[2007] ハンス・ギーベンラート 2006年05月22日 (月)

河野洋子さんから詩歌同人誌「場」8号を送っていただいた。
河野さんの短歌作品「白いリボンに髪を束ねて」20首から、何首
か引用してみる。

独りゆゑひとり眠れば夢にさへわれは一人でもの食みゐたり
白いリボンに髪を束ねて遠い夏フィンランドへ行く夢ありき
身の程を知らぬ昔の恋しけれたれも笑って許してくれた
朝鮮の民話に「寒い母」ありてなりたしわれもその寒い母
若き日は若き日なりの愚直さに歌ひき゛若者よ、体を鍛へて、、
初恋の人のごとくに還りくる冬ならばハンス・ギーベンラート
手の届くところにそれはあったのにああほんたうにほしかったのに

ある年齢に達してしまった女性の、とりかえしのつかぬ思い、その
個の悲哀がせつなく詠われている。
6首目のハンス・ギーベンラートというのはヘルマン・ヘッセの小
説『車輪の下』の主人公。
私や河野洋子さんの世代では、少なくとも高校生の頃に『車輪の
下』や『デミアン』や『ガラス玉演戯』といったヘッセの小説を読
んでいる。それがふつうの読書生活だった。
そういえば、今、書店でヘッセの本を見ないような気がする。
このハンス・ギーベンラートが初恋の人の比喩としてつかわれるこ
の精神のありように、私の心は強く共鳴してしまう。


[2006] カワカミプリンセス 2006年05月21日 (日)

オークスの馬券は、私はキストゥヘヴンとアドマイヤキッスの2頭
を軸にして、三連複、三連単を手広く買っていたのだが、3着まで
に私が選んだ馬は一頭もいないという大惨敗だった。
しかし、カワカミプリンセスというきわめて個人的な感覚の名前を
つけられた馬がオークスを勝ってしまうとは。
川上というのは牧場の名前ではあるのだが、川の上流にひそかに住
む少数民族の姫君を連想すればよかったのか。

ショックを受けつつも、まもなく、POGのドラフトがやってくる
ので、今年の二歳馬の評判を「ギャロップ」のPOG特集号でチェ
ック。ついでに、去年の「ギャロップ」のPOG特集号を見て、ど
の程度、今年のクラシッコ候補が大きくとりあげられているかを見
てみると、ひどい。
まだ、未勝利にあえいでいたり、出走もできない馬が、カラー写真
で、どうどうと掲載されている。
トラックマンたちの指名馬を見ても、ほとんどの人が壊滅している
ことがわかった。
私はアドマイヤムーンのほかに、マッチレスバロー、ホーマンジュ
ピター、そして土曜日に500万下の平場を勝ったサイレントプラ
イドと、3頭の二勝馬をもっているのだが、これはきわめて幸運だ
ったということだ。
さて、今年はどの馬を選ぶか、これからの一週間が、一年でいちば
ん胸踊る季節である。


[2005] 沖で待つ 2006年05月20日 (土)

絲山秋子の芥川賞受賞作「沖で待つ」を読む。
面白い。会社の同期の男女の特別な友情としか呼びようのない、関
係をイヤミなく書き切っている。
短い作品だが、芥川賞という賞にはふさわしい。まさに、冠になっ
ている作家の名前に異和を感じさせない受賞作だと思う。

八田木枯さんの句会「晩紅塾」と「短歌人」月例歌会がぶつかって
いたのだが、私は所属結社に忠誠心が強いので、やはり、歌会の方
へ出席。土曜日なので、例月より少し出席者は少ない感じだが、そ
れでも50人前後の方々が出席。
歌会のあとの勉強会では、酒井佑子さんが、「短歌」と「短歌研
究」に掲載されていた「かりん」の日高尭子氏の作品をテキストに
してのレポート。
24首と30首というまとまった数の作品を、大人数で鑑賞する機
会はあまりないので、思ったより有意義な時間になった。やはり、
一人で読んでいると、全作品を精読しているつもりでも、意味をと
りちがえたりしているということにも気づかされた。

帰宅後、「めちゃイケ」と「ダヴィンチ・コード・ミステリー・ス
ペシャル」を見る。


[2004] 夏風邪と閑古鳥 2006年05月19日 (金)

駄句駄句会に出席。
今日は欠席者も多かったのだが、松尾貴史さんが出席。
松尾さんの俳号は「吃蟲」。昔の芸名のキッチュの漢字表記。

席題の出題者は一顔さんで、題は「夏風邪」と「閑古鳥」。
寄席はむかしから閑古鳥が鳴いているはずだったのだが、今年は
どの寄席も満員御礼なのだそうだ。
こうなると、七月恒例の「大銀座落語会」も去年以上の盛況になる
のだろう。
私は4句出句も不振。
三魔宗匠が断然のトップだった。

色川武大の『なつかしい芸人たち』を電車の中と帰宅後の寝床の中
で読み続ける。この本もすでに4、5回は読んでいるのだが、まっ
たく飽きない。


[2003] 回りながら回る地球 2006年05月18日 (木)

「短歌ヴァーサス」9号の穂村弘のエッセイ「80年代の歌」に次
のような一節がある。

「少女漫画のネームと「ぴあ」のはみ出しと塚本邦雄の作品とをあ
たまに浮かべて、五七五七七の口語詩を組立てようとしていた私
はショックを受けた」

大塚寅彦の短歌を読んでのちのショックとして書かれている。
ここに書かれているように、穂村弘のその頃の作品は、まさに、少
女漫画のネームであり、「ぴあ」のはみ出し的なネタであった。塚
本邦雄の影響があったというのは、私には感受できない。
セリフを「」で括って表記するくふうはまさにネームだし、「空
を飛ぶ象」の歌に類するはみ出しネタ的な発想もたくさんあった。
実際、初期の『VOW』には、誰が投稿したのかは不明だが、穂村
の「空を飛ぶ象」の歌が掲載されている。
私が『シンジケート』を読んだ時に感じた違和感は、まさに、こう
いう非短歌的な発想の根っこが、私の理想とする短歌とは異なって
いたし、同時に少女漫画や「ぴあ」のはみ出しや「VOW」や「ビ
ックリハウス」を愛読していた私にとって、既視感が感じられたと
いうことから来たものだったのだと思う。
いずれにせよ、穂村弘が書いたこの一節は、私がなぜ彼の作品を短
歌だと思いたくないのか、ということを「やっぱり、そうだったの
か」というかたちで納得させてくれた。

「短歌ヴァーサス」9号から心に残った作品を一首あげる。

・回りながら回る地球に蔓は伸び黒き葡萄は垂れ下がるなり/中津昌子「鶏冠」


[2002] 小泉史昭歌集『夕木霊』 2006年05月17日 (水)

小泉史昭さんから新歌集『夕木霊』(本阿弥書店刊)を送っていた
だいた。
小泉さんは短歌研究新人賞受賞歌人で、すでに『ミラクルボイス』
という歌集があり、こんどの歌集は9年ぶり、二冊目の歌集という
ことになる。

・まなうらにたまゆら灯る花明かりおもへばあはき春の陰翳
・人体模型さむざむとせる骨格にいかなるものか従属せしは
・重武装するカブトムシみづからの敵なるわれを憎みつつ歩む
・喇叭とはメリハリなれば挙手の例また滅びたり昭和と共に
・消費はた浪費の境おぼろなるジャンクショップのその夕明かり
・蜜豆にしづむ寒天、団塊とよぶ砦ありわれそこに拠る
・晴れ着きて髪を結ひたる若き日の母の写真よとほき戦前
・はてしなく進化してゆくロボットの知恵もつことの寒い驚き
・一瞬のちからに開くアイデアルさして明るき雨の街ゆく
・犬はふと胴震ひせり人間はそしてどこまで時雨れてゆくのか

韜晦的、懐古的な視線の中にするどい自己批評、文明批評がある。
こういう歌が私は好きで、何百首でも読み続けたくなる。子供の感
性を離脱できない歌は、もう、願い下げにしたい。


[2001] 日本のノワール 2006年05月16日 (火)

書き忘れていたが、金曜日に阿佐田哲也の短編集『黄金の腕』を読
み終わった。カドカワノベルスで出て、その後角川文庫に入り、現
在は絶版になっている。
粒がそろった短編集なので、ぜひ、新装再刊してほしいものだ。
表題作の「黄金の腕」は阿佐田哲也の一人称の私小説スタイルで書
き進まれるが、結末でなんともいえない暗く苦い後味が残るノワー
ルで、ダールやエリンの奇妙な味の短編と肩を並べるできだ。
残りの麻雀モノもひねりが利いていてどれも面白いが、引退した
ヤクザが若い女に体好くかもられる「人生は五十五から」も、良い
出来の短編に仕上がっている。全体のトーンがユーモラスなのだ
が、これも日本風味のノワールといってもよいだろう。

ノワールといえば、阿佐田哲也には『ドサ健ばくち地獄』という
傑作長編があるわけで、暴力抜きのノワールというきわめて困難
なバーをクリアしてしまっている。
森巣博の『ジゴクラク』と『神はダイスを遊ばない』も同時進行で
読んでいるのだが、文章ににじみだすコクと奥深さという点では、
やはり、阿佐田哲也には及ばない。もっとも、文章の巧さというこ
とでは、森巣博は白川道よりはマシではあるけれど。

色川武大が阿佐田哲也名義で書いた長編・短編は、どの時代にも通
じる「人間の賭けへの欲望」を描き出しているわけで、全作品を再
刊して、いつでも新しい読者に出会えるようにしてほしいと思う。


[2000] 初心について 2006年05月15日 (月)

慶応病院に行って診療を受ける。
血圧はいちおう安定しているが、入院後、一年経ったので、改めて
腹部のCTスキャンを撮って確認する、ということになる。
CTの予約は来週の金曜日ということになった。

そのままお台場のオフィスへ行き、定時まで仕事。

「俳句研究」6月号、俳人協会新人賞受賞者の高田正子、中村与謝
男、鴇田智哉三氏の鼎談を読む。
この中で、鴇田智哉氏が、賞をもらったことに関して
「賞をもらえたのは巡り合わせであるという思いが強いです。作
品を発表出来る場がふえるのはいちばんうれしいことです」
と、述べているのに好感を持つ。
こういう初々しい心こそ、持ち続けなければならないのだと思う。
河野裕子さんや永田和宏さんが、初めて短歌専門誌から作品依頼を
受けた時の、心のときめきを書いたエッセイがあった。1970
年前後に本格的な出発をとげた歌人たちには、そういう初心が今で
も刻み込まれていると思う。

私も短歌研究新人賞を受賞して、いちばん嬉しかったのは、短歌専
門誌からの作品依頼がくるようになったことだ。
結社誌、同人誌以外に作品発表の場ができることで、新たな読者に
出会える可能性が広がる。
と、同時に、専門誌という短歌に特化した場に作品を提出するとい
うことは、短歌の歴史に参加していることなのだとの思いがわいた。
専門誌の今月号こそは「短歌の現在」そのものなのだと思う。
そこに参加する以上、生半可な作品を出す訳にはいかない。
他の文学ジャンルから見られても、けっして恥かしくない、むしろ
短歌の可能性の凄さを思い知らせるような作品をつくり、発表した
いと思い続けてきた。
結果的に作品の出来不出来が生じることはあるだろうが、こういう
思いだけは忘れてはいけないと思う。少なくとも悪狎れした態度だ
けはとるまいと思う。
以前にも書いたが、私が初めて短歌専門誌から作品を依頼されたの
は1989年の「歌壇」6月号。「短歌人」に入ってから18年目
だった。そして今年2006年は、それから18年目。喜びと畏れ
を私は失っていない。


[1999] 三枝浩樹氏の意見にこたえてA 2006年05月14日 (日)

穂村作品はたとえば下に引用する現代短歌の中に入って、きわだつことができるの
だろうか。
『現代短歌分類集成』から「兜虫」の歌を以下に引用してみる。

かぶと虫唸り飛び行く玉蜀黍の穂並の上の夜空は青く    小田観蛍
暑き日に蒸れし青葉のにほひこもる夕べの道に兜虫飛ぶ   三ケ島葭子
みじろがず樹液に酔えるカブトムシ雌ばかりなる寂しき真昼は 岡井隆
甲虫は樹液に群れぬ縞なせる光の中を歩み来しとき     大野誠夫
百日の生に発ちゆく甲虫の一念あはれくろがねの翅      滝沢亘
月の夜の楢の木肌をのぼりゆく甲虫ひとつあおくかがやく  岡野弘彦
兜虫はかぶと持つゆえ幼らの夢のまにまに生きてあわれよ  山田あき
虫籠に霧吹きながら角もちてこころをもたぬもの幽閉す   今野寿美

面白い歌が並んでいると思う。
小田観蛍の歌は、かぶと虫、トウモロコシの穂、夜空と、かぶと虫をキーにして
読者の視線を上方に向ける。そして夜空の青さに焦点をあててみせる。おそらく、
北海道の夏の夜空なのだろう。色彩感も鮮明である。
三ケ島葭子は夏の日にさらされた青葉の火照り鬱陶しさを残す夕べの情景。兜虫は
夏の力強さの象徴として提示されているように思う。それはね病身の作者にとっては
青葉の息吹とともに眩しすぎて、息苦しくなる思いをかきたてるのだろう。
岡井隆作品のカブトムシは性愛のシンボルとして出現しているように思える。樹液に
酩酊する雌のカブトムシの姿に官能感覚がみなぎっている。
大野誠夫の歌は同じ樹液を自然の具象としてとらえている。夏の木漏れ日を浴びて雑
木林の中を歩いてきた自分の目に、樹液に群れ集う甲虫の姿は自然の営みとの邂逅と
なっている。
滝沢亘は甲虫の生命そのものを凝視している。重度の結核を病んでいた滝沢にとって
百日という限定された生を付された甲虫に対して同志的な哀憐を感じているのかもし
れない。下句の「くろがねの翅」は写生であると同時に「一念」の比喩にもなっている。
岡野弘彦作品は写生の技法の歌である。写生でありながら、そこには甲虫の孤独な営み
に共鳴する作者自身の心が映っている。
山田あきの歌の兜虫は、子供が面白がる紙かぶとが虫のかぶとにかさねられ、それは
同時に戦争(ごっこ)にも通じて行く。かぶと虫を好むことも、それを闘わせたりするこ
とも、幼児の好む行為ではあるが、作者はそのような幼い闘争心にもてあそばれる兜虫
の存在に哀れをおぼえている。複雑な内容を内包した歌だといえよう。
最後の今野寿美の作品が、この中では私はいちばん好きだ。兜虫という名詞を出さずに、
「角もちてこころをもたぬもの」として、兜虫を表現している。歌の主体は作者の側に
あり、「幽閉す」という強い言葉をあえて結句に置くことで、虫と人間との関係性の酷
薄さを描いている。すぐには死なさぬように霧吹きで水をかけるが、結局、それは兜虫
が死ぬまで籠に閉じ込める行為にはちがいないのだ。こういう視点は上記のどの作者の
ものとも異なっている。こういう屈折した心理を投影する高度な表現レベルの達成が現
代短歌の大きな特徴だといえるだろう。

ということで、ここに例の「かちゃかちゃ」の歌を同列に並べられるだろうか。
幼児的なオノマトペで「森の光」がほんとうに呼び寄せられているのかどうか、私には
疑問に思える。ここに「かちゃかちゃ」というオノマトペ以外の言葉を置くという思考
が浮ばないのなら、言葉への感受性が鈍いとしかいえないし、これで良いのだと本気
で思っているのなら、この作者は短歌を舐めている。カブトムシだけでも、どれだけ
先人の豊饒な遺産が蓄積されているのか、まず、勉強するべきだろう。

対象の作品に解釈の差異が生れる豊かさがあれば、読みの違いで議論が深まるかも知
れないが、作品自体の内容が奥深さをともなっていないので、結局「かちゃかちゃ」
というオノマトペの効果を巡る意見の交換に終始するほかはなかった。
私自身、オノマトペに類する修辞は自分では絶対に使わないと決めているので、その分
私の思いにバイアスがかかっていることは否めない。それを補完するために、他の歌人
たちのカブトムシの歌を検証してみた。複数の他者の作品と対比してみれば、その対象
のレベルは客観的に確認できる。短歌の批評は、たとえばここでのカブトムシのように、
実物を観察してみろ、という姿勢では成立しない。カブトムシを詠んだ他者の作品との
対比こそが、本質的な批評を生み出す力になるのではないか。
もともと私が三枝浩樹氏の「短歌月評」に異をとなえたのは、文学としての短歌を考え
るべきだ、との思いにかられたからだった。作者は短歌総合誌に作品を発表する時には
結社誌に発表する時以上に緊張し、文学意識を持った作品を出して欲しいし、批評する
側も、作者の名前にまどわされることなく、文学としての短歌に対する批評の言葉を書
いて欲しい。そうすることで、短歌は時代にふさわしい文学としての進化を遂げるのだ
と私は信じている。少なくとも、凡作を馴れ合いで褒めるという状況からは何も生れな
いだろう。

二回にわたって私への回答を書いてくださった三枝浩樹氏には心から感謝する。
私のかたくなな態度や失礼な言い回しに不愉快に思われたこともあるかもしれず、その
点には、あらためてお詫びしたい。


[1998] 三枝浩樹氏の意見にこたえて@ 2006年05月14日 (日)

三枝浩樹氏が「りとむ」のホームページに「オノマトペについて―藤原
龍一郎氏に応える」という文章を発表された。
これは、穂村弘の作品をめぐる意見交換の二回目のやりとりになる。
インターネット上で、このように意見交換がなされる機会は貴重だと思
うし、三枝浩樹氏もこのような議論、討論の必要性を感じてお書きにな
っているわけだから、私ももう一度、思うところを書いてみる。
尚、三枝浩樹氏の文章は下記の↓「りとむ」のサイトで確認していただきたい。

http://www.ritomu.jp/

さて、問題になっているのは下記の一首である。

・かぶとむしの角をつかめばかちゃかちゃと森のひかりをかきまわす脚 
穂村弘「席をゆずった夢」

私はこの「かちゃかちゃ」というオノマトペを修辞としてきわめて安易であり、
かけがえのない一語を探す努力をせずに、このようなオノマトペですましてし
まうのなら「本当に表現したいことをその手前で気分を漂わせるだけで終わら
せてしまうことになる。」と書いたし、今でもそう思っている。
この部分に対して、三枝浩樹氏は次のように反論する。

以下引用
おさな児が自動車のことを「ブーブー」と擬音語で呼ぶのは、「車」とか
「自動車」というような名詞、すなわち名付けて他と識別する抽象性をい
まだ持たないからである。「車」という言葉には一般性があるが、「ブーブ
ー」の方は一般性はないが、対象の特徴を幾ばくかでも象りうるメリット
がある。「ブーブー」は幼いながらものに近づいて、かたどる力をとどめて
いる。「車」という約束語=一般概念語では表せないものを、幼いオノマト
ペがかすかにとどめているのである。オノマトペはこのように元来プリミテ
ィブな表現である。
 穂村氏はオノマトペを詩的方法として自覚的に引き寄せたのである。手探り
の中で、ものそのものに迫ろうとする表現方法として、オノマトペをもう一
度引き寄せたのである。それを「詩語の追求を回避した安易さ」(藤原)と呼
ぶのは的はずれである。かえって「詩語の追求」をオノマトペに求めたので
ある。

オノマトペの持つ修辞力を解析してみせてくれた上で、穂村作品のオノマトペが
方法論として自覚的なものであり、オノマトペでしか表現できないものを表現し
た、と支持しているわけである。
しかし、「ものそのものに迫ろうとする表現方法として、オノマトペをもう一度
引き寄せたのである」といわれても、やはり、オノマトペというのは、気分しか
表現できないわけなので、かけがえのない比喩の言葉にはなっていないと、私は
言わざるをえない。プリミティブな表現という方向へ修辞のシフトをおこなうこ
と自体、私には妥協に思えるということだ。要はオノマトペでしかあらわせない
表現などありえない、というのが私の短歌における修辞観だといえる。
オノマトペが最上の効果をあげるケースというのはもちろんありうるだろうし、
たとえば、小島ゆかり氏が駆使するユニークなオノマトペの数々に対しては、私
も、それが一首の中でかけがえのない修辞として機能していることを感じ取るこ
とができる。しかし、「かちゃかちゃ」という既成の擬音語には、いくら褒辞
をつらねられても、私は修辞の幼児的な安易さしか感じ取ることができない。
また、三枝氏はこのオノマトペの効果を次のように鑑賞してみせる。

以下引用
さて、一首の文脈の中に用いられているわけだから、この「かちゃかちゃと」
というオノマトペは「森のひかりをかきまわす」という表現と合わせて読む必
要がある。この「かちゃかちゃと」というかぶとむしの脚の動きに、作者は彼
方の「森のひかり」を感じているのである。今、人の手の中であわただしく脚
を動かしているかぶとむしは、かつて森に棲み、森のつややかなひかりとうっ
そうした空気につつまれていたかぶとむしなのである。その両者が一首の中で
ゆきう。眼前の景と想像の景がゆきあう。「かちゃかちゃと」というフレーズ
と「のひかりをかきまわす脚」というフレーズがゆきあう。イマジンのスケッ
チである。

丁寧に読み解いた美しい鑑賞文だと思うが、その丁寧さは、一首の高度な修辞が
呼び起こしたわけではなく、三枝浩樹としいう優れた歌人の親切な意志がその周
到な読みを成立させているのだ。ありていに言えば、どんな歌でも、褒めるつもり
でのぞめば、このような文章は書けてしまう。
また、三枝氏は、引用文のあとで、「かちゃかちゃ」というオノマトペに対して、
私がおもちゃやメカを連想したと書いたことに異をとなえて、「かちゃかちゃ」は、
そんな連想をすべきではなく、カブトムシの脚の動きはを表現するのに「かちゃか
ちゃ」はとても的確な表現だと主張する。しかし、「かちゃかちゃ」から金属音や
機械音、そしてその動きのイメージを連想するのはムリのない感受であり、カブト
ムシの脚の動きの説得力のある修辞であるとの解釈は、やはり、恣意的にすぎるの
ではないか。
また、穂村の作品が、仮に上記の鑑賞に見合うものだとしても、現代短歌という表
現レベルで見たとき、ぬきんでた作品だとはとても言えない。また、それがその月
の総合誌掲載作品の中で、きわだった作品だということもできないだろうと思う。
穂村弘という名前が先行しているばっかりに、つまらない作品(これをつまらなくは
ないと三枝氏は主張するわけだが)を、過剰に褒めるというのは、健全なことではな
いということを、もう一度主張しておきたい。よく言われることだが、批評はジャ
ンルの高峰の部分で論じなければ、意味はない。


[1997] POGの季節 2006年05月10日 (水)

今年もペーパーオーナーゲームの季節がやってきた。
書店の店頭にもPOG関連の書籍が並び始めた。
早速、「POGの極」と青本を購入。
雑誌の「競馬王」も買いたいのだが、豊洲のビバホームにある
くまざわ書店には置いてない。
すでに4月のうちに北野義則のPOG本は買ってあるので、あとは
黒本と赤本を買えば、ほぼ、そろうことになる。

去年はアドマイヤムーン、一昨年はペールギュントを指名していた
ので、ここ二年はプラスだったが、三年前は未勝利戦を二勝しかで
きずに、散々な目にあった。とにかく、一年の浮沈をかけたPOG
のためには、その年の二歳馬を徹底的に研究するしかない。

実はアドマイヤムーンは下位の指名だったのだが、上位が何頭かと
れなかったので、繰り上がりで獲得ということになったもの。
結局、最上位指名のサンデーサイレンス産駒のスズカプレジデント
は、現時点でまだ未出走。2位指名の同じくサンデーサイレンスの
子供のホーマンジュピターはダートの未勝利戦と500万下の平場
を勝っただけなのだから、結局は運が良かっただけなのかもしれな
いわけだ。
皐月賞はとれなかったが、ダービーではぜひ武豊に雪辱してほしい
ものである。


[1996] トリックスター 2006年05月09日 (火)

大手町の銀行経由でお台場のオフィスへ行く。
東京三菱銀行が三菱東京UFJ銀行に名前が変わったわけだが、
東京三菱、三菱東京の部分がまちがいやすい。

森巣博の『ジゴクラク』を読み始める。

文化放送の番組広報誌「fukuMiMi」に「新潮45」の編集
長の中瀬ゆかりのインタビューが載っている。
和歌山出身ということを初めて知った。
作家の白川道と結婚しているので、西原理恵子のマンガにキャラク
ターとしてでてくる。白川道の競輪エッセイにも、賭けっぷりの豪
快な嫁はんとして登場している。まあ、トリックスター的なキャラ
クターである。


[1995] 賭博師たち 2006年05月08 (月)

角川文庫の『賭博師たち』というギャンブル小説のアンソロジーを読了。
収録作品は下記のとおり。

伊集院静 「嵐の去るまで……」
生島治郎 「ドボンと昏睡」
大沢在昌 「カモ」
黒岩重吾 「運河のカジノ」
黒川博行 「いたまえあなごすし」
佐藤正午 「きみは誤解している」
清水一行 「修羅場の男−阿佐田哲也の場合」
樋口修吉 「鉄道ゲーム」

小説として完成度が高いのは断然佐藤正午。
ギャンブル場面と小説全体を面白く読ませるのは黒川博行。
この作家のサービス精神は気持ちが良い。
伊集院静と大沢在昌はギャンブル場面に迫力がいまひとつ。
生島治郎、黒岩重吾、清水一行は老練な文章でともかく読ませる。
三人とも私小説スタイルで、生島と清水の作品には阿佐田哲也が
実名で登場する。いかに、阿佐田哲也のおよぼした影響が大きい
かということだろう。
樋口修吉は期待外れ。長編「アバターの島」を20年くらい前に
読んだときの印象では、巧い作家だと思っていたが、この「鉄道
ゲーム」は、ちょっとひどい。セリフは説明的だし、物語の展開
も意外性がなく、敵役の男が大金をはって負ける心理にリアリティ
がない。つまり、ギャンブル小説としても、ただの小説としても
ふできだということ。

佐藤正午には「遠くへ」に続いて期待をみたしてもらった。
競輪が人生にどうかかわるかを純文学として展開してみせた佳品だ。
阿佐田哲也の影響の大きさと書いたが、やはり、ギャンブルを主題
にした小説で、彼の右に出る作家はまったくいない。
口直しに「ラスベガス朝景」という阿佐田哲也の短編を読んだが、
何度読んでも心の深いところに言葉が届いてくる。
ギャンブル小説のアンソロジーなど読むよりは、阿佐田哲也の小説
やエッセイを繰り返し読んだほうがいい。
『麻雀放浪記』4部作と『ドサ健ばくち地獄』の2長編はもちろん
「捕鯨船の男」、「イッセイがんばれ」、「シュウシャインの周坊」
「東一局五十二本場」といった短編群も、他の追随をまったくゆる
さない。

とりあえず、白川道が期待はずれだったので、こんどは森巣博を読
んでみるつもり。


[1994] NHKマイルカップ 2006年05月07日 (日)

午前中は六本木に行き、髪をカットしてもらう。

NHKマイルカップは武豊のロジックが優勝。
きわめて堅実な成績の馬がG1で花開いたということか。

昨日、北野義則の『馬券練習帳W』を読了していたので、
今日は馬券に積極的にかかわることができた。
予想力に馬券力が加わらなければ、ギャンブルとしの面白味
は半分しか味わっていないことになる。

夜、「俳壇」五月号の寺山修司特集を読む。
佐藤忠男が寺山修司監督の「田園に死す」は日本映画の傑作
と呼ぶべき一本だ、と書いているので、私の今までの信念も
まんざら間違ってはいなかったとほっとする。
例の雛壇が川を流れてくる場面に、佐藤忠男も仰天したと書
いているのもうれしい。


[1993] ヨコハマメリー 2006年05月06日 (土)

朝からテアトル新宿へ噂のドキュメンタリー映画「ヨコハマ
メリー」を見に行く。
朝9時10分からのモーニング上映だというのに、客席の三
分の二は埋まっているのだから、確かに邦画を意志的に見よ
うとするアクティブなお客の数は増えている。

伊勢佐木町の街角に白塗りの化粧で立ち続けたメリーさんと
いう実在の街娼を主役にすえたドキュメント。
終戦直後から平成九年あたりまで、実際にこの女性は毎日街
角に立ち続けたのだそうだ。

この映画の話題は、一月の駄句駄句会で、高田文夫さんが試
写を見て驚いたという話をだした時。島敏光さんも、評判の
高い作品だと言い、玉置宏さんが、メリーさんなら何度も見
たよ、横浜の有名人だよ、と言ったのだった。

映画は本人の映像もまじえながら、周囲の人たちの証言で、
立体的にその存在の意味が浮き彫りにされてゆく。
皇后陛下、きんきらさん、ホワイト、白塗り、オバケとさま
ざまなあだ名でよばれながら、メリーさんは戦後という時代
を将校相手の高級娼婦である自分に高いプライドをもって、
行き続けたのだということが、スクリーンから伝わってく
る。
メリーさんの晩年に生活の面倒もひそかに見ていたという、
元男娼のシャンソン歌手のリサイタルにメリーさんが来てい
て、アンコールの前に花束をもってくる場面のビデオが残さ
れていて、会場から「メリーさん!」という声援がわき、拍手
が自然発生する。その時にメリーさんが見せる照れたような
しぐさがとても感動的だ。
五代路子はメリーさんをモデルにした「横浜ローザ」という
一人芝居を演じている。そのエンディングではいつも会場か
ら「ローザ」ではなく「メリーさん」という声があがるそう
だ。清水節子、団鬼六といった著名人の証言もあり、また、
若い頃、根岸家というチャブ屋に出入りしていた元芸者が、
「あたし、メリーとケンカしたのよ」という証言には迫力が
ある。この女性が関係者の前で「野毛の山からノーエ」と、
「ノーエ節」を歌う場面も、戦後の混乱期の悪場所の乱痴気
騒ぎの一端を垣間見させてくれる。

単館上映ではあるが、歴史のつながりの中に「現在」がある
ということをわからせてくれる佳作であり、ぜひ、若い人た
ちにも見てほしいと思う。


[1992] 芭蕉記念館など 2006年05月05日 (金)

たまには連休らしいことをしようということで、芭蕉記念館
と深川江戸資料館をめぐる。
どちらも、自転車でも徒歩でも行ける距離の場所なのだが、
それだけにいつでも行けると思って、実は今回が初めての訪
問になる。
初老の女性のグループが大量に居る。
やはり、奥の細道探訪などがいちばん大義名分のたつ旅行と
いうことなのだろう。
深川江戸資料館のほうは、江戸時代の深川の長屋や商店が模
型で再現されている。中へ入ることもできて、きわめて面白
い。こちらには、アメリカ人らしい外人観光客のグループが
入っていた。
実物大の八百屋の中に漬物の桶があるのを見て、昭和三十年
代の八百屋にも同じ桶があったことを思い出した。

帰宅後、白川道著『朽ちた花びら』読了。
先日読み終わった『病葉流れて』の続編。
感想は前の本と同じ。麻雀や競輪の場面に迫力がないのが致
命的だ。小説としての演出力、構成力が乏しい。

明日はテアトル新宿に「ヨコハマメリー」を見に行く予定。


[1991] 高級なパスティーシュ 2006年05月04日 (木)

一日休息。
『新・地底旅行』読了。
ヴェルヌの『地底旅行』やドイルの『失われた世界』が好き
という読書人であれば、楽しんで読めるだろう。漱石の『我
輩は猫である』のパスティーシュでもあるので、漱石好きの
人も楽しめるはずだ。
ともかく、『猫』の文体で冒険SFを書くというアイデアが
みごとにはまっている。緊迫した状況も一人称の饒舌体なの
でまったく緊張感が生れず、ほのぼのとしたまま物語が展開
していく。つまり、そんなSFは今までにないわけで、奇抜
な読書体験が実現するということである。

あと何作か、奥泉光の本を読んでもらおうと思う。


[1990] 一年ぶりの拡大編集委員会 2006年05月03日 (水)

「短歌人」の拡大編集委員会に出席するため10時前に池袋の
東京芸術劇場へ行く。
去年は慶応病院へ入院中だったことを思えば、出席できるこ
とをありがたいと思うへきなのかもしれない。
一日みっちりと会議。
終了後、大森益雄さんとジュンク堂へ寄り、大森さんは『百
万遍界隈』を、私は『連句・俳句季語辞典・十七季』を購
入。こりは東明雅氏が最後にかかわった本だと、西王燦氏か
ら教えていただいた。
大森益雄さんと別れて帰宅。
夜、奥泉光『新・地底旅行』を読みながら就寝。


[1989] あねさまキングス 2006年05月02日 (火)

午前中、オフィスにいると突然窓の外が暗くなり、雷鳴とと
もに激しい雨が降ってきた。三十分ほど降りしきり、やむ。
雨が上がったところで、ゆりかもめ、銀座線、丸の内線と乗
り継いで、本郷の角川書店へ行く。
「俳句」5月号を対象とした「合評鼎談」。
終了後、丸の内線、東西線と乗り換えて門前仲町へ行き、整
体をしてもらう。
さらに、夜は新宿紀伊国屋ホールへ行き永六輔肝いり、矢崎
泰久、木村万里プロデュースのお笑いライブを見る。
出演者は下記のとおり。

・松元ヒロ
・太田スセリ&中村まり子
・すわ親治
・ナギプロ・パーティ
・あねさまキングス
・ペーソス

というおとな向けのプログラム。
しかも、永六輔肝いりということで、きわめてTBS色が強
いお客の傾向。
出色は桂あやめと林家染雀の音曲漫才ユニットのあねさまキ
ングス。
むかしのお座敷芸、寄席芸だった「猫じゃ猫じゃ」や「ちょ
んこ節」などの歌もの芸を芸者姿の衣裳で演じてみせる。
つまり、伝統芸の現代的継承ということだ。
まず、伝統芸を自分たちが現代に生き返らせようという意志
が買える。あやめ、染雀ともに、年齢的にギリギリ、この手
の芸が、古い芸人さんによって寄席で演じられているのを見
ているのだろう。
二人とも落語家として、音曲も学んでいるので、まねごとで
はなく、本格的な芸の再現になっている。
初見だったが、いいものを見た。
今後もできる限り追いかけていきたいと思う。


[1988] 夏日の東京 2006年05月01日 (月)

フェーン現象がおこっているということで、きわめて暑い一日。
なんと、東京練馬区では30度を超えたそうだ。
お台場のオフィス内も暑い。アタマがぼーっとしてくる。
連休の谷間で休んでいる人がいて、人数は少ないのに空気がむんむ
んしている。エレベーターホールへ出れば冷房が入っているので、
時々息抜きにそちらへ出る。

帰宅後、奥泉光の『新・地底旅行』を読み始める。
朝日新聞に連載された長編小説。
今年の五月以降は、今まで読んだことのない作家の作品を読んでみ
ようということで、その第一弾。
「我が輩は猫である」の登場人物のような遊民に地底旅行をさせる
というアイデアは抜群だと思う。
とりあえず、四分の一ほど読む。富士の樹海にある人穴から地底の
迷路に一行が降りたところで、これから本格的な地底探検が始まる
ようだ。とりあえず、連休の前半には読了できそうだ。

松岡達宜さんから同人誌「たまや」の3号を贈っていただく。
松岡さんの短歌「左褄について−樋口一葉へ」が、ケレンたっぷり
で読み応えがある。
島田幸典の「羅馬の赤」という新作も期待に応えてくれるもの。
そして多田智満子の未発表俳句が7句載っている。

・鍵なくて鍵穴ばかり遠花火/多田智満子


[1987] ディープインパクト世界新記録 2006年04月30日 (日)

天皇賞はディープインパクトが3コーナーで先頭にたち、そのまま
ロングスパートを続けて、世界レコードで圧勝。
武豊が「この馬より強い馬がいるのか?」との名セリフを吐く。

黒川博行『麻雀放蕩記』と白川道『病葉流れて』の二冊を読了。
黒川は自分自身を投影した黒田ヒロユキという作家が麻雀はじめ
手本引きやブラックジャックに耽溺するさまを大阪弁の会話の妙
と、一人称のノリツッコミという笑える文体で書いた快作。
白川道の方は、自伝的長編と言うことで、学生である主人公が、
麻雀、競輪などのギャンブルに憑かれ、ダークサイドの人脈や女
たちと次々に接触していくというピカレスクだが、どうも、ご都合
主義なストーリー展開で、小説としてのコクがない。
たぶん、実際に体験したことを書いていて、とにかく、書く素材は
たくさんあるのだろうが、それが整理されていない。小説的にもり
あげを計るというような部分が薄いので、なんとも歯痒いというの
が正直な感想。
この小説は3部作ということなので、いちおう、あとの2冊も読ん
でみるつもりではあるのだが。
麻雀の場面を書いた小説を読むと、この分野を開拓した阿佐田哲也
の偉大さがあらためてよくわかる。
たとえば「麻雀放浪記・番外篇」で、ドサ健が青天井ルールで、一
発三千万点をあがる場面の迫力と説得力に及ぶ小説には、まだ、お
目にかかったことがない。私はこの場面を「週刊大衆」に連載され
ている時にリアルタイムで読んでいたことを私の読書生活の大きな
幸運に思う。

夜は家族4人で「大喜」に焼き肉を食べに行く。


[1986] 遠くへ 2006年04月29日 (土)

整体院へ行ったら、臨時休診になっていた。
連休中は休みなのかもしれない。
しかたがないので、古石場図書館へ行き、
佐藤正午『永遠の1/2』『sideB』
真保裕一『トライアル』
以上の三冊を借りてくる。

佐藤正午の本を借りたのは、ハヤカワ文庫のギャンブル小説
のアンソロジー『絶体絶命』に収録されていた「遠くへ」と
いう短編を読んで感心したから。
「遠くへ」は競輪をテーマにした私小説体の短編。
ものかきの私は川野という苗字の三十代の女性と競輪場で
知り合う。この川野は、かつて同棲していた男から競輪を
教えられ、その後、男とわかれてからも競輪の魅力に憑かれ
て、競輪通いをつづけている。そして、その川野が私に、か
つて競輪場であった不思議な老人のことを語る。
この老人の正体が、あっと驚くようなもので、私もあっと驚
いた。こういう結末があったのか、と感嘆してしまった。
ギャンブル小説のアンソロジーなので、結末でどんでん返し
があるものが多いのだが、この「遠くへ」はアイデアストー
リーの域を超えている。青春小説ともいえるし、幻想小説と
もいえる。
昨年、丸山健二の「雪間」を読んで、短編小説の醍醐味を味
わったが、この「遠くへ」もまさるともおとらない。
良い小説を読んだ、ということで、同じく競輪を扱った佐藤
正午の処女長編と競輪にまつわるエッセイを借りたわけ。
真保裕一の『トライアル』は競輪ばかりでなく地方競馬など
のギャンブルを扱った短編集。
とりあえず今年のゴールデンウィークはギャンブル小説を読
みまくることにしようかと思っている。

夜は紀伊国屋ホールでうわの空藤四郎一座の「ただいま」と
いう芝居を見る。
ハートウォーミングなねらいが巧みにつたわってくる佳品。


[1985] 炎を孕む 2006年04月28日 (金)

蔵本瑞恵さんから新しい歌集『炎を孕む』(角川書店・2571円)を
送っていただいた。
蔵本さんは癌と闘いつつ作歌を続けている。
蔵本短歌の特徴は、文語の中に口語がはいってくる小気味良さ。
こういう手法は今ではポピュラーになっているが、蔵本さんは
その手法をとても早い時期から自分の方法論として意識的に活用
してきた。

・急ぐこと何ほどありや傘さしてひとは出でゆく雨の最中を
・とりあえず受けとめている末期癌ああそうですかと頷くばかり
・止めますと叫びたくなる この梅雨はやけに雨降る雨ばかり降る
・パズル解くかたちに灯るビルの窓日暮れてともる人のいとなみ
・炎を孕むはずの腹部にばっさりと傷口が、もう炎を孕めない
・夭折も憤死も無縁と閉ざされた部屋に溢れる淡き花ばな
・火の星の近づくという真夜中を病めるおんなら窓にすがれる
・遠からず天使の梯子の降りてくる羽の無ければ昇るほかなし
・ほたほたと雨に打たれてメールくる病み深くなり人は優しき
・その終の日は寂しからんよ孤独死の島田修二よ秋蝉落ちる
・待ち人は待てばまつほど来ぬものと雲ひとつなき空教えくる
・折り鶴の首折りかねるつんつなと首になるのはひだりか右か

心に残った作品の一部を引用する。


[1984] 海猿とマタンゴ 2006年04月27日 (木)

映画を2本見た。
「海猿・LimitofLove」と「マタンゴ」。
「海猿」は公開前の社内試写。
2時間の作品だが、始まって10分で海難事故が発生して、あとは
「ポセイドン・アドベンチャー」風のひたすら一難去ってまた一難
の船内脱出行ということで、最後まで時間を忘れて見ることができる。
鹿児島港沖に大型フェリが転覆し沈没する様子をCGで見せている
のだが、これが実によくできている。
吹越満、大塚寧々といった脇役も存在感があって、感情移入ができ
る。ゴールデンウイークに見るなら、これをすすめたい。

「マタンゴ」はフジテレビの社員の社内同好会であるお台場シネマ
クラブの自主上映。
クラブのメンバー以外にも開放されているので、今夜は30人くら
い見に来た。つまり、作品自体に吸引力があったということか。
私は封切り時の1963年に映画館で一度、それから1970年代
に、深夜のテレビでと、二回見ている。
この映画の特徴は絶望的なアンハッピーエンド。
5人の男と2人の女がヨットで漂流して無人島に漂着、そこで奇怪
なキノコであるマタンゴに遭遇するという物語。
当然、それぞれの人物にわがままとか女好きとかの性格付けがなさ
れているのだが、その中でもっともまともな勇気と理性をわりふら
れている作田という男(小泉博)が、途中で仲間を見捨てて、一人で
脱出して、しかも、あえなく死んでしまうという展開は意表をつい
ている。
一人の男が生き残るのだが、この男もマタンゴに憑かれて、肉体が
腐乱し始めている、というエンディング。
子供の頃の記憶では、この男がずっと病室での後ろ姿を見せている
のが、最後にふりむいて、奇怪な色に変質した顔を見せる場面が
とても恐かったのだが、今回再見すると、さほどどぎついメーク
でもなかった。やはり、初見の時は子供の感性だったのだろう。

ということで、9時前に帰宅。
ハヤカワ文庫のギャンブル小説アンソロジーの中から
阿刀田高「ギャンブル狂夫人」
星新一「四で割って」
白川道「アメリカン・ルーレット」を読む。


[1983] 文福茶釜 2006年04月26日 (水)

オフィスを出て、台場駅からゆりかもめに乗って豊洲でおりる。
豊洲図書館で、白川道と黒川博行の本を何冊か借りる。
そのあと木場駅行きの都バスに乗り、枝川一丁目でおりる。
焼き肉の大喜へ行き、ゴールデンウィーク中の定休日を確認して
名刺をもらう。路地の角のコリア物産で本場のキムチを買う。

帰宅後、黒川博行の『文福茶釜』を読了。
美術品の詐欺をテーマにした連作短編集。
美術の世界の魑魅魍魎の跋扈と詐欺の手管の数々を解説してくれる
部分が文句なく面白い。
美術骨董の世界では、贋物を贋物と知ってシロウトに売るのは御法
度だが、クロウトに売るのはプロ同士のかけひきということで、か
まわないのだそうだ。

黒川博行の小説は京阪神を舞台にして、そのローカル感覚を巧みに
生かしているが、この小説でも、主人公が移動するときに、必ずそ
の移動径路を地名と路線名を具体的にあげて記している。そして、
それがもちろん効果をあげている。
プロというのは、さりげないくふうをしているわけだ。


[1982] ドッキリチャンネル 2006年04月25日 (火)

新宿の創作料理店で、林あまりさんと新風舎の松崎義行さんと会食。
フーコー短歌賞のお疲れさま会といった意味の会合である。
帰りに、ビルの中の有麟堂書店で、ちくま文庫の、森茉莉著『ベス
ト・オブ・ドッキリチャンネル』を購入。セレクトしたのは中野翠
なので、どこを開いてもたのしめる。
15年前くらいに出た森茉莉全集には、ドッキリチャンネルの連載
分がすべて収録されているというが本当だろうか。
とにかく、有名人の実名をあげての言いたい放題の文章は痛快であ
るが、また、書かれた人にとっては戦々恐々であっただろうとも思う。


[1981] 春琴と名づけし猫が 2006年04月24日 (月)

午後、佐伯怜胡さんがお台場のオフィスにたずねてきてくれる。
彼女とは、15年以上前に笑福亭鶴光さんの番組で、レポーターを
お願いしたときからのつきあいだ。
現在、彼女はプロレスラーのAKIRAさんの奥さんとして、子育て
の最中。とはいえ、ライブの脚本やエッセイを精力的に書き続けている。
一段落ついたら、ぜひ、タレントとして復活してほしいものだ。

日比谷句会の場所である帝国ホテルに行く途中で雨がふってきたの
で傘を買う。4月になって傘を買うのはこれが三度目だ。
どうも傘をもって外出するタイミングが悪い。
日比谷句会は6人出席。
宿題の「今月の言葉」として「短歌」の「山中智恵子追悼鼎談」の
岡井隆、馬場あきこの会話を紹介する。

岡井隆 それで究極的には類歌類想の中の誰かの一首が残るんで 
す。
しかも、その人が始めたものでもないのにかかわらず残る。

馬場あき子 歌い勝った方が残る。これ、しょうがないのよ。

この歌い勝つという言葉が凄い。では、俳句の場合はなんと言うべ
きなのかということになって「ひねり勝つ」ではないか、となった。
ひねり勝つというのは関節技の達人のようでこれはこれで凄味がある。
俳句の達人にぜひプライドに出てもらいたいものだ。



山内将史さんの「山猫通信」は三回続けて宮入聖の俳句をとりあげ
ている。

・春琴と名づけし猫が恋にゆく/宮入聖「冬緑一百句」

この句は結句が抜群に巧い。
「春琴と名づけし猫」までは誰でも書ける。
しかし、結句の「恋にゆく」は凡百の才能では絶対に書けない。
山内さんの鑑賞もその点をきちんとふまえている。
春琴から盲妹の話をふり、高野聖に転じて、二重語りの虚構の妙を
語って、その巧妙な結句をオチにつかっている。
この「山猫通信」の俳句鑑賞も一巻になってほしいものだ。


[1980] 塩の屋で歌会 2006年04月23日 (日)

目白の旅館・塩の屋で新首都の会。
先月よりは出席者が多かった。
謎彦さんが詠草は提出していなかったが、途中から出席。なぜ、
自分がこの歌を選んだか、ということに関して面白い論理展開の
意見を述べ、刺激的な時間になる。

高田馬場でパンを買い、芳林堂書店で松谷みよ子編『日本の民話』
の「ラジオ・テレビ局篇」を買う。
ラジオやテレビの現場での失敗談や怪談を集めてある一冊。
失敗談のほうでは、泊りのアナウンサーが朝一番のニュースを読む
のに、寝坊してギリギリでスタジオに飛び込み、「寝間着で失礼
します」(ラジオなのに)と言ってしまった、というようなもの。
怪談は生放送または録音中に知らない声や音が入った、というも
のが多い。この声や音に関しては、録音テープを聞き直したら、
消えていたというのと、テープにもはっきり声や音が録音されて
いた、というのと二手にわかれる。
私もラジオの現場で、少なくとも3回、これに類した経験をしてい
る。電波をだす場所はサイキックな現象をおこしやすいという説が
あるが、私はそれは本当だと思っている。


[1979] カグラージュ句会など 2006年04月22日 (土)

昼からカグラージュ句会に出席。
櫂未知子さんがプロデュースしてくれる句会で、神楽坂で開催され
るので、カグラージュというわけだ。
牙城さんを筆頭とする佐久のみなさんや櫂さんのグループの方々を
はじめ33人が集合。
こういう大人数の句会に出席するのは20年ぶりくらいかもしれな
い。選句のさいに清木記用紙をためてしまうのではないかとか、点
盛りでもたついてしまうのではないかなどと心配したのだが、なん
とか恥じをかかずにすんだ。
二字熟語句会の主催者の麟さんと久しぶりにお目にかかったのもう
れしいことだった。岩下静香さんの歌集の批評会以来だ。
櫂さんの司会進行の素晴らしさに舌をまく。
気持ちの良い会だった。

夜は「短歌人」の編集会議。


[1978] 秋風の我が家に坐すもわが旅路 2006年04月21日 (金)

とりとめもないままに一日を過ごしてしまった。
勤めの帰りに整体に行く。
腰は最悪の時期に比すると痛みは半減した。
七時過ぎに帰宅。
「読書人」の読書日録に荻原裕幸さんが登場。
小川双々子の句集『異韻稿』について。
昨日、「夢幻航海」で坂戸淳夫さんの双々子への追悼文を
読んだばかりなので、偶然に驚く。
「夢幻航海」に「一句散策」として、佐藤三保子さんの俳句
についての短文を書かせてもらった。
自分としてはどうしても一度書いておくたい俳人だった。
発行人の岩片仁次さんが、五千万円自由に使えるお金があった
ら、一冊百万円の予算で、現在の俳句の世界が見落としている
本当にすぐれた俳人の句集をつくりたいと書いていらっしゃって
その中に「藤原龍一郎氏が書いている佐藤三保子さんも外せない」
と記してくださったので、私としても胸をなでおろす。
本日のタイトルはその佐藤三保子さんの一句。
死んでしまえば忘れられるという風潮にだけはなんとか抵抗
して、本当にすぐれた作家のすぐれた作品をきちんと提示し
続けたいと思う。


[1977] 俳句の困難 2006年04月20日 (木)

読み忘れていた「俳壇」3月号の「超結社会句会への招待」を読ん
でいたら、月見寺句会を紹介した中に
・冬の蝿足で涙は拭けませぬ
という田中喜翔氏の句が、最近の句会からということで紹介されていた。
この句を読んで連想するのは次の句だろう。
・春暁や足で涙のぬぐえざる 折笠美秋『虎嘯記』昭和59年刊
ALSという難病で、病床で作品をつくり続けた折笠氏の作品として
有名な一句だ。
田中氏の方は「冬の蝿」との配合で、滑稽味を狙っている。
折笠氏の方は、やはり哀切な句だと思う。
それで、片方の句しか知らなければ、じゅうぶんに、それぞれの句
を味わうことはできるわけだ。
しかし、私がそうであったように、折笠作品を知っていて、田中作
品を読むと、やはり、この句はまずいよなあ、と思わざるをえない。

前に駄句駄句会で、私が意図せずして類句をつくってしまった経緯
を書いたが、このように類想句は、悪意でなくともできてしまうのである。
田中氏も折笠美秋作品を知っていたら、あるいは思い出したら、こ
のような句は当然つくらなかっただろう。
類想句を避けるためには、できるだけたくさんの作品を読むことな
のだろうが、それによって好きな句のフレーズがアタマの中に刷り
込まれて、また作句時に無意識にそのフレーズが浮かんできたりす
るから始末が悪い。
まことに現代俳句は困難を抱え込んでいるということか。


[1976] 俳句のある一日 2006年04月19日 (水)

吉村たけを氏から句集『海市蝶』を送っていただき、一気に読了。
吉村さんには、先週の土曜日の晩紅塾でお目にかかった。

これらの句が心に残る。

・ ピアノ拭き上げて凍湖に触れしごと
・ 標野ゆく我ら旅の子草摘む子
・ 雉撃ちの相方にして美少年
・ 実朝も鳳作もよし海つばめ
・ コンドルの檻冬山がところどころ
・ 荒星の背後に四角三島以後
・ 琉金に玲瓏と夜はつづきをり
・ 仏壇を良夜の庭へ開きてをく
・ 冬夕焼どこまで帰る乳母車
・ 寒鯉は荒ラ殺ぎがよし荒ラ醤
・ 舟を出すならば朧の壇ノ浦
・ 港には老いたる夏と蓄音機
・ 涛音や今昔杳として日傘
・ ひと雨もありてだらだら祭かな
・ 居待ちの句そば屋更科にて詠める
・ 梟の大観念の夜ばたらき
・ 鶴赤く赤く折らるる枯野かな
・ 春の日や泣きの啄木まだ泣くか
・ 死ぬならば客死ミモザの壮んなる
・ 赤衣桁見ゆる六月ほの暗き
・ 母親とその母親の花火の夜
・ 八月の喇叭の金ンは錆びにけり
・ 名画座を出で黄落のしきりなる

中でも、雉撃や寒鯉や壇ノ浦や客死の句は一読、記憶に刻み込まれる。
刺激にみちた句集を読ませていただき感謝したい。

雑誌「俳句朝日」5月号を読む。
朝日俳句新人賞の発表号。
受賞は「沖」所属の掛井広通氏。
受賞作「孤島」50句より印象に残る句を引用。
・啓蟄や口の中から万国旗
・自転車の籠に空蝉乗せしまま
・秋の日や動く歩道の横歩く
・新宿のビルは角なりクリスマス
・地下道になほ奥のあり十二月

都市風景を意図的な軽い文体で詠んでいて好感がもてる。
一つ気になったのは、表題作である一句。
・太陽ははるかな孤島鳥渡る
この句からは当然、福永耕二の傑作が連想される。
・新宿は遥かなる墓碑鳥渡る  福永耕二
福永耕二は掛井氏にとって「沖」の大先輩にあたるわけだから、
「新宿は」の句を読んでいないことはないだろう。
せめて、季語をかえるとか、もうひとくふうできなかったかと思う
のだが。

ここのところ、歌集より句集や俳句雑誌を読む時間がふえてきている。
とりあえず、本日は俳句のある一日ということになった。


[1975] 金曜日は糸巻きもせず 2006年04月18日 (火)

ちょっといろいろあって疲れ気味ではあります。

13日・木曜日
全日本女子プロレスの元リングアナウンサーだったIさんと、ラジ
オのフリーのディレクターのSさんと有楽町のビヤホールで歓談。
女子プロレス界の冷え冷えとした現状を聞く。しかし、Iさんは
そういう状況の中で、実に元気に仕事をしている。
近藤芳美の歌集『喚声』を先週からずっと読んでいる。歴史を凝
視した歌集。

14日・金曜日
原稿を一本書き泥んでいる。集中力が出ない。
ハンガリー動乱時の弾痕が残っている建物の画像をネットで見る。

15日・土曜日
八田木枯氏が主宰する晩紅塾の句会に参加させていただく。
さまざまな新しい出会いに恵まれる。

16日・日曜日
皐月賞完敗。私の勝ってほしかった馬が三着までに入っていない。
アドマイヤムーンにはダービーで雪辱をきしてほしい。
秦恒平の『好き嫌い百人一首』を読み始める。

17日・月曜日
とりこみごとがあったりして、気分は晴れない。
とはいえ、気力をふりしぼって原稿を一本書く。
秦恒平著『歌って、何!』に収録されている篠弘、梶木剛との鼎談を読む。
秦氏の短歌の現状に対する率直な不満の表明に篠氏がたじた
じとなり、やがて、反発しぶつかり合っている珍しい内容。
「短歌」の昭和60年1月号に載ったものとのこと。その当時は
私は「短歌」を買っていなかったので、今回がもちろん初読。

こんな一週間だった。

今日はすっきり晴れて、暖かい。
勤務終了後、新宿末広亭へ行き、立川藤志楼(高田文夫)さんの
出番を見る。今夜の演目は春風亭昇太作「力士の春」。
力がぬけた軽いはなしだが、文句なく笑える。
ヨネスケさんが野球のマクラから入って、古典落語の「寝床」を
ベースにして、義太夫を野球観戦にかえた噺でこれも笑えた。


[1974] 名人の怪談噺 2006年04月12日 (水)

結局、久世光彦のエッセイの影響で岡本綺堂の「半七捕物帖」を
読み始めた。
久世氏が怪談したての捕物帖の傑作で、今読んでもコワイと評価し
ている。「津の国屋」という作品。
光文社文庫では第二巻に入っている。
一軒の大店にまつわる因縁噺で、確かにその怪奇と恐怖のたかめかた
はみごとといえる。
解決までゆくと、なんだ、という感じもあるが、とはいえ、語り口
を楽しむ小説なのだと思えば、名人の怪談噺を聞くのと同じ喜びを
感じることができる。

その岡本綺堂自身の随筆に、円朝の怪談噺をやや斜にかまえて聞いて
いたところ、いつのまにかひきこまれ、思わず背筋に悪寒がはしり
帰り道もこわくてたまらなかったというエピソードが書かれている。
これは、河出文庫から出ている綺堂の随筆集のどれかに入っている。

芸の妙を味読する短編小説として半七捕物帖は絶好であるといえる。



[1973] 久世光彦のエッセイ 2006年04月11日 (火)

久世光彦のエッセイ集『悪い夢』(角川春樹事務所刊)読了。
主として本や作家に関したエッセイを集めた一巻。
久世氏が好きな作家というのは江戸川乱歩であり、泉鏡花であり、
岡本綺堂であり、と、ほとんどわたしの読書傾向と一致する。
それゆえに、自家中毒気味に鼻白んでしまうような描写があって、
実はあえてあまり読まないできたのだが、亡くなられたということ
で、やっと読むべき時期がきたのかな、との思いで、このあいだの
『花迷宮』から読み始めたわけだ。
横溝正史の「真珠郎」や太宰の「葉桜と魔笛」が好きだということ
も、じゅうぶんに納得できる。
本当はもっともっと長生きしてもらい、大耽美幻想長編小説を書いて
ほしかったと言うべきなのだろう。
この本のなかには、山口瞳の「男性自身」シリーズの一巻である
『木槿の花』の解説として書かれた「ほんとに咲いてる花よりも」
が収録されている。
読書好きの人にはよく知られている話だが、山口瞳の「木槿の花」
は、向田邦子の死を悼んだ長い文章であり、その中に向田邦子が
テレビの世界に居たのは作家として回り道だったというニュアンス
の記述があり、久世のこの解説の中には、その文章を読んだ時の、
複雑な感情がしるされている。
向田邦子という魅力的な女の子をめぐってのテレビ町の久世光彦と
文壇町の山口瞳のさやあてと読めるところが面白いわけだが、もち
ろん、久世光彦はそう読まれることを承知で書いているわけだ。

夜になって強い雨が降り始める。


[1972] 山猫郵便 2006年04月10日 (月)

山内将史さんが出している「山猫郵便」134号が届いた。
今回は宮入聖の『鐘馗沼』の一句を鑑賞している。

・癩の如き雪嶺をのせ田植笠  宮入聖

「最も清浄なものは最も汚されるし、最も汚されたたものは最も
 浄化される。清浄と汚れは表裏であり、たえず交替し、実は一
 致する。」
鑑賞文の一節を引用してみた。
おそらく「山猫郵便」は、いま最も読む価値のある俳句の鑑賞が
おこなわれているメディアではないかと思う。


[1971] 木曜日から今日まで 2006年04月09日 (日)

6日・木曜日
午前中慶応病院へ行き、午後は角川書店で「俳句」の合評鼎談。
その後、夕方に整体に寄って帰宅。

7日・金曜日
一日中、転籍者の研修。社長、総務担当の常務、編成局長、
営業局長、報道局長、事業局長がそれぞれ一時間ずつ、仕事
の仕組みや現状及び問題点を解説してくれる。
やはり、四十七人の転籍者はまだ皆不安を感じている様子が
ありありとわかる。

8日・土曜日
史比古と一緒に、高幡不動にあるマンションに行く。
今月から、大学に近いこのマンションへ史比古が住むことに
なる。大家さんに挨拶して、東京ガスの担当者にガスの開栓
をしてもらう。
荷物は明日につくので、ごみ袋など買ったあと、二人で帰宅。

この一週間はまったく短歌関連の本は読んでいない。

9日・日曜日
桜花賞。キストゥヘヴンの単複は買っていたにもかかわらず、
三連単に手を出してしまい、トータルして敗北。
こういうときは、まず、馬連、馬単を買っておくべきだった
のだ。反省はいくらでもできる。

夜、図書館で借りて来ていた久世光彦の『花迷宮』読了。
自分の幼年期からの読書体験をベースとした耽美的な記憶の
再現を試みた文章。
中では「間諜暁に死す」という文章に圧倒的に共感。
5歳の久世光彦が映画のポスターの女間諜マリーネ・デート
リッヒに恋して、胸のせつなさをおぼえたという記述には私
もまた同じような記憶があると思った。
一冊の中でしばしば向田邦子との幼少児期の読書体験の相似
が語られ、昭和ヒトケタの頃の東京の山の手の父親(久世の
父は軍人、向田の父は勤め人、ともに当時の中流家庭)の蔵書
というものが具体的な書名とともに語られているのが興味深い。
たとえば、下町の和菓子屋の息子であった小林信彦の語る読書
体験とは微妙な相違があることもわかる。
父親が自分は読まずに買っておいただけの本でも、その娘や
息子が勝手にそれを読んで、文化は伝承される、という久世
氏の意見にはまことに納得。


[1970] 一週間の記録 2006年04月08日 (土)

けっこう多忙な一週間だった。

31日・金曜日
新入社員研修の名札の完成を待って、ひさしぶりにオフィスに
夜十時半まで残る。

1日・土曜日、2日・日曜日
休日。すでに、ニッポン放送の社員ではなくなっているのだが
特に感慨がわくというものでもない。
原稿を書いたり、短歌をつくったりして過ごす。

3日・月曜日
フジテレビジョンの転籍者入社式。
人事の研修室に47人が集まり、フォーラムへ移って
村上社長から辞令をもらう。
その後、職務規定などの研修を受ける。

4日・火曜日
グループ新入社員研修のスタッフとして働く。
福田和也氏、横山プロデューサーの講演のあと、
バスで箱根小涌園へ。

5日・水曜日
朝から雨。
研修二日目。彫刻の森美術館で研究発表。
フジサンケイグループの90秒コマーシャルをつくるという
課題だが、パフォーマンス力はあがってい。


[1969] 枝雀の速記など 2006年03月30日 (木)

昼間は春の陽気だったけれど、夕方になったら、急に冷たい風が
吹き始めた。
オフィスを少し早めに出て、平和島の大恵クリニックに行き、薬を
もらってから帰宅する。

夜、9時過ぎに一度眠ったのに、一時間くらいで目が覚めてしまい
ちくま文庫の『枝雀の落語』を読む。「はてなの茶碗」「こぶ弁慶」など。
当然のことながら、枝雀だからといって、すべてが良い速記という
わけではない。余計なこと、つまらないこと、どうでもいいことを
勢いでしゃべってしまっているところもある。
その意味で「はてなの茶碗」は快心作だが、この「こぶ弁慶」は、
ムダが多いと私はおもう。


[1968] キックオフ・パーティー 2006年03月29日 (水)

有楽町にに行って、特別職会に出席。
お台場にもどって、会議が二つ。
夕方、延長になったゆりかもめで、豊洲へ出て、有楽町線で、
有楽町の東京会館へ行く。

新生ニッポン放送のリスタートのためのキックオフパーティーとい
うことだが、私をふくめた47人のフジテレビへの転籍者の心情は
きわめて複雑だろう。
結局、私の期待するような発言は経営者側からはなかった。

パティーの中締めのあと、赤井三尋氏とFさんとともに一階のバー
に行き、一時間半ほどしゃべる。
しゃべるための話題はつきない。
深夜近くに帰宅。


[1967] プロレスに関する些細な事柄 2006年03月28日 (火)

「en−taxi」の最新号、「プロレスはもう死んだのか」とい
う特集。今更ながらの気もするが、やはり、読んでみると面白かっ
た。村松友視が久々にプロレスに関して発言してくれているのも嬉しい。
坪内祐三は今までにもプロレスに言及することが多く、1970
年代からプロレスを見ていたと書いていることに、私は密かに疑い
をもっていたのだが、今回、坪内が書いている文章を読んで、彼が
きちんと1970年代のプロレスを見ていたということがわかった。
別に当人に言ったわけではないが、誤解していて悪かったと思う。
しんじられるとおもったポイントは2点で、ミル・マスカラスが初来日
したシリーズのエースのスパイロス・アリオンが、実はしょっぱい
男だったということと、アブドーラ・ザ・ブッチャーが初来日時の
同じくエース格のカール・ハイジンガーもしょっぱくて、初戦の闘い
ぶりで、ブッチャーがエース格に抜擢されることになったという
事実をきちんと書いていたこと。
これは、実はプロレスマニアの間でも、リアルタイムで見ていない
限りはわかりえないことで、逆にこれを知っているということは、
それだけ、その時代のプロレスに深入りしていた証拠になるという
わけなのである。
今後は坪内祐三のプロレス関連の文章は信頼することにしよう。

夜、黒田杏子さんから電話をいただく。恐縮してしまう。


[1966] ナガサキ生まれのミュータント 2006年03月27日 (月)

首のこりはましになった。

「SFマガジン」5月号を買って、SF評論賞の審査員特別賞の
鼎元亮「ナガサキ生まれのミュータント」を読む。
ペリー・ローダン・シリーズに出てくる日本人のミュータント
部隊の名前、イシ・マツとかのネーミングを仔細に検討する
ことで、ペリー・ローダンの創作チームに、日本で捕虜にな
っていたオランダ人で、長崎の原爆によって被爆した人物が
居たはずだ、ということを実証してゆく評論。
面白さということでは、圧倒的に面白い。
架空の論理を構築していく手際がみごとで、完全に説得されて
しまう。

これは視点を変えれば、ペリー・ローダンに第二次世界大戦の
影響を読み取るということでもある。
この点に注目していたのが、選考委員の一人の山田正紀で、
この鼎氏の次回の評論に、戦争文学として読む小松左京、
光瀬龍の初期作品というものを書いてほしいと提案している
が、これは実に的確な注文だといえる。
小松左京の「地には平和を」は、戦争が8月15日に終らな
かったパラレル世界の物語だし、光瀬龍の初期の未来史シリ
ーズは、サイボーグという復員兵の物語としても読める。

先月から、何十年ぶりかに「SFマガジン」を買い始めて、
このような興味深い評論にであえたことはラッキーだったと
思う。


[1965] 新首都の会 2006年03月26日 (日)

朝から首筋がこっている。

新首都の会に行く。
五十嵐きよみさんが幹事。
出席者は六人だった。
出詠は七首。
人数が少ない分だけ、一首に対する意見はたくさん聞けて
私としては、自分の今日の出詠歌の欠点がよくわかった。

帰宅後、吉川宏志の新歌集『曳舟』を読み感心。

・薬局の深きひさしに灰いろの燕の巣あり病めば寄りゆく/吉川宏志


[1964] シャングリ・ラ読了 2006年03月25日 (土)

池上永一の1600枚の大作『シャングリ・ラ』をようやく読了。
『果てしなき流れの果てに』や『百億の昼と千億の夜』に始まった
日本の長編SFも、はるばるとここまで来たか、という感慨
がわく。
近未来の東京を舞台に、炭素経済と擬態装甲という二つのアイデアをストーリーの味付けとして、エスタブリッシュメントと
レジスタンスの戦いを描いた物語。
劇画的な展開ではあるが、文章に吸引力があるので、読ませる。
主役クラスがすべて女性という展開も、私の好みではあるが
奇想爆発で、読後感は、「面白い」の一言だ。
今年の「SFが読みたい」で国産小説部門の第三位。
私なら一位でもよいと思う。
面白い小説わ読みたいと思う人にはおすすめできる一巻である。


[1963] 類句ができるまで 2006年03月24日 (金)

駄句駄句会で「春愁」という席題でつくった私の句が、山藤
宗匠が何年か前につくった句の類句だということがわかった。
問題の句は次のようなもの。

・春愁やゆっくり停まる蓄音機

この句が宗匠の「春寒やゆっくり止まるオルゴール」の
みごとな類句であった。

私は最初
・春愁やレコード盤に針がとぶ
とつくった。
しかし、動きが春愁にそぐわない気がして、
・春愁やもう動かない蓄音機
と、考えなおした。
そして「動かない」と説明するより、ターンテーブルが、
ゆっくり停まるイメージが春愁に合うかなと思い、上記の
かたちで投句したところ、類句になってしまったということだった。

やはり、季節感と物との配合にはパターンがあるのだな、と
いうことを実感、反省したことであった。


[1962] 夜市 2006年03月23日 (木)

恒川光太郎の『夜市』(角川書店刊)を読了。
「夜市」は2005年ホラー大賞受賞作で、直木賞の候補作でもある。
この単行本には「夜市」のほかに「風の古道」という書き下ろしの
中編が一緒に収録されている。

日常のかたわらに異界が共棲しているという世界観で書かれた作品
で、どちらも、全編に悲哀が流れているる
人はあやまちをおかす。
そしてそのあやまちを償うためには、相応の覚悟と犠牲が必要だ
という考えが貫かれている二作品といえる。
どちらも、読んで良かったと思えるが、同時に忘れていた悲哀を
思い出させる。せつなく苦しい気持ちになる話である。

「これは成長の物語ではない」と著者は「風の古道」のエンディング
で語っている。まさにそのとおりなのだ。
「私だけではない。誰もが際限のない迷路のただなかにいるのだ」
という結末の一行が読者の心の底にゆっくりと沈み込んでくる。


[1961] 夕方から雨 2006年03月22日 (水)

東陽町文化センターの「はじめての短歌」講座の交流会。
10人のみなさまが集まってくれて、反省・改善事項など、いくつ
もの有益なお話をうかがうことができた。
また、短歌を始めようとしたきっかけも、想像以上に重いものが
あり、教えられることが多かった。
次回の講座は5月からだが、何とか、今回の教訓を生かして、より
有意義な内容にしたいと思う。


[1960] 母の忌の春分点の狂いかな 2006年03月21日 (火)

一日じゅうごろごろとして過ごす。
午後、長女と一緒に東陽町の図書館へ行く。
サンリオSF文庫の『バラード傑作集』があったので、借りる。
牛乳とビスケットを買って帰る。
池上永一の『シャングリ・ラ』を読み続ける。
一章100枚で16章のやっと半分まで読んだ。
とにかく、展開の速さと意表をついた趣向が抜群で退屈しない。
これを読了したら『レキオス』も、続いて読もうと思う。

夜、家族で門前仲町までテンプラを食べに行く。
帰りにイトーヨーカ堂で財布とバッグを購入。


[1959] 春高バレー開会式 2006年03月20日 (月)

春高バレー開会式ということで、朝七時半に代々木第一体育館
に行く。主催者側のスタッフの一人ということなのだが、役目
というのは特にないので、受付でFNSグループ各社から来る
ネット局の人たちの案内をする程度。
あとは開会式を見るだけ。
全国から集まってきた高校生のバレーボール選手たちという
のはさすがに、生き生きとして気持ちが良い。
四十七都道府県から原則としては二校づつ代表が出てくるわ
けで、「XX県代表、XX高校」と呼び上げられる高校の名前
が、「どかべん」のライバル高校登場の場面を思い出させる。
県名と高校の名前とのコンビネーションがなんともいえずに
良い味を出していたりする。
試合は見なかったのだが、珍しくスポーツ系セレモニーを見て
気持ちの良い光景に立ち会えた。

そのあと、慶応病院に行き、定期的な診療。
午後からオフィスへ出て、新入社員関係の資料作成。
夕方、バスで越中島まで行き、整体の治療を受けて帰宅。


[1958] 聖母伝説 2006年03月19日 (日)

昨日から締切が迫っている原稿を書こうとしているのだが、
どうも気分がのらず、書き始めることができない。

短歌人の月例歌会で三軒茶屋へ行く。
今日はお彼岸の季節のためか、出詠数が36首と少ない。
そのかわりに、一首にかける相互批評の時間が長くとれた。

帰宅の途中の電車の中で、半村良の『聖母伝説』を読み始め
結局、寝る前に読了。
伝説シリーズの一冊だが、半村自身の自伝的要素が濃厚な
異色の一冊。
Y染色体の数が多い超男性という概念を出しながらも、物語
は、日常を離れず、実に語り口がうまい。
後半で主人公がSF雑誌の小説コンテストに応募するという展開が
あり、これはもちろん、「SFマガジン」のコンテストであり、そ
こで応募された作品は、今でもSFのオールタイムベストにあがっ
てくる「収穫」だ。
オーソドックスな人類家畜テーマだが、一人称で語られる展開が、
とても小気味良く、末尾の「奴らの収穫は終わった。こんどはお
れたちの番だった」というセリフは初読時から記憶に刷りこまれて
しまったほどだ。
『聖母伝説』中に語られているように、この「収穫」は半村良が
初めて書いた小説だったそうだ。
前半は水商売、後半は広告代理店と主人公の職業が変わるのだが
どちらも仕事のディテールが丁寧に書き込まれているので、そう
いう部分の面白さもある。
読んだあとの後味もよく、読んでよかったと思える一冊だった。


[1957] 菱川善夫著作集刊行を祝う会 2006年03月18日 (土)

市谷のアルカディアで「菱川善夫著作集を祝う会」がおこなわれる。
約70人の人たちが集まった。
第一部は、三井修さんの司会によるミニシンポジウム
「21世紀に批評は可能か」。
大野道夫、東直子、川村湊、そして菱川善夫氏自身も参加。

第二部はお祝いの立食パーティだったが、ここでのスピーチも
単なるお祝いだけではなく、批評ということに対するそれぞ
れの人の思いがきちんと述べられて、充実したものだった。
紅野敏郎、篠弘、三枝昂之、佐佐木幸綱、福島泰樹、酒井佐忠、
前川佐重郎、田中綾、福島久男、鈴木英子、辰巳泰子、森本平、
武藤雅治、吉田純、北久保まりこ、柳下和久、冨士田元彦、
上條雅通、梅内美華子、加藤英彦氏らが出席。


[1956] シャングリ・ラ 2006年03月17日 (金)

朝、出勤時に、お台場の陸橋の上で吹き飛ばされそうになる。
昨日の夜から異常な強風が吹きまくっている。
私は現在体重が65キロなのだが、風でよろけるどころか、
足が浮いて、飛びそうになった。
いたるところに、傘の残骸が捨てられ、自転車が倒れている。

オフィスで午後になったら、風邪っぽくなって、身体がだる
くなる。
薬が効いて楽になってきたので、広告大賞の記念品の残りを
ニッポン放送に運ぶ。
斎藤安弘さんと久しぶりにしゃべる。
なんと、トリノ・オリンピックの期間中の二週間、「オール
ナイトニッポン・エバーグリーン」は生放送だったのだそうだ。

六時前に帰宅。
一昨日から読み始めた池永永一の『シャングリ・ラ』を読み
続ける。近未来の東京を舞台にした異常世界での覇権争いの
物語。いわゆる劇画的というのがふさわしいストーリー展開
だが、世界観がきちんと構築されているので、没頭すること
ができる。主人公はもちろん敵もほとんどが女性戦士という
設定も私好みではある。一章100枚で十六章、1600枚
で、二段組500ページの大冊。読み終われば、ちょっとした
充実感がえられるだろう。


[1955] 雨風の木枯邸 2006年03月16日 (木)

浦川聡子さんに、八田木枯さんにあわせていただく。
JR四谷駅で六時半に待ち合せ。
夕方から雨が降り始め、風も強くなる。
四谷の交差点はすごい風雨。
びしょぬれになって晩紅塾へ到着する。

八田木枯さん、遠山陽子さん、浦川聡子さんの三人で歓談。
木枯さんには、2000年の暮に、晩紅塾の句会に、村井康司
さんにむつれてきていただいた時に、いちどお目にかかっている
のだが、このようにゆっくりと話をさせていただくのは初めて。

木枯さんは、十五歳くらいから「ホトトギス」に投句を始め
その後、長谷川素逝に師事、さらに戦後は「天狼」に入り、
遠星集で津田清子とともに、新鋭の名をほしいままにした方
だ。
丸ビルのホトトギス発行所に行き、虚子が選句したあとの、
投句用紙をのぞいて、自分が何句とられているかいち早く
見た話、戦後、病気療養中の誓子のところに草田男の「万緑」の
創刊号をもっていって見せた話など、実に生き生きとしたエ
ピソードをたくさん話していただく。
『遠星』、『七曜』、『長子』などの貴重な原本も見せてい
ただくことができた。

とても豊かな時間を過ごさせていただく。

十時前に木枯さんをふくめて四人で四ッ谷駅まで、強い雨風
の中を歩く。
忘れ難い貴重な一夜である。


[1954] ジョッキーの悲哀 2006年03月15日 (水)

「競馬最強の法則」4月号に「2ページ目の騎手・こんな格差社
会に誰がした」というタイトルの座談会が載っている。
大庭和弥、簑島靖典、五十嵐雄祐という関東所属の3人の騎手に
よる、彼らがなぜ勝ち星をあげられないかという内容の座談会だ。

減量の特典がある間はそこそこに乗せてもらえるし、騎乗回数が
多いだけに、勝ち星にも恵まれる。しかし、減量特典がなくなると
とたんに騎乗機会が激減してしまうのだそうだ。
つまり、減量騎手に乗せたいと調教師が思えば、後輩の若い騎手に
乗り変わられてしまうし、減量がつかえないのなら、もっとリー
デイング上位の騎手に頼もうということになる。
また、仮に、人気のさほどない馬に彼らが乗って勝ったとしても、
「あいつで勝てるのなら、次回はもっと巧い騎手を乗せれば、さ
らに勝てる」ということで乗り替わり、負けたら「ヘタな騎手は
もう使わない」ということで乗り替りと、どっちにしろ乗り替わ
られてしまうのだそうだ。
外国人騎手、地方競馬の騎手が中央に入ってくることで、さらに
騎乗機会が奪われてしまう。
つまり、八方ふさがりということである。

この3人のうち、五十嵐と蓑島は、デビュー年に新人賞をとってい
るのだが、それでも、こういう状況なのである。

読んで、読者の元気もなくなる珍しい企画だ。
暗い気分になりたいかたは、「競馬最強の法則」を買って、ぜひ
この座談会をお読みになることをすすめたい。
「丹沢で瀧にうたれる馬券行者」なんてグラビア記事も載っている
ので、いずれにせよ、競馬マニアの人は楽しめるはず。

・純血の馬の加速を全身に享けて徒労を生きよジョッキー/藤原龍一郎


[1953] 死してなお君を 2006年03月14日 (火)

日曜日から読み始めた赤井三尋著『死してなお君を』読了。
二段組み400ページを超える力作だが、一気に読んでしまった。
何より、作品を貫く「権力を乱用する者たちへの怒り」という作者の
熱い思いに共感せずにはいられず、それが先を早く読みたいという
エネルギーに転化するからだ。

売春防止法施行直前の昭和32年から35年までを背景に、数年前
の造船疑獄にからむ検察の複雑な人間関係を底流にして、元検事の
敷島航一という男を中心として進んで行く。
当時の政治の状況や世相が丹念に書き込まれていて、物語のリアリ
ティが読者の心に食い込んでくる。
主人公が激しい行動に移る場面では、感情移入しすぎて、思わず目
頭が熱くなってしまった。私がこのように小説を読んで感情をゆさ
ぶられるのは、正直いって珍しい。それだけの筆力が、この作家に
あるという証左だろう。

この本は現在、ある事情で書店店頭にもアマゾンなどのネット書店
でも購入できなくなっているのだが、何とか一日も早く、多くの人
が読める環境になってほしいと切に思う。


[1952] 短歌とスポーツなど 2006年03月13日 (月)

「歌壇」4月号が届く。
特集は「短歌とスポーツ」。
私は「私の好きなスポーツの歌」という短文を書いている。

・力道山 ボボブラジルと絡みゐしわれは野生を育みてゐし/時田則雄『凍土漂泊』

この歌を挙げて、見るスポーツとしてのプロレスの面白さを時田短歌が
いかにみごとに主題としているか、を書いた。
島田修三さんにより「スポーツの歌50首選」が選ばれ、私の下記
の歌があげられている。

・バルセロナに生れざりしかば闘牛の剣ならずペンもて暮らす くやしき

第一歌集の『夢みる頃を過ぎても』の収録作で、つくったのはたぶん
20代の終り頃だと思う。

自分で挙げたスポーツの歌がプロレスで、島田修三氏から挙げられ
た自作が闘牛と、徹底的にスペクテーター・スポーツなのもも面白い。
世界にはプロレスラーと闘牛士と、どちらの数が多いのだろう。

作品では島田幸典、小笠原和幸、真中朋久が読み応えあり。

・電柱は木の芽もたぬに如月の晴るる一日は鳩を憩わす/島田幸典
・翼無ク鰭無ク花ト咲クデナク畜生野郎デ在リ有難哉/小笠原和幸
・蕩尽の快楽を知らず冬の夜の机辺に本を積み崩しをり/真中朋久


[1951] 現代短歌分類集成 2006年03月12日 (日)

資料つくりが間に合わないので、午前中にオフイスに行く。
午後二時過ぎくらいまで作業。

帰宅すると、千勝三喜男編『現代短歌分類集成』(おうふう刊・12600円)が
届いている。
斎藤慎爾さんが編集して河出書房から刊行された「20世紀名句手帳」を
一巻本にした、現代短歌のテーマ別大アンソロジー。
たとえば「都市、施設、店舗、交通」という章は、さらに、街、道路、
街川/ビル、工事、工場/公園、学校、病院、公共施設/店舗、市場/
飲食店/鉄道、駅/自動車、バス、トラック/船舶/航空などの
小項目に分類され、それぞれに複数の例歌が収録されている。
正岡子規の俳句分類の現代短歌版ともいえるものだ。

たとえば「歌人は交通をどう詠ったか」というような文章を書く時に
この集成を参考にすると、引用する作品がすぐに出てくるというものだ。
ただ、文章を書き、さまざまな歌集をひも解いて、引用すべき例歌を
探すという楽しみを放棄することにはなるし、こういう集成にばかり
頼っていては、よりふさわしい名歌を見落とす、という弊害もある
にはある。
ただ、項目数3000超、収録歌30000首超という大編纂書なので
分類収録数としてはじゅうぶんだと私は思うが。
こういう本が、公立図書館に何冊かずつ常備されるとありがたい。


[1950] 「槻の木」80周年記念会出席。 2006年03月11日 (土)

午前中は深川三中の近くにある接骨院に行き、腰のマッサージ
をしてもらう。
しばらく、朝起きると腰が痛いという状態が続いているで、
なんとか痛みをとめたいということで、初めてきたわけだ。
とりあえず、マッサージをしてもらったら嘘のように痛みは
消えてしまった。

午後は競馬を見ながら、原稿のゲラの修正。

夕方、東京會舘でおこなわれる「槻の木」80周年記念会に
出席する。
「短歌人」からは私一人だった。
同じ卓についたのは、桑原正紀、水城春房、林田恒浩、藤井常世
沖ななも、今野寿美、三井修、三浦槙子のみなさん。

スピーチは紅野敏郎、井上宗雄、竹盛天勇氏ら、早稲田系の
国文学者のみなさんが都筑省吾、窪田章一郎、窪田空穂のエ
ピソードや思い出を語るというもの。
「槻の木」という雑誌の出自や性格がよくわかる話で、とても
聞いていて面白く、また、有益な話が多かった。

影山一男さん、久々湊盈子さん、青井史さん、福田龍生さん、
松平盟子さん、押田晶子編集長、酒井佐忠さんらと少しずつ話す。

散会後、まっすぐ帰宅。
「短歌新聞」の「新人立論」で奥田亡羊氏が、大口玲子さんが
「ガニメデ」に発表した「醜悪なる街、1」について「露悪的」
というキーワードで論じている。
私もこの作品を読み、石巻に対する嫌悪感があまりにもあらわに
出ているのでびっくりした。正直、イヤな読後感が残った。
奥田氏も「ちょっとやり過ぎかな、という感じもあった」と
記している。
「ガニメデ」には大口氏は「神のパズル」という問題意識の
鮮明な力作を発表しており、その後の作品がこの「醜悪なる街、1」
ということで、その落差もはなはだしく私には思えた。
興味がある方は、「ガニメデ」をとりよせて、読んでほしい。
私の率直な感想は、こういう作品をつくり、しかも活字にして
しまう作者の心理の傷ましさへの同情だった。
歌人はつらい時代を生きているが、それを「露悪的」に表現
することが、そのつらさを表現するのに有効な方法なのかど
うか、この作品は考えさせてくれる。


[1949] 大空襲の日 2006年03月10日 (金)

東京大空襲の日で、早乙女勝元や海老名香葉子や小林信彦の文章で
この日の記録は私も追体験している。半村良の短編『怪談桜橋』も
この大空襲の夜が舞台となっている。

オフィスではまたまた終日資料つくり。

四月一日には私自身も新入社員となるのに、その新入社員の
ための研修資料を自分が作っているというのも変な気分だ。

ハヤカワ文庫NVからブラッドベリの『太陽の黄金の林檎』が
新装再刊されたので購入する。
巻頭の「霧笛」など数編を再読。
なつかしいブラッドベリ節全開である。
つまり、もともと郷愁やなつかしさがモチーフとなっている
ブラッドベリの作品を何十年ぶりかに再読して、二重になつ
かしさをおぼえているわけだ。

夜は「笑いの金メダル」を見て、『俳句の銀河』の残りを読
んでから就寝。


[1948] 俳句の銀河 2006年03月09日 (木)

豊洲にある江東区役所の分室に拠って、印鑑証明をもらってから
お台場のオフィスへ出社。
ひたすら、会議の案内状と新入社員研修の資料つくり。

帰宅後は小澤克己さんの『俳句の銀河』を読み続ける。
インタビユーがそれぞれの女性俳人の長所をクローズアップ
するような展開なので、とても読みやすく、充実した内容に
なっている。それとインタビユーのあとについている代表作が抜群に良い。これも自選句ではなく代表句と書いてあると
ころを見ると、小澤さんの選句なのかもしれない。会話の中
で小澤さんの口から引用される句も、おや、と立ち止まるようなものばかりなので、こういう部分にも小澤克己という人
のすぐれた選句眼が光っている。
このような中堅俳人のインタビューは資料的にも価値が高い。


[1947] 終日労働 2006年03月08日 (火)

第35回フジサンケイグループ広告大賞の贈賞式とパーティのスタッフ
として終日労働r.


深夜に帰宅。
「未来」3月号が届いている。

・ヒポクリットの好むネクタイ白衣より翻る夜の急病センター /渡辺良

渡辺良さんには『心の井戸』というすぐれた歌集がある。


[1946] 風となるまで 2006年03月07日 (火)

志水真理子さんの歌集『風となるまで』の書評を書く。
五感のうちの「視力」に突出した個性的な、しかし、本格的な歌集
といえる。読後感がすっきりする歌集だ。

・街路樹の揺れを見ており夕暮るるふるさとの道に風となるまで

ネット古書店に注文した古いハヤカワ文庫JAが届く。
小松左京『ある晴れた五月に』、久野四郎『砂上の影』、光瀬龍
『無の障壁』など。
久野四郎は1960年代の「SFマガジン」にアイデア・ストーリー
風の短編を発表していた作家。本業はサントリーの宣伝部門の人だった
はずだ。だとすれば、サンアドの山口瞳や開高健とも交流があった
のかもしれない。
まあ、今は忘れられた作家になってしまっている。
「いなかった男」という短編を寝る前に読み返してみたが、実在し
ない子供を育ててしまった女性と、同じく実在しない恋人を夢想す
る男のかかわりを、その男の友人のサラリーマンの立場で書く、と
いう小説で、退屈せずに読めた。ストーリー・テラーだったという
ことのようだ。
最近、復刊れている三橋一夫と同傾向の作家とはいえる。


[1945] あなたの人生の物語 2006年03月06日 (月)

テッド・チャンの短編集『あなたの人生の物語』を買ってきて、表題
作品の「あなたの人生の物語」を読む。
「SFマガジン」600号のオールタイムベストの海外短編部門で
上位に入っている作品。
いたちおう、良い話というかたちで、SF的なアイデアの部分も、
やっかいなことを頑張って書いている、と感心はしたのだが、さて
むかしの「アルジャーノンに花束を」とか「冷たい方程式」とかを
読んだ際の、胸をしめつけられるような感覚があったかというと、
なかなかそうはいかない。
まあ、こちらの感性も鈍磨してしまっているということだろうし、
ベスト短編ということで、期待が大きすぎたからかもしれない。

良い物語を読んだにもかかわらず、気が鬱々としたままの一日だった。


[1944] 晴れた空 2006年03月05日 (日)

久しぶりに晴れた空が気持ちのよい日曜日。

昨日に引き続き原稿を書き続ける。
ベランダの工事のために、本が詰めず、かなりの量をトランクルーム
に預けているので、参考書なしで文章を書いている。これではまず
いと思うのだが、確かに持っていたはずの本や雑誌が即座に出てく
る環境にはないので、どうにもならないる

競馬はアドマイヤムーンが人気薄を2着につれてきてくれたおかげで
土曜日の負け分はとりもどす。
以前にも書いたが、このアドマイヤムーンは今年の私のPOGの所
有馬なので、春のクラシック戦線は力が入る。


[1943] 土曜日のアポカリプス 2006年03月04日 (土)

水曜日にハリウッド版「南極物語」を試写で見たのに、書き忘れていた。
動物愛護の精神が貫通した映画ということで、犬や豹アザラシの
好きな人にはおすすめの映画ということかな。

一日家にこもって原稿を書く。
競馬はだらだらと馬券を買ってしまい完敗。
ただ、先週の松永幹夫とブルーショットガンのおかげで
短歌新聞社文庫の齋藤茂吉歌集『ともしび』と『白桃』、
宮英子歌集『婦負野』、それに新現代歌人叢書の中から
桑原正紀歌集『緑蔭』を買うことができたので、競馬も
悪いものではない。


[1942] ヒナマツリ 2006年03月03日 (金)

ヒナマツリと言う競走馬がかつて居た。小田切有一氏の所有馬
だったろうか。
「俳句」3月号を対象とした「合評鼎談」の日。
先月は風邪が急速に悪化していて、さんざんの状態だったが
今日は体調も回復して、万全の状態。

終了後、一度、お台場にもどす。
本郷三丁目から地下鉄丸の内線で銀座へ行き、銀座線に乗り
替えて新橋で地上に出たら、なんと雷がなり雨が降っている。
ゆりかもめで台場駅まで行き、雨の中を走って社屋へ入る。

帰宅後、小川一水の作品集『老ヴォールの惑星』を読み始める。
表題作品は、「SFマガジン」の読者賞受賞作品。
宇宙の生命体を主人公?にしたファンタシーといってよいの
だろうか。後味のよいストーリーで、読者賞というのは納得
できる。
先日から読みかけだった、ハルキ文庫の小松左京『ゴルデ
ィアスの結び目』も読了。こちらは、ハードカバーの単行本
が出たときに買って読んでいるので、再読になる。
狼女に変身した少女の深層心理にサイコダイバーが潜入して
いくという話だが、その邪悪な深層心理世界のイメージに圧
倒的な迫力がある。
「SFマガジン」のオールタイムベストの国内短編部門で
「お召し」「神への長い道」等とともにランクインしていた
が、当然のことだと思う。
小松左京、光瀬龍、筒井康隆といった日本人SF作家の作品
を、ほとんどリアルタイムで読むことができたのは、私の読
書体験の中でも、稀有な幸運だったといえる。


[1941] 「黒砂糖」批評会 2006年03月02日 (木)

今井千草歌集『黒砂糖』の批評会が学士会館で開かれる。
私は司会進行を担当。
外部から来て下さった方々は次の通り。

奥村晃作、田島邦彦、沢口芙美、大島史洋、小高賢、古谷智子、
花山多佳子、今井恵子、中川佐和子、森本平、風間博夫。

二次会で、沢口芙美さん、森本平さん、奥村晃作さん中川佐和子
さんらと話しをすることができた。
沢口さんに「短歌研究」の「キシガミ」を読んだと言われた時は
当然のことながら、ドキリとする。この30首をもっとも読んで
ほしい一人が当然沢口さんのわけだ。
「書かれざる迢空論」の一首は良かった、と言われてほっとする。
奥村さんは「毎日新聞」の私の時評の件について話してきてくれた。
穂村弘作品に関しての意見はすれちがってしまうのだが、このよう
に率直に意見をかわすことができるのは嬉しい。
三枝浩樹さんもネット上に反論を書いてくださったし、奥村さんとは
直接、その件について会話することができたし、あのような問題提起
をした甲斐はあった。

「短歌人」の花笠海月さんに「アドニス」にまつわるあれこれを聞く。
やはり、同行者のネットワークは凄いな、との思いを新たにする。