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その日暮らし。

〜 ひぐらしひなつのうたのたねたち 〜


††† 第一歌集『きりんのうた。』発売 †††
インターネットなどで活動中の歌人・ひぐらしひなつの第一歌集。
ディレクション:荻原裕幸 表紙デザイン:高永ジュンコ 定価1,400円(税別)
【歌葉】およびこちらにて受付中です。


Une sortie d'Eden
  Date: 2008年10月07日 (火)

Une sortie d'Eden

やたら天気のいい日で
人影はまばら
桟橋のそばのベンチに
肩並べて煙草をふかしてた
役に立つ話なんて一言もかわさなかったけど
なんだかひどく気分がいい
きみの抛った吸殻が
風に転がって海に落ち
そうで落ちない
午後

もう会うこともないのだろうか
潰れたカフェの前で
じゃあ、と言って別れ
振り返らずにきてしまった
一度きりの情事のあとで
それも現実ではなかったかのように
まだ 燻らせている

いつだってあとから気づく
なにをどうするでもなく
夜明けのバーガーショップに
今日はひとりで来ている
はじめから行き止まりだと知っていた
エデンの出口を
探して


ひとさらわれた
  Date: 2008年05月29日 (木)

笹井宏之『ひとさらい』批評会に参加してきました。簡単ですがメモと感想をまとめておきます。

【日時】2008年5月24日(土)
【会場】八重洲博多ビル3F 会議室6
【語る会内容】パート1 穂村弘と語る『ひとさらい』(聞き手 加藤治郎)
       パート2 フリートーク
【主催】グループ彗星



■パート1/加藤治郎さんが穂村弘さんに聞く『ひとさらい』
イントロダクションとして、著作『短歌の友人』から引きながら、塚本邦雄の影響力の低下や生のかけがえのなさなどに絡め、近代がどんどん貧しくなっていま末端にきている、という話など。生きた証を残したい乃至は愛に結びつけるといったモチベーションに変化はあまりないが、近代短歌が「<私>をうたう」ことを獲得しニューウェーブが口語の導入を獲得したようには、現代はあらたに獲得したものを何も持っていない、という現状がある。インターネットという場から枡野浩一(言葉同士の意外な配合を拒否)や笹公人(意外性=オチ)が出現したが、笹井宏之に関しては、そのポエジーは本来の感覚に近いものがあった。

そんな笹井作品を読み解くにあたり穂村さんがレジュメにあげてきたキーワードは「無力感(→希望)」「変身(輪廻転生、食物連鎖)」「OSの変化(世代的な感覚?)」の3つ。

1)無力感(→希望)
透明感がありピュアな感じ(ピュアななかにぎょっとするような狂気がひそむby加藤治郎)
詩のポイントが歌の外部にある。一首全体がなにかのメタファーになるのではなく初句の前・結句のあとにある何かを受けている感じ。背景はわからないのだがそのわからなさに本当の感じがある。いわゆる「一首として責任が取れない」と言われる歌だが、その外部にあるものがピュアで本物で愛を求めていると感じさせるかどうかが評価の分かれ目か。

2)変身(輪廻転生、食物連鎖)
水原紫苑、大滝和子、正岡豊ら詩人タイプの歌人の作品に多く見られる。世界に対する無力感や違和感、絶望や不如意な感覚が変身志向としてあらわれるもので、アニミズムとはまったく異なる。意外な組みあわせが説得性を持つ。
※「呼びかけの歌はまったくの独り言である(by黒瀬珂瀾)」について。作中の「あなた」は世界の代表者であり、世界へのアプローチを諦めていない。読者の痛みをなりかわって歌う。その代弁してくれることに読者は惹かれる。

3)OSの変化(世代的な感覚?)
斉藤斎藤、宇都宮敦は自覚的であるところを、笹井宏之は詩的能力を持ちつつ変化に対応しているように見える。従来のやりかたでは情報を消している自分をメタ的に自覚していたものだが、笹井は情報として消されているものの消しかたがわからないままやっている感じ。懸命になにかを言おうとしている感じがある。思いがけない順接性、まっすぐつながってゆく感じがあり、それは美質である。

歌壇的、というか現在までに築きあげられてきた短歌の土壌や詩型に対してあくまでも忠実に誠実にある立場から執拗に読み解こうとする加藤治郎と、独自のキーワードを軸に短歌の輪郭を見極めてゆこうとする穂村弘、という対立的構図が、笹井宏之を含む現在の短歌のありようを立体的に浮き彫りにしていた。

■パート2/フリートーク
会場の出席者を指名して発言を求める。一部を除いてほとんどが結局はおなじことを言っていたという印象。穂村さん曰く「テンションがあがった」。以下にキーワードを列挙すると、イメージ性の高さ。ポエジー。身体の無機的な感じ。実在の強い感じではなく自らの身体との距離において世界と出会う。心の外壁が薄い。ものを見る視線が希薄。混乱したまま投げ出されている/自意識のなさが開かれたままなのでもうすこしイメージを回収すべき。自分自身の抑制=自我を手放す=他者へのやさしさ。祈り、精神性の高さ。たましい。あらかじめ喪われているという不全感。言葉の快楽。ひとつの世界観の表明。世界に対する丁寧さ。

穂村さんがまとめとして語ってくれたのは、笹井宏之の世界に対する優位性のなさ。従来の短歌は世界に対する自己優位のアピールであった。しかし笹井宏之の世界ではものはすべて等価であり輪廻転生が繰り返され「みんなたましいのレベルでひとつなのだ」という世界観が提示されている。そこに世界中から人が集まってくる。



…という、まるでお釈迦様にでも遭遇したかのような結論でしめくくられました。笹井さんの本質的なところにはかなり迫ることができたと思います。ただ、欲を言えばもっとレトリックの部分、歌に即した部分で掘り下げてみたかった。いかんせん時間が足りないのがもったいなかったです。以下に、事前に自分でまとめていったメモを記載しておきます。



【ひぐらしひなつ的『ひとさらい』読解キーワード】

●<私>はどこに何者としているのか
肉体性が希薄で、大気中を漂う粒子のような存在。たましいのみとなっている。
・ゆっくりと上がっていってかまいません くれない色をして待っています
・合図もなく浮上してゆく産卵のあとの卵を私はくるむ etc.

●意味は読み取れないが切実な感じが伝わる
作者自身にとっても大事なのは意味性ではなく、不条理なものを不条理なままに丁寧に掬いとり差し出す。それは夢のビジョン、イメージに似ている。
・からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
・カルシウム不足の月を叩き割る 斧のいたるところにどくだみ

●手厚さ
世界に対する手厚さ=優位性のなさ、痛みの代弁者としての存在
・憐れみのレバーを戻しさよならを、さよならをニホンザルに教える
・ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
読者に対する手厚さ=丁寧なレトリック。読み解くための手がかりとなる一語がさりげなく置かれている。

⇒これらの切実な要因によって結果的に作品に<鮮明なイメージ>がもたらされたのではないか。

関連リンク
http://hinatsu.air-nifty.com/sazameki/2008/05/post_fbb9.html
http://hinatsu.air-nifty.com/sazameki/2008/05/post_f3f8.html
http://hinatsu.air-nifty.com/sazameki/2008/05/post_2992.html

批評はどこへ行くのか
  Date: 2008年01月17日 (木)

ぽっかりと丸一日スケジュールがあいて、ようやく角川短歌1月号新春討論「短歌はどこへ行くのか」を読むことができた。ただ、万来舎のサイトの江田浩二さんの評論を先に読んでいたせいか大した衝撃もなく、確かに出口の見えない感じには終わっているけれども、珂瀾くんの「いわゆる従来の短歌」におさまってしまうことへの危機感は本能的なレベルからよく理解できるし、一方で現在の吉川さんの作品傾向から考えればこう言うのも納得できるな、という展開だと思った。

むしろこの討論会の様子を読んで最も不毛な感触を得たのは「二極化」というところで、二極化というのは確かに最近よく言われてきたことだけれども、それが一人歩きしている感もないではなく、「二極化している」という見解に対する疑いがあまりにもなさすぎるように見えるため、果たして本当にそこまで極端に二極化しているのか、ということも疑ってみたくなるのだった。

短歌研究1月号で阿木津英さんがx軸y軸z軸という座標で歌を特徴づけていたが、現在の歌をひとつずつそういう座標軸に位置づけていったとき、本当に極端な傾向は見られるのだろうか。かつて「ネット短歌」という概念が横行したのと同じように、「二極化」という現象そのものが、しっかりした検証をなされないまま創出されているのではないかと思ってしまう。

そういう現象が起きる原因として、ひとつにはフラットなメディアの不足があげられるのかもしれない。いや、同人誌などが本当はあるのだけれども、それらがどうもあまりよくは読み込まれていないように思える。つまり批評しやすいところばかりをつつくがために、「批評のための二極化」が生じさせられているというのが正しい現状なのではないかと見えてしまうのだ。

また、一見従来の短歌的価値から断絶しているように見える歌でも、それが周到に選び取られた方法で書かれている以上、それは断絶とは言わない。そのことをしっかり踏まえておく必要がある。江田さんが「ヘゲモニー」と斬って捨てた大松さんの発言(「いつか大辻隆弘さんが「短歌って一種の習い事なんだ」と言ってました。習い事はある程度習うとその世界がわかるけど、習わないとわからないみたいなところがあるじゃないですか。黒瀬さんの挙げた人はそれなりの歌人ではあるけれど、ルールを軽視しているような感じがするんだけどなあ。」)における「ルールを軽視しているような感じ」というあたりが、きちんと検証されているのかどうかという点だ。いわゆるルールを「軽視している」のか「そう見せる方法を取っている」のか。この「そう見せる方法を取っている」、という図式を明確なコンセプトとして打ち出しているのが斉藤斎藤作品だったりするのだが、批評の俎上に乗せられるために、つまりはそこまで懇切丁寧にお膳立てしてやらなければならない、その「読む」ことへの希求の劣え、みたいなものの方がよほど危機的に思われるし、珂瀾くんが必死に訴えている点もそこに収斂されてゆくのだと思う。

まさに、もっと個々の作品に添った批評がなされるべきだろう。互いの価値観の相違を細やかに確かめてゆくのであれば、たとえば堂園くんの黒い電車の歌とか、まずは接点となりうる部分、両者が共通に評価する部分から切り込んでいってもよかったのではないだろうか、と思うのである。

さざめきたてる200X年
  Date: 2008年01月10日 (木)

荻原裕幸さんのブログ「ogihara.com」の「JUNCTION」に
新作5首「200X年」を掲載していただきました。
こちらから御覧下さいませ。
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2008/01/junction_2.html
コメントでもメールでも、ご感想などいただけますと幸いです。



ここ数年ネットで日記らしい日記は書かずにいたのですが、
しばしば活動についてのお問い合わせをいただいたり
春先からはじまるあたらしい仕事との兼ね合いもあったりで、
こことは別にブログで日記を書くことになりました。
最新情報用に動かしていた「さざめきたてるきみの抒情を」を利用します。
毎日は無理かもしれませんが、なるべく頑張りますので覗きにいらして下さいませ。
もちろんこの「その日暮らし。」は、このまま継続します。



月刊「セーノ!」4月号より、短歌の読者投稿コーナーを担当することになりました。
毎月お題を出して、誌上で題詠歌会を開催していきます。
詳細は追って告知しますが、興味のある方はこちらまで御連絡下さい。
楽しい歌会になるよう頑張ります。

ずっとほったらかしでごめん
  Date: 2008年01月08日 (火)

なんとなくイメージにあわないなと思いつつ
このサイトもずいぶん長らく放置気味にしていましたが、
年末から年始にかけてリニューアル用にいじっていたものをようやくアップしました。

思えばパソコン通信の会議室でひらかれた歌会が作歌のきっかけになったわたしにとって、
この十年余のインターネットの変遷はそのまま活動のありかたにも関わってきたような気がします。
はじめてサイトを立ちあげた頃はまだ自由詩もたくさん掲載していて、
その頃はひたすらHTMLタグを手打ちしたものを、細い電話回線を通じてやりとりしてました。
当時の友人たちと、いまでもつながっていたり、音信不通だったり。
リンクの切れたブックマークをひとつひとつ削除しながら、
CGIのBBSに変にビビったりしていたなあ、とかなつかしく思い出すのです。

テレホーダイ、ISDN、ADSL、光。HTML、CGI、Java script、CSS。
いろんな技術がこんな機械音痴のところにも怒濤のように普及してきて、
一時はHP作成ソフトも使ったけれど、結局自分でタグを入力する方が性にあっていて
家族の見ている年末年始のテレビ特番を「くっだらねーなー」なんて横目で見ながら
ちゃっちゃとスタイルシートを手打ちしては仕上げてしまった2008年正月。
書斎の模様替えにはなんの知識も要らずいきなり作業できるのに、
インターネットの場をつくるために、どれだけの労力が割かれてきたことか。

たぶん「ネット」というものの概念がインフレーションを起こしていたんだと思う。
だから短歌の世界にも「ネット短歌」なんていう得体の知れないカテゴリが出現して、
結局意味不明であやふやなまま、なかったことにされてしまいそうになっていて。

それはわたしの活動そのものがなかったことにされてしまうのと同じだから、
そこにしっかりと楔を打つために「短歌ヴァーサス」11号の特集を
佐藤りえさんと企画して出させてもらったわけだけども、
とりあえず去年その仕事が一段落ついて、次にすすむべきときが来たという感じなのかな。

作ってきたものを論理で裏づけたあとは、
またその論理を自ら越えてゆく作品を、あらたに目指してゆかなくちゃならない。
その繰り返しよね、としみじみ思う昨今です。

大きな病気をしたり、たいせつなひとを失ったり、
それまでの生きかたそのものを自ら覆すような選択もいくつかしてきたけど、
いつも短歌があってよかった、その原点は揺るぎないみたいで、そのことにもまたほっとするのでした。
だから、これからもずっと、よろしくお願いします。

背伸びして天の杓に触れるように柱時計の針をあわせる/ひぐらしひなつ

頌春
  Date: 2008年01月01日 (火)

旧年中はたいへんお世話になりました。

その旧年の最終コーナー回ったあたりで持病の気管支をこじらせ、
四十度超えの熱を出して寝込んでおりましたが、
現在はどうにか持ち直しました。すっかり浄められた気分です。

というわけで新年早々、
メールのお返事など遅れておりますことをお許し下さい。

今年はラエティティアに入会して十年という節目の年です。
いままでやってきたことのつづきとしての日々を、
丁寧に生き、歌をつくっていきたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

あたらしいひかり、つめたい雨、そして踏めばかすかにやわらかい土/ひぐらしひなつ

物語のリアリティについて
  Date: 2007年12月26日 (水)

この一週間風邪を引きっぱなしで、風邪のたびにひどくなる喘息に死にそうな思いをしています。夜も眠れないしつらいー。

その眠れなさを利用して、最近はやたらとスカパーで映画を観ています。遅読のわたしは字幕と映像を同時に追うのが苦手なので無声映画や邦画が多くなってしまうのですが、それでも結構充実したラインナップを堪能できています。観た映画の感想メモなんかもこっそり書いていて、ちょっと楽しかったり。

そんななかで気づいたのですが、自分にはどうもストーリーを認識する能力が著しく欠けているような気がします。見ていても気にしているのはプロットではなくて瞬間ごとの美しさのようです。印象に残っているシーンはいくつかあるのに、見終わったあとでストーリーを思い出せないとか。

この現象は読書においても起きていて、この二年間は短歌関係の本しか読んでいなかったのでひさしぶりに小説でも読もうと手に取ったのはいいけれど、筋があまり認識できない。文体の美しさに感嘆することはあっても、手に汗握りつつ先を読みすすむということがついぞなくて、これは見ている映画や読んでいる本の質にもよるのかもしれないけれど、昔からそうだったかなーと首をひねったりしてしまうのです。

第一歌集に対していただいた批評のなかで、散文的要素が極端に少ないことに起因するものがたくさんあったのだけれども、もしかしたらそれも、このストーリー認識能力の欠如が原因なのかなとふと思ったのでした。ストーリーというのは人為的に構築されたもので、リアリズムとはむしろ逆ベクトルのものですよね。無限に存在する事象のなかからひとつないしはいくつかの時間軸に沿ったエピソードを抜き出して、時間という観念のもとに組み立てたもの。だけど現実に流れる時間には、そのストーリーから漏れている事象がたくさんあって、意識して組み立てなくては物語は生まれないのです。わたしはその「意識的な組み立て」を無意識に拒否しているのかもしれません。

そうやって構築されたストーリーに奥行きを持たせるのがリアリティです。リアリティは細部に宿ります。ストーリーのなかに何気なく挿しはさまれるシーンなどに。ストーリー展開には一見無駄に見えるエピソードでも、うまくやればそれがリアリティをもたらすことに繋がっているようです。

もちろん短歌においても作者の意図は働くわけですが、時間的要素の少ない形式の性質上、よりリアリティを追求する方向に向きやすいのだろうと思います。短歌におけるリアリティの孕ませ方。映画からヒントが得られそうな気がしているけれども、いよいよ実作の段階で、まだ生きてきません。

某所での歌会と添削について思うこと
  Date: 2007年12月04日 (火)

某所で歌会のお世話をするようになってもうすぐ丸七年が経つ。当初からのメンバーもいるし、ゆるやかに増えたり減ったりしながらいい感じで続いてきた。いいと思える作品に出会うことも増え、こちらも楽しんでいるのだが、同時になぜこうなってしまうのだろうという歯痒さや徒労感もつきまとう。

ひとつに、特に初心者にとっては歌会というシステムが勝負事のように捉えられてしまう傾向があるからで、もちろん票が入ればうれしいわけだけれど、彼らには「誰が票を入れたか」という大事な観点が欠落しているので、票は数えるが評は聞き流す、という事態に陥ってしまうのだろう。そもそも作品はフラットに比較できる類のものではないということは、7年前からずっと伝えつづけていると思うのだけれど…。

ふたつめに、その歌会では大抵、詠草を提出する前に簡単な添削というか一緒に推敲を行っているのだが、その段階においても、しばしば気落ちすることがある。例えば自作に赤が入ると負け/入らなければ勝ち、という短絡的な価値判断。推敲してほんの一語を置き換えたり語順を入れ替えたりするだけで表現はこんなにも豊かでしなやかになるのだという驚きや喜びを伝えたいと思っているのに、言葉に対するフェティッシュが圧倒的に不足している感じがする。大体つまらない作品には赤を入れる気にもなれないわけで、赤の入った作品がよくて入らなかった作品がいいかというと、決してそうとは限らない。なぜそこに赤が入ったのか、入る前と後とでどう変わったのかをじっくり掘り下げてもらいたいのだけれど。

もちろん原因は世話役のこちらにもあるわけで、このままではこちらの息が詰まるから、なにか面白い展開を考えなくてはならない。変則的な歌合のような、少し変わった遊びを導入してみるといいのかもしれない。最初にこの仕事を受けたのも言語表現の楽しさを味わってもらいたいと考えたからなのだし、言語表現はこころの状態にひったりと寄り添ってあるものだという考えも、当時からまったく変わっていない。創作行為において安易なハウツーは存在しないし、モチベーションの在処を見失うことは最も避けたい事態だ。

果たしてそれが望まれているのかどうかはわからない。それでも、言葉にすれば青臭いけれど、わたしはわたしなりに歌や言葉やそれを挟んで向きあう人たちに対して、誠実でありたいと思うだけだ。

救世主と花の骸と
  Date: 2007年11月29日 (木)

気がつけば伊津野重美poetry reading liveからもう10日も経っていた。関わって下さったみなさんに御礼など早く伝えたいと思いつつ、自分の内部で消化するのに時間が必要なのだった。

彼女の朗読についてはすでに各所で高い評価がなされている。わたしの稚拙な言葉ではどうにも語り得ない気がして逡巡してしまうのだが、いっそシンプルに、渾身、とか全身全霊、とかいった言葉なら少しは言い表せるだろうか。今回わたしは裏方に徹するつもりでいたのだけれど、彼女にビデオカメラを取り上げられ、録画はしなくていいからいちばん前で見ていて、と強く言われて、素直にそれに従った。彼女の第一声は「きりん」だった。わたしの歌集の冒頭の連作「きりんのうた。」を朗読してくれたのだった。
この日のライブのために、オープニングアクトとして登場する画家の寺山香さんに読んでもらうテキストを書いた。寺山さんの普段の息遣いなども多少考慮しつつ仕上げたが、実際に朗読してもらうと、自分のリズムとはまったく違ったかたちで言葉がさしだされてきて、それはそれで新鮮だった。一方で伊津野さんが読んでくれた「きりんのうた。」は、わたしの息遣いそのものととても近い位相を呈していて、そのことにまた、とても驚いたのだった。
朔太郎や賢治、白秋といった学生の頃から好きで何度も読んできたひとたちの作品も朗読されたが、そのいずれも、精神を抱き締めるような朗読だった。暗誦できるほどよく知っているはずだった詩なのに、そこに込められた思いがそんなにも激しく深いかなしみであったことに、あらためて思い至るようであった。伊津野さん自作の朗読は、ややおずおずとさしだされた手が目の前でゆっくりとひらかれてゆくようで、美しい泡として聴いていた。

彼女の朗読についてもっとしっかり語ろうとすればどうしても自分の内面に触れねばならず、いまはまだそのことをここに書き記す気にはなれない。ただひとつ書けるのは、わたしが朗読する彼女の前で感じたのは懺悔だったということだ。傷ついたり諦めたりしながら過ごしてきた自分の日々はどんなにか怠惰だったことだろう。自分の怒りやかなしみや憎しみをちゃんとこの胸で受け止めてゆく努力を、わたしは長いあいだ怠っていたのではないか。ライブの終わる頃には、ひたすらそういう気がしていた。彼女が最後に朗読を終えてわたしの指をぎゅっと握ってから素早くステージを去ったとき、わたしはイエス・キリストに許された人のようになっていた。
あとでそれを言うと彼女は「マリアって言われたことはあるけど…」と笑っていた。慈愛、それもある。けれどわたしにはもっとひりひりと厳しく痛く迫るもの、自らの身を削るものとして感じられた。それが磔刑を受容したイエスと重なったのかもしれない。

許されることは自ら生きる責任を負うということだ。その気持ちを抱えたまま、彼女と休日を過ごした。「天井桟敷」で話し込み、西大分港のカフェでワインを飲みながら泣いた。そこで泣くことが恥ずかしくないほどきれいな時間だった。彼女は自分自身を愛し世界を愛そうと身を切っていた。そこには一切の嘘や欺瞞は許されない。ときには激しい怒りとして表出してくるものもある。そして彼女はわたしにも、いつまでもそこにいるな、澱んだ淵から上がって来いというように、ずっと語りかけてくれていたのだった。

これ以上はうまく語れない。彼女には伝えられたと思うから、今はそれでいい。いつもイベントなどで会って慌ただしく別れてしまう彼女とふたりだけでこんなに蜜な時間を過ごせたこともうれしかった。抱きあえる距離にいるって大事なことだ。

福岡公演との連日で、彼女には無理なスケジュールを強いてしまった。不慣れな進行で不自由な思いをさせてしまったこともあったかもしれない。けれど嫌な顔ひとつせずに全力でステージを務めて下さった伊津野さんに、あらためて感謝する。それから来て下さったお客さまたちと、希有な機会と場を与えて下さったgallery sowの裏くん、わたしの大切な友人である寺山さんにも。

最後になったけれど、このライブが開催されるのを待つようにして逝去された風倉匠さんへ。あなたを喪ったことによるわたしたちの大きなかなしみに、あの夜、伊津野さんの朗読が寄り添ってくれました。どうか安らかにお眠り下さい。



(2007.11.18、寺山香さんに朗読してもらうために)

だってあなたはいつかこわれてしまうからさふらんさふらんまぶたにふれて


まあたらしい緑に覆われた道だ。
車の窓から透明な空気が流れ込んできて
ぼくの髪に耳にこめかみに
髪に耳にこめかみに。

ぼくらは暗いところから出てきたんだよ。
フリーターも歌人もトラック運ちゃんもOLも
営業部長もロリコンも絵描きも政治家もアキバ系も、
みんな、暗いところから出てきた。

あのときも、こんな冷たい風だったね。


命綱を外すようにぼくらは母さんから切り離されて、
背中を押されるまま道の真ん中に出てきてしまった。
望むと望まざるとに関わらず。
望むと望まざるとに関わらずだ。


いわし明太子。
いわしの母さんのなかに
すけそうだらの卵。
すけそうだらの卵だよ。
なんという無体。
なんという他人。
いや、そもそも女でさえないかもしれないんだ。


気やすく手とか繋げないんだよ。
漠然と願ってるものはきっと同じ。
でも、みんなで手を繋いでUFOとか呼んだりできないの。
UFOとかね。

たぶん方向性は間違ってないと思うんだけど。


あかるすぎてまぶしくて何も見えなくて、
手さぐりで手さぐりで。
ときにナイフでなにかをえぐりながら、
ときに長靴でなにかを踏みしだきながら。



フロントガラスに、蝶が一匹ぶつかった。
白い鱗粉を残して、
また一匹。
また一匹。

無数の一匹がフロントガラスに身投げ。
違う。
身投げしてるのはぼくの方だ。
無数の蝶に、身投げするぼくだ。

だんだん白くなる。
白くなる。
白。

白。

白。


ここはなんてあかるいせかい。




もし明日夢からさめる君ならば花の骸をてのひらに盛る

今週末はゆふいんへ。
  Date: 2007年11月14日 (水)

11月25日まで湯布院で開かれている
画家・寺山香さんの個展「アクロポリス」会場にて
今週末、以下のライブが開催されます。



【伊津野重美poetry reading live】

日時/2007年11月18日(日)19:30open / 20:00start
場所/gallery sow
    大分県由布市湯布院町川上1835-4  tel.0977-85-2042
    http://www.blueballen.com/gallery%20sow.html
入場料/1000yen

伊津野重美 profile
1995年より作歌を、2000年より朗読の活動を始める。2005年に第一歌集『紙ピアノ』(写真/岡田敦)を風媒社より刊行。自らの企画で演出、出演をこなしながら、他の作家や他ジャンルとのコラボレーション作品の制作にも積極的に取り組んでいる。空間と時間までも<詩>へと昇華させる朗読は祈りのようでもある。
http://homepage2.nifty.com/paperpiano/



オープニングアクトは
画家の寺山香さんによる朗読です。
自分では絶対にステージに上がらない
ひぐらしの詩も読んでくれます。

とても濃密で蠱惑的な夜になることと思います。
是非ともお越し下さいますよう。

SCRIPT: KENT WEB[Sun Board v2.3], EDIT: HIROYUKI OGIHARA