなど)で、お客の半分は不倫カップル風でした。やれやれ!

てなわけで、相変わらず不摂生な生活を送っています。このごろは、ウィークエンドにはモーニングカクテル(ウォトカを少な目にしたブラディメリーとかね!)が欠かせなくなりました。やれやれやれやれ!


[1827] はいはい、なんとかなるでしょう 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/11(Sat) 06:16

血圧が高いのはいつものことなので、まあ、なんとかなるでしょう。
ちゃんと、お医者さんにも行ってますから。

朗読に関して、西王さん、風間さんのご意見は、考え方としては理解できるのですが
何度か試みてみた私としては、やや、机上の論に感じられることは否めません。
石井辰彦、辰巳泰子といった人達、あるいは、沼谷香澄、正岡豊といった人達の
朗読を実際に聞いてみると、認識が変わるのではないかな、と思います。


[1826] >藤原さん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/11(Sat) 01:54

早くよくなって〜〜。


[1825] 西王さんの書き込み。   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/11(Sat) 00:23

それは 多分、私性の問題ですね。(客観性の問題と言ってもいいけれど。)
それが邪魔と感じるか、それに拘り、主張するか。
生を消し、透明性に還元するか、生の官能性に賭けるか。
どちらも魅力的ではあるけれど。
西王さんは、生な主人公と一体、というより主人公そのまま、のような作者、ベタな作者の登場に、拒否感を感じられる。虚構化を求める。作者以外の分身の設定を求める。浄瑠璃の人形、腹話術の人形のようなものを。
それは複合化した<私>で無ければならず、個の<私>は、消えなければならない。作品の主人公はここにいる表面に見えている作者個人ではない。複合化した<私>、集合体のシンボルとしての<私>とも言えるかもしれない。ここまで書いてくれば、それこそが≪天皇≫に代表される歌を、また民族の歌を連想させる。民衆の歌謡、民謡。梁塵秘抄など)
しかしまた、朗読者の方は、べタでないにも関わらず、よりリアルに演じようと、まるで作者そのものが主人公でもあるように、ノリウツッテでもいるかのように、虚構の事実化をはかる。
一見これは、矛盾した感じさえする。
私が出るから嫌だ、という立場と、私に拘る立場の人の立場が逆転しているような。
それは、もう一つのパターンを、あえて省いたためだ。
まさにベタな作者そのものの朗読。
何の虚構化もない、そのままの朗読。シンプルで素朴な朗読を。


[1824] >西王さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/10(Fri) 23:46

西王さんのご意見を、
特に指していったわけじゃないんです。
聴きもしないで決めつける人があるけれども、
なんというか、自分はこうしたい、と。そういう言挙げをしておきたいな、と。

それにしても、西王さんが、
発言に関心を示してくださることが、うれしくてなりません。


[1823] Re[1821]: 「パフォーマティヴ」な朗読? 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/10(Fri) 22:40

西王です。ふたたびでごめんなさい。
今夜は、私の村からでた、県会議長氏の、祝賀宴会へ行っていました。
国会議員が4人もいる、(間違った意味での)パフォーマティブな宴会
でした。

さて、[1821] 「パフォーマティヴ」な朗読?
という題名で辰巳泰子さんがお書きの、(内容ではなく)題名は、
私がパフォーマティブという言葉を(面白がって)引用した影響があるかも
しれませんので、クドいようですが、補足します。

私が「パフォーマティヴ」という言葉を引用したのは、辰巳さんの朗読のスタイル
に対して言ったのでは、もちろん、ありません。

むしろ、短歌形式で何かを表そうとするのはパフォーマティブだね、というような
意味かもしれません。

なんか、辰巳さんのお書きの感触が、私の「短歌朗読」嫌いのキイなんだけれど、いまいち、すっきりと説明できない。

このことを、直に、辰巳さんに話しましたよね。「どどいつ」はいい。「短歌」
はだめ、と。

このあたりがすっきりすれば、私の「短歌朗読排斥(笑)」論も、なんとかなる。

とにかく、「パフォーマ、、、」というような、辰巳さんが関心を持った意味で
このようなことを語っているのではないことを、出来るだけ、伝えたい。
>辰巳さん。

●むしろ、辰巳さんの朗読について、岡井隆さんが「浄瑠璃」と感じたのは、
「短歌朗読」に関しての、おおきな転回点かもしれない。

現代短歌は、「いっこく堂」の人形に語らせる、(に似ている)ということを、
この掲示板で書きました。もし人形に語らせるならば、いかにも「浄瑠璃」。

●おまけ。
いかにも「朗読」の原典を誘うようにして、引用しましたイランのナンパのこと。
厳密に言えば、男の子は「ペンを持っていますか」と、女の子に聞いたのです。
女の子は、男の子のメールアドレスを、文字で書き留めたのです。

その後、イラン特有?の習慣として、@「期間限定婚姻」(つまり、わたしたち
の同棲を法律が補償する)に至るかどうかは、まさに彼の「パフォーマンス」!!


[1822] >藤原さん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/10(Fri) 14:31

血圧高いのに、ご心配かけて申し訳ありません!
ああ。自分勝手でごめんなさい。
レス不要です。
業務?連絡でした。

それから、
揚げ物食べ過ぎないように、というか、しばらくだめですよ!
がまんがまん。
昆布、お豆腐、お魚を食べましょう。基本的に、お肉はいけません。
炒めもの、辛いものも、がまん。
2、3日続けるだけで、かなり体調戻りますよ。
食事療法は、血圧とアトピーと一石二鳥なんですから。
お酒を召し上がらないから、
その気になれば、けっこう短期間で、かなり効果あがるはずですよ。


[1821] 「パフォーマティヴ」な朗読? 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/10(Fri) 11:53

「パフォーマンス」ってなんなんでしょうね。

私の朗読をいっぺんも聴いたことのない人が、
ある同人誌の時評で、
辰巳泰子の朗読はパフォーマンスの要素が強いと空想して!
書いていた。

「身体表現」とするには、
あまりにも自己顕示の意味合いを強く持たされたこの言葉に、
いつも抵抗を抱きます。

究極の?志として、「この人はこうするしかないんだ」
と、いうところに、持っていきたいし、持っていく。
たくさんの破壊と絶望と、そして再生神話を、そこに見てほしい。

拙著「恐山からの手紙」を批評してくださった岡部隆志さんのことばを借りれば、
辰巳泰子から発する表現は、
つねに、
「よみがえりの旅」であってほしい。
これからの課題でもあるのですが、
安心しやすい言葉に括ってしまえるような朗読はしたくないですね。


[1820] 藤原龍一郎様 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/10(Fri) 09:34

>オンラインでお書きになっているのなら、オフにして、読みなおしてから、書き込んで
いただきたいと思います。

わかりました。
やり方は全然わかりませんが。


[1819] 無題 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/10(Fri) 06:08

石井辰彦様、西王様
詩歌を声に出すことは、文字で詩歌を書くこととは異なった座標にあるな、と
私自身、実行してみたうえでの感想です。
石井辰彦さんの情報は、いつも、私を刺激してくれます。
国際ハーフィズ学会の様子というのは、好奇心が疼きますね。

風間祥様
ひとつお願いがあります。
できるだけ、考えをまとめて、ひとつのウインドウにお書きいただけませんでしょうか。
オンラインでお書きになっているのなら、オフにして、読みなおしてから、書き込んで
いただきたいと思います。
私はほとんど朝と晩しか掲示板を見られないので、書き込みがどんどん下へ追いやられる
と、読み落としが、出てしまいそうですので。


[1818] Re[1817]: イランの学会にて 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/09(Thu) 19:04

西王です。

石井さん

>なんだか示唆に富んだ話でしょう?

ああ、面白い、いい話です。

吟遊詩人の故郷!

私にもだいぶん解ってきました。
あとは、「投げ節」や「どどいつ」なら、嬉しいのに、なぜ、「短歌」だけ
かたくなに「朗読」を嫌うのか、という(おそらく私固有の)鬱屈だけです。

なんとなく、はればれとした感じで、このちいさな往復を閉じることができます。
ありがとう。


[1817] イランの学会にて 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/09(Thu) 17:32

以下は伝聞(ただし信頼性は高い)ですが……。イランの首都テヘランで、「国際ハーフィズ学会」が開かれたんですね。ハーフィズと言えば世界的な大詩人、学会の最初の数日間は、欧米の研究者たちが、ゲーテの『西東詩集』との関連とかなんとか、いかにもそれらしい講演をしていたんだそうです。しかし会期後半、イスラム圏の研究者や詩人が登壇しはじめると、様子ががらっと違ってきた。だって彼らはこぞって、ハーフィズを朗読するばかりだったからです。イスラム圏においてハーフィズを研究するとはどういうことか。それは、どういう詩を選び、それをどういう順番で朗読するか、ということであり、また、ある詩のどの行を反復して朗読するか、どの言葉を強調して朗読するか、ということだったのでした。つまり、ハーフィズを研究するとは、ハーフィズを朗読するということにほかならなかったわけなんですね。なんだか示唆に富んだ話でしょう?


[1816] いくらなんでも 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/09(Thu) 16:50

下の記事の「イラク」は「イラン」の間違いです。
ごめんごめん。いくらなんでも、、、、。
けっしてウケ狙いではありません。

では。ごめんなさい。


[1815] イラクのナンパ 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/09(Thu) 16:48

西王です。雷雨に降られて山から下りてきましたので、私の割り込み発言と、
風間さんの、それについてのコメントを一区切りしておくために書いておきます。

風間さんの[1810]以降の書き込みは、私がのこのこ登場して半畳をいれた目的?
をほぼ言い当てています。ただ、[1813]の「批評性」というのは「多義性」とでも
書いてほしい。

石井さんが、野中発言に関心をもったという記事をお書きの時、私の関心も、じ
つは、辰巳泰子さんがお書きの、野中発言のスタイル(パフォーマティブという
やつ)だったのです。ところが話題が話題だけに、うっかり靖国参拝と、天皇家
の文芸=短歌という方向に迂回してしまいました。

ただ、なんだろう。短歌朗読ブームと、今ここにある小泉ブームとが、私の中で
感触としてごっちゃになってしまったのです。

前に書きましたように、この感触の中身は私にはまだわかりません。
ただ、文字で書かれたものの多義性を、声で語る(しかも聴衆のまえで)ことが
ひとつの方向に絞っていくような気配を感じるのです。

●なんだか、暗い書き方になりましたので、おまけ。

イラクの改革派ハタミさんの演説には、二万人ちかくの男女が参加するらしい。
イスラムのこととて、男・女の間にはロープが張られている。しかし群衆の力
のまえにはロープも無力。女の子に近づいた男の子は、自分のメールアドレスの
書かれた紙を手渡すらしい。
おお。


[1814] でも、世界のどこかには 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/09(Thu) 13:45

反対の、声の力を、朗読の力を、別の方向に向けている人たちもいますね。
ロルカはどうなのでょう?私は知りませんが。
詳しい方もいらっしゃるのではないでしょうか。

吉永小百合さんも原爆のこと、朗読していらっしゃいますね。

荻原さん。バラバラに書き込んですみません。
一度に考えられないものですから。
これで終ります。


[1813] 肉体性、身体性を 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/09(Thu) 13:38

剥ぎ取ったところから、詩が、文学が、批評性を獲得していった、そのことと、現在の朗読ブームのようなものが、どこかで、相容れない、反撥しあう方向と力を持っているのではないかと、感じていらっしゃるのではないでしょうか?


[1812] 今は唯、 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/09(Thu) 13:14

<憲法第九条の廃棄>という、誰かかの、最終目的に向けて、突き進もうというわけですけれどね。


[1811] この場合、天皇、現人神というのは 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/09(Thu) 13:10

全体を一つにしようという、意志の象徴でしかありません。

別にその目的を達するならば、嘗てのように、天皇であったり、靖国、英霊であったりする必要は、全然なくていいというわけですけれどね。


[1810] 西王さん。 それは身体性     投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/09(Thu) 13:02


>さて、石井さんが、野中さんの発言(むしろその発言のしかた・声)に関心を
抱いたその点が、「短歌朗読」の「力」でもあり、私のように「短歌朗読」嫌い
の、嫌うところでもあるようです。

>野中さんの発言内容も、小泉候補の引用して朗読した昭和天皇の御製も、文字で
引用するならば、それほどの中身ではなかったようです。

のためではありませんか?
即ち、ゆえに必然的に持ってしまう、センチメント、感傷性。
それを利用されたら・・・。
センチメンタルなファナティックな熱狂に、結びついたら。
サッカーの対外国戦の時に現れる
国民的な汗とナショナリズムの象徴的な関係。
血と汗。身体。崇拝の対象。アラヒトガミ、現人神、天皇。と、国民。青人草。


人間の声はよいものです。
とてもとてもよいものです。
言葉が楽器に、最高の心情の演奏楽器になるのです。演劇性を加えると、
肉体の官能的な、ある意味SEXYな魅力的な牽引力を発揮します。
でも、だから、
宗教的な、または、全体主義的な洗脳に、利用される場合が多々あるようです。
ヒトラーは、演説が上手だったと聞きました。
そのような危険な合体だってありうるということなのではないでしょうか?


[1809] 声の力 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/09(Thu) 06:03

西王です。風間さんのお書きの[1806]は、たしかにそのとおりです。ちょうど
祭囃子の遠くから、水を浴びせるようにして、結局は参加しているようなところ
があります。私の物言いは。いや、ひそかにもうすこし濁ったアジテーションの
意図も隠れているのかもしれません。

さて、石井さんが、野中さんの発言(むしろその発言のしかた・声)に関心を
抱いたその点が、「短歌朗読」の「力」でもあり、私のように「短歌朗読」嫌い
の、嫌うところでもあるようです。

野中さんの発言内容も、小泉候補の引用して朗読した昭和天皇の御製も、文字で
引用するならば、それほどの中身ではなかったようです。きのう、短歌人の掲示板
に、どなたかが「パフォーマティブ」という言葉を用いていましたが、まさに、
パフォーマティブに表現されるときに意味の方向性があらわになるのかもしれ
ません。

ここからは、再び、いつぞや辰巳泰子さんと「朗読」について語りあったところ
へ戻ってしまうようなので、そして、私には「嫌い」の中身を自分で分析できな
いので、もうすこし時間をいただきます。

ところで、小泉候補の立候補演説に引用された昭和天皇の短歌を、正確に覚えて
いるかたはいませんか?もしいらっしゃったら、(私信でも)教えてください。
では。


[1808] 藤原龍一郎様、 投稿者:平田陽子 投稿日:2001/08/09(Thu) 01:43

『週刊朝日』読んでくださってありがとうございます!
『声の同人誌』の感想も読んでいただけてうれしいです!
『ミッドナイト・プレス』を今夜は藤原龍一郎さんの声が私に教えてくださった方法で楽しませていただいてます。言葉が頭の中を3Dで飛んで行くのです。

http://homepage2.nifty.com/anapa/


[1807] 言葉の力、ということ 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/08(Wed) 23:48

西王さん、私が野中発言に反応した理由は、おそらく辰巳泰子さんが[1793]で指摘されているのが近いと思います。老獪な政治家があそこまで真情の籠った言葉を発した、という点に関心したのでした。小泉政権がとんでもなく危険なものだ、ということは百も承知しています。

朗読する歌人たちの BBS に書きましたが、今年のノーベル平和賞を家永三郎さんが受賞することを、切に願ってます。時節柄(何と言ってもノーベル賞、特に文学賞と平和賞は、政治的な配慮に基づいて授与されているのですから)、これは不可能なことではありません。


[1806] 西王さんのおっしゃっていることは 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 22:57

どちらにしても、コノ問題は無視するにかぎる。
どちらにせよ、コメントすること自体が、ナショナリズムを煽ろうとする意図に適ったことになってしまうから。ということだと解釈していますが、そうしてみると、西王さんも、心ならずも、該当していませんか?
沈黙は金を完璧に実行は、なかなかできないというか。
やめなさい。ということも、一つの発言になってしまいません?