[1204] わづかにへこむ 2005年05月27日 (金)

ひたすら仕事である。
仕事は楽しくて単純に忙しい、というのが理想的だとつくづく思う。

わたしとあなた。自己と他者。その境界や転移。
斉藤斎藤『渡辺のわたし』もからめつつ、そんな話をしていた。
そこにある作品は誰のものでもない雲で、
見る者の意識のなかだけで所有することができるのでしょうとか。
まじわることができるのは、遠いたましいのレベルでのみだ。



わたしはひたすら甘えてもいい人だと思われているのだろう、
そのことにあらためて気づくたび、世界との関わりかたを変えようと思ってきた。
漫然とした不安の先にあるものを見極めようともせず
ただそれを紛らすためだけにはじめられそうになる雑談には正直つきあいきれない。
電話がかかってくればわたしは本を閉じて電話に向かう。
ほんとうに苦しくて電話してくるなら、せめてそのテレビは消さないか。
巻き込んだ相手のそこに費やす時間と労力への想像を欠落させたまま
電話口で煙草に火をつけるのはやめないか。
自分の足で立って、人は歩いてゆく。
そんな相手と励ましあうことならできるし、
あなたの歩いてゆくすがたを見て、わたしも励まされたいと希う。



明日から10日間、店のリニューアル工事。
結構大掛かり。がんばる。

あめんぼの細長き脚ふんばれば水の面(おもて)のわづかにへこむ/風間博夫


[1203] ひらく肢から 2005年05月23日 (月)

しばらく題詠から離れたくて小休止していた題詠マラソンを
そろそろまた走りはじめなくちゃな、と思ったりしている。
なにもないところから次第に輪郭をあらわしてくるような言葉の選びとりかたに
全面的に身をまかせていたかったのだった。

今日はデイケア歌会のお手伝い。参加者13名、詠草36首。
それぞれが得意なレトリックや究めたいテーマを持っていて、
それが表現のレベルとは別に、
継続的な場におけるキャラクターと結びついて
遺憾なく発揮される面白さがある。

ほんの三十一音のすみずみにまで緊張感を行き渡らせることの難しさをあらためて思う。
舞踏家のゆびさきのような、しなやかにゆるみなき意識の到達を。

遅く起きた朝のフロアにゆっくりとひらく肢から夏を呼び込む/ひぐらしひなつ


[1202] 描く円環 2005年05月13日 (金)

半年くらい気になりつつ放置していた体調について
いい加減に観念せよと言われ、数日前ようやく病院へ出かけた。
相変わらず病院は苦手なので笑ってしまうしかないのだが、
今回ばかりは笑って済ませられないかもしれず、
つつしんで療養することにする。
といっても普通に日常生活を送ることは出来るのだけど。



最近やっていることといえばじっと本を読むこと。
それから、こわれゆくものたちの写真をひたすら撮っている。
我が家の前の日通倉庫が解体されて、今日でちょうど一年。
いまもあわただしく港周辺の再開発工事は行われている。
喪失と遭遇を受容するこころの準備を。



わたしは対面する人を弱者だと考えたくないのだと思う。
けれど、自己正当化のために事実を歪ませることとか
逃げている事実から目を背け続けることとかを
これ以上つきつけたら責めることになるのだろうか、とも思う。
割り切ることは諦めや不誠実さのように思えて気が進まないのだけれど、
ときには「見切る」ということも必要なのではないかと
徒労感を抱えたまま考えていた、夜半。



静謐さは強さ。あの松の林に、たどりつけるか。

チェーホフの栞となって避妊具が春の陽射しに描く円環/ひぐらしひなつ


[1201] 水底を覗く仕草で 2005年04月25日 (月)

企画展を終えて10日間の休暇をとった。
実際のところわたしの神経はとても疲れていたのだと思う。
前回の日記に書いたように、ある瞬間、
世界との接点をスライドさせなくてはと強く感じた。
そうしなくてはわたしがこわれてしまいそうだったのだ。
この休暇は、とにかくその方法について考えていた。
たとえば代理人を立てるといったやりかたは
確かに潤滑剤になりうると思うのだけれど、
そういう手段を持たないわたしは
すべてを自分の選択として背負ってゆかなくてはならない。
ならば、ある種の非情さを身につけることが必要なのだと思う。
とても強靭な冷静さをもって自分の判断を伝達することが。

(うざーい、とか言って卓袱台ひっくり返せたらどんなに楽だろう)

休暇のあいだ、普段できない家の片付けをしたり
西大分での暮らしかたについて考えたり
遊びにきてくれたレイハルと海を見に行ったりした。
とにかく自分の選んだ人以外とは顔をあわせないようにして。

(すこやかさは自力で掴みとらなくては)

そんな休暇も明日で終わる。
短歌と店番の日々。
最近はそれとは別の単発の仕事もすこしあって、忙しい。
ざくざくと歩むべし。



本日発売の角川「短歌」5月号、
特別企画「何のために短歌を作るのか」に、
「彼岸への跳躍」という文章を書きました。
抽象的でとても難しい問いだったので
自分でも書きおおせたと思えずにいるのですが、
それもひとつの試練として、
興味のある方は御覧になって下さいませ。

水底を覗く仕草で暗がりに羽化した朝の髪を結わえる/ひぐらしひなつ


[1200] あかるい色で別れを告げる 2005年04月13日 (水)

ちらほらと桜に新緑が見えはじめ、
なにごとにおいてもスタートの遅いわたしにも
ようやく春が認識できるような気がしてきた。
店のキッチンで湯の沸くはやさに
あたたかさを実感してみたり。

たぶん今年、体調はよくなる。占いでもそう言われたし。
そういうことがちからになっているのか、
ささいなことで使い果たしていた気力に、
すこしずつ余裕が生まれてきたような気もして。
いや、いつまで続くかわからないけど、と自分に布石を打ってしまうけれど。

クローゼットのなかからも、
机のひきだしからも、
ブックマークの巡回リストからも、
いろんなものをこの春は切り捨てて身軽になる。
もう、あなたの翳りの届かない場所へ行く。わたしは、わたしのあかるみへ。

わたしはわたしの精神の脆弱であることを
もっと謙虚に、もっと早く、悟るべきだったと思う。
重い荷物はもう背負わない。これは、決意だ。



決して下がっているわけではないのだけれど、
モチベーションの焦点が定まらない感じで、
ぼんやりと日々の暮らしを、うたのことばにしています。
連作も作ってみたり。

見あげれば折り目正しいネクタイがあかるい色で別れを告げる/ひぐらしひなつ


[1199] 宛先のない葉書のように 2005年04月10日 (日)

企画展【時間の言葉】、ようやく折り返しを過ぎました。
17日まで開催中です(11・12日は店休日)。



というわけで、おかげさまで連日賑わっており
あいだの休みにはZepp FukuokaまでMEGADETH公演を見に行ったりして
とてもアクティブな、というか起伏の激しい日々を送っている。
会う人の数が半端でなく多いので、
さすがに企画展日程の半分を過ぎるとへろへろしてくる。
基本的に人と会ったり話したりするのは好きだけれど、
人それぞれに距離の詰めかたというのがあって、
それが性急だったりこちらの呼吸より早かったりすると
ちょっと苦しくなったりするのだった。

でも概ねは楽しく仕事をしています。



ちょっとしたプレゼンがあったり、こまごまとした用事があったりで
ゆったりと景色を眺めるほどのこころの余裕も持てず。
必要以上に気を遣わなくてはならない人間関係からは
しばらく逃げて暮らそうか、などと思ってみたり。

+

題詠マラソン、ぼちぼちですが走ってます。

宛先のない葉書のようにはつなつの朝のはじめのひかりを泳ぐ/ひぐらしひなつ


[1198] ふるふると 2005年03月30日 (水)

帰宅後はひたすら土曜日からはじまる企画展の準備なわけですが
ほんとに今回はどうしたことと問い詰めたくなるくらいにトラブルつづきで

「完成を目前にして作品がこわれた」だの
「窯から出してみたらパーツがうまくくっつかない」だの
「衝動的に家出していま京都にいる」だの
「シンプルに連絡が取れない」だの

そんなこんなで直前にてドタキャンしたアーティストが三人
それはほんとうに残念なことなのだけど
いつどこでどんなふうに発表するかを選択するのも含めて創作なれば仕方なく
約束通り出品された作品が最も生き生きとかがやくように展示するのが
わたしの
役目で

搬入と展示のための店休日をいちにち増やして対応する

午前中からひとりでこつこつやっていると
どうしようもなくさみしくてしかたなくなってきて
でも誰とも会いたくない矛盾
を抱えて釘抜きをふるう

つよいつよい希求が胸の穴をどんどん深くして
誰とも会いたくないのではなく
そのひと以外のひとに会っても満たされないことを知っているからなのだ
と 否応なしに照らしだされるばかり

それでもひさしぶりに萌す明確な情動に
すこしほっとして
満たされずにいることにも たぶん
きっと

ふるふるとこわさぬように青空を球体に綴じつつ春をゆく/ひぐらしひなつ


[1197] 斉藤斎藤『渡辺のわたし』 2005年03月29日 (火)

27日、斉藤斎藤第一歌集『渡辺のわたし』批評会を聴くために上京。
例によっていろいろな仕事が片付かず徹夜明けで飛行機に駆け込み、
機内やその後の車内でもテキストを読みながら会場に向かった。
体調を崩した状態で重い荷物を何度も持ち替えながら九州から出席するのは、正直しんどい。
それでもこれはどうしてもナマで聴いておきたいという気持ちにさせる一冊だったのだ。
参加者は最終的に140名ちかくとなったようで、ものすごい盛会である。
斉藤くんのちからはすごい、と思った。

岡井隆、小池光、穂村弘三者による鼎談は、
わたしが予測していた方向からははるかに違った地平で展開され(涙)、
発言の向こうにあるものまでを聞き取るのは難しくてメモをとるのが精一杯だった。
終了直後はなんとも言えない不全感が残っていたのだが、
ホテルでメモをまとめなおしながら自分の読みの甘さを思い知った次第。

ひぐらしが重点的にメモをとったのは以下の点。
(理解が中途半端なままの走り書きだったので誤読もあるかもしれません。)

穂村「秀歌という歌壇における既存の枠組みからずれている」=近代短歌からの距離
岡井「秀歌を秀歌と目立たせずに書く」
小池「サマにならない、しないという意志。フレームの破壊」
穂村「熱いものがある。必然性がある」
小池「オーソドックスなものとの共通点。目の確かさ」
穂村「イメージをインフレさせて言葉をかっこよくしていない」

穂村「ときどき『こう読め』と言いたげなものすごくベタな歌が入っている」
岡井「近代とポストモダンを自由に行き来している。
   『あなた』が作中主体ともなる。私論をひっくりかえしている」

岡井「不完全語法は多行詩として?」
小池「自分自身へ向けての内的言語の反映ではないか。
   はねかえってくる自分でアイデンティティを確認。
   内的言語がリアル。生きている世界」
岡井「日常生活の言葉をそのまま使っていい」

穂村「小池にあるポエジーが斉藤にはない。
   『なんでこうなってしまったんだ』ではなく、そのまま。
   最初からそのなかにいた苦さ?→サバイバル感」
小池「マグマのように感じられる『ナマなもの』が同世代の歌とは違う」

穂村「丁寧語は防御の意識」
小池「悪意をすくいあげている」

岡井「言葉に対する信頼感が強い」
小池「世界の解体=言語の解体」



『渡辺のわたし』が提示してくれるのは
大状況を失ったいま、これからなにを歌うべきかという状況下において、
言語や修辞が先行してしまうわれわれ世代への警鐘でもあると思う。
修辞であるとか私論であるとかいった視点にとらわれるあまり
歌の根底、モチベーションとなるものまでを読めていなかったことに気づかされた。
斉藤くんの作品を最初にしっかり読んだ題詠マラソン2003で
その奇妙な魅力にはしっかり心を奪われたのだが、
連作として、歌集としてまとめて読むまで「熱」だとか「ナマなもの」は見えなかったのだ。

歌集が出るずっと以前から斉藤くんとは掲示板などでいろいろ話をしたことがあったが、
いま、あの当時やりとりしたことを思い出すにつけ、
彼がいかに自覚的に(しかも必然的に)方法を選びとってきたかがよくわかる。

こうしてメモをまとめなおしてようやく、
懇親会後になだれこんだカフェで荻原さんにもらったアドバイスが
あらためて重みをもって理解できたような気がした。
自分の批評会以後まよいつづけていたことに、すこしひかりがさした、かもしれない。



会場に早めについたので設営をすこし手伝いながら
会を企画運営した短歌人の若手の人たちの働きぶりを見ていて、
ああ、仲間がいるっていいことなんだな、ということが実感として理解できた。
とりわけ佐藤りえさんには多大なる感謝とねぎらいを捧げたい。



今回も批評会および懇親会会場でいろいろな方に会えましたが、
とにかく人が多くてゆっくり話せない状況でもあり、
失礼もあったのではないかと思います。おゆるし下さいませ、とこの場を借りて。


[1196] 菊池裕『アンダーグラウンド』批評会のおしらせ。 2005年03月24日 (木)

以下、おしらせです。



この度、私たちの友人である菊池裕が第1歌集『アンダーグラウン
ド』を刊行いたしました。渾沌とした現代をシャープかつヴィヴィ
ッドに切り取った歌集の登場です。「現代短歌のエッジ」へと到る
この一冊について、大勢の方々から忌憚のない意見をうかがいたく
思います。よろしくお願いします。

菊池裕第一歌集『アンダーグラウンド』を語る会

2005年4月24日(日曜日)
午後1時開場 午後1時30分開始 午後5時終了
会場 東京芸術劇場大会議室  http://www.geigeki.jp/

パネルディスカッション パネラー
五十嵐きよみ、加藤治郎、田中槐、藤原龍一郎、黒瀬珂瀾(司会)

懇親会 午後5時半開始
    パーティ&レストラン パサル
    東京都豊島区西池袋3-25-13 リバーストンビルB1
    tel 03-3971-6660   http://r.gnavi.co.jp/g707700/map1.htm

会費 批評会 1500円 懇親会 4500円

発起人
稲葉京子、及川隆彦、大塚寅彦、川田茂、田島邦彦、古谷智子、水原紫苑
                        (五十音順)

●参加ご希望者は4月17日までに、黒瀬珂瀾(karan@d1.dion.ne.jp)まで、
 批評会・懇親会別の参加希望を明記の上、ご連絡下さい。
●歌集『アンダーグラウンド』は、ながらみ書房刊。
 http://www6.ocn.ne.jp/〜nagarami/


[1195] 瞬間湯沸器について 2005年03月23日 (水)

ひさしぶりに瞬間湯沸器になりました。
基本的にはつねにテンションの低い生活を送っていますが、
まだまだ青いせいか、ごくたまに激しい憤りを覚えることがあります。
今日は題詠マラソンBBSで、やりました。

一連の経緯は興味のある方それぞれに追っていただくとして、
関連するメールなども何通かいただいていますので、
気分的に落ち着いたところで、こちらですこし補足しておきます。

矢嶋博士氏の話題の詠草についてわたしはちっとも問題だと思っていないし、
自身の実感を表明するのは個人の責任において自由だと考えています。
黒田英雄氏のブログのコメントとして書かれた
その歌に関連すると思われる言葉についても、
美しくないやりかただなと思いつつも、とくに感慨は覚えませんでした。

さて、予測されたことでしたが、何人かの参加者のあいだでこの歌は問題となり、
矢嶋氏に下手呼ばわりされたのはきっと自分だと言い募る人もいて、
いくつかの鑑賞ブログでコメントやトラックバックが頻繁になされているのを見ました。
下手だと言われて不安になる心情を推し量ることはできますが、
そこに過剰に反応してしまうのは反応する側の足腰が未熟なせいでもあると思いますし、
「矢嶋氏がこんなひどいことを言った」というかたちのコメントが
まるで風評のように、ゆるくつながるネット上にひろがっていったことに、
つよい違和感と危険性を感じ拒否反応を起こしていたのも事実です。
(註:こんな具合ですから、賛同のメールなどいただいても困惑します。
 発言するときにはつねに個でありたいので、その点は御理解下さいませ。)

しかしそれも矢嶋氏自身の発した言葉が引き起こした結果です。
矢嶋氏が一度は棄権した題詠マラソンに復帰したことも、
その格好悪さを自身で背負ったわけですから、周囲がとやかく言うことではありません。
が、矢嶋氏の題詠マラソンBBSへの書き込みを見た瞬間に、
わたしの血管は脆くもはじけたのでした。
わたしはことさらに自分が正しいという姿勢でいるつもりはありません。
矢嶋氏のやりかたがわたしの美意識にとって
目障りの限界を超えたので、喧嘩を売りました。
汚いものは失せろという論法ですから、決して上等なやりかたではありません。
それでも互いに離れた場所で(匿名の人までいたそうだ…)
非建設的なやりとりをするよりも、
強引にでもおなじ土俵に立ちたかった自分の気持ちには、
嘘はなかったと思っています。

題詠マラソンは、企画した五十嵐きよみさんがおっしゃるように
ただ走るだけのイベントです。
そこに参加する人たちは、
短歌観についても短歌との関わりかたについても様々でしょう。
良識の範囲内で、誰がどんな意見をどんなやりかたで表明しようと自由なはずです。
わたしはわたしのやりかたでこれからも走りますし、
短歌観の異なる人にヘタクソと言われようが、信じるものを目指したいと思っています。
みんな建設的でいようよ、なんてことも言いません。
でも、傲慢かもしれませんが、目障りなものに対してはまたキレるかもしれません。
そのときはキレた自分の格好悪さを背負って晒してゆきます。

お騒がせしましたが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


[1194] 無事です 2005年03月20日 (日)

地震の件でメールや電話にてご心配いただいた方、
どうもありがとうございました。
こちらは大丈夫です。
福岡や佐賀ではかなりの被害が出たようですね。
被災された方の早い復旧をお祈りいたします。

とりいそぎ、無事の連絡まで。


[1193] 翼竜のことなど 2005年03月18日 (金)

とめどなく届くスパムメールその他にも
もう無表情に対処してしまう状況になってきた。
わずかに面倒なだけだ。慣れは怖い。
それでも若干の殺意をおぼえることは、ある。

題詠マラソンは現在「014:主義」まで。
とにかく執拗でありたいと思うけれど、難しい。
特異な表現をするとかいうことではなくて、
フェティッシュ度を高めるというか、そんな意味で。
言葉の変態になりたい。

眠れずに水を購う 都市に棲む翼竜のことなど思いつつ/ひぐらしひなつ


[1192] バスは道を 2005年03月10日 (木)

歌会。参加者は12名で落ち着いたいい雰囲気だった。
もう丸4年が過ぎたのだな、と言われて気づく。
場としてのレベルは低くないと思う。
スタート当初のことを思えば、
題詠マラソンを完走するほど
短歌に興味を持ったメンバーがいることが、
なんだか奇跡のようで、うれしい。

題詠マラソンは「008」まで投詠。
予想通り今年は苦戦している。
一切の予定調和もわかりやすさに傾くゆるさも
すべてを排除したいと思っているのに、
そうするとなんだか妙なかたちになるのだ。
あー…理に囚われているのかな。
でももう安易な抒情には傾きたくない。

こわれますかね。こわれるだろう。バスは道を、春には春の鞄をのせて/ひぐらしひなつ


[1191] あなたは言うが 2005年03月05日 (土)

どう書いてもうまく書けないような気がして
膿みに膿んでいた原稿をようやく終える。
もっとがしがし書けるようにならなくちゃなあ、と思う。
これにかかりきりで、ここしばらくはほかのことが何もできなかった。

題詠マラソンがはじまっている。
今年のランナーは536名、ログもかなりのペースで増えている。
開始直後のスタートダッシュはものすごい勢いだったが、
昨年の花笠海月さんほどのクオリティを見せた人はいなかったような。
題も、今年はニュートラルな言葉が多くて一見やさしそうに見えるぶんだけ、
それぞれの世界観と腕に大きく拠るだろうと思う。これは手強そう。

毎年、感想のほうは完走できなくて、今年はどうするか迷ったのだが、
やはり「読む」ことの重要さは捨てられないので、書いてみることにした。
ただし詠草も膨大な量になることだし、
無理のないかたちでなるべく遠くまで行けるように
1ログにつきコメントを書くのは1〜2首、あとは歌のみという方法を選んだ。
それでなくともいい歌の読み落としはたくさんありそうだから、
どこまで自分のちからにしてゆけるか自信がないのだが…。

出走は、明日か週明けくらい。じっくり構えて行きます。

夏草が覆う遊具に手をかけてもういいのだとあなたは言うが/ひぐらしひなつ


[1190] うつくしき隙間 2005年02月26日 (土)

つめたい風にあたると気管支が冷えるのか、
咳がとまらなくなって嘔吐。
からだが弱かったのは小学校低学年くらいまでで
その後は大病を患うこともなかったのだが、
高校のころから呼吸器系だけが弱くなり
(それは煙草のせいだと言われてしまうと困るので
 いつだってひたすら平気な顔をしていた)
いったん風邪を引くと半年は空咳が止まらなくなるのだ。
咳をしながらでも、仕事中の煙草は手放せなかった。

歯車のシャフトが折れでもしたかのように煙草を断ったのは
5年ほど前、水疱瘡に罹ったときだった。
三十路の罹病はおそろしい。
顔が無惨に腫れあがり熱っぽかった一週間というもの、
煙草はその存在すら忘れられてしまったかのように
わたしの手に触れることはなかった。
実際、吸うことを思いつきもしなかったのだ。

その後また喫煙はあっさりと復活してしまうのだが
水疱瘡前に比べると量は激減した。
いまは、気管支の具合がよくないときは吸っていない。吸っていないよ。

うつくしき隙間のやうに膝に抱くペットボトルは半ばまで水/岡井隆


[1189] 往復書簡集のぼろぼろ 2005年02月24日 (木)

風邪で寝込んでいたあいだはずっと無理矢理考えごとをしていて、
その無理矢理っぷりは渦中にいても苦笑するくらいだったのだけど、
どうにかして世界につながりたくて、閉ざされたくなくて、
闇雲に突破口を探して端から壁を叩いてゆくような切羽詰まりかただったな。あれは。

目覚めてしばらくはとてもさみしくて、
さみしさがゆっくりと部屋中にひろがってゆくまで茫然としていた。
その穏やかなくすぐったい声が聞きたくて、北のひとに携帯メール。
ものやわらかなことばに包まれながら、そうか、と気づく。
いつかそんなふうにしてもらいたいと思ってたんだ。
それはわたしのつながりたい、たったひとつの。

思考が侵されてしまうほど、
だれかのことばに埋め尽くされてしまいたいと望んだことがありますか。
汚れれば汚れるほど、純度を増してゆくように。

月光の返却口に来て入れる往復書簡集のぼろぼろ/岡井隆


[1188] さんざめく日々そののちの 2005年02月23日 (水)

ようやく風邪の症状が抜けてきて、店番生活にも復帰。
体力が回復しきっていないのか通常より疲労感が大きかった。

舟橋剛二『秘密基地』をreview歌集歌書のEDENに追加。
掲示板で清水さんこと舟橋さん本人が「浅い夢」という連作について
わたしの『きりんのうた。』をいくらか意識した、とおっしゃったので
それも楽しみに読んだのだが、どのあたりが意識されているのかがよくわからなかった。
自由詩との組みあわせが逆に勿体ないようにも思える。
連作では「空を撃つ」がよかった。詳細はreviewにて。
『秘密基地』は北溟社のHPで注文できます。



花森こまさんの個人誌「逸」18号に
短歌15首「風の道」を掲載していただきました。
よろしかったら是非、読んでやって下さいませ。

さんざめく日々そののちのしずけさを栞に青い表紙を閉じる/ひぐらしひなつ


[1187] 書くという跳躍 2005年02月21日 (月)

風邪を引きずったまま歌会のお世話に行くと、
今日は20名を超える参加者が。
うち17名が51首の詠草を提出、進行も駆け足となる。さすがに疲れた。

とくに初心者の選歌は、作品としての完成度よりも
わかりやすさや共感しやすさに重きを置いてしまうので
スローガンやポップスの歌詞のような歌に票が集まりがちになるのだが、
回を重ねるうちに「どう表現するか」の楽しさに関心が向くのは自然の理なので
気長に楽しく続けてゆけたら、と思っている。

見た目に詩的でなどなくてもいい。
書くという跳躍によって生まれる飛距離の大きさを。

帰りに「歌壇」3月号を買って大急ぎで帰宅。
歌会の部屋が寒かったせいか風邪がぶり返して、また寝込む。


[1186] あそんでないのに 2005年02月16日 (水)

現在、スケジュールが密になっています。
メールのお返事などレスポンスもろもろ遅れておりますが、
もうしばらくお待ち下さいませ。なにとぞひらに。


[1185] ふゆがきても 2005年02月13日 (日)

それが自分のものであっても他人のものであっても、
虚辞という虚辞を疎んじてしまう。
潤滑剤だとあたまで理解していても。
乱暴だから、雑だから、嘘になり真実から逸れてゆくのだ。
そんなふうに世界を自分を嫌悪しながら
いま自分は客観性を欠いている、
という疑いと怖さから逃れられない。



すこし目先を変えてみようと、
今日は現代詩の本を何冊か。
多くは80年代に書かれたもので、
原点に帰るようなつもりで。

ひくき墓石へからまる蔦よふゆがきても麦畑にゐます 弟テオと/日置俊次


[1184] ジャックポットのひぐれをこえて 2005年02月12日 (土)

いろいろなものを読んだり書いたりの日々。
読者への言葉の届きかたを計ってみたりもするのだけど、
人の自意識はここまで核を歪ませるのかと、
思わず我が身を振り返ってみたりする。
互いにきちんと受け止める姿勢が大前提でないと
もちろん深いレベルの対話は成立しないわけだけれど、
でも、ごくひと握りのそんなひとに出逢うために
こうして毎日活動しつづけていると、
絶望的に徒労感を覚えて弱音を吐きたくなる日も、まま、ある。



正岡豊『四月の魚』はほんとうにすてきだ。
こんなに純粋に読者に愛される歌集は、それほどにはないのではないか。
単行本は品切らしいけど、増補版を「短歌ヴァーサス」6号で、読めます。

永井陽子さんの歌集も、愛される本だと思う。
その世界につづく扉の鍵がかちりとひらいた瞬間から、
有無を言わさずさらわれてしまうような魅力。
でもそれは決して日常から遠い世界ではなくて、
ていねいに生きることのできるひとだけが
鍵を手に入れることができるような。

ジャックポットのひぐれをこえてきみのいるアパートへ天の階段のぼる/正岡豊


[1183] 整合性、連作、硬直したイメージ 2005年02月06日 (日)

■たやすく説明できるものに対する疑念。
安易に成立する整合性には
辻褄あわせや恣意的なちからが働いている可能性があるので、
繊細なものを取りこぼさないためにも
まずは疑ってかかった方がいい。

■連作の方法。
連作はもっと自由であるべきだと思う。
独立した一首一首が多面的に主題を浮きあがらせるような
もっと違った手法を認めることができれば、
一首に可能になる表現の幅はさらにひろがるはず。
あるいは地歌を徹底的に排除したやりかたも。

■歌語としてのイメージ。
歌語になった瞬間から言葉はあるイメージを孕むが、
それをどこまで利用するか。
ひとつの言葉にひとつのイメージが固定されることを
どこまでよしとするか。
硬直したイメージが大前提になれば
それを裏切ることも方法のひとつとなるが。


[1182] 思い出さずに観る 2005年02月02日 (水)

今年最初の企画展、無事終了。
同時に春の予定が動き出す。休む暇なし。

企画展中にとどいた岡井隆『馴鹿時代今か来向かふ』、『永井陽子全歌集』を読む。
題詠マラソン2005への参加表明を済ませる。
大分在住のメンバーではじめた「十月の雨短歌会ML」、合評会の進行。
ここからが難しい、というところで途方に暮れる昨今。



枡野浩一さんの『かなしーおもちゃ 〜あるある短歌1〜』の感想を、
歌集歌書のEDENに書きました。読んでください。



題詠マラソン2005については以下の通り。
今年は参加者ひとりひとり宛てのメールでもルールが送付されます。
しっかり読んで、スタッフのみなさんの負担を
増やさないようにしましょう。わたしも読みました。

----------------------------------------------------------------
「題詠マラソン2005」開催のお知らせ

今年も「題詠マラソン2005」を開催します。
ただいま、参加のお申し込みを受付中です(2月28日正午まで)。
どうぞ、ふるってご参加くださいませ。

2003年にスタートした題詠マラソンも、今回で3回(年)目を迎えました。
今年も大勢の方と、100首の道のりを一緒に走れたらうれしいです。
100首を完走する意気込みのある方なら、どなたでも自由にご参加いただけます。

くわしくは、以下のURLにアクセスして、ご案内をご覧ください。

(題詠マラソン2005の会場)
http://www.sweetswan.com/daiei-2005/index.html
----------------------------------------------------------------

もういない妻とのチャンネル争いを思い出さずに観る巨人戦/佐々木あらら


[1181] 沈着と定義づけ、ふと実相観入 2005年01月25日 (火)

今日は父の祥月命日。
亡くなってから三年が経過して
すこしずつ落ち着いてきたような感覚があるのだけれど、
それは癒えたというものではなく、
喩はよくないけれども
陽灼けのあとに色素が沈着してゆくような。



総合誌をぱらぱらとめくるも集中できず、
あちこちのサイトをつれづれにめぐっていた。雑感、以下に。

梨の実通信BBSで五十嵐きよみさんが続けている討論、
ずっと読んでいるがやはりオンラインでの「ネット短歌」の定義づけは難しい。
むしろそういうカテゴライズ自体が誤りであるという方向に進むのが
わたしのなかでは理想だと思い描いていたのだけれど、この展開は。

斉藤斎藤さんの掲示板にURLが書かれていたので気になってのぞいた植松大雄さんの日記
21日付の記述をとても不思議な気持ちで読む。
植松さんは「ネット短歌」というものを、どう定義づけているのだろう。
わたしは彼の作品も「ネット短歌」と呼ばれる範疇に位置すると思っていたのだが…。

24日付のogihara.comで荻原裕幸さんが
岡井隆さんの歌集『馴鹿時代今か来向かふ』について記述している。
あいにくまだその歌集は未読なのだが、
大島史洋さんによる書評を新聞で読んだときから
この歌集自体が荻原さん(およびその活動)に対する返歌なのかな、と想像していたので
荻原さんがどう読んだかがとても気になっていた。今後またなにか書かれるのだろうか。



市役所で順番待ちのあいだ、ふと実相観入などしてみる。
携帯メールで送ったメモを家で読み返してみたけれど、
やっぱりしっくり来ない。この「しっくり来なさ」をもうすこし。


[1180] 絶賛という誤解 2005年01月23日 (日)

昨晩は音楽仲間の新年会で、ひさしぶりに仕事以外で人に会った。
出かける前はひさびさの刺激に対して臆病になったりしていたが、
会場に着いてみたらやっぱり仲間と会うのはうれしいことだった。
それでも疲れやすかったので、早めに帰宅する。

今日読んだ本、「井泉」、「短歌研究」、「歌壇」。
店番の合間だったのでいずれもまだ斜め読みだ。

清水幸多さんが日記で、ここの18日の記述などに触れて下さっていて、
そのことを掲示板で報せてくれた。感謝。
ただ内容的にちょっと認識の行き違いがあったようなので、
回答も掲示板の方に書かせていただいた。
んー。矢部作品と笹作品、「絶賛」してるつもりはなかったのだが。
こちらの考えがなるべく曲解されることなく伝わって初めて
その後の展開も成立すると思うので、
誤解された状態で取り上げられるのは困惑するけれど、
その誤解を解く過程もほかの人たちにも読んでもらえるのだから、
それはそれで大切だし、と思う。

企画展日程もようやく折り返し地点を過ぎた。
普段は接点のないひとたち(小学生とか)に会えるので面白い。


[1179] 企みとか重心とか 2005年01月18日 (火)

今年最初の企画展が、ようやく始まる。
始まるまでは大変だった。
店内を大きく変えたので、結局また初日の朝までごたごたしていた。
週末スタートだったのもちょっときつかったかも。

今日はひさしぶりのオフで、
書店を4軒、ギャラリーを2軒まわってきた。
3つのギャラリー関係者が偶然行きあって
次は3店合同企画展を、という話になる。
女3人でなにかを企むのは、限りなく楽しい。



五十嵐きよみさんのBBSで、ネット短歌/歌人についての
アンケートにもとづいた討論が行われていて、
なんとなく発言できないままROMしている。
「ネット短歌」「ネット歌人」という語を
批判的に使っている側からの
作品にもとづいた具体的な批評がなされていないので
どうにも手のつけようがないというのが
最近までの状況だと思っていたのだけれど、
たとえばこういった討論もきっかけのひとつになって
実体のない印象批評が無化されてゆけばいいなと思う。

それから「主題中心主義」と「表現中心主義」について。
わたしは主題と表現は切り離せないことを大前提として表現を重く見ているので、
その二項が対立することになってしまうのが、よくわからない。
レトリックとはあくまで主題を強く遠くまで届けるための表現技術なので
それを視野に入れない「中心」はありえないと思われる。
ただ批評するとき「いかに書くか」ではなく「何を書くか」に重心がかかりすぎると
自己像の価値を問う方向に傾斜してしまうので、
書き手として立っている場所を基点として
読み手となるときには「いかに書くか」の側に
重心をわずかにずらす感覚でいる。ほとんど無意識に近いけれども。



歌集歌書のEDENに田丸まひるさんの『晴れのち神様』の感想を書きました。
発行日最新順なので下の方に行ってしまいましたが、御一読下さい。


[1178] 罰だったのよ 2005年01月06日 (木)

「月刊短歌通信 ちゃばしら」号外で正岡豊さんの新作を読む。
短歌をはじめて間もない頃『四月の魚』の存在を知りとても心動かされたのだが、
それ以来まとまった分量の作品を見ることができなかっただけに、うれしい。
『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行されたが
部数も少なくすぐに入手できなくなってしまった、いわば幻の歌集だった。
しかしインターネットで荻原裕幸さんたちが紹介するうち
見る見る正岡さんの歌に心惹かれる人たちが現れ、
ついに再版、それもすぐに売り切れてしまった。
正岡さんは早すぎたんだろう、と思う。
いや、正岡さんが早かったのではなく
本当はまわりが遅かったのだろうけれど。

よく正岡さんの日記で垣間みる「当時」とその時代への言いようもない思いを、
短歌史のひとコマとして確かに見るような気がしながら、
とくにこれらの歌に身を委ねた。

夕闇というなめくじにきみが塩かけたからほらはつなつがきた
「指揮官の悪い部隊は全滅する」と夏雲の下わたしをなぐれ
さみどりの蝉の匂いがするようなタオルをきみが取り込んできた
燃える水 嘘 ほら あれは金星のゆうよどみたるまほらのひかり
ビッグ・ブリッジ いつも黄色いタンポポは雨に陵辱され続けてた
ビッグ・ブリッジ お互いを疑い過ぎたカモノハシとカモノハシは泣いた
ビッグ・ブリッジ 十年は実は二十年、罰だったのよライト・ヴァースも

挨拶と滑稽とうすぐもりぞら そっとあなたの傷に触れつつ
そっとしてぼっとして運命の火のレコード針をこころに落とす
ばかね子供が金魚すくいが下手なのは当たり前でしょ ショスタコビッチ
帰ればいいよ帰って眠るそれだけが鯨になるのを防ぐ方法
ふゆざくら 階段をおりればそこに世界はなくてホットミルクが
ささやかな冬のわたしのまちがいをティッシュでそっとぬぐってくれた
馬にやるうまごやしよりあかるくてぼくに見えない天の北極

『四月の魚』は、1985年までに同人誌に発表された作品から
荻原裕幸さんの選によって45首が加えられた「増補版」を
「短歌ヴァーサス」第6号で読むことができます。是非に。

それから、正岡さん。第二歌集、待ってます。

いよいよ開催の迫った正岡さんの朗読イベント、掲示板にて告知してます。
お近くの方も、お近くでない方も、是非。


[1177] 迷わないのは 2005年01月04日 (火)

最近この日記や掲示板で短歌について書き散らしているので
それなりにあちこちで反応をいただいたりするわけですが。
なんというか、やたらと二元論で考えたがる人が多いですね。
伝統に対する「for」か「against」か、という言い方もされたのですが、
んー、確かに伝統に喧嘩売ってるように見られても仕方ないんですかねえ。
あたしは伝統の最先端だと思ってるんですが。(笑止?)

少なくとも体感として「against」ではないです。
現在までの歴史に対しては全面的に肯定するとは言えないまでも、
その内部に含まれつつあたらしい豊かさを求めてゆこうと思っています。
前衛短歌のときもそうだったのだろうし、
ニューウェーブのときもきっとそうだったのではないかと
あたしは想像しているのですが、どうでしょう。

なんだか抽象論に終始しましたが、疲れたので今日はここまでということで。

夕焼が商店街を照らすとき迷わないのは信号機だけ/玲はる名


[1176] あけましておめでとうございます 2005年01月01日 (土)

昨年は第一歌集批評会をひらいていただき
次への大きな課題を示された実感を得た、貴重な年でした。
今年はそれに応えるかたちで頑張ります。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


[1175] 木からはみだすさみしさ 2004年12月30日 (木)

ここのところ意識して短い散文を書くように努めているのだけど、
毎日何かしら短歌以外のネタを探すのは結構難しい。
雑誌の記事書きは最初の切口探しさえ終わればあとは美しい文章職人なので、
切なくも楽な商売だったんだなと、あらためて思う。

昨夜はどこで逸れたか、結局「短歌ヴァーサス」6号をすみずみまで読む。
いつも離れた場所からエールを送って下さる江戸さんや大辻さんたちに応えるためにも
来年はもっと頑張らなくちゃな、と決意を新たにしてみる。

作品は、矢部雅之と笹公人が面白かった。
たぶん飯田有子の「ブス」騒動と端を同じくする批判が生まれることは予測できるが、
でも、モチーフが笑いに傾斜しているだけで文体や方法は実にクラシカルなので、
飯田有子の作品よりもわかりやすいのではないだろうか。
そしてどちらの連作も、笑いだけでは終わらない、
大袈裟に言えば生命のかなしさといったような叙情的な読後感がたちあがるのである。
笹さんの最後の俵万智パロディには徹底的にやられた、と思った。
俵万智を知らなくてもおかしいけど知ってるとなお笑える、という
歌壇のありようを見事に押さえているあたり、
これを前向きな揶揄と捉えるかどうかは読者によるのだろうけれど。

30首、20首、15首のページをぱらぱらと梯子しながら、
作風によって心地よく読めるボリュームの違いを確かめていた。

木からはみだすさみしさがもし花ならば 道化師の瞳の星型の紅/正岡豊


[1174] きっとあなたはめをとじている 2004年12月29日 (水)

明け方までルーティンワークにいそしんでいたら
今日はなんだか喉が刺すように痛かった。
朝には雪、という予報だったので
雨が雪にかわるところを見極めようと思って起きていたのに、
結局朝になっても雨は雨だった。
久住はもうチェーン規制らしい。冠雪の由布岳が見たい。

オーバーヒートしないように、
適度に気持ちを逸らせつつ。

今夜はこれから『夕暮れから曙へ』を読みます。たぶん。

天沼のひかりでこれを書いている きっとあなたはめをとじている/穂村弘


[1173] マッチョな短歌 2004年12月28日 (火)

12月23日付の菅野耕平さんの日記にまつわる同26日付の荻原さんのブログを読んで、
むかし参加した歌会で、ある詠草に対して一人のメンバーが言ったことを思い出した。
未熟だった頃の体験に即して書いてみる。

「あなたの人生が特別なものだなんて思ってはいけない。
 ありふれた人生の取るに足らない日常些事を題材にし、
 多くの人の共感を呼ぶのが優れた歌の条件である」

彼女の評はだいたいこんな内容だった。
大もとの発言の意図は、まあ、想像すればできなくはない。
入門書にもよく書かれているし、セオリーとして語られることも多い。
つまりこれが荻原さん言うところの

「個人的な時空が普遍的な(これは「一般的な」と言うのが正確かも知れない)
 何かを象徴的に表現する、という考え(ないしは作者や読者の無意識の約束)」

の実践篇とも言うべきものだと思うのだが、
当時初心者だったわたしはかなりショックを受けた。

 ありふれた人生の取るに足らない日常些事をこまめに拾いあげ、生の一回性を謳歌せよ。
 そうすれば読者の共感はおのずともたらされるであろう。

…なんてマッチョで体育会系でマゾヒスティックなのー。
でもなんだか最終的なところでものすごく楽観的な気がするー。

いや、もちろんその方法に則ってつくられた秀歌はとてもたくさんあるし、
これからもその方法に則った立ち位置から秀歌はたくさん生まれてくるだろう。
でも、それがすべてか? それは絶対か?

そんな当時の実感として語れば、
わたしには「読者の共感」というものが信じられなかった。(今もだけど)
「共感される歌」が「いい歌」なのか?
それでは読者にとって作中主体と何らかの部分が重なる歌が、
(たとえ技術的に未熟なものであっても)
いい歌だということになってしまう。

いや、それよりもっと感覚的なところで、
自分の提示したものに対して「それってわかるー」と安易に言われてしまうことに
ものすごく抵抗を覚えたりしないのか君たち、と思っていたかもしれない。
絶対わからないと思うもん。あなたのこともわかれないし、と。
いまよりもっと幼い考えだったけれど、
三つ子のタマシイ百までである。いま二十歳くらいまで来ただろうか。

さらに言えばわたしは、自分の肉体をも信じることができないのだった。
そんなわたしはマッチョな短歌の世界で迷子。
ずっと迷子のまま書いてきた。

自己像の問題は別に目新しいテーマじゃないと言う人もいるけれど、
でも、いま、また新たな展開がこの切口に訪れているんじゃないか。
そんな気がしている。しているけど、自分なりの結論は、まだ見えてこない。


[1172] きゅっとないたあたりから 2004年12月27日 (月)

終日、来年一発めの企画展の準備。
話が伝わらないことにイライラしたり手短かにやってくれと思ったりするのは
自分自身がいっぱいいっぱいなんだろうとわかってはいるのだけど。
家の人が焼肉を食べたいと言うので、つきあう。あまり食欲なし。

ここのところ続いたイベントや「短歌ヴァーサス」6号の特集などのせいか
ネットのあちこちでちいさな噴水のように関連する記述が散見されて、
それら断片をひろってゆくと、少しずつではあっても
ある仕掛けに応えうるものが育ってきているのかな、という感触を得る。
一見ばらばらの方向に見えるけれど集まれば大きな波になるもの。
その光景が、ちょっと感動の前触れめいていた。
前触れだけで終わらせないように。

夜、ちまちまと書簡の整理。某歌会への詠草を提出。昼は眠いのに夜になると目が冴える。

つぶしたらきゅっとないたあたりから世界は縦に流れはじめる/東直子


[1171] その中で泣け 2004年12月26日 (日)

精神の触れ幅が大きくなるので、この時期は本当に苦手だ。
あえて目をそらすように、今日もせっせと書斎の整理。
気を遣っているつもりなのに膨大な紙ゴミが出ることに憮然とする。

午後、短歌ヴァーサスWEBの荻原さんの「次波考」を読んであかるく複雑な気分になる。
偏向しないように見えたり無方向に拡散しているように見えたりするのは
主にインターネットで活動している人たちのなかに
短歌史と無縁の場所に生きる人がかなり多く存在するからなのだろう。
従来の短歌における価値観を無化してしまうほどのすごいなにかが生まれるとしたら、
でも、次にくる価値基準はいったいどんな姿をしているのだろう。

パソコン通信時代に参加していたオンライン歌会や
現在お手伝いに行っている心療内科のデイケア歌会において、
奇妙なことにというかまっとうなことにというべきか、
何度も困惑してきたことがある。
のびのびと短歌をつくりはじめた初心者が
入門書を読んだり結社に入ったりすることによって
非常に面白みのない、没個性的な歌をつくるようになるのだ。
個性をのばしてくれる指導者のいる場や
自分にあった場を選ぶことができればいいのだろうが、
その選択が失敗したケースを、いくつも見てきた。
技術的にかたちが整うようになることはもちろん大事だが、
そのために歌がつまらなくなるのだとしたら、
そこで得られる短歌観とはなんなのだろう、と思う。

たぶん従来の価値の比較や否定から生まれるものではなくて、
なにもないところからそれは生まれてくるのかもしれず、
すこし目先を変えて自由に考えてみようかと思ったりした。
伝統と比較するのはそのあとの話なのかもしれない。

戦いにゆく夏の日のひまわりが影投げかけるその中で泣け/正岡豊


[1170] ずれはじめたる真夜にして知る 2004年12月25日 (土)

昨日一昨日と発熱してちっとも仕事にならなかったが、
今日は今年最後の営業日でなんとか開店。客足もぼちぼちでいいペースだった。
あたまがぼんやりしているので「短歌ヴァーサス」第6号のつづきは保留。
大掃除の手始めといった感じで、書斎の、主に書棚を整理した。
手をつけてしまったことにちょっとだけ後悔しつつ、深夜、中断。

捨てられずに何年分もたまり続けてゆく総合誌や結社誌、
みなさんはどうしてますか。



ああ、れいこ姐、
「ひぐらしひな津」には爆笑したから。ちょっとくやしい(笑)。
「みゅう更新日記」12/20付参照)

はげしき人と知る 月と月の光とがずれはじめたる真夜にして知る/正岡豊


[1169] 夢のすべてが南へかえりおえたころ 2004年12月22日 (水)

夕刻、「短歌ヴァーサス」第6号が届く。
待ちに待った、という感じでいそいそとひらいて
表紙に一瞬驚き、にやりとしてしまう。
正岡豊『四月の魚』増補部分を読みたくてうずうずするが、
まずは目次をぱらぱらと見て、
とくに作品20首のあたりでをを、と声が出る。すげえ。

今日のところは何もかもさておいて、
吉川さんと荻原さんの対談「リアルな[歌]のありか」に集中する。
最近自分が拘泥し足が鈍っているところにど真ん中ストレートなテーマで、
わたしがやりたかったことがもっと高度な次元で実現された!という昂奮があったのだけれど、
それだけに読むだけで禿げそうだった…。
とても一気には読めず、この対談だけで3時間近くかかったのだ。

雑然としたままに印象をメモしておく。

・飯田有子『林檎貫通式』や斉藤斎藤『渡辺のわたし』で
 作者が志向〜試行し提示したことは
 受け入れられるか否か以前にこんなにも理解されていなかったのか、というショック
・従来の読みのコードがすでに成立不能になっているのか、
 それともそう思わせる作品がよくないのか、という点においては
 吉川さんも後者(自己像→リアル)の観点のみに立っているわけではないようだ
・わたしの歌に対する江戸雪さんの
 「一首単位では魅力的なのに歌集になるとぼやけた印象」
 という繰り返しなされる評は、
 どこか体育会系の先輩に言われているような居心地の悪さも伴いつつ、
 批評会のときに感じたのと同じ「そこから先へ行けない感じ」が絶望的である
・受け狙いもパフォーマンスも修辞に収斂されてゆくものとすれば必要な要素だし、
 そもそも根底に作歌へのモチベーションが存在しなくては歌など詠まない。
 発表した作品に対しては(歌会でもない限り)すぐに反応が返ってくることなど稀少である。
 内面をいかに言語化するか努力してないように見えるとすれば、
 それはやはり読みのコードが硬直しているからではないだろうか
・結社においても選者への受けを狙うことはあるわけだし、
 無所属歌人の(しかも地方在住の)切実な孤独感も想像してみてくれい。
 などと叫びたくなるのは、これは議論において「歌壇/非歌壇」の二極化を招くのでやめましょう。
 …ということを、おしなべて吉川さんにお伝えしたい
・飯田有子の連作を読んだとき吉川さんにそれが連作という印象が希薄だったのは
 自己像を求める読み方でテキストに向かっていたからではないのか
・自己像をたちあげない方法を肯定するにせよ否定するにせよ、
 双方からの論理の構築が必要であるのでどちらも頑張れ(わたしも)

夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ/正岡豊


[1168] クロード・モネのかなしみに会ふ 2004年12月21日 (火)

朝から外出して所用を片付けようと思っていたのだが、
風邪のせいなのか昨日の模様替えのせいなのか背中が痛くて
結局最優先事項だけを済ませて帰ってきてしまう。

居間でこたつに入って『西美をうたう』を
シンプルに楽しみながらぱらぱらとめくった。
素直すぎ説明しすぎという印象のものが多い中で、
穂村さん紫苑さん谷岡亜紀さんの作品が好みである。
尾崎左永子さん三枝昂之さんもいいな、と思った。
小池光さんがデューラーの版画につけた歌はそうきたか、という感じ。
独自の鑑賞によって補完しつつ主題を突き抜けてあらたなる地平へ。

なんだかラディカルな方向に行きたくて、
そんな自分をなだめてもみる深夜。
今夜くらい早めに寝なくては。

観入りつつ水のひかりに視られゐるクロード・モネのかなしみに会ふ/島田修二


[1167] 遠浅をなす睡りにて 2004年12月20日 (月)

たぶん大掃除は大晦日だけでは終わらない、と踏んで
ちまちまと気づいたところを片付けていたのだが、
今日はあたらしい書棚置き場をつくるために
半日かけて大きな模様替えに着手した。
肝心の書棚をまだ購入していないのが不安の種なのだけど。

入手した本。
『夕暮れから曙へ』櫻井琢巳(本阿弥書店、1996)
『テクストを遠くはなれて』加藤典洋(講談社、2004)

なんだか気分的にざわざわしている。
読むとは本来どういうことだ、と考える。説明は要らない、と思う。

遠浅をなす睡りにて難破船しづかに波を引きよせてゐつ/河野美砂子


[1166] 逆さの君が 2004年12月18日 (土)

「歌集歌書のEDEN」に佐藤理江第二歌集『箱船』を加えました。



なんとなく発熱。
昼過ぎまでベッドでふわふわと岡崎京子を読みあさる。
午後ともだちに電話。本のことやさまざまな情報を教えてもらう。



わたしにとって社会詠が難しいのは、
巨大な物語のように見える世界のそれぞれの局面を見るにつけ
自分の立つ位置がゆらゆらと揺らぐからなのだろう。
歌ということではなく
ひとつの定位置から発する言葉の力強さを
わたしは逆に危うさを孕むものだと感じてしまうのだけれど、
明確な主張が必要とされることが、多々あるものだとも思う。

短歌という詩型はそのゆらゆらと揺らぐ感じをも包み込んでくれるので
それはそれで挑めないことはないのかもしれないが、
たとえば今日『箱船』を読みながら
佐藤理江さんは社会人として闘っているよなあと思い、
ひたすら内側をなだめすかすことで精一杯なわたしのことを
ずいぶん不甲斐なくも感じたのだった。

網膜の丸みに添つて張り付いた逆さの君が眼底に立つ/佐藤理江


[1165] 欠けたままでかまわないのに 2004年12月16日 (木)

動くこと考えることをやめると泣き出してしまいそうなので、
寝落ちするぎりぎりまで何かをやっている今日この頃。
毎年、この季節は苦手だ。

久住高原の一面のすすきをはしからはしへとわたる風や
大観峰の断崖の底から湧きあがってくる雲や
去ってゆく車の屋根がさいごまで見えているゆるやかな勾配の
そのただなかに置き去られたいと思う。



せっかくだから誰かとなにかをやってみようかと
思うこともあるのだけれど、
むしろやってみたいと思うのだけれど。
協調性がないのではないと思うのです。
うまく協調できない気がするのです。わたしのあたまがわるすぎて。



本棚が欲しい、古くて大きな本棚が。
机にスペースがなくなりました。

欠けたままでかまわないのに月はまた律儀にまろき形となりぬ/後藤由紀恵


[1164] 伝わらぬ言葉ばかりが 2004年12月15日 (水)

「歌集歌書のEDEN」に後藤由紀恵歌集『冷えゆく耳』を追加。
収録歌数が多くテーマも読み応えがあったので長くなってしまった。
このブログ、リストをなかなか増やせないのだけれど
先日、本田瑞穂さんの『すばらしい日々』にトラバがあったのでうれしかった。
それにしてもGoogleの検索機能、なぜ働くようにならないんだろう。

ここのところ意識的に散文をたくさん書くように心がけている。
ライター稼業から足をあらってからというもの、
一日に書く文章量があたりまえだけど激減したので
筋力が鈍っているような気がするのだ。
というわけでしばらくリハビリの日々である。

それにしてもあたしの名前は間違えられやすいらしい。
今日も「ひぐらしなつ」名義で郵便物が届いていた。
「ひぐらしひな子」よりはありえそうだけど(でもこれも実際にあったのだ)、
そんなに難しい名前ではないと思うのだが。
同じ平仮名7文字でも「なかはられいこ」なら
絶対に「なかはらいこ」とかにはならないんだろうし、
きっと「なかはられいら」になることもないと思う。
ちょっとへこむ。

伝わらぬ言葉ばかりがわたくしの水脈ふかく鎮もる夕べ/後藤由紀恵


[1163] 遅読な自分 2004年12月14日 (火)

結局昨夜も夜更かしになってしまって、
というかほとんど朝だったので
家の人を送り出してからもう一度寝る。
途中で知人から電話がかかってきて、
たぶんちゃんと話したはずの朧げな記憶はあるのだが
電話があったこと自体を思い出したのが
19時間くらい経ってからだったのがものすごく不安…。

午後、1ヶ月後に迫った企画展のうちあわせ。
あたしの手作りの額縁、というか標本箱めいたものを
非常に気に入ってもらえたのでほっとする。
現実世界とも空想世界とも接点を持つことを拒んでいるような
実にふしぎな感触の作品をはさんで、
制作過程で意識/無意識の顕ちあがる領域についてとか
販売目的でひらかれるクラフト展の孕む危うさとか
地域的・ジャンル的共同体に引きずられる煩わしさとかについて
暗くなるまで話し込んでしまった。でもこの6時間は惜しくない。

今日も『臨床文学論』は読み終わらず。遅読な自分がキライ。


[1162] かけがえのない鳥が飛びたつ 2004年12月13日 (月)

週末の疲れが出て今日はまったりと過ごす。
近藤裕子『臨床文学論』と斉藤斎藤『渡辺のわたし』を
だらだらと読み返していたりした。
隣家が台風でこわれた外壁を修理しはじめたので
一日中ものすごい音で集中力を欠く。
夕方たまらずに出かけたら、埠頭の大工事がはじまっていた。
春に解体された倉庫、もうじき痕跡もなくなるらしい。
家の真正面がフェリー乗場になるのもなあ…。
ウォーターフロント開発とか言って
西大分らしさのない無表情な街にかわってゆくのかと思うと
ちょっといたたまれないものがある。
目をあげれば蔦に覆われた古い大きな倉庫があったことを、
ときどき錯覚のように思い出す日々だ。
気のせいかこの冬はなんだか雲の表情まで違う気がする。

懸命にことば足してもあなたからかけがえのない鳥が飛びたつ/ひぐらしひなつ


[1161] 具象と抽象とのあいだ 2004年12月12日 (日)

爆睡したので朝は思ったより元気に目覚める。
シャワーを浴びて10時にロビーで島さんとまちあわせ。
話題のティルマンス展を見るためにオペラシティに向かい、
12時になるまでとカフェでそれぞれコーヒーを2杯飲む。

ティルマンス展、展示レイアウトも含めて新鮮だった。
目の高さにあわせた展示を、と決めつけていたけれど、
逆手にとることも一案なんだなと。
具象と抽象とのあいだを揺れ動きながら、
しみじみと見入ってしまう作品もありつつ佐藤りえさんと合流。

昼食をとり終えた頃、菊池典子さんも来てくれる。
飛行機の時間の都合でもう行かなくちゃ、と言ったら
空港まで送ってくれた。
このひとにさわられるとじんわり泣きたくなるあたしである。

悪天候と乱気流のせいで大揺れの飛行機のなかで
ひとりになってぼんやりと考えを練りなおす。
結論を出すのが苦手な優柔不断さをこらえて、
とりあえず現時点での考えの骨格を強化しなくてはと思った。
揺れに揺れて到着の遅れた飛行機からぐったり降りて、
迎えにきてくれた家のひとに回収されたのが19時前。
昨日のメモをまとめなおしたりしていたらあっというまに日付が変わって、
早くもまたまた睡魔がにじりよってきているのだった。


[1160] 岡井さんと枡野さん。 2004年12月11日 (土)

早朝自宅を出発、10時半羽田着。
お茶の水三省堂で佐藤りえさんと合流し昼食、すこし早めに会場の専修大学へ。
菊池典子さん伊津野重美さん魚柳志乃さん島なおみさん
黒瀬珂瀾くん斉藤斎藤くん中島裕介くん田中啓子さんらに会える。
写真家の日野由紀子さん、きれいなひとだった。ちょっと得した気分になる。
(そういえばひぐらしは人のお顔を覚えるのが、これはもう欠陥かと思われるほど実は不得手です。
もしも失礼があったら本当にごめんなさい。悪気はないです。人様に会うのは緊張します。)

岡井さんと枡野さんのトークショーはとてもあかるい雰囲気の展開だった。
枡野さんのピュアなまっすぐさが、狙ったわけではなく
岡井さんの純粋ななにかを引き出してゆくような気持ちよさがあり、
双方の魅力が噛みあいながらそれぞれ存分にひらかれていたと思う。
とにかくお二人とも人前に自分をさらすことに関してはプロなので、
そのやわらかで高度なせめぎあいを見るだけでも十分に満たされるくらいだった。
「短歌は魔女だから」とさらりと言う背後に垣間見える
岡井さんのたどってきた時間を思うと、
それはどこか父のそれとも重なるところがあるような気がして
その降り積むような重さの前にしずかに圧倒される。
ほんとうにたくさんの歌人たちが
真摯に敬虔にしたたかにしなやかに向き合ってきたなかで、
この短歌という詩型は魔性を孕んでいったのだろう。
それにしても最初に企画を聞いたときは「またアクロバティックなことを…」と思ったが
さすが荻原さんである。司会おつかれさまでした。
そしてこの日記を読んで「悪霊退治ってなに?」と訊ねた斉藤斎藤くん、
きみは鋭く笑いのツボを突くね。

懇親会では岡井さんにヴァーサス5号の書評のことを
「とても含みのある書かれかたでストレスを溜めながらうれしく読みました」と御礼を伝えて、
くだんの「流行り」についてもお話を伺うことができた。
あたしが「渦中にいる者としては『流行り』とは意地でも思いたくないです」と言ったら
満面の笑みでうんうんと頷かれてしまったけれど、
それがあたしの現在の謙虚で誠実なスタンスなので、当面は信じてやるしかないのである。

解散後、最終で帰名する荻原さんと東京駅に向かう。
八重洲地下街の喫茶店で佐藤りえさんとふたたび合流してうちあわせ。
うーん、がんばろう。>りえ氏
荻原さんを見送ってりえちゃんと少し立ち話をしたあと、
島さんも泊まっている新宿ロイヤルホテルにチェックイン。
徹夜明けでようやくたどりついたベッドに、寝ないと死ぬ、と倒れ込んだら
銀座にいるレイハルから電話。大爆笑長電話をしたあと、こときれたように眠った。


[1159] 結局眠れずに 2004年12月10日 (金)

6時前には家を出なくてはならないのに、
もうこんな時間ではないかー。
もう寝る暇ないな、たぶん。(諦)



昨晩の日記、島なおみさんの日記の引用部分だけを読んでいただくと
誤解を与えてしまう可能性がある旨、島さん本人からご指摘いただきました。
是非とも島さんの日記全文を読んでいただけるとうれしいです。
こちら。→ http://absolutepitch.jugem.jp/
掲示板にて島さんと関連のやりとりをしています。
こちらもご参照下さいませ。→ http://bbs1.dk-style.jp/?id=aquarium
まぎらわしくてごめんね。>島さん



というわけで、行って参ります。現代文学会のイベント。
わたしにとっては今年最後のイベントになりますね。
来年も、今年出た歌集の批評会など
これは見逃したくないなと思う企画がたくさんあります。
時間も体力も交通費も厳しいけど、がんばります。

なんでもテロ対策で今日から旅客機に私服の武装警官が乗ることになったとかで
実に物騒な空気なんですが、
やっぱり短時間移動には飛行機が便利ですからねえ。
さて、企画書をプリントアウトしたら鞄に荷物を詰めなくては。

行ってきます。


[1158] 流行は萩原だけにせよ 2004年12月09日 (木)

いい加減睡眠不足がつづくと半壊状態になってきます。
最近ちょっとハマっているのが、
敬愛してやまないドラマー・小畑ポンプさんたち
ポルノグラフィティのサポートミュージシャンの面々が
期間限定でやってるブログ「さぽーとさん」
みなさん多忙のあまり気持ちよく壊れっぷりを晒していて、
とくにプロデューサーakさんのRockなありようが素敵なのです。
一流の仕事をするひとたちは壊れるときも一流です。
あたしみたいな半端野郎は、壊れるには百年早いという気がしてきます。



先日、島なおみさんの12月3日付の日記のなかに
こんな記述を見つけて、何度か繰り返し読みました。

 「『なにが』『だれが』の部分をあえて詠まないで、読み手に考えさせる歌、
 骨がなくて、肉だけの歌。ぼくもつくってるけど、流行ってますよね。いつ
 まで流行るか、だけど」

 そかー。それは"はやり"だったのかー。
 「そういう歌の多くはそういう風にしかつくれない人がつくってる」みたい
 な言説があちこちにあるのを見ていた私は、そうなのかな…そうかもしれな
 いがと早合点しそうになっていました。流行りだったら仕方ないよね、流行
 りなんだから。

全文を読めば書いてあるけれども、これは東桜歌会での岡井さんの言葉です。
島さんはこの発言をある程度距離をもって受けとめておられて、
「はやり」であるということに対しても
短歌史の大きな流れのなかで捉えて達観しているように見受けられました。
まあ岡井さんの歌歴を前にしてはそうならざるを得ない気もするのだけれど、
んー。

どうもあたしはひねくれているのか視野が狭いのか、
流行り、と言われるとぴくっとなってしまうのですね。
だって、まずねー島さん(唐突に語りかけ)、
「そういう風にしかつくれない人がつくってる」歌も確かにあります。たくさんあります。
しかしですね、敢えてそういう方法を選びとってつくっているひともいるわけですよ。
…というあたりまで本当は彼女もわかってるのではないかとも思うのだけれど、
意識的にそういう方法を選んでやっている身としては
「流行りだとーーーーーー!!??」と、
一度は向きなおってみたくもなるのであります。大波にのまれるボディボードのようにたとえちっぽけでも。
…そんなあたしは岡井発言に釣られてますか? そうですねえ釣られてるのかもしれませんねえ。

そういう歌風が、たとえば現在周辺の一時期だけのものであったとしても、
そこに立つあたしはそれをファッションとして取り入れたのではなく
自分の意志で獲得しようとしているのだ、ということを
少なくとも自分自身では確認していなくてはならないな、とつくづく思った次第であります。
島さん! 貴重なエピソードをありがとー!! なんか元気が出てきたよ!!!(やっぱり半壊)



…てゆか、寝よ。
おやすみなさい。せめて2時間。


[1157] 悪霊退治の呪文を延々と推敲しつづけるって 2004年12月08日 (水)

胃痛と頭痛に一気に見舞われてグロッキーな一日。
しかし夕方、あまりの惨状に目も当てられずそこらを片付ける。
夜はとある企画のうちあわせのためのうちあわせ。今夜は電話にて。
おなじ出発点からちがう結論にたどりついているときは
どこにその分岐点があるのかを見極めたくて
ついつい横道に逸れるのだが、
今夜はやや逸れすぎたかも、と時計を見て思ってしまう。
でもあたしにとっては収穫の多いおしゃべりだった。謝謝。

しかし電話で話しながら、
あたしって悪霊が自然に死ぬのを待つことができなくて
早めに成仏させたがるタイプなんだなー、と思った。
でも結論を出すことには慎重になってしまうので、
成仏のための呪文をあれやこれやといじり倒してしまうのだ。
そうこうするうちに悪霊も自然死してしまいそう…でもそれじゃ駄目なんだな。
自分のちからで退治したという実感をつかまなくては、と思う。

明日はもっとちゃんといろんなことを進めなくては…。


[1156] 濡れればきっと曖昧になる輪郭を 2004年12月07日 (火)

疲労。
週末、現代文学会のイベントのため上京するので
それまでに片付けておかなくてはならない雑事に追われている。

昨日はデイケア歌会のお手伝い。
いつになく参加者が少なかったので丁寧に読み込むことができた。
月に一度の歌会がはじまって4年ちかくなる。
着々と短歌に慣れてきたメンバーや言葉を割合に扱い慣れているメンバーもいて、
もちろんたどたどしい歌よりも表現レベルは高いはずなんだけれど、
どこか自動化しているような印象を受ける。
言葉を獲得する瞬間にこめる力と熱みたいなものが弱いのか、
一首にしなやかさやうねりを生もうとする意識が弱いのか。
…というようなことを話しながら、自分の文体について考えていた。ゆるく甘くなるなかれ。

玲はる名さんの「次世代短歌研究室compass メールマガジン」2004.12.05 号に
「私性を読みとる〜松村正直の「もうニューウェーブはいらない」について」という文章が掲載されていて、
おお、と思いつつほくほくと読む。
松村くんのかの文章に対する感情的な部分は差し引くとしても、
表現の方法、修辞に意識的にこだわった読みを展開している点で納得できる。
松村くんの文章と、その後の「塔」2003年2月号座談会もあらためて読み返し、
とくに最近の「塔」の若手歌人に見られる傾向に対する違和感をあらいなおしてみた。
あの号が出てから2年ちかくが経つというのに、
いまだに「ネット短歌」というものは漠然としてしか語られていない。

夕刻、amazonに注文していた近藤裕子『臨床文学論』(彩流社 2003)が届く。
題詠マラソン2004単行本用の詠草30首を自選し、邑書林にメールする。
これから、とある企画のうちあわせのためのうちあわせ。眠い…。

濡れればきっと曖昧になる輪郭を、ふるえるように揺らぐ言葉を/ひぐらしひなつ


[1155] たすけろ枝毛姉さん。 2004年12月03日 (金)

■題詠マラソン2004全日程終了。
本会場に簡単な印象を書いて、今年も無事に完走。
作者別鑑賞、ぼちぼち進めています。
全体に定型意識の緩さが気になります。

■短歌研究12月号「2004年歌壇展望座談会」を読む。
以下、永田和宏氏の発言より抜粋。

 ところが今、インターネットの、たとえば飯田有子さんの歌を見てても、相手は
 自分の気持ちをわかっていてくれるはずだというまず前提がある。こんなのわか
 らないはずがないと。そこから歌が出発するから細かいディテールとかは全然必
 要ない。だから「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中にな
 で回す顔」という歌にしても、「たすけてたすけて」ということだけでいいわけ。
 何をたすけてとか、どうたすけてとかは問題じゃない。読者って存在は本来、不
 特定多数で未知な筈なのだけれど、彼らにとって読者は、説明しないでも自分を
 わかっていてくれる存在、つまり読者は、自分の何人かの知己だけでしかない。

あたしの認識からするとこの状況は真逆で、
むしろインターネットの方が不特定多数かつ未知の読者に出逢う可能性は高いはず。
もっともそれを意識しているかどうかは、各歌人次第だと思うけれど。
飯田有子が「相手は自分の気持ちをわかっていてくれるはず」と思っているとは
あたしにはまず考えられなくて、
むしろ自己なんてものは他人にはわからない、というところから出発しているように見えるのだ。
そもそも<ほんとうの自分>なんてわかりっこないんだから。
ってゆーか短歌ってそんな大雑把なものしか表現できない器なのかよー、
だから「共感できる/できない」とかいう舌足らずな価値観で歌が評価されるんだよなー。
………なんてことを、堂々巡りに考えながら読みました。まだまだ考え中です。

でもこの座談会の先達たちの誰もが彼らなりのスタンスで真面目に短歌を愛していて、
なんだかんだ言ってもあたらしい世代に何かを期待してくれているのだ、
という雰囲気はひしひしと感じられるように思えましたよ。
ここ2ヶ月ばかりいろんなことを考えているうちに、
身近な先輩歌人たちの向こうのそのまた向こうに連綿とつづく何かが見えた気がして、
ああ、なんかつながれそうだ、という、
ちょっと感動を覚えたりもしたのでした。疲れてるのかな、オレ(笑)。

■歌集歌書のEDEN
というタイトルのブログを立ち上げました。
まだ作って日が浅いので
検索機能がはたらかないようですが、
とりあえず以下のURLで細々とやってます。

http://yaplog.jp/hinatsu/

ここんとこいただいた歌集や読んだ本を
日常の煩雑さを言い訳にそのまま放置しておりまして、
やはりそれでは乱読にしかならないなと反省し、
附箋のありかを見極めようと思った次第です。
まだ整理できた本はほんの数冊で、
目の前には読んだ(はずの)本の山が脈々とあるのですが、
まあぼちぼち気長にリストに加えてゆきます。
ブログの日付は本の奥付の発行日にしてあるので
出版の時系列になってますよ。
おなじ本を読んだ方からコメントとかいただけるとうれしいです。

というわけで。師走の長い夜に、思考の泥沼です。ふう。


[1154] 確保せよ確保せよビブラート 2004年11月25日 (木)

なんとなく週四日営業体制のリズムにもなじんできて、
気持ちもすこしずつ上向いているような。
あのときの痛みそのものがやわらぐことはないけれど、
やあ、あれはきつかったなあ、という感じで
過去を振り返るみたいに考えることができるようになってきた。
人間ってしぶとくて元気だ。

題詠マラソンの感想、ちょっとずつすすめています。
もうひとつブログを立ち上げました。近日公開予定です。
すすんでゆかなくちゃね、と思っています。
というわけで週末のイベントのおしらせを。
わたしは行けませんが、クオリティはきっと高いはずです。
ご都合のつく方は是非お誘いあわせのうえ。
どうぞよろしくお願いいたします。



 ■ f f ■ 〜二人の歌人による韻律の共鳴空間〜

朗読 田中 槐 tanaka enju  伊津野重美 itsuno emi

  膝の裏、内股あるいは腋の下 確保せよ確保せよビブラート
                       田中 槐
  ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ
                       伊津野重美
 
日時 11月28日(日)
   15:30(開場) 16:00(開演)

場所 BankART1929Yokohama/1929ホール
    横浜みなとみらい線「馬車道駅」下車
    BankART1929Yokohama(1b出口)
    野毛・桜木町口(アイランドタワー連絡口)
    〒231-8315 横浜市中区本町6-50-1 TEL 045-663-2812
    http://www.bankart1929.com

料金 2.500円(1ドリンク付)

企画 伊津野重美

主催 Dragonfly

問い合わせ officeDragonfly@hotmail.com
http://officedragonfly.cocolog-nifty.com/vol_de_nuit/

※小学生以下のお子様の入場は御遠慮くださいますようお願い申し上げます。


[1153] 湯を沸かし待っております 2004年11月20日 (土)

落ち着かない状態を送っていた。
何にも集中できなくてただサイトを巡っていたけれど、
ようやく解放されてほっとひといき。

きのう、北のひとに電話をかけた。
ただ声が聞きたくて、という理由で電話をかけるのは
あたしにとってはめずらしいことなのだ。
敢えて質量の乏しい話題をえらびながら、でも、
こんなことがあったんだよ、とだけ話したときに、
なんだかゆるされたような気持ちになって。
それは自分でもとても意外なこころの動きだったので、
深くふかく、感謝をささげたのだった。
それからケータイをかざして、北と南のそらを送りあう。

きょうは東のともだちから電話。
うんうんと話を聞いたあと、
延々と短歌とその周辺についておしゃべりしていた。
どのひとにも気負わずあかるく短歌を信頼している気配が満ちていて、
彼女たちとのおしゃべりは楽しく飽きない。
電話を切ってから、からんくん宛の祝電を手配する。

夜は「眠れない夜はケータイ短歌」。
流れてくるうたを目で追いながら、
自分はそことは違う場所に来てしまったのだ、とわかる。
もう前にすすむしかないところへ。

待っているメールが届かなくて、
メーラーがこわれているのか、
あたしがこわれているのか。
ブラインドのむこうを猫が歩いているのが見える。
みんなやさしいな、とおもう。

湯を沸かし待っております はつなつのこむらがえりのような恋です/村上きわみ


[1152] あたしは誰ともつながってない 2004年11月18日 (木)

しとしとしとしと雨が降っていた。
店番しながらあわただしく資料をさがす。
それでも週4日営業体制にして少し気が楽になった。

夕刻、店にともだちが訪ねてくる。
Kちゃんがパソコンでつくったポストカードを見ながら
Mさんと仕事の新展開をうちあわせる。
すこし方向転換のもよう。自分に正直な方向へ。



絶対こうだろう、と考えてみたつもりなのに
細かくさらってゆくと必ずやどこかなにかが抜け落ちていて、
そこに亀裂や断層が生まれ、あーあたし頭悪っ、と振り出しに戻る繰り返し。
私性のなんたるかが、すでに危うくなってきてます。ちょっとめげ気味。

メールの返事は明日書きますねー。

とうがらし敷きつめて履く冬のくつあたしは誰ともつながってない/増田静


[1151] まぶたを閉じてくだされば 2004年11月16日 (火)

サーバにつながらなかった不調はやはりサーバ側の問題だったらしい。
あまりじたばたせずにじっと待って正解。

今日は昼から、ギャラリーSのTさんと連れ立ってNさんのアトリエへ。
Sとうちの店との合同企画でNさんの個展をひらくうちあわせ。
調理道具もなにもないアトリエで、キャンプ道具を使って
Tさんが甲斐甲斐しくいれてくれたお茶を飲んだ。
こういうときあたしは上手に手伝うことができないので
ただにこにこと日溜まりで、お茶がそそがれてゆくのを見守るばかりだ。
企画展の日程は1月後半。ずいぶん急な話だな。
夕方、薬局で薬を受け取って帰宅。
先日リサイクルショップから救出した石膏像(1,050円也!)の
埃を払い、汚れを大まかに拭いてから、店に飾る。
ミロのヴィーナスとあばたのヴィーナスが向きあった。
べつにヴィーナス崇拝者じゃないんだけど、
まあアグリッパやシーザーはここにはあまり似合わないからな、と思う。
明日から4日間は店番生活。早くこのサイクルにからだが慣れるといい。

手にとってまぶたを閉じてくださればあなたの中で鳴るオルゴール/南野耕平


[1150] のちの抜け殻 2004年11月15日 (月)

体調は一進一退しつつもすこしずつ快方へ。…と思う。
ここ数日はとくに健康に気をつけていて、
からだにいいものを摂取しなくては、とか
神経を休めるために香を焚いてみよう、とか
ふだんあまり行き届かない範囲のことを考えてみたりしているのだが、
結局居間で寝てしまうのでは効果も薄そうである。迎えに来てくれ、布団。

■プロムナード現代短歌のこと。
先週土曜日の名古屋は歌人密度が高かったようだ。
実際わたしも行きたかった。
鼎談についてのレポートをあちこちのサイトで探して読んだ。
リアルタイムで直接体験しないと得られないものの方が多いと思うが、
とどのつまりは、結社に入るにせよ入らないにせよ、さまざまな影響を受けたりしつつ
短歌観は自力で能動的に掴みとってゆかなくてはならないということだ。
結社に入る、師事するということは価値観を他人に委ねることとは違う。
そこから独自性を生み出してゆくためにこそ
他者の価値観を意識することが必要不可欠なのだと思う。

■題詠マラソン2004単行本化のこと。
今年も単行本化が決定した。7000首ものアンソロジーとなるらしい。
昨年の売上部数が思うように伸びず今年は参加者の購入が義務づけられたが、
この一冊は短歌のこれからのために有用なものとなるはずだ。
データベースとしての本ならネットで十分という声もあるけれど、
ネットにアクセスしていない歌人たちに
短歌の最前線の<見えていない部分>を知ってもらうためにも、
この本はできるだけ誰によっても濾過されない、
混沌としたままのプレーンな記録であるべきだと思う。
そこから何かを見出すか何も見出さないかは個人の力量次第となる。
この本が、すべてを俯瞰したいという貪欲さに応えうるものとなるように。
先達の価値観を示したものは世に数多くある。
もういい加減彼らの価値観におもねるばかりではなく、
そこから連なるあたらしい地平を見ようとしなくてはならないだろう。

■パソコン不調のこと。
サーバ(あるいはOSアップデート?)のトラブルにより
サイトの一部が更新できなくなっている。仕事に支障。苛々。
せっかくiBook新調したのにー。かえって仇になったかも。
でも題詠マラソン鑑賞はぼちぼち進めてます。読みこぼしていた歌の多いこと。

晩秋の高台院の夜鏡に恋を落としてのちの抜け殻/やそおとめ


[1149] 古い海図のやうな手紙を 2004年11月11日 (木)

今回体調を崩したことを深く反省して、
思い切って店の通常営業を週4日とすることにした。
日・月・火曜の店休日に集中して
図書館に出かけたりまとまったものを書いたりできるように。
思い切るまでには迷いもあったけれど、
決めてしまったらすっきりした。
企画展の期間中だけ、ノンストップで頑張ればいい。

一昨日は大事なともだちのアトリエに招かれて遊びに行った。
冬枯れの草むらに、曲げられた鉄骨や削られた石が無造作に置かれている。
室内は小ぎれいに片付けられていて、
ヤニと陽で黄ばんだ画集や使い込まれたイーゼルが
油絵具の匂いに守られるように静かな貌で並んでいた。
それは父の気配ととてもよく似ていて、
そしてわたしの店とも同じ、棺のような佇まいをしているのだった。

昨日は仲良しのギャラリーオーナーに会いに出かける。
ちょうどアーティストTくんが居合わせ、じきに編集者Oさんも現れる。
それぞれの営業のありかたと自己表現のあわいで揺れ動く感じを語りあいながら、
これからどんなふうにしてゆこうかと少し前向きになるうちに、
次の企画展のうちあわせにフェイドインしてしまった。でも、この感じだ。

というわけで今日から営業再開。
店番しながら題詠マラソンの感想を書いたり
断片的なメモをモザイクのように組みあわせたり
サイトをすこし更新したりした。
妙に暖かいのに、空は冬の表情をしている。
違和感はいつだって影のようにそこにあるけれど。

古い海図のやうな手紙を読み返し癒されてゐるオフィスの底で/荻原裕幸


[1148] 春 アイロンを 2004年11月08日 (月)

休日の5日目。
とくに劇的に最悪というわけではなく
それでもちょっとした不運つづきで冴えない気分に陥る日があって、
今日がちょうどそんな一日だった。

昨日海を見に出かけてすこし気分が晴れたので
そろそろ療養生活から脱却せねばと今日は街に出かけたのだが、
どうにも人波にうまく乗れない感覚があって、
やたらと人や看板にぶつかりそうになったり躓いたりしていた。
木曜には完全復活の予定なのに大丈夫なのか、と
かなり落ち込みながら帰宅する。

それでも夕食をつくるためにキッチンに立ったり
温泉に入ったりしているうちに、いくらか落ち着く。
ようやく角川短歌11月号に目を通した。
小島なおさん、角川短歌賞おめでとう。

ファルージャ総攻撃のニュース。
人が人を蹂躙している映像が、ただ単純に、憂鬱だ。

たくさんのひとが死ぬとは思わずに 春 アイロンをするする運ぶ/兵庫ユカ


[1147] 生まれてしまった雲雀のために 2004年11月07日 (日)

十月 遠い空からきみの声ながれて白いシャツ取り落とす

足裏にひやりと鋼、ベランダにつづく扉は境界として

わかちあうこともできずにいることが雲雀わたしのなかで生まれた

希ったものはたぶん似ていて、空も、でも、どうしてきみがわたしではない

美しく大義は掲げられていて翼のつけねを血が流れだす

潰れそうだ 多くを語れない日々をつたない鳩として寄り添えば

正論がぶちまけられてメレンゲの陽射しに溶けるまでを見逃す

ことさらに逆らいもせず俯けばフォークの背にも雲は流れて

高くまた低く多重唱遠ざかりちいさく骨が鳴る白い皿

たちのぼるアリアやがてはこの冬を迎える人の波にまぎれる



                   2004年11月 ひぐらしひなつ


[1146] フォークの背にも雲は 2004年11月06日 (土)

休日の3日目。
日頃手のつけられないところを掃除したり、
台風でこわれた屋根を修理にきた工務店の人の対応をしたり、
書棚の整理をしたりしつつ、
そのあいまに何度もうとうとする。
出かければ気が晴れるのかと思うが気力が湧かない。
ここ最近考えていたことのまとめに入るが、
あれも読んでからこれも読んでからと思うと思い切れないのだった。
別企画のアイデアを練り、題詠マラソンの感想をひそかに書く。
気づいたら、秋晴れの気配があるのに一度も空を見なかった。
体調をうかがいながら、明日は出かけようと思う。

ことさらに逆らいもせず俯けばフォークの背にも雲は流れて/ひぐらしひなつ


[1145] 遠いひかりに撓みつつ 2004年11月04日 (木)

一昨日病院で過労と診断されて
しばらく休んだほうがいいと言われたので、
今日から一週間、店を休むことにした。
告知直後から気遣いのメールや電話をいただいて、
ありがたいことだな、としみじみ思う。

朝もろもろの用事を片付けてからはひたすら眠った。
ときどき目をさますと、肺なのか肩甲骨の裏側なのか、
そのあたりがひどく熱をもって痛むのだった。
ベッドのなかで大塚英志『物語消滅論』、「短歌研究」11月号、
大辻隆弘『子規への遡行』を、断片的に、読む。

米大統領選の結果を見ながら、
もうブッシュ氏に対して生理的嫌悪感に近いものを抱いている自分に気づく。
明日は出かけずに家にいることに決めた。
認識の圏外に追いやることもできないけれど、
受容するのに時間が必要なことがあるのだ、と思い決める。

振り向けば遠いひかりに撓みつつバス停は立つ春のさなかに/ひぐらしひなつ


[1144] 歩くこと 2004年11月01日 (月)

ほんとうにいろいろなことがあった。
外に目を向ければ、そちらでも大きな出来事が。
いつもそこには当事者でないことへのうしろめたさがあって、
なにを言えばいいのか、なにができるのか、
それを考えると身動きできなくなる。
なにもできない無力感と、
自分を含めたがさつな「部外者」たちへの言いようのない怒り。

今日でようやく今年最後の企画展も終わって
ためこんでいたストレスをすこしずつ放出しながらしばしくつろぐ。
題詠マラソンは昨日予定通りに完走できた。
今年はペース配分しつつ走っていたのだけれど、
自分なりの課題をクリアできたかどうかはまだわからない。
これから途中になっていた鑑賞も含めて振り返るつもり。

きっついことも多々あるけど、
背負えないものは背負えないものとして、
できるだけ淡々と歩いてゆくしかないのだと思う。



たくさんの案件が滞っています。
メールのお返事も遅れていてすみません。
今夜もろもろに取りかかります。
どうぞよろしくお願いします。