モードの多様化について
穂村 弘


 何をうたうか、というテーマをいただいて考えてみた。現代においては、作歌にあたっての主題的な制約というものは殆どなく、何をうたうかは個人の自由であるように思われる。だが、手近な歌集を眺めながら考えているうちに、そもそも何かをうたおうとすれば自分は必ずそれをうたえるのだろうか、という疑問が浮かんできた。うたおうとしてもうたえないこと、或いはそれ以前にうたおうと思うことすらできない領域があるのではないか。同時にそれは読もうとしても読めないということでもあると思う。
 本稿では、歌のテーマや内容以前の、というかその土台のような位置にあって、我々の言葉(うたうこと、読むこと)を支配しているような、短歌のモードについて考えてみたい。



 先日出席した歌会に次のような歌が提出されていた(「創作」というのは作者のペンネームである)。

 この星の丸みで背中を伸ばすのよ 気持ちまで気持ちまみれの熊も 創作

この歌に対して歌会の参加者たちが述べた意見には次のようなものがあった。

 ・「気持ちまで気持ちまみれ」という表現がわかりにくい。
 ・「気持ちまで気持ちまみれ」という表現が面白い。
 ・「気持ちまで気持ちまみれ」とは自意識の過剰さという意味ではないか。自意識の縛りを地球の丸みで伸ばそうとする発想がユニークである。
 ・「熊」のかわいらしさに騙されてはいけない。これが仮に「俺」だったらどうか。自意識過剰で気持ちの悪い歌になる。

 こうしたやりとりを聞きながら、私はふと不思議な気持ちになった。何人もの批評者の間で様々な意見が交わされているのだが、そのなかで一度も口にされない感想や疑問があることに気づいたのだ。
 この歌に関して誰も云わなかったコメントとは、例えば次のようなものである。

 ・なぜ「熊」の「気持ち」がわかるのか、そもそも動物である「熊」に自意識に類する「気持ち」があるのか。
 ・「星」の大きさと「熊」の大きさを比べると「星」の方が圧倒的に大きい。ゆえに「その星の丸み」で「熊」が「背中を伸ばす」ことは物理的に不可能である。

 これらの意見が出てこなかった理由は明らかである。その場の読み手は誰もこの歌の「熊」を本物の熊だとは思わなかったのだ。本物でないとすれば、この「熊」は何なのか。「『熊』のかわいらしさに騙されてはいけない」という発言に端的にみられるように、おそらくそれはぬいぐるみやアニメーションのような「熊」なのである。
 同様に「この星」もまた模型の地球儀かアニメに出てくるような「星」ということになる。ぬいぐるみや模型やアニメであれば、そのサイズは自在に変化するわけだから、現実の「熊」と「星」の大きさの差は問題ではなくなる。また「熊」に人間のような「気持ち」があることにも納得がいく。
 だが、実際には、この歌のどこにも「この星」や「熊」がぬいぐるみや模型やアニメ的な存在だと書いてあったわけではない。「熊のアニメーションをみて」というような詞書が添えられていたわけでもない。
 歌会の参加者たちは、この歌を読みながら各人の判断によって自然にそのことを察知して、それを共通の前提として議論を進めていたのである。つまり、様々に異なる意見が交わされているようにみえて、実はその前提になる「星」や「熊」のアニメ的な存在感に関しては、参加者の間で見事に暗黙の統一見解があったということになる。
 同じ歌会には次のような歌も出されていた。

真夜中の散歩のたびに教えても犬には星は見えないらしい 入谷いずみ

 この歌については次のようなコメントが出された。

 ・口語の使い方が自然である。
・素直に散歩を喜んでいるであろう犬と星のことを考えている人間の想いの落差に惹かれる。
 ・「犬には星は見えない」代わりに、人間には嗅げない様々な匂いを知っているはずだ。
・さりげない文体の背後に、盛られる器によって生命の意味が変化するという重いテーマがある。

 ここから感じられることは、読み手はいずれもこの歌については「犬」や「星」を現実のそれ(に近いもの)と見なしているらしいことである。だが、この歌の場合もやはり、「犬」や「星」が現実のものだという断り書きがあったわけではない。
 以上の比較から判ることは何か。引用したふたつの歌に関しては、その内容や出来映え以前に作中物の存在感が違っているのである。歌会の参加者たちは、目の前の一首がどのようなモードの下で書かれているかをまず把握して、その認識のもとにそれぞれの歌を鑑賞評価しているわけだ。その結果が先の評言ということになる。すなわち「熊」に関してはそれをアニメモードの歌として読み、「犬」に関しては(ややメルヘン的ではあるが)それを現実モードの歌として批評しているわけである。
 このようなことは、例えばマンガのようなジャンルであればごく普通にみられる現象だろう。スポーツマンガ、ホラーマンガ、恋愛マンガ、SFマンガ、ギャグマンガ、4コママンガ、それぞれにモードの異なる作品が一冊のマンガ雑誌のなかに詰まっている。そして読者は特に混乱することなく、自然にそれを愉しむではないか。我々はマンガを読みながら、猫が喋るのはおかしい、とか、毎回必ず殺人が起きるのはおかしい、などと文句をつけたりはしない。それぞれのマンガが異なるモードの下で描かれていることを理解しているからだ。



だが、短歌の場合はどうなのだろう。

我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる  島木赤彦
風さやぐ槐の空をうち仰ぎ限りなき星の齢をぞおもふ    伊藤左千夫
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる   斎藤茂吉
汗いでてなほ目ざめゐる夜は暗しうつつは深し蠅の飛ぶおと 斎藤茂吉

 このような作品においては、作中の「犬」「星」「母」「かはづ」「蠅」などには、ぬいぐるみ的アニメ的な印象がなく、どれも現実的な等身大のそれに近い手触りをもって描かれている。いずれも近代短歌的な写実モードのなかで詠われているわけである。アララギを中心とする近代短歌の流れが、対象を言葉で虚心に写し取る〈写生〉という理念を軸に展開してきたことを考えると、これは当然のこととも云える。極端な云い方をすれば、近代以降の短歌は基本的には、ひとつのモードの支配下で書かれてきたのである。
 私見では斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う。誰もが他人とは交換できない〈私〉の生を、ただ一回きりのものとして引き受けてそれを全うする。一人称の詩形である短歌の言葉がその原理に殉じるとき、五七五七七の定型は生の実感を盛り込むための器として機能することになる。
 次のような歌には「生の一回性」の原理の反映を端的なかたちでみることができる。

さびしさの極みに堪へて天命に寄する命をつくづくと思ふ 伊藤左千夫
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 斎藤茂吉

 このような近代短歌的なモードの説得力は、万人に共通する「生の一回性」の支配力の強さに根ざしている。そこでは「命の重みをうたう」ことが至上の価値とされ、歌人はこの価値観に支配されてきたわけである。そして短歌は「命の器」になった。



 近代短歌的なモードの支配力がやや薄れ、短歌というジャンルにモードの多様化がみられるようになったのは戦後のことと思われる。
 例えば次の歌には従来のモードから明らかに逸脱した感覚がみられる。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄

 『日本人霊歌』(昭和三十三年刊)の巻頭歌である。ここにみられる作品のモチーフ自体は、天皇制や日本人のアイデンティティの問題に繋がる重いものである。だが、前述のモードという観点からはどうだろう。この歌の「皇帝ペンギン」や「皇帝ペンギン飼育係り」にみられる質感や動きは、ぬいぐるみ的アニメ的、或いはマンガ的とは云えないだろうか。
 この歌を五七五七七の音数に従って区切ってみると、次のようになる。

 日本脱出/したし 皇帝/ペンギンも/皇帝ペンギン/飼育係りも

 作中の「皇帝ペンギン」も「皇帝ペンギン飼育係り」も、ばらばらに分断されている。対象を常に生身のものとして捉える近代短歌的なモードの下では、この分断に対して、生き物を勝手に言葉で切り刻むのは不謹慎だというような禁忌の感覚が生じるのではないか。
 だが、作者は「命の器」としての定型ごと「皇帝ペンギン」や「皇帝ペンギン飼育係り」を切り刻んでしまったのである。この歌の背後には、そうした「命の重み」の呪縛から自由になるという、云わば冒涜的な喜びの感覚があるように思う。
 作品のテーマや内容や完成度を別にして、言葉自体の手触りを比較するならば、ここから先に挙げた「この星の丸みで背中を伸ばすのよ 気持ちまで気持ちまみれの熊も」の歌までは、ほんの一歩の距離にある。「気持ちまで気持ち/まみれの熊も」にも同じく対象の分断がみられるのだが、その印象はもはや自然なものになっており、「皇帝ペンギン」にみられるような緊張感や喜びは、消失しているように感じられる。命はさらに軽いものになったのである。
 両歌に共通しているのは、生命を生身のそれではなく自由に扱えるモノとして捉える言葉のフェティシズムだと思う。我々は「生の一回性」の実感を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである。
 このようなモノ的アニメ的マンガ的なモードの発生には、おそらくは我々が生きている環境の変化が関わっているのだろう。具体的には、生活環境の都市化によって対象との直接的な接触体験が減少したこと、一方で映像等のメディア環境の発達によってバーチャルな感覚が増大したことなどの影響が考えられる。
 仮に我々が本物の熊と日常的に接触するような環境に生きていたら、先の「熊」のような歌は生まれてきただろうか。また熊に比べれば日常的な存在である犬でさえ、現在の我々の感覚のなかではバーチャルで記号化された方向へ、その存在感を大きくシフトしているのではないか。
 先の入谷作品の「犬」を現実的と云ったのは、現在の基準に照らしてということであり、実際には「犬には星は見えないらしい」という感慨自体のなかに、既にメルヘン的な意識の偏向が含まれているとも云えそうだ。また前掲の「皇帝ペンギン」が映像的な質感を伴っていることも、映画作家になりたかったという作者特有の映像的体験の豊富さに根ざしているのかもしれない。
 以上のような観点から、塚本邦雄はその戦争のモチーフに加えて、モードの変革という面からも戦後を象徴する歌人と云えそうだ。

愛國の何か知らねど霜月のきりぎりすわれに掌を合せをり   塚本邦雄
海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も  同
蠅の王わが食卓の一椀の毒ほのかなる醍醐を狙ふ       同
青疊に寢そべつて「オデュッセイア」讀む總領抹香鯨のごとし 同
啄木嫌ひのすゑのおとうと百キロの柔道のアンデンテのあゆみ 同

 作中の「きりぎりす」「航空母艦」「火夫」「蠅」「總領」「おとうと」などには、いずれもアニメ的マンガ的モノ的な印象がある。塚本作品が長期間歌壇で受け容れられなかったのは、このような言葉の質感が、それまで主流であった近代短歌的なモードのなかで、読み手に違和感を与えたためであろう。それはより根本的には、戦後という時代そのものに対する違和感ということができるかもしれない。我々は言葉をモノにしてしまった時代と自分自身を受け容れたくなかったのである。
 読み手の内部で読みのモードが多様化するのには時間が必要だった。それも近代短歌的なモードにより強く呪縛されている者ほど、より長い時間が必要だった。塚本作品が歌人以外の読者や若者たちにまず受け容れられたのは、自然なことだったと云える。彼らにとっては近代短歌的なモードの呪縛はそれほど強いものではなかったからだ。
 だが、その後、読み手のなかの戦後的な感性がさらに肥大したことによって、一種の読みの逆転現象が起きる。その結果、塚本作品は相対的にその衝撃力を減じた面があるように思われる。すなわちモードの多様化を全く当然のものと感じる世代の目には、塚本作品の革新的な冒涜性が自然なものに映ってしまうわけだ。
 では、そのような世代感覚に照らしてみたとき、塚本作品の有するもうひとつの戦後性、すなわち戦争と戦後に対する怨念のモチーフはどうなるのか。おそらくそのような角度から「皇帝ペンギン」の歌をみるとき、マンガ的な絵柄と動きが浮かぶだけで、その背後にある敗戦の現実という生々しい歴史性は読みとり難くなっているのではないか。
 モードの多様性を自然なものとする感覚に反比例して、現実を唯一無二のものと捉えるような体感は衰退してゆく。そこでは現実も想像も、言葉の次元では全てが等価であるという錯覚が生まれ、その結果、モードの乱反射のなかにモチーフが紛れてしまうというようなことが起き易くなる。いわゆる「なんでもあり」の感覚である。
 すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である。モードの多様化は、自分自身が死すべき存在だという意識の稀薄化と表裏一体になっている。自分自身を省みても、モードの多様性を受容するスタンスの背後にあるものは、自分は永遠に死なずにいつまでもここで遊んでいられるというような感覚だと思う。
 死の実感の喪失は愚かな錯覚として否定されるべきだろうか。我々は死を直視して「生の一回性」の原理を見据えた表現に戻るべきなのか。短歌においてそれは近代的なモードに再び回帰することを意味するのか。それともそれ以外の新たな展開が可能なのか。機会を改めて考えてみたい。

(國文學・2002年6月号「短歌の争点ノート」)