[1805] でも、どちらにせよ、野中さんのことは 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 22:40

どちらでもいいです。


[1804] 難しいことはわかりませんが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 22:38

>ずっと下の方で、石井辰彦さんがお書きになった野中発言は「私は天皇のために
命を捧げるという覚悟で戦争へ行った。そのような私たちからみれば、現在の
靖国神社は、私たちに心情に相応しいものではない」という内容だったと記憶
します。

ここだけを読むと、まるで反対の性格をもった発言なのですね。
むしろ・・・


[1803] 私は、無色透明で、中立でいてほしいから 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 22:30

「参拝」してほしくなかったのです。
それが、現実的ではないと言う人がいたとしても。
水戸黄門や遠山の金さん的なものを求める支持率という妖怪が、結びつく対象としては、あまりにも危険だからです。
戦没者は、兵士だけではないことは、誰だって知っていながら、靖国そのものが亡霊のように、八月の幽霊のように、傀儡のように、利用されるのは、なぜなのでしょう。
天皇制という問題も、いつもいつも短歌の背後にゆらゆらと浮遊しています。
世界の中で、個人として、悪しき沈黙ではなく、健全な批判精神をもって、注視している大衆が、煽動される大衆と、拮抗している限り、戦争は起こらない。
多くの人が、批判力を無くし、煽動され、見えない銃後の戦闘員化された大衆となる時
戦争への、歯止めはなくなる。
煽動は、新興宗教のそれにも似て、表面はとても優しい顔をして近づく悪魔にも似て、いつでも、どこでも、CMの商品の中にだって隠されている。
様々な情報には、いうまでも無く、何よりも、沈滞からの脱出を望んでいる、救済者を待ち望む大衆の願望の中に、潜んでいる。
着火を待つ火種のように。
だから注意深く、批判精神をもって、クールに凝視めていなければ、いけないのだと思います。一人一人が。
西王さんのおっしゃること、よくわかるつもりでいますが。
かんちがいしているでしょうか。
常に冷静な傍観者でいることが、大切だと思います。
批判精神の存在こそ、時代の錘に、錨に、なるのだと思います。
暴走をくいとめる。


[1802] 小泉首相の短歌朗読 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/08(Wed) 20:42

西王です。

風間さんの[1791]でもって「靖国神社」の話題はおしまいだと思いますが、
ちょっと思い出したことがありますので、そして、これは案外、「短歌朗読」
とも関係がありそうなので、書いておきます。

ずっと下の方で、石井辰彦さんがお書きになった野中発言は「私は天皇のために
命を捧げるという覚悟で戦争へ行った。そのような私たちからみれば、現在の
靖国神社は、私たちに心情に相応しいものではない」という内容だったと記憶
します。そこで、石井さんは「天皇(制)」と短歌との関係に思いを及んで、
私たち短歌関係者は、いわゆる「靖国問題」をどのように考えるだろう、という
提案をしていたのでした。

たしかに「小泉まんじゅう」を売りながら、今年の8月15日を一大イベントに
しょうとする靖国神社は、じつに胡散臭い(これは小池光の表現)ですね。

でも、ここで、風間さんのように「私は反対」と言ってみても、小池光さんの
ように(短歌人掲示板)「こうなったら行け」と言ってみても、どちらにしても
今年の「靖国イベント」の前興行にすぎないと、私は思うのです。
そこで、石井さんの提案に対して、この場では相応しくないと、失礼な物言いも
したのでした。

前に書いた私の書き方が解りにくい感じがしたかもしれませんので、もう一度、
紋切り型で書いておきますと、

小泉さんが行かない場合→中国や韓国にたいする「内政干渉」のためにわれらが
コイズミが参拝出来なくなった、というナショナリズム。

小泉さんが行く場合→中国や韓国からの「文句」に対する(OEDを削減すると
か^o^)というナショナリズム。

です。

なぜ、私がこの時期にこの話題は無理、と感じたのか、解ってくれるひとがいるか
どうか不明ですが、この後の一週間を、冷静に見ていてください。せめて、「歌人」たちは冷静になって、このイベントをやり過ごすべきだと思います。

ずいぶん長くなりましたが、「朗読」がらみのこと。

小泉さんの「靖国参拝」は、今ここにあるイベント騒ぎでもって見るべきでは、
ありません。その発端は、「首相」になるための「公約」の時期にあったはずです。今の段階での野中発言を、私が軽視するのは、このためです。>石井さん。

さて、小泉さんは、総裁選挙立候補演説のなかで、「御製」(天皇の短歌)を
引用し、朗読していたのです。
その短歌は昭和二十二年の、昭和天皇の短歌です。





[1801] ごめんなさい。   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 18:13

↓の藤原さんの書き込みを読んだら、詳細が書いてありました。
「月鞠」の、と。三回朗読した中の一つと。


[1800] そうすると、 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 18:05

7月1日のではないのね。

もしまだだったら、どなたかの手で、是非作っていただきたいのですけれど。


[1799] 朗読に対して偏見をもっていたけど、 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 18:01

>声の同人誌」には正岡豊さんや沼谷香澄さんも参加していますし、
田中庸介さんの詩作品もテキストとして、読まれています。

人間の声っていいなぁ と思いました。


[1798] あ、そう よかったわ。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 17:59

辰巳さんの恐山が聴きたくて、塩谷さんにお願いしたことがあったんだけど、
その時は、今回の朗読イベントに、僕は関係していないから。ということだったんです。
残念に思っていたの。


[1797] いえいえ 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/08(Wed) 16:30

風間祥様
いえいえ、塩谷風月さんがプロデュースされたものです。
それに私も参加させていただいたわけです。
この「声の同人誌」には正岡豊さんや沼谷香澄さんも参加していますし、
田中庸介さんの詩作品もテキストとして、読まれています。

平田陽子様
「週刊朝日」の「夫婦の情景」読ませていただきました。
読み終わって、とてもうらやましくなる内容ですね。
「オリザさんのこと、天才だと思うことがあります」という言葉は
アーティスト同士の強靱な信頼関係を実感させてくれます。
77ページのお二人の写真、とてもむいい感じですね。


[1796] あの 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/08(Wed) 14:30

「声の同人誌」って
塩谷風月さんの作ってらっしやるのとは
違うわけですね。
藤原さんがお作りになったCDなのですね。


[1795] 刺激されて、朗読へ 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/08(Wed) 09:02

平田陽子様
「声の同人誌」を聞いていただき、ご感想まで書き込んでいただいてしまい
ありがとうございます。
私の今までの朗読の経験は、昨年の9月の辰巳泰子さんのプロデュースした
「月鞠」の朗読会。今年4月の田中えんじゅさんプロデュースの「連鎖する歌人たち」
そして7月1日におこなった辰巳泰子さんとの「朗読バトル」の3回だけです。
「声の同人誌」のものは、「月鞠」で朗読したテキストを私の勤め先のスタジオで
録音しなおしたものです。
作品は柴田千晶さんの詩に私のニュース風短歌を重ねたわけですが、「音の世界の官能」
と、おっしゃっていただいたのは、意外でありまたとても嬉しくもあります。
柴田さんの詩と出会わなければ、こういう試みはおそらく実行しなかったと思います。
他者の表現に強烈に触発されるという得難い体験でした。
フジワラという人間に対する予備知識、附帯情報なしで、聞いている人に時代のひとつの
感覚を伝えたいというのが、「声の同人誌」作品の意図でしたので、面識のない平田さん
から、こういう、感想をいただけたことは、本当に嬉しいことです。
「週刊朝日」はこれから買ってきます。
刺激を受けたいと思います。


[1794] ご無沙汰いたしております、 投稿者:平田陽子 投稿日:2001/08/07(Tue) 21:22

藤原龍一郎様、
先日、田中庸介さんより「声の同人誌」第一号を聴かせていただきました。藤原龍一郎さんの作品からいただいたものは、完全なる音の世界の官能でした。音の左右、奥行き、上下まで輪郭を楽しみながら言葉の世界を表現されるこの世に数少ない方なのだということを、改めて実感いたした次第です。(おそまきながらです、おはずかしいのです。) 私は短歌を楽しめるようになったのは今年からです。思い起こせば歌人の錦見映理子さんに『開放区』をいただいたのがきっかけでした。それまでは、短歌と俳句の区別すらわからなかったです。個性的な作家が次々と新しい作品を生み出していくすごい時にめぐりあえて幸せです。

以前、私のバンド「あなんじゅぱす」のCDを聴いて下さってありがとうございました。まだ、一度もお会いしたことのない藤原龍一郎さん、よかったら、本日発売の『週刊朝日』の「夫婦の情景」をぺらぺらしてみてくださいませ。そこに私が写っています。夫の平田オリザも一緒です。「あなんじゅぱす」をささえてくださった詩人の田中庸介さんのお名前も載っています。すごくうれしかったので、書き込ませていただきました。長々すみません。これからもよろしくお願いいたします。

http://homepage2.nifty.com/anapa/


[1793] 野中発言と石井さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/07(Tue) 20:57

マラリーのBBSでレスもらって思ったのですけど、
石井さんが野中発言に共感したのは、もちろん内容もあるんでしょうけど、
言葉の伝達のあり方として、
力を感じたということに尽きると思いますよ。
なんで内容を書かないんだろと思ったけど、レスを求められてなお、
石井さんが、具体的な内容について触れないのは、
まあそういうことなんじゃないでしょうか。
石井さんの書き込みはいつも直截で、
しかも、「そこまでは言わずもがなでしょ!」
とゆう空気をわたしはいつも感じてて、
親切ではないところがいいと、思ってる。
私と冬野さんの往還なんて、露骨な私信だし。
外すと大変だけど、まあ、そういうの味のうちなんじゃないの。


[1792] 右でも左でも 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/07(Tue) 20:46

ありません。


[1791] 野中さんの発言は聞いていません。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/07(Tue) 20:44

私は、野中発言は関係なく、靖国神社問題に対しての私の意見として、書き込んでいます。
石井さんと同意見というのは、野中さんの発言は聞いていないけれど、首相の参拝には反対だということです。


[1790] 猿山なれ 投稿者:宮崎二健 投稿日:2001/08/07(Tue) 18:17

おじゃまします。[1784]「お帰りなさい!」の石井さんの投稿を読んで感動が感動を呼びました。歌人として(私は俳人として)、日本国民として、人として、生き物としての深刻さが伝わります。私は不勉強で立派な事が言えませんが、歌人のアイデンティティなんでしょうね。反対派は死んだ人の霊に御参りするのは構わないが、その霊の質の良し悪しや首相という立場とその時と場が良くないと言うのでしょうね。形式の恐ろしさは五七五七七並です。国家には形式や様式が不可欠なんですね。与党も野党も男性は仲良く背広着てますし。無季自由律などやっていると相手にされないもんね。あまりバカなことは言わないで傍観させて頂きます。みんな頑張って! PS.戦争や乗っ取りは勝てば官軍だから、コロンブスなんか永久(?)戦犯にならないで英雄気取りで歴史の教科書に載ってますよね。こういう話しすると直ぐ左右に分類されちゃいそうで恐いです、やっぱり。私の理想は原初の猿山です。昨夜、有名議員が弊店に御客様で来ちゃってビビリました。個人的には皆いい人なんですがね。徒党を組むと鬼になちゃいますね。

http://www82.tcup.com/8217/samurai.html


[1789] 靖国問題 投稿者:間 ルリ 投稿日:2001/08/07(Tue) 16:10

短歌は右なのだろうか?左もありか?
と現代短歌ハンドブックなどを読みすすむと、結構寺山修司とか三国玲子とか左の人も
おります。
でも、歌会始を頂点として万葉集、古今集、新古今集などを勉強すれば、おのずと
天皇制を否定することは好ましくない雰囲気に包まれます。
しらずしらずの内に右に偏っていくわたくしをどうにも止められないもどかしさを感じているこの頃です。
でも、靖国神社と天皇制は別問題だと思います。
どうゆうわけか昭和天皇はA級戦犯ではないのですから・・・
靖国神社がこんなに取り上げられているのに、右翼については未知なるベールに
包まれたままです。百科事典にも載っていなかったし、インターネットでは
「優秀な士官たち」というお化けのような回答です。
まだまだわたしは日本の国が判りません。
右側の短歌という形式を通して左側の世界をも見ていきたいと思っています。
小泉首相が靖国神社を参拝するのなら、これだけの反論を覆すような大きなメッセージ
を記者会見で繰り広げてほしいと思います。


[1788] 60年目のナショナリズム 投稿者:西王燦 投稿日:2001/08/07(Tue) 15:30

西王です。ごぶさたしています。

[1783]に書かれている、辰巳泰子・冬野由布の交流思い出話は、しみじみした、いい
話ですね。
[1785]の、冬野さんの、最近の小池光に対する印象

 分別ばっかし要求されて少し気の毒な気も。

というのも、とても共感。私だって、先日の「短歌人」の歌会に出ながら、ああ、
こんなふうに「分別を要求されるようなかたちで参加するのは、俺には無理だな」と
居心地悪く感じていたものなあ。

●さて、靖国神社へ首相が行く・行かない、ということ。

わたしも、野中さんの発言はナナメ聞きしました。よく出来た発言だと思いますが、
石井さんと風間さんの感じた印象とは、すこし違いました。
野中さんは、いわゆるノンキャリア風に京都の田舎から登り出てきた人で、(1970
年ころは全共闘に全面対決する副知事ではなかったかしら)国政に登場するためには、
ある「仏教系」の新興宗教の全面的な支援をうけています。「私に親しい**教でさえ、
これだけの票があるのだから、創価学会を敵に回したらとんでもないことになる」という
持論をお持ちの方です。
おそらく創価学会=公明党へのリップサービスとして、あの発言はあったと思います。


石井さんは、この靖国神社の参拝の件を短歌に関わるひとに共通の問題として提起して
いますが、私は、この話題は、自分の書きたいことだけを書いて、ガチャ切りします。
というか、ここでは相応しくない話題かもしれないとも思います。

いつぞや、「朗読」のことをすこし書きました。短歌を「朗読」するという、もっとも
典型は「歌会始」です。現代の「短歌朗読者」たちは、天皇の前で短歌を朗読するという
典型的な「踏み絵」をどのように感じているのだろうか、というひそかな疑問から、
妙な半畳を入れて申し訳なかったと思います。
しかし、「朗読」の典型が、あそこにあることは否めません。


「靖国神社参拝」問題については、「短歌人」の掲示板に、小池光さんが「いけいけ」
論を書いていたので、すでに反論しておきました。
そこで書いた中身を反復すると(なぜか、みんながこのことを指摘しはじめたので、
ぐっと色褪せますが)、小泉さんが「靖国」のことを言い出した目的は、行く・行かない
にかかわらず、すでに達成された、ということです。
その目的というのは(ずいぶん紋切り型に聞こえるかもしれませんが)ナショナリズム
の復元です。

したがって、野中さんの発言は、「行かない」場合のナショナリズムの二乗効果を狙った
ものであって、たす(+)公明党に対する挨拶に過ぎないと、個人的には感じました。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1787] まもなく60000アクセス 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/07(Tue) 08:59

みなさま、ありがとうございます。

冬野由布様
「短歌人」夏期集会ではお世話になりました。
殊能将之『美濃牛』の月彦俳句に関しては、知人から教えてもらい
今年の初めだったかに読みました。
ぜんぜん、心当たりはないんですけれど、嬉しいことではあります。

辰巳泰子様
転送メール確かに届きました。
今後の展開が楽しみです。

石井辰彦様
昨夜は夜9時から、NHKラジオの松原一成さん脚色のドラマ「もう半分」を聞いて
そのあと「ラジオ名人寄席」を聞いて、そのまま寝てしまったので、野中発言、聞いて
いないのです。新聞の朝刊には載っていませんでしたが、きちんと聞きたかったと
思います。

風間さん
どうも、ずっと書き込んでいただき、ありがとうございます。

満月様
アート句絵はがき、とても、重宝させていただいております。

荻原裕幸様
今後ともおせわになります。ではではん。


[1786] 靖国神社問題。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/08/07(Tue) 07:22

石井辰彦さんに、「人間としても信用できない。」と言われている私が言うのも何ですが、
このことに関しては、同意見です。
(同などと簡単に言ってはいけないかもしれないけれど。不愉快だったらごめんなさい。)


[1785] 辰巳泰子樣 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/07(Tue) 02:13

こちらこそ。リュックに歌集持ち歩いております。無精者ですのでいろいろ入っとります。読み散らかしていると言うか。辰巳泰子/紀野恵/小池光/穂村弘/永井陽子 体調等により取り合わせ考えて二冊並べて読む、邪道な方法ですがわたしのやりかたです。もちろん初めて読むものは一冊集中します。

 歌集で泣き虫の小池さんは忙しそうでした。むかし横浜で貴女を泣かしたでしょう、ああいう悪戯もできなくなりました。今の20代の人には遠いと言うか、分別ばっかし要求されて少し気の毒な気も。
 若気のいたりで済まない世代に入っちまった私も。


[1784] お帰りなさい! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/08/07(Tue) 01:25

藤原さん、お帰りなさい! 主が不在の BBS は、やっぱり寂しいものでした。

今夜(月曜)の「ニュースステーション」は、御覧になりましたか? 首相の靖国神社公式参拝問題に関する野中広務の、参拝反対の発言、あまりの説得力にあっけにとられてしまいました。野中という人は、生れた瞬間から不条理な世間と闘わざるを得なかったわけで、これまではその恨みを晴らすために権力を手中にした寝業師政治家なんだろう、程度に思っていました。しかしどうやら、そうとばかりは言えないらしい。靖国神社問題に代表されるような根元的な差別と闘うために、敢えて政権党に加わって実力を蓄えてきた、信念の政治家なのかもしれません。だとしたら、これは凄いことですよね。

歌人が表現者であり、しかも天皇制とのかかわりがとびぬけて強い詩形を用いる表現者である以上、歌人は靖国神社の問題に知らんぷりはできないはずです。で、この問題に関する発言には注意をはらってきたのですが、あの野中広務がこれほど説得力のある意見を開陳しようとは、思ってもみませんでした。驚きです。


[1783] 冬野さん!! 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/06(Mon) 23:01

お久しぶりです。
ハガキ、ありがとう。
なんもかもわやになった気がして悩んでいたときだったので、うれしかったよ。
朗読バトルの前日に届きました。
郵便受けから取り出して、
そのまま買い物に出たんだけど、歩きながら涙が止まらなかったよ。
済んだらすぐに返事を書こうと思っていたのに、ごめんね。

もう、十五年くらい、お互い音信不通でしたね。
奈良女子大の寮に泊めてもらったときのことは、忘れられん。
小池光さんに、だれもいない食堂で、いたずらな手紙を書きあったよね。
まだ、19歳とか20歳でした。

わたしは、今でも、冬野さんが、
大阪時代のいちばんの親友だったと思っています。


[1782] ミステリーの中の藤原俳句 投稿者:冬野由布 投稿日:2001/08/06(Mon) 22:50

講談社新書のミステリー 殊能将之『美濃牛(MINOTAUR)』の中で、藤原さんの俳句

 乱歩忌の劇中劇のみなごろし 月 彦

が引用されています。このミステリーは、探偵が容疑者を集めて句会を開くという、とんでもないことをやっています。句会の句はみんなっ作者がつくったもので、

 E=mc2秋の暮(いーいこーるえむしいじじょうあきのくれ) とか

 夏枯れて紫陽花闇にたたずめり

とか、面白い句が入っています。句会や結社のこともくわしいし、加藤郁乎とか坪内稔典とかの引用もあるし、前衛俳句をつくっていた人じゃないかと思います。藤原さんお心当たりございませんか?作者は1964年福井県生、名古屋大学理学部中退です。


[1781] わかめや[ART-KU]絵はがき 投稿者:満月 投稿日:2001/08/06(Mon) 22:11

藤原さんこんにちは。
楽しくご利用いただいたみたいでうれしいです(^^)

池田はるみ歌集『ガーゼ』ですね。OK!

残暑見舞いになりますけど、まだまだ暑中見舞い葉書お申し込み受け付けておりますよ〜。[ART-KU]はがきはいつでもどうぞ(^^)

あ、まずかったら削除してください>荻原管理人様

http://homepage2.nifty.com/WAKAMEYA/


[1780] 藤原龍一郎さん、 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/08/06(Mon) 21:16

おかえりなさい。
日記の再開等楽しみにしております。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1779] やっと回復しました 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/06(Mon) 20:56

ご心配おかけしておりましたが、やっと、さきほどから
メールの送受信ができるようになりました。
管理人の荻原裕幸さまはじめ、この掲示板に書き込んでいただいていた
みなさまに感謝いたします。
日記も再開しますので、よろしくお願いいたします。

錦見映理子様
ええ、「挫折しそうな奴」に送り付けてやりました。オホホホホ!


[1778] ど、どなたに 投稿者:錦見映理子 投稿日:2001/08/06(Mon) 12:05

わたったのでしょうか?はがき。わたしの。
なんかしんぱい(笑)。もらったひとが、挫折しませんように。
おんなのひとがおとこのひとに送るといーんですけどねえほんとは。
もっと夏らしくさわやかなのにすればよかったです。

http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/


[1777] 怪談特集ですか 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/06(Mon) 06:50

松原一成様
つまり、一週間、怪談特集ってことですね。
「もう半分」は志ん生のとぼけた口調できいてもこわい話です。
ところで、松原さんの故郷の鳥取の海水浴場で、サメが出たとか。これもこわい話。

辰巳泰子様
まだ、メールが回復してなくて、もうしわけなし。
この2週間ばかり、パソコン不調というだけで、諸方に不義理しまくりです。


[1776] ラジオドラマ「動機」 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/08/06(Mon) 06:35

わたしも聴きました。
会話部分が生き生きと描かれていて、
警察署の風景がまのあたりに見えるようでしたよ。
息子もいっしょに聴いていたんですが、
「コイツが犯人か?」などと言って、盛り上がっていました。
今夜も、放送ですね。
この数日、いろいろあって、(笑)多少でも立ち直っていたら聴きますね。


[1775] 集会、お疲れ様でした 投稿者:松原一成 投稿日:2001/08/05(Sun) 23:31

藤原さん、「動機」お聴きくださってありがとうございます。
私も、ドラマを一気にやったほうがよかったと思っています。

で、集会から帰られたばかりのところ、なんですが
今週は、私が脚色したラジオドラマ、一気に五本放出です。

同じくNHKラジオ第一、時間は21:05−21:30
テーマは、ちょっと奇妙な物語。

8月6日 「もう半分」
             志ん生十八番の落語をドラマにしたもの。
  7日 江國香織「ジャミパン」
  8日 小泉八雲「雪おんな」
             もちろん、ちゃんと私のオリジナル部分を加えて、
             現代版に変えてあります。
  9日 佐藤正午「運転手」
 10日 永沢光雄「ろくでもないものしか入っていない冷蔵庫」

出演は中村メイコさんと、声が渋い劇団系の役者・有川博さん。
「もう半分」と「雪おんな」には小沢昭一さんも出演します。

よろしかったら、お聴きになってみてください。


[1774] 今、「短歌人」夏期集会から帰りました 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/05(Sun) 20:29

静岡、浜松、名古屋地区のみなさま、おせわになりました。
浜松は昨日、39度を超す気温。くらくらするほど悩ましい夏の大会でした。

いちおう、私が出した作品を書いておきます。

・曇天の水曜にして彼方より波乗りジョニー来る気配して

長谷川莞爾さんが、「ビッグ・ウエンズデー」にふれて批評してくださったのが
うれしかったです。
ジョン・ミリアス監督のせつないサーフィン映画でしたね。
当然、ベトナム戦争の影も差しているアメリカン・ニューシネマです。

ちなみに得点は5点でした。

松原一成さん
「動機」聞きました。
あえていえば、ミステリー・バーでのおしゃべりと、ドラマの部分は切り離して
ドラマを一気に聞かせてほしかったですね。

満月さま
池田はるみ歌集『ガーゼ』砂子屋書房です。
アート句のはがき、もう、20枚、暑中見舞いなどで、出してしまいました。
錦見映理子さんの「挫折してゆく君を見ていた」の一首は、なかなか、出す相手を
選ばなければならず、楽しめました。

と、いうことで、まだ自宅のパソコンはむなおっていないんです。
夏期集会から、会社に直行で宿直です。
ここ一ヶ月は、住み込みで働いているような気分ですね。


[1773] 間さん 投稿者:松原一成 投稿日:2001/08/04(Sat) 01:03

聴いてくださって、ありがとうございます。
続きの話は浜松の会で、とお答えしたいのですが、
私は残念ながら不参加です。
どうか、楽しんできてください。


[1772] えっ! 投稿者:満月 投稿日:2001/08/03(Fri) 23:04

池田はるみさんの歌集が出たのですか?
そうですか・・・

http://homepage2.nifty.com/WAKAMEYA/


[1771] Re[1765]: 31日(火)夜8:05〜 投稿者:間 ルリ 投稿日:2001/08/03(Fri) 10:26

> 9:30までNHKラジオ第一で
> 「ミステリーバーへようこそ」という番組をやります。
> ミステリー作家を招いてのトーク&ドラマで、
> このドラマの脚色を私が担当しました。
なんか聞いてしまいました。
役者さんが熱がこもった演技をしていて
リアルでした。
脚本かと思っていたら脚色なのですね。
また、短歌人の浜松の会でお会いしましょう。



[1770] 来週までお待ちください 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/08/03(Fri) 08:48

藤原龍一郎です。
我が家のパソコンの不調でいろいろと、ご迷惑かけております。
来週早々くらいに、なんとか、自宅からもアクセスできそうです。
「短歌人」のみなさまとは、週末に浜松の夏の大会で、お会いしましょう。


[1769] ジャングル!第五戦 投稿者:石川美南 投稿日:2001/08/01(Wed) 23:48

藤原様皆様こんばんは、石川です。

四角いジャングル!炎の五番勝負第5戦、今晩24時開始(もうすぐ!)です。
バンバンビガロ元帥VSスクーチカ3世
題は夕立。
皆様、ぜひぜひぜひぜひご来場ください。

http://www.h3.dion.ne.jp/~punchman/


[1768] ハピアイ、買いました。 投稿者:井上真樹 投稿日:2001/08/01(Wed) 21:46

買った、というか前もって通販を申し込んでいたのですが。

えっと、価格などに関して、
プロデューサー・枡野浩一さんが
「ハッピー売出し中。」http://www82.tcup.com/cgi-localbin/8244/happyhappy.cgi
に書きこまれていたので、

本の定価について、 投稿者:枡野浩一  投稿日: 7月27日(金)12時13分14秒

というのを見ると、色々「あ〜、そうなんだ。」と
私は思いました。
値段設定はあれ以下にはできなかったようですよ。
たぶん、レイアウトを変えても。
(という内容だと勝手に解釈してました。
 違ったらどなたかご指摘ください。)
確かに安いとは思えないお値段ですが、
やっぱり「買ってよかった」と私は思っています。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2801/bog.html


[1767] >荻原さま ありがとうございます。 投稿者:並木学 投稿日:2001/08/01(Wed) 20:41

 ありがとうございます。
 今晩、そちら、新風舎のサイトをあたってみたいとおもいます。
 
 なんだか途中で皆様のお話を停めてしまいました。
 
加藤千恵さんの短歌集なのですが、実はわたしもまだ買っていません。
 枡野さんの歌集もなんです。 だから色々と内容的な事についてどうこうって言っていいのかわからないのですが。 あの、なんていうかな、立ち読みした感想は、加藤さんの短歌集も枡野さんの短歌集も、レイアウト(というのでしょうか? 写真が入っていたり、色がカラフルだったり。)がどうも馴染まないのです。 もちろん「いままで」に捕われているのかもしれませんが・・・。
 特に加藤千恵さんの短歌集については『うたう』(短歌研究増刊)や、加藤さんから戴いた「ハッピーマウンテン」ぜ拝見していますが、普通の歌集の形式(という言い方が正しいかはわからないのですが。所謂「いままでの歌集」)で出版しても全く構わないのではという疑問と、レイアウトなどをヘンに凝らないでその分、コストを抑えて出来るだけ低価格でとはならなかったのでしょうか。
 あの価格だと、どうしても「短歌文庫」や「歌人文庫」へ手が伸びてしまうのが正直なところです。
 加藤千恵さんの短歌集も、やはりそのような「場」としての機能を果せるのか少々心配です。 でも、今後、目が離せないのは確かです。
 
 

http://www.fides.dti.ne.jp/~kit2in1/


[1766] 岡しのぶさんの話から…… 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/31(Tue) 16:30

……随分遠くまで来てしまいましたが、ともかくこの話、藤原龍一郎さんが「岡しのぶさんみたいにフェイドアウトしないでね!」と加藤千恵さんに呼びかけたことから、始まったのでした。なんだか懐かしくさえありますね。で、加藤千恵さんの歌集、じゃなかった短歌集が書肆店頭に並んだのを、早速見て来ちゃいました。加藤治郎さん(親切で優しい!)と違って買わなかったのは、家が狭いので日本語の本はなるべく買わないようにしているから、ということにしておきましょう。ちょっと気障ですが……。

で、感心しちゃったんですが、表紙(この本は並装小口折の表紙に直接 P.P.貼り加工がしてあって、ジャケットは付いていません)に「加藤千恵処女短歌集」と刷り込んであるんですね。しかも、白地に墨文字で刷ってある中で、「処女」の二文字だけがショッキング・ピンク! 背なんか、こっちの方が『ハッピーアイスクリーム』というタイトルより大きいんですよ。「処女で勝負に出るなんて、女郎の初見世みたいだ」なんて野暮は言いませんが、でもやっぱり、たじろがないではいられませんでした。いや、変な意味でではありません。御存知の方も多いはずですが、「処女作」とか「処女歌集」とかいう言葉は、報道機関や出版業界では「使用禁止語」ないし「使用注意語」だと、普通、認識されています。そのタブーを敢えて侵すなんて、勇気があるなあ、若いって凄いんだなあ、と感心し、かつはたじろいだ、という次第。大胆不敵だと、心から思いましたね!

加藤千恵さん、世の中のさまざまなタブーに、これからも果敢に挑んで行ってください。応援しちゃいます!


[1765] 31日(火)夜8:05〜 投稿者:松原一成 投稿日:2001/07/31(Tue) 00:21

9:30までNHKラジオ第一で
「ミステリーバーへようこそ」という番組をやります。
ミステリー作家を招いてのトーク&ドラマで、
このドラマの脚色を私が担当しました。
この日は松本清張賞作家の横山秀夫さんで、作品は「動機」。
警察手帳大量盗難事件が起き、
主人公の警察官が、守るべき家族のために戦うという
じつに骨っぽいドラマです。
よかったら、お聞きになってみてください。

以上、宣伝でした。


[1764] >並木学さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/30(Mon) 14:59

「フーコー」は、
新風舎のブランドのひとつです。
http://www.pub.co.jp/
http://www.pub.co.jp/newbooks/books_fuko.html
等をご参照下さい。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1763] 藤原龍一郎様  追記 投稿者:並木学 投稿日:2001/07/30(Mon) 14:42


  追記
「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」なのですが、通っていらっしゃるクリニックの名前はいままで伏せていらっしゃいましたが。 先日の日記分で名前が載っていましたが大丈夫でしょうか。 わたしはそこのクリニックの近所に住んでいます。 歩いて40秒です。
 
 この書き込みもすぐ消せるよう削除キーを確認してあります。なんていうか「脅し」ないです。はい。あの、なんていうか、誰でも消して構いません。
 削除キー番号  1111
です。
>荻原様
>藤原様 
 
 わたし掲示板恐怖症のようなものなのです。言葉の語弊などありましたら申し訳ありません。何卒お許しくださいませ。
 大変失礼いたしました。


[1762] >藤原龍一郎様 投稿者:並木学 投稿日:2001/07/30(Mon) 14:26

 はじめまして。 おじゃまいたします。
 藤原さんの歌集『切断』なのですが『東京式』のプロフィールを見ると フーコー となっているのですが、どの書店も政治関係のフーコー社のほか、わからないとの事なのです。
 『切断』を読みたいのですが出版社「フーコー」についてご指示願えませんでしょうか。

 それと、先日、正岡豊さんに頼んで藤原さんの句集を聞いてもらったのも私です。
 大久保の俳句文学館で拝見いたしましたがかなりの衝撃を受けました。はい。一日、ぼー、と頭がうまくまわらないほどでした。
 わたしの周囲で俳句をなさっている方と、(私たちが勝手に)藤原さんの俳句再開を願っています。
 しかし、コピーが高い・・ 頑張って通って写します。

 『切断』の出版社の件、よろしくご指示願います。


 では、いったん失礼いたします。


[1761] そうですか・・・わからないけど、わかるようなわからないような・・・ 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/30(Mon) 05:30

それが「向き合うべきほうへ」「向き合うべきほうを選んだこと」なの?
普通だから苦しむって、宗教的な、煩悩がなんとかっていう考え方に似ているけれど、煩悩即菩提、「即身成仏」が、そうしてみるとその先に見え隠れするから、最後は平安な涅槃に入れるんじゃないかな?(トカ簡単ニ言ウナヨ)

普通で在りのままで、そのまんまで、何も苦しむことはないよ。(ないけどくるしんじゃうんだけど。)                               ただでもしんどいのに、生きているだけでもしんどいのに、楽にしてたらいいんじゃないかな。歌も楽しいから書く、遊びたいから遊ぶ、それ以上のものではないわ。
歌は楽しくて、花火みたいでいいわ。
打ち上げ花火も仕掛花火も線香花火もあるけど、きれいで儚くて好き。
辰巳さんの、すっきりした姿勢もいいな。

>自分が強くないといや。執念深くいきますよ。
>十年とか十五年とか、二十年ぐらい粘るのは、自分にできることだと思う。

私はそんな風になれないし、思考回路も何もかも違うみたいな、外国語で話す人みたいな感じがするけれど、でも、突風の吹く所で、風に向かって立っているような、その風そのもののような、辰巳さんの何かが、なんとなく私も好きだなって、(多分見当違いな感想をまた、いだいているんだろうけど)思います。
ふーん、何だかよく解らないけどそうなのか、って、まるでわかってない感想ですけど、嫌な感覚ではないです。

>ふつうのにんげんなんで、くるしむんですよ。

>孤独とか、芸術家とか、そういうことばは好きでない。
>天才とか才能も信じない。
努力も信じないけどさ。一所懸命やってますもいや。

普通だから普通だからって強調されればされるほど、何かに憑かれ易い、デモ―ニッシュなものから、逃げようとしているみたいな、正面から引き受けて、立ち向かってっていうスタイルと逆に、その逆なものに突き上げられているような、痛ましさがあるのは何故なんだろうとか、思ってしまいました。
ほんと何故なんでしょう。

>心の丈は高くありたい。
いつでもすきっと、見晴らしのいい場所にいたいもんです。

いられるでしょう。
それを遠くの遠くの遠くから、見ている読者の一人でありたい。
のみほしたら喉が焼けて、おなかをこわすの?
直接は、苦手。何でも。間接がいいわ。
遠くから、作品拝見させていただきたいと思います。
熱くて生の辰巳泰子さんを


[1760] いや、全然。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/30(Mon) 03:28

ふつうのにんげんなんで、くるしむんですよ。
言い訳も、悪あがきも、言い訳さえ許してもらえないような罪も、ただ破廉恥なだけのどうしようもない行為も、自分の来し方にあったと思うから、自信をもっていえることもあるし。
孤独とか、芸術家とか、そういうことばは好きでない。
天才とか才能も信じない。
努力も信じないけどさ。一所懸命やってますもいや。
そんなん、みんな、人に安心してもらうためのラベルやで?
ただ、
心の丈は高くありたい。
いつでもすきっと、見晴らしのいい場所にいたいもんです。
そのために、窮屈なのはいや。
自分が強くないといや。執念深くいきますよ。
十年とか十五年とか、二十年ぐらい粘るのは、自分にできることだと思う。
わたしをのみほしたらおいしいでー、と。
おなかこわすかもしれんけど。


[1759] 孤独 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/30(Mon) 01:34

ということ?
修行僧か、求道者のようだけれど。
血を葡萄酒に、身体をパンに換えて人々に供するキリストのような、芸術家の道を辿るの?


[1758] さすらいの果てに 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/30(Mon) 00:04

家庭にはいる、というスタイルは、男性の作家にはわりにあるようです。
立原正秋の自伝作品「焼けた樹のある風景」は、だいすきな小説です。
女と妻子の間を行ったり来たり、何年間もさすらって、
女とはもう、ぐっちゃぐっちゃです。
ラストは、家に帰るのですが、
うつくしいと思ったのは、
「家」を選ぶのではなくて、「妻」を選ぶのでもなくて、主人公は、まだ向き合ってないほう、向き合うべきほうを選んだこと。
そうして、自分の「青春」にケリをつけたこと。
断愛の場面は凄絶ですが、向き合うべきほうへ向かう姿は、説得力があります。
わかいころは、
捨てられたほうがかわいそうじゃないか、
という読み方をしましたけれど、今は、そうでない。
「焼けた樹のある風景」は、どちらへの愛も、純愛としては描かれていません。
だからよかった。


[1757] 書くことといっても 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/29(Sun) 18:39

人畜無害で、世間と何の関係もないからですね。
ちゃんとした<表現者>とは、これまた、次元の違った話でしたね。
ごめんなさい。


[1756] 魂のさすらいにまかせていたら 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/29(Sun) 18:30

死んじゃわなきゃならない。
だから、勇気もない私は、
私生活をできるだけ平凡そのものに、書くことと切断して生きようとしているかもしれない。二重に。素知らぬ顔して。
でも、それが、嘘で、裏切りで、自分を欺くことで、と思うべきかもしれないけれど、二重の境界域は、侵食されているかもしれないけど。それが生き易い。
でも、
露骨に剥き出しにされるのは、何より嫌だけど、正直な、捨て身の、一糸纏わぬ人を見ると、讃嘆の思いもある。
でも、基本的に、私にはできない、したくもない、私はどちらかというと、隠れて生きていたい。(私生活の話ではなくて)昔の、中世なんかの、街の隠者のような人たちに、共感する。
どこの誰でもなくて、何でもない、それがいちばん精神衛生にいい(実際にそうだし)
私生活まで、疾風怒濤は、私には堪えられない。仕方なくそうなる時は仕方ないけど)
ただ、夢の中をさすらっているかもしれない。
欺瞞とも思わない。
私はこれでいい。そうでない人たちももちろんいい。
人それぞれで。
そんな風に思っているみたいです。
さすらい方もいろいろなのかも。


[1755] さすらう人 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/29(Sun) 17:03

表現することと私生活って、わけられるものじゃない。
表現をつきつめたら、必ず「さすらう人」になっちゃう。
なんでそうなるかって、才能だとかこぎれいなことばで、片づけられない。
そこんとこ、理屈こねられたら、くるっちゃうよ。
なんでそうなるかって、特別な人でないからに決まってる。
ふつうの人間だから、つきつめて「さすらう人」になっちゃうんだよ!
覚悟はあとからついてくる。
ふりかえったら、あ、自分で決めてきたことなんだと。



[1754] うれしいです。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/28(Sat) 08:02

皆さんいろいろありがとう。
ものすごく悲しいことだけど、歌集を出したり朗読イベントしたりと相前後して、偶然も含めて「家族」にもう決して取り戻せない罅が入ってゆくのが私の来し方でした。
今回は、じつによくよくもったほうです。
家族、いつだってわたしのたからものでした。
「覚悟」というのは、実際は、たからものを守れない者のひらきなおりかもしれないけど、たからものを喪って死んじゃうよりは、まだ「覚悟」とか、「決意」とかしてたほうがいいってもんです。


[1753] これは論争のつづきではなく 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/27(Fri) 17:48

今日になって胸に落ちてきた感想です。辰巳さんは<表現者>という言葉に、ものすごい想いを秘めていらっしゃるんですね。
それは人がとやかく言う筋合いのものではないですね。
私は、そのエリート意識のようなものに反撥を感じましたけれど、(素人とは違う、私たち表現者は、素人とは次元が違う。素人と同じ次元で喋れない。みたいな感じを受けて。)
でも、一夜明けて、一日経って、なんとなく、わかったみたいな。

辰巳さんは、芥川で言えば『永遠に超えんとするもの』っていう感じなのですね。
良秀が愛娘を芸術のためには犠牲にしたような芸術至上主義のような、あらゆるものを犠牲にしても悔いないほど、芸術に、辰巳さんの場合は短歌に、魂を注ぎこんでいらっしゃるんですね。
すべては、そういう覚悟の上の発言であったと、そういう「責任」であったと。
また誤解しているかもしれないけれど、今、辰巳さんの言葉が、蝉の羽音のように、聴こえている感じですよ。


[1752] 『もし君と結ばれなければ』読みました。   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/27(Fri) 03:29

・少しだけ風が出てきた 月光の中で抱かれてふたり静物
・この坂の途中に花の咲くことも知らないでいた嫌われるまで
・ゆく春はいま時の砂日だまりの廃駅の椅子をかすめて渡る
・動けない夏蝶しずむ湖に映るわたしを震わせながら
・海の絵の切手はられし告白の手紙いまだにすてられずおり
・夏服の君立ちつくす二番線 蝉時雨降る八月五日
・また一日かけて熟している廃墟 西陽のなかに影をおとして
・地平線めざしてのぼる海沿いをふたり小さなつばめのように
・初雪の後にはばたく鳥といて秋の一日 唇欲し
・今年になって初めての雪虫を見た 口の中が熱くなった
・君に佇つ冬の樹木も私もはだかなら何故さびしいのだろう
・原子量32という硫黄瓶手にもったまま見あげる夕陽
・草わけて鳴く鳴くかわずをさがす夜どこかで水の落ちる音する
・うっそうと繁れる夏野匂いたつわがゆく道に岩は倒れて
・階段を駆けあがる我 現われる太陽(ひかり)にさけぶ夢よ急げと
・海をまだ見たことがない少年のてのひらは引く海の弧線を
・静まれる木々の枝よりおちてゆく君の言葉は雨に似ている
・どこからか雪は降りだすそしてまた旅人訪ねる春がまた来る
・会う人のみなやさしくて牛乳のような雪降るきみのすむ街
・うつむいて静かにひらくわたしたち春の光を知らないように

           岡しのぶ『もし君と結ばれなければ』より
                   ネスコ/文藝春秋

こんな歌が好きでした。
多分永遠に汚されず、清潔感のある歌を書かれる方だろうと思いました。
もし今でも書いていらっしゃるなら。。。


[1751] 事務連絡 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/07/26(Thu) 09:00

藤原龍一郎です。
現時点で、まだ、パソコンは復旧していません。
そのため、日曜日(22日)の午後10時以降のメールは受信できておりません。
恐縮ですが、ご連絡は電話などで、お願いいたします。


[1750] ちと、出ずらいですが。 投稿者:玲はる名 投稿日:2001/07/26(Thu) 08:29

玲はる名です。

 藤原さん、みなさんこんにちは。

 レイハルで〜す。

 この間、21日に、朗読会を行なってきました。
 渋谷でです。40分、5分の休憩を挟んでですが、
 読みまくりました。

 あの日までに、CDの朗読を聞いたり、
 飯田有子さんや、藤原龍一郎さん、辰巳泰子さんとか、
 多くの朗読を聴いて歩いたのが自身に繋がったと思います。

 また、いろいろやりたいです。

 どぞ、よろしくお願いします。

http://homepage2.nifty.com/tanka


[1749] 表現者という言葉。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/26(Thu) 06:30

わたしが、「表現者」という言葉に出会ったとおい日のことを記しておくね。
20歳のときでした。
福島泰樹の絶叫を聴きにとある学園祭にいった。
そのとき、友川かずきさんがいっしょに出演していた。
「ひな祭り」をうたう友川さんに、ぐっときました。それからしばらくして、友川さんが連絡をくださって、なぜかまひるまの祇園をぶらぶらしたんだ。
福島さんの絶叫巡業?のついでだったと思うけど、もうこまかいことはよく覚えていない。多分、スタッフの人らは、なんだこの子? と思ってただろうなあ。
それで、友川さんに、サシでお鮨をごちそうになりました。
そのとき、話しながら、ふと「あなたは表現者なんだね」と、呟かれた。
何を言われたのかよくわからなかった。
短歌の原稿をみてもらったように思う。(わざわざ見てもらったのじゃなくて、あ、持ってますよ。見せましょうか。ぐらいな感じだった)
ヒョウゲンシャってなんだ?
と思って、あれから十五年温めましたけど、自分にその意味が分かったと思ったので、使い始めました。


[1748] 再度ごめん 投稿者:西王燦 投稿日:2001/07/25(Wed) 23:29

掲示板というのも、基本的には「チャット」やね。
ごめんごめん。

松原さんの書き込みは了解。「読み手」からみた印象ということです。

水須さん(ぽっぽさん)の書き込み

>えっとその場合、
>もし朗読者=朗読する作品の作者でなかったら、
>西王さんの短歌朗読に対する評価が変わる可能性はありますか。

はい。まさに、辰巳泰子さんと、下に書いたような話をしていましたら、
きわめて利発的な意見として、このことが別の若い女性から出て参りました。

私は、返答に困りながら、「どどいつ」や「今様」の話をしました。
一言で云えば、「作者不明・詠み人知らず」の唄・フレーズです。

「謡う」=民謡=詠み人知らず、という、社民主義(笑)の回答しか、ここには
持ち合わせていません。

●しかし、短歌を「朗む」というのは、古歌の時代は別にして、きわめてヘンな風潮
で、しかも、朗み方のキマリさえないのだから、いきおいナマのご本人のパフォーマンス
になりがちですよね。
これについては、また書きます。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1747] 風間さんからていねいなメールをいただいて 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 23:22

もう仲直りしたよ。
風間さんは、とても感性の鋭い人。
その手触りは、何をお書きになってもあるものだと思います。

たしかにクールなのが好きな人は読んでてつらかったと思うけど、
誰だって、
いつだっていい子でいられるわけじゃなし。

人の本来の美質というものは、
状況がどうあろうとも貶められるものではないと考えています。


[1746] ごめんなさい。 投稿者:西王燦 投稿日:2001/07/25(Wed) 23:06

西王です。
>辰巳泰子さん
なんとなく私信みたいに書いてゴメン。

高瀬一誌の通夜の場面は、私の意図としては、お書きの通りです。
「怒らせれば泣きやむ」という目論見でした。(これは成功!)

あと、微妙な書き方ですが、辰巳さんが独りで坐っていると、なにしろ、高瀬さんの
「短歌人」という結社を抜けた人だから、よけいに寂しそうに見えたのですね。
(このあたりは『歌壇』8月号にも、うすうす書かれていますが。
私の(酔っぱらっているから客観的な男からすれば)、辰巳さんがお書きの

「こんなところであうなんて」

という参列者の中の結社の方のまなざし(シカトに近いかな)も、軽く感じたの
でしたね。
「作品中心主義者」である私は、そういうのは好きじゃない。
そこで、
岡井隆さんが、あなたの朗読を褒めていたというらしいけれど、、、と
話を振ったのでしたね。

で、ちいさな諍いのあとで、たしかにあなたの朗読のスタイルはいい、頑張って欲しい
と、別れたのでした。
ただ、厳密にいえばそのとき「この作品はこのように読んでほしい、という意味での
朗読は(辰巳さんの作品に)相応しいかもしれないが、読み手にナマの作者の意図を
限定・指定させることはあるぜよ」と、いう保留つきで、「ああ、今夜は仲良くしよう
ぜ」と言ったはずです。

けっして、この話題を持ち出して、「おめでたい」というような(逆に言えば私のやり
口の汚さ)を導きだそうとしたのではありません。

むしろ、「書き込みだけ読むと、あの晩とはちがう人のようです。」というのは、
こうした掲示板のスタイルでの(読み手の)印象として、ぜひとも(お互いに)気を
付けたいことじゃないかな?

繰り返し書けば、松原一成さんに対する[1740] の書き方は良くないです。

>井上洋さん。
お書きのところは、かなり解る。作品の背後にぐじぐじとナマの作者のオバケが
残るのはかなわない、という意味だと思う。この例は「コミック作品」などを出すと
納得できると思う。ナマの作者がぐじぐじと現れるコミックは鬱陶しい。
『手紙魔まみ』について、あたらしい三角関係だと書いたのは、このような鬱陶しさ
から解放された爽やかさだと思ったからだ。

ただ、今回の論争?の主題は、井上さんが解説するようなクールなものではなかった。
やっぱり、この論争?で孤軍奮戦した風間さんの伝えようとしたことは、なかなか、
多くの読み手には見えない。やっぱり、「腐っても文学?」を読んでほしい。









http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1745] 西王さんへ 投稿者:松原一成 投稿日:2001/07/25(Wed) 22:50

西王さんの書き込みに、名前があったので、
出てまいりました。

>辰巳さんお書き[1740]
>>>松原さん。
>>「覚悟のない人に直球を投げたらいけないよ」の主が顔を見せるとはおもわなんだ。

>というのは、(掲示板というのは、任意に、寓意に読む場所ですから)あまり、良い
>書き方ではありません

私と辰巳さんは、先日同じ舞台をつくりあげました。
彼女は、信頼関係ができてる相手の言葉として、紹介したまでで、
配慮に欠けている部分はなにもないことをお伝えしておきます。

で、私も表現者なので、
信頼している相手に伝えた言葉が、その人から広がっていくことは
あって当然だと考えています。

信頼していない人が、ねじまげて伝えたら、怒りますが。


[1744] 私も質問。 投稿者:水須ゆき子(ぽっぽ) 投稿日:2001/07/25(Wed) 22:30

>西王さん
> なぜ私が「短歌朗読」が好きでないかというと、ナマの作者が表に出てくるから。
> ナマの作者が消えて作品だけが残ったら、どんなにいいだろう。

えっとその場合、
もし朗読者=朗読する作品の作者でなかったら、
西王さんの短歌朗読に対する評価が変わる可能性はありますか。

私はまだ残念ながら短歌の朗読イベントに参加したことがありません。
ですからこれは比較的ニュートラルな立場からの質問です。

いきなり横から申し訳ありません。大変失礼しました。

http://homepage2.nifty.com/mizusu/


[1743] おめでたい。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 22:22

>西王さん。
お通夜の晩。
西王さんがいきなり、
自分は朗読を認めないと言って、
泣いてるわたしに朗読の話題を振ってきた。
わたしはなぜ、いま朗読の話なんかするのと驚いた。
あのとき、
わたしがあんまり泣いているので、
西王さんは、
ちょっと怒らせたら泣きやむかなと思って、
そう言ってくださったと思っていた。
短歌人の古い人々が、
わたしが怒りっぽいこと、知らないはずはないもの。

つくづくわたしは、おめでたい。

「気色ばんで」というけれど、
そのとき、
わたしは一首、
このように読むのだと実践した。
なにも胸ぐらに、つかみかかったわけじゃない。
西王さんは、
「こうして聴くと、わかる」とも言ってくださった。
あのあと、
お寺の庇の下には、お灯明が届いていて、
もう靴を履いているわたしに、
「もう帰るの?」「気を悪くしていない?」とも言ってくださった。

こうして、
書き込みだけ読むと、あの晩とはちがう人のようです。


[1742] 横から失礼します・・・ 投稿者:井上 洋 投稿日:2001/07/25(Wed) 21:37

>なぜ私が「短歌朗読」が好きでないかというと、ナマの作者が表に出てくるから。
>ナマの作者が消えて作品だけが残ったら、どんなにいだろう。(西王さん)

私の場合、「ナマの作者が消える」ことを願うというより、作者は読み手に作品を
手渡してほしい。朗読でも誌上でも、それができていなければ、鬱陶しいだけ。
作品の背後霊のように作者がうろつくようでは困ってしまいます。

その点、「まみ」は良いと思います。一連の論争を読んでいて気づかされました。



http://homepage2.nifty.com/hiro2001x/index.html


[1741] 腐っても「文学」? 投稿者:西王燦 投稿日:2001/07/25(Wed) 20:25

西王です。いわゆる「論争」も、一段落しましたね。私はこれらの一連の書き込みの
なかで、どちらかといえば風間さんのお書きのことに親和感を抱いていました。

大雑把にいえば、前に書きました「作者中心主義」と「作品中心主義」との間の齟齬
であったのかもしれません。

たまたま、きょうは(今頃になって、ですが)『歌壇』8月号を読んでいました。
辰巳さんが、高瀬一誌の追悼文を書いていますね。じつは、高瀬一誌の通夜(けっきょく
私だけが高瀬の柩の前の線香を絶やさぬように朝まで眠らなかったのですが)の時に
辰巳さんとは、この一連の話題の底を流れるテーマで、ちいさな諍いをしました。

あのとき、私は言いました。

なぜ私が「短歌朗読」が好きでないかというと、ナマの作者が表に出てくるから。
ナマの作者が消えて作品だけが残ったら、どんなにいだろう。
昔話をすれば、1970年に、私は路上にチョークで「長歌」のようなものを書いて
いた。歩行者天国のようなところで。チョークで書いた上から、人の靴底で消えて
行った。でも、偶然に残る部分などは、誰かが読んだ。
あの感じが、いまでも好きだ。

というような話。あのときも、辰巳さんは、かなり気色ばんで「書き手」側の意見を
言いましたね。「表現者」というのだろうか。

●そもそも、このことを、再度論争の種にするつもりはありません。こうした掲示板
の場所では、反論をするために文脈読みを急いで、行間読みまでは出来ないものです
から。

ただ、なんとなく風間さんの言おうとした真意は、伝わっていなかったのではないかと
思うから、余計なことを書いています。
辰巳さんは、私が持ち出した(じつは小澤正邦に借用した言葉)「短歌ユーザー」という
術語(笑)を使って、

辰巳さん・石井さん(表現者)と、西王・風間(一般の短歌ユーザー)とは、考える基盤
が違う。

というようにお書きでしたね。じつは、このことがなかなかうまく理解してもらえない
ことなので、あえて「第二芸術論」=解りやすくいってしまえば、短歌作品は作者名を
消してシャッフルすると、どれが名作とも言えないという、やや乱暴な論=を引き合いに
出してみたのです。

私は「短歌そのもののために短歌を書き、短歌そのもののために短歌を読む」という、
青臭い考えを、今でも抱いていて、いろんな人に笑われます。
逆にいえば、「歌人」(表現者?)であるために短歌を書くという現代の風潮を、ひそか
に苦々しく感じているのでもあります。

●これらについて延々と論争しても、この掲示板を読む人は、愉快ではないでしょう。
私のほうは、これ以上、この話題について書くことはよします。
ただ、

辰巳さんお書き[1740]
>>松原さん。
>「覚悟のない人に直球を投げたらいけないよ」の主が顔を見せるとはおもわなんだ。

というのは、(掲示板というのは、任意に、寓意に読む場所ですから)あまり、良い
書き方ではありません。

●『歌壇』を読んだあとに、『別冊宝島』017REAL 「腐っても『文学』?」
を読んでいました。この本の全体的な傾向は、私が上に書いたことに近いようです。
ここまでの「論争」?の反省として、とても面白い読み物だと思います。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1740] 荻原さんへ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 03:41

今、ちょうど反省をしてたとこなので、
荻原さんのご注意で空気が変わって、とてもほっとしています。

初めは自分の言いたいことすきっと言えてたのに、なんでこうなったんかな、と。
私がなんでやねんと思ったのは、書き込みを消したかどうかではなくて、
(書き込みの削除はきっかけになったけど)
内容自体がおかしいよということなのですが、でもよく考えたら、他人の論理的思考がどうなっとるんかなんて、そんなこと私自身の言いたいことと関係ないのにな。

ぶっとばしで自分の意見ばっかりを言い続けてたらよかったな。
自分の視野が、急に狭くなったのがいやでした。
こまかいことやんけ、と。

んで。
自分のしている、なんかもう許してあげるみたいな物言いも、してて気色わるかったです。わたし、きっと自分を守りたいだけだったのね。

>石井さん。
ルールとかじゃなくてさ、あれ、こういうやり方、変とちゃう?と思ったんだよね。うちらは。その変とちゃう?という感覚はこれからも大事にするぞ。
石井さんふうにいうと、エレガンスのあるなしかな。

>間さん。
もー夢中でごめんよ。
こんなやつでよかったら、「月鞠」の歌会に来てね。いつでも。

>松原さん。
「覚悟のない人に直球を投げたらいけないよ」の主が顔を見せるとはおもわなんだ。

直球しか投げられないので、このてのことはちょくちょく起こるだろ。
荻原さん、そんときゃ頼むぜ!!


[1739] もちろん、荻原さん! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/25(Wed) 02:34

この BBS において誰もが自分の発言を削除する権利を持っていることは、十分承知しています。しかし、削除にもある程度のマナーが存在するのでは? 今回はそのマナーが蔑ろにされているように感じたのと、論点が表現者の責任にかかわっていたために、あのような指弾を行いました。

もとより管理者である荻原さんの御指摘は、甘んじて受けなければならないでしょう。今後、配慮いたします。しかしながら私は、[1722]の発言を削除いたしません。あの発言に対する批判を、荻原さんからのものも含め、私は責任を持って引き受けようと思うからです。


[1738] >石井辰彦さん、辰巳泰子さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/25(Wed) 02:12

管理人からの説明のタイミングが遅くなってもうしわけないですが、
今後のこともありますので、テクニカルな説明をしておきます。
たとえ議論の真っ最中であろうとなかろうと
書きこんだ発言を本人が削除することは、
このBBS自体が機能として許容していることです。
狙いは、誤植の訂正といった単純なものから、
熟してない意見、とりわけ感情の奔った意見の再検討まで、
議論ができるだけきもちよく有意義に進むように、です。
ネットのコミュニケーションが、日常空間のそれと違い、
非言語や音声・表情などをともなわない「内容」だけのものであるため、
ときとして感情の衝突が無意味な議論をひきおこすのを
もろもろの場所で見かけているため、このようにしています。
この機能を利用することは当然管理人が推奨していることで
削除する行為自体を議論の対象にすることは、
今後は避けていただきたく存じます。
どうぞよろしくお願いします。

また、あらためて申し上げておきますが、
誰かがいったんこのBBSに書きこんだコメントのデータは、
本人が削除しようとしまいと、藤原龍一郎さんと管理人の手元に
必ず残るようなシステムにしてあります。
必要があれば先に石井辰彦さんの作品を再掲載したように
管理人によって復元することは可能なわけです。
万が一どなたかが、意図的に発言を隠蔽し、
議論の主旨をねじまげようとした場合は、
タイミングが多少遅くなろうとも、
管理人が責任をもって復元するようにします。
この点についてもご理解よろしくお願いします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1737] 羽音が聞こえる 投稿者:松原一成 投稿日:2001/07/25(Wed) 02:08

放送作家&短歌人会員の松原です。
本名であり、常にこの名前で作品を出しています。
短歌も、商業的なものも。と、前置きをしまして‥‥

落ち蝉の歌、とてもいい。羽音が聞こえてきます。
で、風景がぶわーと見えるためには、
自分も同じ空気を吸っていないといけない。
自分も単なる一つの命として生きてなければいけない
と、最近とみに思ってます。
でも、テレビで観るだけでいいとか、
窓越しに見るだけでいいとかいう人が多いのだよね。
そういう人に、落ち蝉の羽音がうんぬんといっても、
核心の部分は伝わらないでしょう。

などということを感じた、深夜のひとときでした。


[1736] 温情判決に不服を言う人みたいですけど、もう終わりにしますけれど 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 01:54

>でも、これは、今言うべきことではありません。確かに。
実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね

完璧にここの部分を誤読していらっしゃいますね。

蒸し返す気はありませんけど、せっかくここので話し合って最後いい加減っていうのもいやだから、これだけ。

私の軽蔑する「表現者」さんたちに、何もこんな留保も、譲歩も、おまけも必要なかったんですよ。あげつらってよかったんですよ。作品が評価できない「表現者」になんて、遠慮することなかったんですよ。
今度からそうします。

抜いてっていうのは、括弧でくくって、というような意味ですよ。解りやすくなるかと思って。
恥ずかしいも暴かれるも何もないですよ。

蝉の歌てすか。蝉大好きです。
でも今日、もっといい蝉の歌読んだな。
とてもいい歌だった。
ここが忙しくて、まだゆっくり見ていないけど。
そのうちに、よかったら辰巳さんにも見ていただきたいくらい。

では。


[1735] 風間さんに悪意のないのはよくわかったよ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 01:15

初めから、操作うまくいかなかったでよかったのに。
追いつめたの私かな。ごめん。
落ち蝉のうた、いかが?


[1734] 私も、もう一球だけ直球を。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 01:11

矛盾を指摘された核心部分について、

「この発言は抜いて考えてほしい」としか意味のとりようのないレスをおこなった。
さらにそれを消去した。

それは、矛盾してることが暴かれて恥ずかしいから。
また、
意味の違いを承知で、相手の用いるタームを持論にそのまま援用したことも、論争するうえでは相当恥ずかしいことだと気づいたから。
(というか、意味の違いがわからないならいざ知らず、わかってて持論に援用するのは普通じゃない)

んでも、にんげん、間違いあるからね。
あ、恥ずかしいコトしちゃった、とお気づきになったのだと思った次第です。
少なくともわたしは、相手の持論をつぶすつもりで論争するわけじゃないから、気づいてくれたならいいさ。と思いました。

んで、そのあとの続く書き込みを読んで、あ、恥ずかしいことだと思ってはおられないんだとわかった。
わかんなくていいよん。それが風間さんなんだろ。
実害ないし。

話題変えてもいいですか?
今日届いた「月光」69号で、佐々木眞夫さんという歌人が、終戦をこのようにうたっている。

落ち蝉の羽震はせて地を叩き蒼空高く敵機影なし

落ち蝉の羽の音がね。敗戦の象徴ではあるんだけど、そういう音も聞こえるようになったという解放感がね。
音が、ぶわーっと聞こえるようになったり、くっきり風景が見えたりするでしょ。
解放されると。
ああ、いいうただなあ。と思いました。
思想的でないところもいい。
なんというか、風景がぶわーっとさえ見えていれば、生きてて幸せですよね。


[1733] 最後の 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 01:03

看板倒れというもので  で消えているのはコピー&ペーストの失敗です。
す。です。最後の字。

こんな時、やり直そうとして、いったん削除して同じ作業をし直そうとしていたら、次の方の書き込みが入って、順序が変になるかしらと思って、やめたのです。
パソコンの使い方が慣れなくて、その種の失敗が多いのです。
また、邪推されたくはありませんが、言い訳にとられても、一応説明しておきます。
これは、石井さんの信用をさらに、といってももうこれ以上はなさそうですけれど、失うかもしれないので、このままにして、説明を加えました。
お見苦しくて申し訳ありません。


[1732] 証拠隠滅をする気なんて毛頭ありません 確信部分だそうなので。再UPさせていただきます。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:54


[1696] 生意気を言わせていただきますが  投稿者:風間 祥  投稿日:2001/07/24(Tue) 14:54


素人なら自由にしていいけれど、プロの書き手たるものは、という感じですけれど、そのプロの書き手が何を書いているかということを問うことはないのでしょうか。
といえば、また、本筋から逸れているって、軌道修正されそうですけど、
それを問うこともなく、プロの立場や、実作者だから、「表現者」だから、なんて、意味がないと思う。
プロだって愚劣な作品を書いてるプロもなんていうことは言わないけど、(言ってるって)短歌作者や、その周辺の人たちって、自分たちを何か特別の存在とでも、思っているみたい。
思っちゃいけないとは言わないけれど、その自覚とやらが、ふさわしい人もいれば、ふさわしくない人もいる。作品なんて死んでいるのに、尊大だし、傲慢だし、滑稽だよ、って感じる人だっている。
それは、どんな世界だって当たり前だけど、短歌の世界の人って、そういう人が多すぎるんじゃないかしら。。。

でも、これは、今言うべきことではありません。確かに。
実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。
だけど、本質的に、作品こそが中心として、批評されるべきなんです。
決意して書くからよい作品ができるものでもないし、
よい作品が、そこにあるから、作家なんです。
とんな決意、どんな態度をとろうと、作品がみすぼらしければ、作家なんて、歌人なんて、看板倒れっていうもので


[1731] なぜ恥じなければいけないの 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:40

わかりません 辰巳さん。
ほんとに私の発言の何が皆さんから見て、恥じなければならないように、おっしゃっていらっしゃるのか。


[1730] 偉い人だなあ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:40

あなたにはかないません。降参です。


[1729] もう一球だけ直球を! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:39

風間祥(あるいは望月祥世)さん、信用したくないのではありません、信用できないのです。


[1728] 本文を 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:37

よく読んでください。あなた方は、書くプロでもあるけれど、読むプロでもあるのでしょ?


[1727] わたしがあえて指摘せず、 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:34

まあよろし。

と申し上げたのは、きっとご自身を恥じておられるのだと思ったから。
でも、続く書き込みをみたら、全然そうじゃなかった。
きっと、
「責任」という言葉も、風間さんは違った意味で用いられているのだろう。


[1726] 人間としても 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:32

信用できないとおっしゃるならば、仕方ありません。
信用したくない気持ちがどこかにあるというようなことはないでしょうか。
なければ結構です。


[1725] 核心部分ですよん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:31

風間発言について。

それが枝葉なら、


読む時に一見錯綜しているようにおもえるならば、そのほうが読みやすい、理解しやすいでしょうから、という意味で、私の発言から抜いてという意味ではありません。


と言ってもいいでしょうが、これは核心部分。
核心部分について消去すれば、ショウコインメツととられてもしょうがないですね。
石井さんにまったく同感だけど、
もう、さびしいちうかなんちうか。
気力なくなります。

「辰巳さん。覚悟のない人に直球を投げてはいけないよ。あなたの気持ちがにぶるだけだ。」という、知己の忠告が身にしみるわい。


[1724] 水須さん  投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:24

わかりました。ありがとう。


[1723] Re[1721]: それはね 投稿者:水須ゆき子(ぽっぽ) 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:17

> 読む時に一見錯綜しているようにおもえるならば、そのほうが読みやすい、理解しやすいでしょうから、という意味で、私の発言から抜いてという意味ではありません。
> 責任もちますよ。

それならば最初からそこまで書いて頂かないと、
読む側には分からないと思いますよ。

ご自分だけで分かっていても相手には伝わりません。

そのような読み手に対する配慮こそが、
ご自分の発言に対する責任というものではないでしょうか。

http://homepage2.nifty.com/mizusu/


[1722] 人間としても! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/25(Wed) 00:13

風間祥(または望月祥世)さん、なぜあなたは BBS に一旦書き込んだ御自身の発言を、論争が継続中だというのに、すぐに消去したりなさるのでしょうか? それが発言に責任をお持ちでない証拠なのではありませんか? これでは、表現者としては言うに及ばず、人間としてさえ、あなたを信用することができません。


[1721] それはね 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 23:49

読む時に一見錯綜しているようにおもえるならば、そのほうが読みやすい、理解しやすいでしょうから、という意味で、私の発言から抜いてという意味ではありません。
責任もちますよ。


[1720] 横から失礼してしまいますが、 投稿者:水須ゆき子(ぽっぽ) 投稿日:2001/07/24(Tue) 23:19

> >でも、これは、今言うべきことではありません。確かに。
> 実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。
>
>
> この部分は、留保、とか譲歩とかいうものですから、どうぞ、抜いてお考えください。
> 「表現者」に、必要もないことでした。

ご自分の発言には責任を持つと仰っておられながら、
過去の発言の矛盾を指摘されると「ここは抜いて考えてほしい」とお答えになる。

それってずいぶん都合のよい話だと思うんですけど。
普通はそれじゃ通らないですよ。一般的な社会では。

http://homepage2.nifty.com/mizusu/


[1719] [1710] 誤解を避けるために、思い出して書きます。表現者に要らぬ配慮でしたということだけでした。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 22:28

>でも、これは、今言うべきことではありません。確かに。
実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。


この部分は、留保、とか譲歩とかいうものですから、どうぞ、抜いてお考えください。
「表現者」に、必要もないことでした。


[1718] 石井さん 辰巳さん 人間という一つの立場で十分だと思いますが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 22:12

>念のために風間さんにうかがいます。不明にしてよくわからないのですが、風間祥というお名前は、あなたが短歌を発表するときにお使いになっているものなのでしょうか? いわゆるハンドルネームではないか、という気がするのですが……。もしそうだとしたら、あなたの発言はかなり無責任なものだ、ということになってしまいますよ。

>辰巳泰子さんも藤原龍一郎さんもかく言う私・石井辰彦も、これらの名前で書き込みをしている以上、それぞれの発言に責任を持つ覚悟があるはずです。風間さんはどうなのでしょうか? はなはだ疑問に思わざるを得ません。

>「この発言はなかったことにしてほしい」
これを、すっと言ってしまえることと、そうでないこと。

>次元の違いとはそういうことだとご理解いただければと存じます。


大切な問題かと思いますので、コメントさせてください。

石井さんから、上のような言葉があった時に、答えるべきでした。
私は、自分の名前が、本名、筆名、ハンドルネーム、に関わらず、自分の発言には、責任を持ちます。
表現に関して、プロであれ、素人であれ、関係ありません。
立場によって、変るものとは考えていません。
私には一つの立場しかありません。
一字も読めず、書けない者だったとしても、同じです。
そしてそれは、歌も同じです。
言葉のプロでなくても、人間として、実存する主体として、誰だって、責任をとるべきでしょう。
なぜ、境界があるのでしょう。私にはわかりません。


[1717] もう一つは、完全に消えていました。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 21:42

ところで、これはどういうことでしょう。
わからないですよ。二種類あるのですか?一般人は。無責任でいいということでしょうか?

>「この発言はなかったことにしてほしい」
これを、すっと言ってしまえることと、そうでないこと。

次元の違いとはそういうことだとご理解いただければと存じます。


[1716] 再UPします。[1711]。発言数が多くなりすぎるかなと思ってカットしましたが。あまり意味もなかったし。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 21:38

1711] 個人的な報告部分は、  投稿者:風間 祥  投稿日:2001/07/24(Tue) 19:35

書く必要もないことでした。

それで、何が一番、私がこたえるべきことなのでしょう?
頭脳明晰な辰巳さんや石井さんの方からご教示ください。


[1715] あれ。また消えてる。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 20:43

すぐ下は、消されてしまった【1710】の風間さんのご発言を受けてのレスです。
こりゃーまいったな。(笑)
まあよろし。
仲良くいきませう。


[1714] ただし。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 20:30

昔の名前であれ、常時使用のペンネームであれ、本名であれ、

わたし・辰巳泰子は、
「この発言はなかったことにしてほしい」とさらっといっていい立場にないと自覚しています。
これは、もうずっと前の発言に遡っても、貫いていることです。

「この発言はなかったことにしてほしい」
これを、すっと言ってしまえることと、そうでないこと。

次元の違いとはそういうことだとご理解いただければと存じます。

風間さんが、始めに次元の違いが理解できないとおっしゃったので。
これをもって、答えとさせてください。


[1713] 岡しのぶさんの本。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 20:19

今夜読みます。

辰巳さんは私の考える本物の表現者です。


[1712] あれ? 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 19:57

すぐしたに、「個人的な報告部分は不要だった」という意味の風間さんの書き込みを見たような気が。……タッチの差で、消してしまわれたのだと思います。
それで、【1711】の辰巳のレスです。
「だけ」としたのは、
同じ言葉を違った意味で使いながらの、
いらない論争を始めようとしたことへの自戒です。

なので、気を悪くなさらないで。
風間さんの発言に価値がないという意味ではありません。
まずはじめに、立場の違いを弁えなかったわたしが全面的に悪いでせう。


[1711] 個人的な報告部分「だけ」が、 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 19:39

お答えいただいてよかったと思います。
それ以外は、私のほうは、もうお聞きするべきことはないです。
ありがとうでした。


[1709] 次元が違って申し訳ありませんが、 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 19:20

@風間さんのいう、「何も言えなくなる『表現者』」って、どういう表現者?

大した意味はありません。
歌人だと「表現者」だという立場らしい人たちのことを批判めいたことを書いたので、「    」つきです。つまらない「表現者」もいるから、です。
一応書いている人くらいの意味です。
私の尊敬する表現者ではなくて。


[1708] 歌人などという名前で呼ばれるものではありません。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 19:07

ただ歌を書くことは書きます。


[1707] まず名前の問題。石井辰彦様。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 19:00

風間 祥は、私の筆名です。
「短歌人」と「未来」と「玲瓏」で使っていました。

昨年秋「開放区」に作品を出させていただく時、田島さんは本名主義で、本名になさいということで、「開放区」のみ、本名の望月祥世を使っています。


[1706] 石井さんの言葉で目が覚めた。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 18:54

ごめんなさい。あつくなりました。
まともな論争をしたいのであれば、そこはおろそかにしてはいけないよね。
まず、そこがはなから同じ次元ではなかった。


[1705] 質問が長すぎてややこしくてよくわかりません。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 18:50

答えられるのからお答えしていいですか。


[1704] 風間祥というお名前について? 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/24(Tue) 18:05

念のために風間さんにうかがいます。不明にしてよくわからないのですが、風間祥というお名前は、あなたが短歌を発表するときにお使いになっているものなのでしょうか? いわゆるハンドルネームではないか、という気がするのですが……。もしそうだとしたら、あなたの発言はかなり無責任なものだ、ということになってしまいますよ。

辰巳泰子さんも藤原龍一郎さんもかく言う私・石井辰彦も、これらの名前で書き込みをしている以上、それぞれの発言に責任を持つ覚悟があるはずです。風間さんはどうなのでしょうか? はなはだ疑問に思わざるを得ません。

もちろん、風間祥というお名前が歌人として常時使用しているものだ、ということなら、以上の発言は撤回します。ともかく、この点について、はっきりとした回答をお願いしますね。


[1703] 訂正 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 17:23


下記、
【1699】の、この部分においては、批評というものを認めていない。
これは【1696】の間違いです。
矛盾しているのは、ともに【1696】内でのご発言で、しかも文脈上つながった前後で矛盾しています。


[1702] 説得力を感じません。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 17:18

【1696】については、一般論に思います。

それから、私は「本筋」からずれてるとも言ってない。
わたし、あるいは藤原さんや石井さんとはちがう、同じ次元でない。
そう申し上げているだけなのですが、風間さんの受け取り方にはたびかさなる飛躍があります。彼我の境が常にあいまい。あいまいですと、引用や一般論で急場をしのぐことが可能ですから、そういう意味でも説得力を持ちません。


実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。


特にここがちがう。
「表現者」というタームの定義が辰巳とはすでに違っているのに、タームだけそのまま転用されてしまうのには、大きな抵抗を感じます。

@風間さんのいう、「何も言えなくなる『表現者』」って、どういう表現者?

それから、

決意して書くからよい作品ができるものでもないし、
よい作品が、そこにあるから、作家なんです。
とんな決意、どんな態度をとろうと、作品がみすぼらしければ、作家なんて、歌人なんて、看板倒れっていうものです


この部分と、【1699】の


この間は7年間一首も書けませんでした。
でも別にいいと思っていました。
無理はしません。
今は割合どんどん書けます。
乗ってる時は、歌数に制限が無ければ、どんどん打ち込んで行きます。
オンラインです。
平均3分に一首くらいです。
オフラインにするとなぜか書けません。
プレッシャーのない状態、自由ということが私の場合一番大事です


Aこの部分との相関関係を教えてください。
つまり、風間さんのブランクと、風間さんの産物である「よい作品」との関係を教えてください。
その場合、どのような要素が「よい作品」かを決定するのかも教えてください。
もしそれは「批評」だとお答えになるのなら、下記の点に矛盾があります。


風間さんは、


だけど、本質的に、作品こそが中心として、批評されるべきなんです。


この部分において批評の成立を認めながら、


実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。


【1699】の、この部分においては、批評というものを認めていない。

実績とはすなわち批評の積み重ねのことではないですか。
矛盾しています。

私が【1696】を身一つでない一般論と申し上げる最大の要因は、
風間さんの身の体験そのものである【1699】とのこのような矛盾からです。

風間さんは、作品がどうのというスーパー一般論で切り抜けていますが、それについての批評という点で、身一つのお考えを示されていません。

つまり、「よい作品」うんぬんを語りながら、それを決定する要素については不安定なスタンスしかお持ちになっていません。

そのことはどうお考えですか。


[1701] 一般論というより 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 16:39

いつでも「身とひとつ」のつもりで、コメントはしているつもりなので、改めてと言われても、何を答えればいいのって思ってしまうのですけれど。


[1700] でも、こんな答え方では答えになっていないかな? 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 16:36

また、話がずれてしまっているでしょうか。


[1699] 辰巳泰子さんへ 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 16:21

私は今は歌を書きたいと思っています。
とてもとてもとても。

自然に任せる派なんですけれど、普段。
突然降って湧いたように書きたくなるときが周期的に来ます。
そういう時は、一気に百首単位で書きます。
書けないときは、ほっておきます。
いつかまた書けるわって思って。
この間は7年間一首も書けませんでした。
でも別にいいと思っていました。
無理はしません。
今は割合どんどん書けます。
乗ってる時は、歌数に制限が無ければ、どんどん打ち込んで行きます。
オンラインです。
平均3分に一首くらいです。
オフラインにするとなぜか書けません。
プレッシャーのない状態、自由ということが私の場合一番大事です。

これは実作として、の報告のようなものですね。
態度、気構えなどは特にありません。
書けたら書くし、書けなければ舞台を見たり、音楽を聴いたりしているだけで、楽しいほうです。
でも一生書くなって言われたら、すごくさびしいと思います。
そんなところです。


[1698] Re[1691]: それぞれの意見として。 投稿者:間 ルリ 投稿日:2001/07/24(Tue) 15:10

>
> 短歌って、誰がどのようにつくってもいいもので、その懐の深さはずごいものがある。でも、誰でも表現者を自称していいわけじゃない。
> そして、それは人に決めてもらうものではない。
> 石井さんや藤原さんやわたしは、何よりもまず決意のうえに立って、
> それに見合う結果のために、必要と信ずるところを説いているわけです。

はじめまして間 ルリです。短歌人の同人です。
わたしは短歌を本格的にやって3年ですが、短歌を書くことに
問題意識がこの頃でてきました。
そこで、辰巳さんの” 短歌って、誰がどのようにつくってもいいもので、その懐の深さはずごいものがある”という言葉にはぐっと心臓に響きました。懐の深さまでは
わたしはまだわかりませんが、今は社会的な問題などを自分なりに深く調べ上げて
それを短歌にできる力量がなくて悩んでいます。
欲がでてきたということかもしれません。
いつかお会いするチャンスがあれば、お話したいです。





[1697] 時間差表示になって、今、読んだので、 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 14:58

>どうなのですか。
一般論でなしに、場にあたっていうのでなしに、
風間さんの身と一つになったお考えがあれば、うかがいたいです。
「ない」「考えが決まっていない」ということであれば、決めている人と同じ次元の対話にならないのは自明。
西王さんは、下記で示してくださったし。

後で、(ちょっと出かけなければならないので)お答えしますね。


[1696] 生意気を言わせていただきますが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 14:54


素人なら自由にしていいけれど、プロの書き手たるものは、という感じですけれど、そのプロの書き手が何を書いているかということを問うことはないのでしょうか。
といえば、また、本筋から逸れているって、軌道修正されそうですけど、
それを問うこともなく、プロの立場や、実作者だから、「表現者」だから、なんて、意味がないと思う。
プロだって愚劣な作品を書いてるプロもなんていうことは言わないけど、(言ってるって)短歌作者や、その周辺の人たちって、自分たちを何か特別の存在とでも、思っているみたい。
思っちゃいけないとは言わないけれど、その自覚とやらが、ふさわしい人もいれば、ふさわしくない人もいる。作品なんて死んでいるのに、尊大だし、傲慢だし、滑稽だよ、って感じる人だっている。
それは、どんな世界だって当たり前だけど、短歌の世界の人って、そういう人が多すぎるんじゃないかしら。。。

でも、これは、今言うべきことではありません。確かに。
実績をいちいち、あげつらわれたのでは、「表現者」は何も言えなくなってしまいますもの、そんなの窮屈ですものね。
だけど、本質的に、作品こそが中心として、批評されるべきなんです。
決意して書くからよい作品ができるものでもないし、
よい作品が、そこにあるから、作家なんです。
とんな決意、どんな態度をとろうと、作品がみすぼらしければ、作家なんて、歌人なんて、看板倒れっていうものです


[1695] 風間さんは、 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 14:42

どうなのですか。
一般論でなしに、場にあたっていうのでなしに、
風間さんの身と一つになったお考えがあれば、うかがいたいです。
「ない」「考えが決まっていない」ということであれば、決めている人と同じ次元の対話にならないのは自明。
西王さんは、下記で示してくださったし。


[1694] どんなことでも、 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 14:25

その一点を「道」としてゆく人と、人生の「場」の一つとしてとらえる人に分かれてゆくのではないですか。
それに、
これは私の考え方ですけど、
一つ仕事を終えるたびに、「ほんもの」になったという実感を得たとしても、「ほんもの」であることって、パスポートでも資格でも称号でもない。
次の仕事まで、私はふたたび「にせもの」。
少なくとも、私には、次の山を登りおおせたとき、つまり「ほんもの」である一瞬のために、決意は常に必要なのです。

だから、「分けるの?」と言われても、パスポートでも資格でも称号でもないんで、分けられて安心したり分けて安心したりする人々ではありたくないです。
「表現者になるためマニュアル」があるわけじゃなし。


[1693] 表現者って、決意次第なのでしょうか? 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 14:11

>誰でも表現者を自称していいわけじゃない。
そして、それは人に決めてもらうものではない。
>「決意」っていうと、たちどころに「がむしゃら・一所懸命」という言葉にすり替えられてしまうのかも知れないけど、とても自然に、あたりまえに決意しているのであって、
だから、風間さんの言ってるはなしは、全然次元がずれていると思う。

次元がずれているって、よくわからないんですけど。


>ただ、経験や自信や意欲に裏打ちされた意見のほうが強いのは、あたりまえ。
発言というものは、そういう意味で、本質的に対等とはいえない。
実社会においても同じこと。
それを無理に対等に扱いたがるのは、子どもの遊びのルールでしかない。

歌もそうなの? 
プロと素人とか、表現者とその他とかって分けるの?


[1692] >西王さん。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 12:55

一般の短歌ユーザーは「岡しのぶ」さん本人にこんなに関心を
持つ必要があるかどうか、ということです。こうした作者本人に対する強い関心を、
「作者中心主義」と呼んでいるのです。また、先に書いた「歌壇」というのは、そのような作者本人への関心を通した歌人同士のナマの交流のことです。岡さんが「消える・消えない」という話題は、こうした関心から出発しているように思うのですね。

お説に納得いたします。
でも、私は、「一般の短歌ユーザー」として、岡さんに接したわけではありません。
風間さんや西王さんは、「一般の短歌ユーザー」として、ここでご発言なさっていると思います。
下記で述べたように、少なくとも、石井さんや藤原さんや私は、そういった立場からは発言していない。
あくまでも、いち表現者から、表現者を志す(志したかもしれない)人への言葉です。
また、読者の立場から岡さんを眺めて、過剰に作者の実像に反応しているわけでもないと思いますよ。
ご本人の印象が……と書きましたが、私が反応したのは、岡さんの「発言」と、「詠草」(もう過去のものである歌集よりは、歌会という場の主宰として、詠草にもっとも関心を示すのはあたりまえ)と、「作家としての態度のあり方」です。
そこのところはわかっていただきたい。


[1691] それぞれの意見として。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/24(Tue) 12:43

みんなそうなれとは、この場の誰も言ってないのでは。

ただ、経験や自信や意欲に裏打ちされた意見のほうが強いのは、あたりまえ。
発言というものは、そういう意味で、本質的に対等とはいえない。
実社会においても同じこと。
それを無理に対等に扱いたがるのは、子どもの遊びのルールでしかない。

短歌って、誰がどのようにつくってもいいもので、その懐の深さはずごいものがある。でも、誰でも表現者を自称していいわけじゃない。
そして、それは人に決めてもらうものではない。
石井さんや藤原さんやわたしは、何よりもまず決意のうえに立って、
それに見合う結果のために、必要と信ずるところを説いているわけです。

「決意」っていうと、たちどころに「がむしゃら・一所懸命」という言葉にすり替えられてしまうのかも知れないけど、とても自然に、あたりまえに決意しているのであって、
だから、風間さんの言ってるはなしは、全然次元がずれていると思う。


[1690] モンタージュ 投稿者:西王燦 投稿日:2001/07/24(Tue) 12:29

私が言おうとしていることは、ナマの作者本人に対する関心が強すぎるのではないか
ということです。たとえば宇田川さんは編集者ですから当然作者本人に関心を持たざる
をえない立場ですが、一般の短歌ユーザーは「岡しのぶ」さん本人にこんなに関心を
持つ必要があるかどうか、ということです。こうした作者本人に対する強い関心を、
「作者中心主義」と呼んでいるのです。また、先に書いた「歌壇」というのは、そのような作者本人への関心を通した歌人同士のナマの交流のことです。岡さんが「消える・消えない」という話題は、こうした関心から出発しているように思うのですね。

●私は、辰巳泰子さんの短歌を(質のいい)「私小説」だと書きました。しかし、私に
関心があるのは、私小説のなかに登場する主人公としての人物であって、ナマの辰巳泰子
さんには、まったく関心がありません。

●このような「作品中心主義」は、短歌の場合、あまりにも夢想的かもしれませんが、
たとえば、辰巳さんと藤原さんが行った朗読会で、藤原さんは「ノイズ・日々の泡」と
いう演目を出したそうですね。この「ノイズ」は、おそらく、昔の言葉でいうならば、
「ラジオモンタージュ」の手法です。モンタージュとして構成された「私」はナマの
私ではない(すくなくともナマでないことを希求する)はずです。
もうひとつ言えば、『日々の泡』の作者ボリス・ヴィアンの生前に「売れた」本は、
偽名で書いた『墓に唾をかけろ』一冊だったというエピソードは、藤原さんもよくご存じ
のところです。
このようなことが短歌でも可能ではないかなあ、と頻りに想うこのごろです。

最初に「歌人」がいて、そのあとに作品が読まれるという風潮は、ちょうど民主党
が須藤甚一郎や大橋巨泉を担ぎ出すことで票読みを誤ったような、読みの過ちを招き
やすいものです。(ちと、例が悪いか、、、)

http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1689] ゆったり書くことも必要では?そんな人もいてもいいのでは?   投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/24(Tue) 10:01


でも、久木田さんや岡さんのような存在が、外界と、歌壇の空気口のような、役目を果たしている気もします。

(人は迷うものだし、ためらうものだし、休みたくもなるし、その休みの、一回の波がとても大きくて長い人もいるだろうし、考えながら躊躇いながら、短歌に接する人もいるし、いてもいいと思う。短歌って、やみくもに、がむしゃらに、があまり似合わない詩型と言えなくもないし・・・昔の人は、どうだったのかしら、和歌の時代なんかは。。。)

でなかったら、みんな一生懸命な現場の人ばっかりで、抜き差しならない、一度入ったら、二度と、出られないみたいな、出るなら、何か水盃でも交わさなければならないみたいな感じで、大変。
もし、そんな十年や二十年書かないくらいで駄目になるのなら、駄目になったっていいじゃない、なんて言ったら、即刻、処分されるみたいな空気ありません?

表現者として、ぎりぎり煮詰めて書く人もいていいし、そうでないスタンスの人も、もちろんいてよくて、短歌に対する姿勢はいろいろあっていいと思います。
そういう、いろいろな声を抱擁する海のような存在であってほしいな。歌って。


[1688] 「歌壇」は「現場」の一部 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/07/24(Tue) 09:02

西王様
「歌壇」というのは、しいていえば「現場」の一部にすぎないと思います。
結社でも同人誌でも個人誌でも、棄権しない方法はいくらでもあります。
インターネットのHPでの作品発表でも、もちろんかまわない。
たとえば、石井辰彦さんも、かなり長い間、いわゆる歌壇とは没交渉だったはず
ですが、私は石井さんを棄権したなどとは思わず、同世代の歌人としてきわめて
強く意識しつづけてきました。

私は常に表現する人であり続けたい、ということを言ったつもりです。


[1687] 短歌に限らず 投稿者:ぽっぽ 投稿日:2001/07/24(Tue) 07:42

どんな仕事でも、
第一線を離れれば腕が落ちていくというのは、
どうしようもない事実のように私には思えます。

短歌は仕事ではない、と言われればそれまでですが。

http://homepage2.nifty.com/mizusu/


[1686] 業務連絡。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 23:05

りゅーいちろー GO! GO!!


[1685] 岡しのぶさんのこと 投稿者:西王燦 投稿日:2001/07/23(Mon) 21:02

ここで書かれている「岡しのぶ」さんの記事を読むと、なるほどライブな掲示板だけ
あって、どうしても「作者中心主義」的な傾向が強いですね。

この真下の藤原さんの書き込みは、私はすこし違うように感じます。
これは、いつも藤原さんと(親しく)論争することなのですが、作者本人が現場から
おりたことを「棄権」と断定するのは、作者がいつまでも現場に居続けなければなら
ないことを強制することだと思います。この「現場にいる」というのは、つまりは「歌壇」というつきあいのなかにいることを強要することです。
このような「作者中心主義」がいつまでも続くことは、例の第二芸術論の二の舞のような
ものだと思いますよ。

岡しのぶさんが、このような作品を書いた、読者はこのように読んだ。それでいいのでは?

私は以前、次のように書きました。
---------
。『サラダ記念日』も、その影響をつよく感じさせる『もし君と結ばれなければ』も、とりわけ「君」の語の登場する度合いの強い歌集であり、しかも、「君」以外にさまざまな呼びかけの言葉が、「君」と区別のない使われ方で用いられていることに注目しておこう。
----------

 

http://www.mitene.or.jp/~nishio/


[1684] 走り書きですが 投稿者:藤原龍一郎 投稿日:2001/07/23(Mon) 18:14

藤原龍一郎です。
パソコンを修理にだしました。
自宅から書きこめるのは、来週になりそうです。

ひとことだけ。
岡しのぶさんは、短歌という表現を棄権してしまったと思います。
短歌は持久力と瞬発力を問われる長距離レースだと私は思うので。
表現する側に意志的に立ちつづける覚悟の私としては、
思うだけで書かない人など、相手にしていられないですね。


[1683] 岡しのぶさんのこと 投稿者:宇田川寛之 投稿日:2001/07/23(Mon) 18:05

しばらくこの掲示板を見ていなかったら岡しのぶさんのことが話題になっていて、すこし驚いています。
彼女の歌集は発売と同時に三省堂で購入しました。いま手元にはありませんが、たぶんまだ実家にあるはずです。
当時読んでみて、それほど大胆な歌だとは思いませんでしたけれど…。みなさんの指摘に触れて、今度読み直してみようなどと思ってしまいました。
そういえば、「週刊文春」で最初に取り上げた記者のMさんとは知り合いだったりします。短歌は作らないけれど、ひじょうに短歌に詳しい方です。小中英之さんのファンだとか。当初は「天才少女歌人」として売り出そうとしたらしいんですが、いろいろあって、「美少女歌人」ということになったそうです。この過程は興味深いものです。彼から聞いたそんなエピソードを思い出しました。
岡さんとは1回だけ「月鞠」の会でお会いしました。おとなしそうな女性に見えましたが…。


[1682] 書くことができない人はどうするの? 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 18:01

その人たちは、思うだけだから、何もないの?


[1681] 「思うことは書くこと」じゃないよ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 17:41

別に、表現者でなくても、
「仕事」してる人なら、わからないとおかしい。
それは、
「わたしだってやろうとおもえばできた」という人生を生きる人のスタンスだ。
そういう人は、永遠に甘い憧れの世界に住んでいられるので、後悔をしないですむ。

最近つくづくわかってきたけど、
「やらない後悔」なんて、存在しないのね。
やらなかったら、ずうっと憧れの世界に住んでいられるもの。

あの山の向こうには何があるんだろー。っと。頂上が見えている。見えてるだけの頂上を想像するだけで、行った気になれちゃう。
「真っ白な無垢の時間」といえるほど、そいつは幸せなことだろう。

山を登り始めると、頂上は見えません。
見えなくなってくるしいんだよ!!
自分はどこにいるのかさえも、わかんなくなってしまうんだよ。
でも、絶対、遠くから頂上を想像してる人よりは、頂上に近いところにいるんだよ。

私は、いつだって、あたらしい山を登っていたいよ。
憧れた瞬間に、私の脚は動いてる。
「思うことは書くこと」じゃないよ。少なくとも、私にとっては。

そう思っている人々へ。
いちおう、わたしはちがう、ってことで。


[1680] 書き続けていることの怖さも同じではないでしょうか 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 16:40

書いていなくても生きていないわけじゃないから。というのは、
石井さんのお考えでは、問題にならないでしょうか。
人生は長いので、ブランクがあっても、また取り戻すことも出来ると思います。
ブランク無しに、馬車馬のように駆け続けることも、同じ怖さがあるのではないでしょうか。
ブランクはブランクといえばブランクだけれど、真っ白の無垢の時間とも言えるので、
その功罪は、五分五分かもしれません。
無為は貴重です。
空白も。

岡さんが選択されたことだから、それに何時だって短歌が逃げて行くわけじゃないのだから、
ゆっくり書く気になったら書けばいいのではと思います。
心の中で書き続けていらっしゃるでしょうから。
思うことが、書くことだから。
また、そうでないというなら、そもそも書かなくたっていいわけだから。
書かなくても生きられる人は書かなくていいのだと思います。
書かなくては生きていられないなら、
誰が何を言わなくても、木の実が自然に落ちるように、
戻って来られるのではないでしょうか。


[1679] またまた、岡しのぶさん! 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/23(Mon) 15:36

岡しのぶさんは、ちゃんと今年度版の角川書店版『短歌年鑑』の人名録に、お名前が載っています。本当に消えてしまいたいのなら、編集部に削除を要請するはずですよね。単に放置してあるだけだとしたら、随分いい加減なことですし……。ちなみに、どうでもいいことですが、件の人名録によれば、年齢はもうすこしだけ上のようです。

岡しのぶさんは、作品を公表し、歌人としてデビューしてしまいました。この事実から、彼女は逃げられないのです。短歌を書こうが書くまいが、歌人として論じられる覚悟は、やはり必要でしょう。たとえその論評が喧噪としか思えないにしても、ね。さらに重要なのは、岡しのぶさんが、辰巳さんのおっしゃる通り、「ブランクの怖さ、わかってない」という点です。その作者しか書けない作品、あまりよい言葉ではないかもしれませんがその作者の代表作となるような作品を書ける時期は、たしかにそう簡単にはやって来ないでしょう。しかしその時期は、何も書かないでいる者には、おそらく永遠にやってこないのです。歌が「書け!」と命じるのは、歌を書きつづけている人間にであって、歌を書かずにいる人間にではないのではないでしょうか。

岡しのぶさんが、発表はしていないにしても、ずっと短歌を書き続けていらっしゃることを、祈らないではいられません。『もし君と結ばれなければ』収載の作品を素晴しいとは言えずにいる私ではありますが、ね。


[1678] 歌が、書け!と命じる日が、私を書け、私を切れと命じる日がいつか来たら 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 08:41


辰巳さん
>さらに、
便所の壁に書いてあったって、うたはうた。
うたをつくるってのは、誰かにつくってる状態かどうか、認めてもらわないとできないことじゃないよ。
「消えた」っていうのは、超人気のあった時代と比べるからこそできる、あくまでも受け手側の取り方ですよね。
だったら、たいていの歌人ははじめから「消える」どころか、「いない」って!

>性愛を書いたら、やっぱり大騒ぎされたほうがいいでしょう。
大騒ぎしたいひとを、いっぱいに満たしてあげたらいいじゃん!
それは一つの功徳だと思うようになりました。

それはそうだと思います。
辰巳さんは、岡さんの才能を愛して、惜しんでいらっしゃるんですね。
これからじゃないでしょうか。
歌が書け! と命じる時が必ずあるはずです。
書かなければいられないと感じる日がいつか来て、その時は、有無を言わせぬ力で、歌が、岡さんに書かせているでしょう。
それを待つしかないのではないでしょうか。


[1677] 静かに 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 08:29

炎えていたい人なんじゃないですか?

岡さんのこと全然知りませんけど。
一度TVで見ました。
本も見ました。
まろやかでしなやかで自然でいい歌だと思いました。
でも一冊ちゃんと読んだわけじゃありません。
今日読んでみようかな。

ほとぼりが冷めたら、騒がれなくなったら、また書かれるんじゃないでしょうか。
日常を壊されないで書きたいんじゃないかしら。
それは甘えで、そんな甘ったれたこと言ってて、歌が書けるかって言う人もいると思うけれど、それでいいと、それがいいと、その人が思えば、熱は内に秘めてもいいんじゃないかしらって、私なんかは思いますけれど。


[1676] それにさあ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 06:10

風間さんが、「消えるのは望んでのこと」と言い切れる根拠がわからないよ。

岡さんは、歌会に来てくれた。
「やめた」人は、カネもらっても来ないよ。
自己申告はいかようなものであっても、行動は正直ですよ。

もーこの際だからしゃべると、
岡さん、ブランクの怖さ、わかってない。
「今はまだ書きたいことが溜まらないから書かないんだ」と、あくまでも「書かない」スタンスでした。
根拠のない自信、ここにありって感じです。
がっかりするのは、むしろそこだけど、まあ今どきの子やな、とも思うわけです。

さらに、
便所の壁に書いてあったって、うたはうた。
うたをつくるってのは、誰かにつくってる状態かどうか、認めてもらわないとできないことじゃないよ。
「消えた」っていうのは、超人気のあった時代と比べるからこそできる、あくまでも受け手側の取り方ですよね。
だったら、たいていの歌人ははじめから「消える」どころか、「いない」って!


[1675] いやいや。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 03:52

>風間さん。
梶原一騎という漫画の原作者がいてさ。
バイオレンス、政治、純愛、みごとな作家だと思います。
しかし、彼の死後、娘さんがわずか17歳にして、誘拐され、おそろしくむごたらしく殺された。
業だなあ……と思ったものです。
業を丸出しにして生きた人だなあ、と思う。

わたしは、私生活まで捧げる覚悟はできてます。

しかし!
作家は、現実を言葉によって振り回されていいはずがない。
むしろ、言葉によって現実を引き寄せるもの。
守りたければ、やはり言葉によって、守るしかない。
それはいつだって、一滴の誤差。
だから、毎日のようにお寺に通って、祈ってる。
その一滴を、見誤りませんように、と。

性愛を書いたら、やっぱり大騒ぎされたほうがいいでしょう。
大騒ぎしたいひとを、いっぱいに満たしてあげたらいいじゃん!
それは一つの功徳だと思うようになりました。


[1674] 消えるのは望んでのこと。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 01:47

>まだ23歳で、消えたと言われたら、それは残酷すぎる。

残酷ではないと思います。
残酷だとすれば、別の理由ではないでしょうか。
作品は、淡々と書けばいいし、淡々と評価すればいいのだと思います。これからも。
性愛を書いても、スキャンダラスに大騒ぎをしたり、宣伝につかったりすることはない。
ただ、それが初めからわかっていたことなら、作家にも責任があるし、すべて引き受けて耐えているしかないと思います。
それだけの衝撃力とスター性が呼び寄せたことと、あきらめるべきかもしれません。



[1673] それを引き受けるのが 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 01:36

何もかも丸ごと引き受けるのが作家だという声が、耳元まで聞こえてきますが。。。


[1672] 言うまでもなく 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 01:32

岡さんの作品を論じるべきではないと言っているのでないことは、解っていただけると思います。


[1671] 私の言葉で書きます。石井辰彦様。 投稿者:風間 祥 投稿日:2001/07/23(Mon) 01:27

>風間さんが引用している金子光晴の詩は、全体が引用されているのではないのでよくわかりませんが、反語表現なのですよね? ともかく、BBS では、やはり引用だけではなく、自分の意見を自分の言葉で表明すべきだと思います。

避けられないとあきらめるべきなのかもしれないけれど、
作品と私生活は分けられて語られるといいのにと思います。
書くということの性質から、何を造型しても魂を形象化しているのであれば、
抜き難く避け難く作者と作中人物が重なり、無関係ではありえないとしても、
作品を云々されるのは、たとえどんな評価であろうと、その評価も批判も、甘んじて受けることを拒否する作家はいないと思いますが、私生活までを掻き乱されるのは耐え難いことかもしれないと思います。
それをしも作品を発表する以上引き受けるべきというのは、暴力に近いと思います。
私生活はひっそりと平凡に暮らしたいと願っているかもしれないからです。
誰でもが有名になりたいわけでなく、まして日常生活を、興味本位の他人の、人身御供として捧げるつもりまではなかった場合でも、執拗に世間に引っ張り出されるのは、そして心身を消耗させられるのは、それを作家の責任、宿命と片付けられるのは、たまらないだろうと思います。
作家と作品が共に生き易い土壌が生成されるのは、永遠に叶わない夢のようなものかもしれないけれど、そうであるならば、完全に消えていながら、作品だけを評価されようと、
作品だけを人目に曝すことすらも考えなければ、ならなくなってしまうでしょう。
完璧に、日常に喧騒をもちこみたくなけれは、作品そのものさえ発表をためらわなければならない人も出てくるでしょう。
双方を分離する事さえ出来れば、可能になるはずの、作品は作品として自立さえできれば、自立した評価を与える土壌さえあれば、それが可能になることも、作品を発表することで、作家も渦に巻き込まれるならば、それを作家の責任としか見ないならば、作家は、自由をなくすことを、喧騒に呑みこまれることを覚悟の上でなければ、作品すら発表することがいできなくなってしまうでしょう。
そのようなことがなく、作品だけを一人歩きさせられるならば、作品を世に出すことを、誰も嫌がったりはしないでしょう。
作品すらも発表をためらわさせるのは、必ずといっていいように、付いて来る、その実、作品研究には何の役にも立たない、その種の喧騒なのではないでしょうか。



[1670] 言い忘れ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 00:49

荻原さん、私の言葉の不足を補ってくださって、ありがとう。


[1669] 荻原さんへ。 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/23(Mon) 00:24

岡さんの歌集についての私個人の印象は、荻原さんの持たれた印象とよく似ています。
なので、荻原さん個人の「違和感」は理解できます。
また、「あーんなことやこーんなこと」だけと、と私個人が思ってしまえば、何よりお誘いはしなかったと思います。
むしろ、ご本人と会った印象のほうが、下記のような理由で、世間のとらえ方のほうが限りなく近く思われてしまったものです。

ところで、私の「紅い花」のついても、おっしゃるとおりで、あるスパンを経て、荻原さんの言ってくださるような批評に安定してきました。

ただ、私にとって、もっとも痛かったバッシングは、世間からではなく、家族(当時)からのものでした。
(世間からは何を言われても、じつはへっちゃらの辰巳ちゃんです)

おまえはなんて呼ばれてるか知ってるか?「まらおんな」って呼ばれてるんだぞ。しかも、おまえの身内の歌人からだぞ。
その他。
もろもろの「世間のうわさ」が、夜な夜な運ばれてきます。

そんなひどいこと、どこにも書いてない。
なのにでも。
本当なら死にたいと思いました。

「家族」も、くるしかったんだろう。

思いきったことをするには、覚悟いります。というおはなしでした。


[1668] 消えていたいと願っても…… 投稿者:石井辰彦 投稿日:2001/07/22(Sun) 23:28

一旦なにがしかの作品を発表した以上、その作者が「消えていたい」と願っても、その願いが叶うとは限らない、ということは、表現者であるのなら、肝に銘じておくべきでしょう。岡しのぶさんが本当に「消えていたい」と願っているとしても、彼女の作品や作家としての過去が論じられるのは、避けられないことなのです。岡さんと似た状況でデビューしようとしている高校生が現に存在している状況で、辰巳さんや荻原くんが岡さんを巡って意見を闘わせるのは、有意義なことなのですし、岡さんはこれを拒否することはできないと思いますね。彼女は、歌人である、すくなくとも歌人だったのですから。

風間さんが引用している金子光晴の詩は、全体が引用されているのではないのでよくわかりませんが、反語表現なのですよね? ともかく、BBS では、やはり引用だけではなく、自分の意見を自分の言葉で表明すべきだと思います。

ともかく、パソコンがなおるなりして、早く藤原さんがこの BBS に戻って来てくださることを願わずにはいられません。岡しのぶという名前を最初に書き込んで、さまざまな意味で無防備な状況にある少女に注意を促し、私たちにも注意を喚起したのは、藤原さんなのですから!


[1667] 岡しのぶさんの話。 投稿者:加藤 千恵 投稿日:2001/07/22(Sun) 23:05


「性愛についての歌は、全部フィクションです」といったような発言を
されたことがあるらしいです。
でもその発言は、ちょっと、どうかな、と思ってしまいました。
そんなの、うやむやにしておけばいいのに。
あまりに聞かれるので、嫌になってしまったのでしょうか。

知り合いが、彼女のインタビューに同席したことがあって、
その人によると、
「ちょっと変わった雰囲気の子だった」そうです。
なんか曖昧でよくわかんない表現ですね。
今度、もうちょっと詳しく聞いてみます。

岡しのぶさんの歌で、中でも好きなのを、いくつか。

  本当に重ねたかったのはこんなものひとり疑惑の脚をかかえる
  雨の日はいつも決まって熱かった 君の唇 君の掌
  伸びすぎた髪がきりきりからみつく進もうとするわたしの脚に
  つつむものすべて悲しく墜ちてゆくそのてのひらとこのてのひらの
  人ひとり忘れられずにいる夕 この先いくつ陽が沈んでも
  Kと来た冬の空港 滑走路たりずどこへも飛べないふたり
  この朝の光が君を連れ去るのならば私は陽を射ち落とそう

 

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/6174/index2.html


[1666] あなんじゅぱすライブのお知らせ。 投稿者:平田陽子 投稿日:2001/07/22(Sun) 22:33

藤原龍一郎様

ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか?
すっかり夏、ほんかくてきですね。

あなんじゅぱすのライブのお知らせをさせて下さい。

★★★★★
あなんじゅぱすライブ
9月20日(木)19時30分開演
吉祥寺MANDA-LA2 にて

詩を歌うバンドあなんじゅぱす(平田陽子&松山龍彦)、
今回のライブでは、正岡子規、永瀬清子、田村隆一、谷川俊太郎、
そして、田中庸介氏の作品が曲として登場します。

メロディーがついた現代詩は未知の次元へ。

新曲中心の前半と、谷川俊太郎特集の後半を予定しています。

あなんじゅぱすを既にご存じの方も、初めての方も、
あなんじゅぱすの世界を存分に堪能していただけるライブです。

詳細は↓
http://homepage2.nifty.com/anapa/
★★★★★

心より、ご来場お待ちしています。

http://homepage2.nifty.com/anapa/


[1665] 藤原龍一郎さんの 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/22(Sun) 22:09

パソコンのハードディスクが、
けさほどクラッシュしてしまったそうで、
しばらくご自宅からアクセスできないそうです。
BBSには別所からアクセスできるかも知れませんが、
電子メールは復旧するまで使えないと思いますので、
藤原さんに急ぎのご連絡のある場合は
どうぞ別の手段でお願いいたします。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1664] >辰巳泰子さん 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/22(Sun) 22:06

「月鞠」の歌会の詠草として提出された二首を読むと、
自身の表現の傾向として、性愛的なものを好む、
と思われてもいい、あるいはそう思われたい、
と考えていたとしか見えないですし、
「スカートの中をのぞかれているような騒ぎ方」が
ほんとに嫌だと思った人には見えないですね。

ただ、それは『もし君と結ばれなければ』が、
どのような作品によって構成された歌集であったか、
とはまた別の問題ではないでしょうか。
ぼくには、辰巳さんが、あの歌集を中心にした
岡しのぶさんの作風紹介にかかわるとこで、
「あーんなことやこーんなことを、しちゃった!!」
と書いているのは、やはり違和感があります。
ただ、わたしにはそう読めた、ということであれば、
違和感は違和感として楽しみたいとも思います。

それと、辰巳泰子の『紅い花』の場合、
傾向はあったにせよ、「一色だった」かな……。
性愛もふくめて、トータルな「生きている感触」
みたいなところに集中していったのでは?
驚けな「かった」のはたぶんそのようなわけです。
これは『紅い花』への反応に対する
ぼくの情報収集が不足していたのかも知れません。
当時かなり積極的に目を通したつもりですが……。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1663] 「明日への伝言板」 投稿者:松木 秀 投稿日:2001/07/22(Sun) 22:02

ちょっとした横入りの思い出?話になります。
岡しのぶさんは、マスコミを結婚退職されるまで、このようなタイトルの
ラジオ番組を持っていました。私はずっと聴いていました。
最終回近く、岡さんは「結婚して、もし短歌を一時止めても、いつの日かまた
歌づくりは再開したい」とおっしゃっていたのを記憶しています。

http://www2.diary.ne.jp/user/86872/


[1662] では、荻原さん 投稿者:辰巳泰子 投稿日:2001/07/22(Sun) 20:56

歌会の詠草というのは、本人がのぞんで提出するもの。
岡さんが、その惹句の期待に応えるカタチで、詠草をみずから作品を選んできた(あるいは新作として作ってきた)ことはどうとらえますか。
研究会も行いましたが、その提出作品も、やはりエロチックなものでした。
(その資料、今見あたらず)

驚いて「います」というのなら、「紅い花」の批評が当時「性愛」一色だったことについてだって、驚いてほし「かった」です。(笑)

そこは何を言われても、やせ我慢をすべきところ。

それに私は、上記のような理由で、彼女にとって「のぞまない」ことでは決してなかったんだと思うよ。


[1661] 歌集、見つかりました。 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/22(Sun) 19:25

岡しのぶ歌集『もし君と結ばれなければ』、見つかりました。
帯に印刷された惹句は「少女歌人の大胆表現」でした。
あ、村上きわみさんが、すでに……。
その路線の作品というのは、

 触れてよと願う心に手のとどかず触れるのはどうでもいいようなたとえば乳房
 喉ぼとけのけぞる首に口づけてまだ早い春を確かめている
 初めての肉の重さを全身で噛みしめているあなたの下で

などだったかと思います。作品本文の、
はじめの見開きにこの三首とも入っています。
エッチなというほどエッチには見えませんが、
いわゆる週刊誌ネタとかにはなってしまいそうな感じ。
あとの作品はここまでこの路線というわけではないですね。

 この坂の途中に花の咲くことも知らないでいた嫌われるまで
 星のなかかえる冬道今ならばわかる別れたころのあなたを
 今朝君と見た函館の風景を二年後の吾はどれだけ云える

などといった作品に付箋が入れてあって、
この歌集の「平均的な印象」というメモがありました。
当時のぼくはそう感じていたのだと思います。
さらに自分の付箋をチェックしてみると、
たぶん岡しのぶさんのなかでは異色の、
以下のような作品につけてありました。

 破壊とは目に見ゆるもの疑わずそう信じていた遠いあの夏
 層雲峡午後二十五時 静物になりたい吾が身を置いて待つ
 虹になど誓うないずれ消えてゆく否はじめからないものなどに
 これ以上なにも問わない六月の雨を知るまでふりかえらない

恋人との出会いや別れを、
散文的に表現してしまう作品は、
似てはいなくとも、俵万智の描いた世界、
のようにしか見えないのではないだろうか。
地味でも晦渋になっても
多少ことばにバイアスのかかった作品に
たぶんこういう世界の出口がある。
というようなメモがありました。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/


[1660] 岡しのぶさん 投稿者:村上きわみ 投稿日:2001/07/22(Sun) 19:11

『もし君と結ばれなければ』は短歌人ホームページの「歌集」のページに紹介がありますね。(※さっきから書棚を探しているのですが、みつけられない)
3首ひいてあって、表紙もみられます。
荻原さんがお書きの惹句とは「少女歌人の大胆表現」ですね。

岡さんとは、一度だけお会いしたことがあります。
あの歌集の紹介のされ方にちょっと痛々しさを感じている、と伝えると、少し困った顔をなさっていたことを思い出しました。

http://www2.ocn.ne.jp/~chimera/


[1659] 岡さんっていうとひろみとつづけたくなる 投稿者:はながさくらげ 投稿日:2001/07/22(Sun) 19:08

 横レス失礼。たんなる思い出話です。

 彼女の歌集がでたころ、歳もちかいこともあって気になっては
いましたが、宣伝の方法に萎えて結局よみませんでした。
((歳が近いと思ってたけど今23だったらちっとも近くありま
((せん…。
 彼女が短歌人にはいったころ、タカセさん家に行ったときに彼女
についてお話を聞いたことを思い出しました。すでに歌集が出てい
たかその直前だったと思います。すでに文春の売り出しがはじまっ
ていて、さわがれていたころです。
 その後も何度か彼女の近況を私に教えてくださいましたが、忙し
くて歌が書けないようだ、ということが最後でした。それももう何
年もたってしまいました。


[1658] Re[1654]: 岡さんに失礼を承知で 投稿者:荻原裕幸@管理人 投稿日:2001/07/22(Sun) 18:36

> 紹介記事を書くとすると、
> 北海道の、ちょっとエッチな俵万智さんです。
> 歌集は「もし君と結ばれなければ」一冊です。

> 印象としては、こーんなわかい女の子が、
> あーんなことやこーんなことを、しちゃった!!という作品です。
> つまり、「フライデー」で取りあげられる歌人です。

岡しのぶさんの作品に対する辰巳さんのこの部分の印象と
自分の印象があまりにも違う理由がよくわからず、驚いてます。
手元に見あたらないので、歌集を探せたら確認してみますが、
冒頭のあたりにならべられていた五首くらいが、
彼女が俗な意味で「エッチな」と言われる理由になった作品で、
他には一、二首ほどしか性描写のようなものはなかったはずです。

> さらに、岡さん本人の言葉を借りれば、
> 「スカートの中をのぞかれているような騒ぎ方をされたのがいやでした」

だから、この理由をつくったのは、
彼女の短歌の文体全般ではなく、
帯に入れてあった、ええと、なんとかの大胆表現という惹句とか、
「エッチな」と言われるような作品が極端に少ないのに、
それをわざわざほとんどすべてまとめて冒頭にならべたという
ものほしげな、としか言いようのない編集方針
(著者のか編集者のかわかりませんが)にあると思われます。
もちろん作者はそれを正面から受けとめるべきですが。

http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/